小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

島崎藤村『破戒』その1 「名誉の金牌」とは  

 毎月二十八日は月給の渡る日とあつて、学校では人々の顔付も殊に引立つて見えた。課業の終を告げる大鈴が鳴り渡ると、男女の教員はいづれも早々に書物を片付けて、受持々々の教室を出た。悪戯盛(いたづらざかり)の少年の群は、一時に溢れて、其騒しさ。弁当草履を振廻し、『ズック』の鞄を肩に掛けたり、風呂敷包を背負(しよつ)たりして、声を揚げ乍(なが)ら帰つて行つた。丑松もまた高等四年の一組を済まして、左右に馳せちがふ生徒の中を職員室へと急いだのである。
    校長は応接室に居た。斯(こ)の人は郡視学が変ると一緒にこの飯山へ転任して来たので、丑松や銀之助よりも後から入つた。学校の方から言ふと、二人は校長の小舅(こじうと)にあたる。其日は郡視学と二三の町会議員とが参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許(すこしづゝ)観た。郡視学が校長に与へた注意といふは、職員の監督、日々(にち/\)の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する『トラホオム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件(こと)であつた。応接室へ帰つてから、一同雑談で持切つて、室内に籠る煙草(たばこ)の烟(けぶり)は丁度白い渦(うづ)のやう。茶でも出すと見えて、小使は出たり入つたりして居た。
    斯(こ)の校長に言はせると、教育は則ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。もと/\軍隊風に児童を薫陶(くんたう)したいと言ふのが斯人の主義で、日々の挙動も生活も凡(すべ)て其から割出してあつた。時計のやうに正確に――これが座右の銘でもあり、生徒に説いて聞かせる教訓でもあり、また職員一同を指揮(さしづ)する時の精神でもある。世間を知らない青年教育者の口癖に言ふやうなことは、無用な人生の装飾(かざり)としか思はなかつた。是主義で押通して来たのが遂に成功して――まあすくなくとも校長の心地こゝろもち)だけには成功して、功績表彰の文字を彫刻した名誉の金牌(きんぱい)を授与されたのである
    丁度その一生の記念が今応接室の机の上に置いてあつた。人々の視線は燦然(さんぜん)とした黄金の光輝(ひかり)に集つたのである。一人の町会議員は其金質を、一人は其重量(めかた)と直径(さしわたし)とを、一人は其見積りの代価を、いづれも心に商量したり感嘆したりして眺めた。十八金、直径(さしわたし)九分、重量(めかた)五匁、代価凡そ三十円――これが人々の終(しま)ひに一致した評価で、別に添へてある表彰文の中には、よく教育の施設をなしたと書いてあつた。県下教育の上に貢献するところ尠(すく)なからずと書いてあつた。『基金令第八条の趣旨に基き、金牌を授与し、之を表彰す』とも書いてあつた。
 (第二章 一)

【作品】
   明治後期、部落出身の教員瀬川丑松は父親から身分を隠せと堅く戒められていたにもかかわらず、同じ宿命を持つ解放運動家、猪子蓮太郎の壮烈な死に心を動かされ、ついに父の戒めを破ってしまう。その結果偽善にみちた社会は丑松を追放し、彼はテキサスをさして旅立つ。激しい正義感をもって社会問題に対処し、目ざめたものの内面的相剋を描いて近代日本文学の頂点をなす傑作である。  (新潮文庫 解説)

【作者】
  島崎藤村(明治5~昭和18年・1872-1943)筑摩県馬籠村(現在の岐阜県中津川市)に生れる。明治学院卒。1893(明治26)年、北村透谷らと「文学界」を創刊し、教職に就く傍ら詩を発表。1897年、処女詩集『若菜集』を刊行。1906年、7年の歳月をかけて完成させた最初の長編『破戒』を自費出版するや、漱石らの激賞を受け自然主義文学の旗手として注目された。以降、自然主義文学の到達点『家』、告白文学の最高峰『新生』、歴史小説の白眉『夜明け前』等、次々と発表した。1943(昭和18)年、脳溢血で逝去。享年72。(新潮社 著者プロフィール)

 

■  郡視学と校長

郡視学
 郡が行政単位の一つであった時の、地方教育行政官。郡長の命令をうけて、郡内小学校の学事視察・教育指導・教員の任免・学事に関する庶務などに従事する判任官。
田舎教師(1909)〈田山花袋〉六「郡視学と云へば、田舎では随分こは持(もて)のする方で」    『精選版 日本国語大辞典

