小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

コラム5 明治・大正時代の「夏休み」その2 

大正13年(1924)静岡県教育会編集の「ナツヤスミノトモ 尋常科一学年用」(https://arukunodaisuki.hamazo.tv/e7556148.html

■   夏休み・子どもたちの暮らしぶり 

   明治34年(1901)7月刊行の雑誌「児童研究」(日本児童学会)には、 「研究實例 夏季休業中の學校児童の動作」(神村直三郎)という報告が掲載されています。
 これは、明治32年(1899)静岡県の磐田尋常小学校補習科在籍者(高等科1・2年生に相当、10歳6ヶ月から13歳未満)を対象に、夏休み中の生活実態をアンケート調査した結果です。  
 以下は補習科(高等科)2年男子18名の具体的な行動で、該当者が2人以上あるものを挙げてみました。
 当時、農村の小学生が夏休みにどんな生活を送っていたのかがよくうかがえます。

○学事(計17) 復習13 七夕の歌清書2
○遊戯・遊歩(計46) 水浴8 角力を見る6 遊ぶ5 魚釣り2 魚を捕らふ2    工兵の架橋演習を見る3 
○農事(73) 茶摘み7  煙草の葉をかく3  煙草の葉を運ぶ4  煙草の葉を摘む7 藍を干す2  畑の耕作・草取り12  田の草取り6  豆を摘む12  豆こぎ6 芋掘り3  
○家事(96) 神社に参詣3  縄を綯(な)う2  屋敷の草取り8  掃除5  風呂の水くみ5  衛生講話を聞く2  留守番2  子守6  お使い10  車を引く2  米つき14  麦つき7  茄子をとる2

 「家事」「農事」において、比較的高い数値の項目がいくつか見られます。彼らはそうした仕事やお手伝いの合間に「水浴」で遊んだり、一学期の「復習」をしていたようです。

 この頃の義務教育は尋常小学校4年(明治40年から6年)までで、ほぼすべての作業を人力に頼っていた田畑の耕作や地場産業である茶の栽培などにおいて、現在の小学5・6年生に相当する彼らは、普段から貴重な労働力であったものと思われます。

 おそらく、学校に行っている期間よりも肉体的には辛い日々であったのではないでしょうか。

 

■ 夏休みの宿題帳

 前回(その1)でも引用しましたが、「学年中途でのこの空白(=夏休み)を放置できないと考えた学校側は、休み中もなんとか子どもを学校や学習につなぎとめておくということで、登校日や学習課題を設けること」になりました。(佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館、1987年)

 串間努まぼろし小学校 ものへん』(ちくま文庫、2006年)によれば、夏季休業中の自学自習用の教材である夏休みの友は、時代や地域によってその名称こそ様々ですが、既に明治末期から存在したということです。
  では、なぜ明治の終わり頃に「夏休みの宿題帳(帖)」なるものが登場したのでしょうか。
 深谷圭助「明治期における日本の尋常小学校の『夏休帖』等に関する研究」(『中部大学現代教育学部紀要第13号』2021年)によると、以下の三点が理由及び背景として挙げられるということです。

 1 それまでの「等級制度」から「学級制度」への移行期よって教育界では学力低下」の懸念が強くなったこと。
2 教科書が国定化されたことにより、児童生徒に「復習」を促すことが容易になったこと。
3 蒟蒻版印刷、謄写版印刷の普及に伴い、洋紙を利用したノートが小学校へも導入され、宿題をプリントして、配布し、それを綴じて提出させるという復習(自学)指導のスタイルが可能になったこと。

 

 大正時代に入ると「夏季学習帳」(研文館)、「暑中学校」(文林堂)「夏季学習帳」(富田屋書店)、「ナツヤスミノトモ」(文運堂)、「自学自習 夏季練習帳」(積善館)等々の教材が出版され、学校単位で買い上げられました。これらの編集を各府県の教育会が行っていたところも多いようです。

www.maboroshi-ch.com

「夏休おさらひ日記 尋常第三学年用」(大正5年・1916)
港区教育委員会/デジタル港区教育史 見る・知る・伝える~港区教育アーカイブ
当初は「一日一ページの日記併記」というスタイルのものが多くありました。

 その後、昭和に入ってからも夏休みの友「読書感想文」「自由研究」「絵日記」などと並んで、夏休みの宿題の定番であり続けました。
 

 近年では、ICT教育の普及により、小学校高学年を中心に、「夏休みの宿題をタブレットPCで提出」という小学校が増えてきているようです。

 100年以上続いた「夏休みの宿題」にも、少しずつ変化が生じています。

 

■ 林間学校(臨海学校)のはじまり

高松市新瓦町尋常小学校の林間学校

大正4年 新瓦町尋常小学校の林間学校⑥ | 牟礼のまちだより (fc2.com)

 

 明治末期から大正の初めにかけて、全国の主に都市部の小学校で、林間学校(または臨海学校)が行われるようになりました。
 これはドイツの「ヴァルトシューレ」(森の学校)を中心とする欧米の実践を模範とした導入されたもので、当初は「虚弱児童の健康促進」を目的としたものでした。

 その後は、健康な児童のための鍛錬的な実践や、体験を通じた学習を主目的としながら、あわせて史跡巡りや産業見学を行うなど、各地で多様な実践が展開されていきました。

「林間の読書」(大正14年・1925、港区旧竹芝小学校 「夏季学園記念写真帳」より 

 

11校の児童400名が静岡県原里村(現在の御殿場市)に向かっています。空気が清涼であり、小魚の遊ぶ清らかな小川もあるなど、林間学校の場所として適していると記録されています。また、原里村の人々や日本栄養協会などからの支援も受け、教育的環境にも恵まれていました。
(港区教育委員会/デジタル港区教育史 見る・知る・伝える~港区教育アーカイブ~校外学習)

 こうした活動は東京を除けば、西日本、特に近畿地方において都市部の小学校で積極的に展開されました。 

 一方、九州、東北、山陰地方など比較的自然の豊かな地域や大都市の少ない地域においては、実施例が多くありませんでした。

 農山村や漁村などでは上にも述べたように、小学生たちも労働力として期待されており、林間学校や臨海学校など、彼ら(彼女ら)には無縁のものであったと言えるでしょう。

 

【参考・引用文献等】

佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館、1987年

串間努まぼろし小学校 ものへん』ちくま文庫、2006年

港区教育委員会/「デジタル港区教育史」~ 見る・知る・伝える~港区教育アーカイブ

ブログ「牟礼のまちだより」

http://   http://muremure.blog35.fc2.com/blog-entry-77.html?sp

野口穂高「大正期における「林間学校」の受容と発展に関する一考察―その目的と実践内容の分析を中心に―」『早稲田大学 教育・総合科学学術院 学術研究(人文科学・社会科学)第64号』2016年

深谷圭助「明治期における日本の尋常小学校の『夏休帖』等に関する研究」『中部大学現代教育学部紀要第13号』2021年