小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

コラム6 小学校で落第 その1

島津製作所二代目・島津源蔵の卒業証書(明治11年3月)
島津製作所ホームページより「~二代目源蔵の卒業証書にみる当時の小学校事情~」
  https://www.shimadzu.co.jp/visionary/memorial-hall/blog/20150630.html

■ 半年ごとに卒業証書

 上の写真は、島津製作所の2代目社長・島津 源蔵明治2年 - 昭和26年・1869~1951年、明治時代から昭和時代にかけての実業家、発明家、幼名は梅次郎)が京都市の銅駝(どうだ)小学校で下等小学第八級(現在の1学年前半)を修了したことを示す「卒業」証書です。

 なお、梅次郎は下等第七級に進級したものの、途中で退学しています。

明治8年(1875)頃の銅駝小学校
出典:上掲写真に同じ

 「卒業」と言えば、今では小中学校などの全課程を修了したことを証するものですが、明治5年(1872)の「学制」に定められた小学校の課程は上等小学、下等小学と大きく2段階に分かれており明治14年に初等科3年・中等科3年・高等科2年となる)、さらにそれぞれのが8段階に分かれていたことから、「下等小学八級」から「上等小学一級」まで全部で16の級があり、各級ごとに「卒業証書」が発行されていたのでした。

 今の小学校は「学年制」を採用しており、1年たてば自動的に上の学年に進級できますが、当時は「等級制」で、進級試験に合格した者だけが上の級に進めたのです。

 

 「学制」では、「生徒及試業ノ事」として次のように規程されていました。

第四十八章

生徒ハ諸学科二於テ必ズ其等級ヲ踏マシムルコトヲ要ス、故二一級毎二必ズ試験アリ、一級卒業スル者ハ試験状ヲ渡シ、試験状ヲ得ルモノニ非ザレバ進級スルヲ得ズ

※試験状・・・各級の卒業(修了)を証する免状 太字は筆者

 

 夏目漱石の自伝的小説『道草』大正4年・1915、「朝日新聞に連載」)には、書き付けの束の中から、小学時代の卒業証書をいくつか見つけるという場面があります。

 彼はやがて四つ折にして一纏めに重ねた厚みのあるものを取り上げて中を開いた。
「小学校の卒業証書まで入れてある」
 その小学校の名は時によって変っていた。一番古いものには第一大学区第五中学区第八番小学などという朱印が押してあった。
「何ですかそれは」
「何だか己も忘れてしまった」
「よっぽど古いものね」
 証書のうちには賞状も二、三枚交まじっていた。昇(のぼり)竜と降(くだり)竜で丸い輪廓(りんかく)を取った真中に、甲科と書いたり乙科と書いたりしてある下に、いつも筆墨紙と横に断ってあった。(三十一)

 細君にはこの古臭い免状がなおの事珍らしかった。夫の一旦(いったん)下へ置いたのをまた取り上げて、一枚々々鄭寧(ていねい)に剥繰(はぐ)って見た。
「変ですわね。下等小学第五級だの六級だのって。そんなものがあったんでしょうか」
「あったんだね」(三十二)

 

第一大学区第五中学区第八番小学(戸田学校)の卒業証書
当時は養父・塩原の姓を名乗っていた
神奈川近代文学館ホームページより

 「変ですわね。下等小学第五級だの六級だのって。そんなものがあったんでしょうか」と主人公の妻が言っていますが、作者・夏目漱石と妻の鏡子とでは10歳の歳の開きがありました。その間に「学制」から「教育令」への移行に伴って小学校の制度が変わっていたことをうかがわせる記述になっています。

 

■ 厳しかった試験制度

 初期の小学校では、どんな種類の試験が行われていたのでしょうか。

 「学制」では、「進級試験」(48章)と「卒業試験」(49章)の規程があるだけですが、明治10年前後では、一般的に次の三種類の試験が行われていました。

1 月次(つきなみ)試験 毎月  小試験、月例試験などとも称された

 多くの学校では試験の成績により、席順を上下させていた。

2 進級試験 年2回 階級試験、定期試験等とも

 春と秋の二回実施され、及落が判定された。問題作成は生徒の担任以外が行い、官吏の立ち会いを条件とした。 

3 全科卒業試験 大試験、大試業などとも

※この他に、臨時試験、比較試験(複数の学校から優秀な生徒を選抜し優劣を競わせる)などの試験もありました。

 一例を挙げると、兵庫県氷上郡(現・丹波市)の崇広(そうこう)小学校では、明治14年(1881)3月から翌15年(1882)2月までの一年間に、上記3種類の試験が計12回も実施されていました。(山田正雄『教育史夜話〈兵庫県〉』)