 作中の表現には、やや誇張が含まれているかもしれませんが、ここでは郡視学と校長の関係が軍隊や官僚組織における「上官(上司)」と「部下」のそれのように描かれています。
 中央集権的であった当時の教育行政組織の末端にあって、官僚的・形式主義的な監督をおこなっていた郡視学と唯々諾々(いいだくだく)としてそれに従う校長の姿を、一青年教師が批判的な眼で眺めているといった構図になっています。
 当時の教育界に管理主義、形式主義が横行していたということを印象づける描写と言ってよいでしょう。

 

東映ビデオ配給 映画『破戒』(2022年7月)予告編より 
校長役は本田博太郎
https://www.toei.co.jp/movie/details/1228263_951.html

■ 「名誉の金牌」と「教育基金
 引用した部分の後半では、主人公・瀬川丑松の勤務する小学校の校長が、これまでの功績を認められ、名誉の金牌を授与されたことが話題になっています。

 これはどういう類いの表彰なのでしょうか。表彰文の文言「基金令第八条の趣旨に基き~』」に注目して、以下にその制度と背景について述べてみたいと思います。

 まずは、この基金令」ですが、正式には明治32年(1899)11月22日公布の「教育基金令」(勅令第四百三十五号)と称されるものでした。

教育基金(勅令第四百三十五号)

第一条 教育基金元資金ヨリ生スル収入ハ本令ノ規定ニ依リ之ヲ使用ス
第二条 文部大臣ハ教育基金特別会計法第四条ニ依リ一般ノ歳出トシテ毎年度予算ニ於テ定マリタル金額ヲ前年十二月三十一日現在ノ学齢児童数ニ応シテ北海道庁及府県ニ配当ス
(中略)
第八条 府県ハ毎年配当ヲ受ケタル金額十分ノ三以内ヲ限リ文部大臣ノ認可ヲ受ケ市町村立小学校教員ノ奨励其ノ他普通教育ニ関スル費用ニ充ツルコトヲ得
(以下略)※太字は筆者

 

 第八条には「小学校教員ノ奨励」という文言があり、作中の「金牌」はこの規程に基づいて授与されたものであることが分かります。

 次に、本勅令に関連する法令ですが、明治32年(1899)3月22日公布の「教育基金特別会計法」明治32年法律第80号、昭和18年廃止)という法律がありました。

教育基金特別会計(明治三十二年三月二十二日法律第八十号)
 第一条 教育基金ヲ置キ其歳入歳出ハ一般会計ト区分シ特別会計ヲ設置ス
 第二条 償金特別会計資金ノ内千万円ハ教育基金ニ組入ルヘシ
 第三条 教育基金ハ普通教育費ニ使用ス
 前項普通教育費ノ使用ニ関スル規程ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム
(以下略)

 

 第二条の「償金特別会計資金」とは何でしょうか。

この「償金」とは、日清戦争後に我が国が清国から得た総額3億6,451万円(当時の国家予算8千万円の4.5倍)という莫大な賠償金と還付報奨金を指しています。その主な使途は以下の通りでした。

永地秀太筆「下関講和談判」(Wikipedia

日清戦争の戦費(臨時軍事費特別会計に繰入)・・・7,896万円21.9%
・軍拡費・・・2億2,606万円62.6%(陸軍5,680万円15.7%、海軍1億3,926万円38.6%、軍艦水雷艇補充基金3,000万円8.3%)

・その他・・・15.5%(製鉄所創立費58万円0.2%、運輸通信費321万円0.9%、台湾経営費補足1,200万円3.3%、帝室御料編入2,000万円5.5%、災害準備基金1,000万円2.8%、教育基金1,000万円2.8%)

 

 1,000万円の教育基金の利子を毎年普通教育(小学校教育)費の補助に充てることになり、これは日露戦争の前まで続きました。
 明治33年(1900)の「小学校令」では小学校の授業料を原則廃止としました。その結果、明治35年(1902)には男女平均の就学率が90%を超えるようになったと言われています。
 さらに、国定教科書制度明治37年・1904)の開始、小学校における6年制の義務教育化(明治40年・1907)の実現にもつながっていきました。

 というわけで、日本史の授業では、日清戦争の賠償金は、軍備費拡張の費用や八幡製鉄所を初めとする工業化インフラの整備、金本位制の確立などに充てられたと習うのですが、わずか3%足らずの金額とはいえ、小学校教育の振興にも少なからぬ余得をもたらしたということも忘れてはならないと思います。

 

※「この賠償金額は今の金額になおすとどれぐらい?」という質問がネット上にはたくさんあります。銀換算、米価換算、国家予算との対比などと色んな計算があるようですが、経済に疎くて、どの回答が正しいのかよく分かりません((;。;))

ただ、超低金利の現在とは違い、かなりのまとまったお金が初等教育の振興に使われたことには間違いないことでしょう。