 崇広小学校における秋季の定期試験については、下記のような結果が残っています。

 

明治15年(1882)10月 受験者335名(男子223名、女子112名)

 平均点 90点以上 24名 賞状と賞品が授与された。

 落第 平均50点未満の者 40名(11.9%)

 

 この年はそれほど高い落第率ではありませんが、2年後の明治17年(1884)の秋季定期試験では、受験者390名中の192名(49%)が落第という厳しい数字が残っています。

 

 試験の落第率については全国的な統計がなく、府県、地域、学校、さらに等級による差がかなりありましたが、概して10%未満といったところが多かったようです。

 問題は「試験による落第」よりも不受験者長期欠席者の多いことでした。

 月次試験で席順を決められ、定期試験では落第を恐れ、その成績一覧表が校内あるいは校門に掲示されたそうですから、「試験恐怖症」の生徒が多数発生していたとしても無理もありません。※当時は小学校でも児童ではなく「生徒」と称していました。

 現に、上記の崇広小学校では明治18年(1885)秋の定期試験においては、受験予定者396名に対して、「不受験者」の数が252名にも上ったということです。(山田正雄・前掲書)

 こうして、下等8級から始まる階梯を上等1級まで登りつめることができた者は、極めてわずかな数でした。

山根俊喜「明治前期の小学校における等級制,試験と進級―「日本的」学級システムの形成 (1)一」より 

 上記は明治10年前後の統計ですが、今の小学2年生(下等6・5級)を終えたぐらいでほとんどの生徒が退学(「半途退学」といった)していたことがわかります。

 

 以上概観したような「試験万能」の風潮は、やがて厳しい批判にさらされ、文部省による是正措置が講じられていきました。

 まず、日清戦争開戦直後の明治27年(1894)9月に、「試験ニ依レル席順ノ上下」が文部省訓令により禁止されました。

 そして、明治33年(1900)公布の「小学校令施行規則」において、「小学校ニ於テ各学年ノ課程ノ修了若ハ全教科ノ卒業ヲ認ムルニハ別ニ試験ヲ用フルコトナク児童平素ノ成績ヲ考査シテ之ヲ定ムヘシ」(第一章 教科及編制、第一節 教則、第二十三条 下線は筆者)と、「学制」以来の「試験による進級・卒業」という制度が完全に廃止されることになりました。

 

 この頃は、いわば「小学校中退」の人が殆どだったのですね。学校や学歴に対する意識も今とは全く違ったと思われます。

 「日本の植物分類学の父」と称された牧野富太郎文久2~昭和32年・1862~1957、高知県高岡郡佐川町出身)は小学校時代を次のように振り返っています。

牧野富太郎

 小学校は上等・下等の二つに分たれ、上等が八級、下等が八級あって、つまり十六級あった。試験によって上に進級し、臨時試験を受けて早く進むこともできた。私は明治九年頃、せっかく下等の一級まで進んだが、嫌になって退校してしまった。嫌になった理由は今判らないが、家が酒屋であったから小学校に行って学問をし、それで身を立てることなどは一向に考えていなかった
  青空文庫」、底本:「牧野富太郎自叙伝」長嶋書房、1956年

※下線は筆者

 

【参考・引用文献】

島津製作所ホームページ「~二代目源蔵の卒業証書にみる当時の小学校事情~」
  https://www.shimadzu.co.jp/visionary/memorial-hall/blog/20150630.html

宮川秀一「明治前期における小学校の試験」『大手前女子大学論集20』1986年

夏目漱石『道草』(「青空文庫」、底本:漱石全集 第6巻」岩波書店、1985年)
斉藤利彦『試験と競争の学校史』講談社学術文庫、2010年 

山田正雄『教育史夜話〈兵庫県〉』のじぎく文庫、1964年

山根俊喜「明治前期の小学校における等級制,試験と進級―「日本的」学級システムの形成 (1)一」 『鳥取大学教育地域科学部紀要. 教育・人文科学 1 (1)』1999年