小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

コラム6 小学校で落第 その2

 

陶山直良 編『画引小学読本』( 積玉圃、1876年)より



 それでは、進級試験では実際にどんな問題が出題されていたのでしょうか。ここでは、明治10年(1877)愛媛県伊予師範学校編「小学試験参考」の中から、下等第八級の問題を見ていきましょう。ただし、「参考例」ですので、各校において難易度の違いはあったと思われます。※原文では分かりにくいので、易しく言い換えています。

 

第一席(第一試験場)】  生徒一人ずつ
○読物(5個)    単語図3語 連語図2個 掛け図の中の語を教師が教鞭で指して答えさせる。

「連語図」(玉川大学教育博物館http://www.tamagawa.ac.jp/museum/archive/2006/174.html


○釈義(1行)  連語図の中から任意の一行について、その意味を簡単に説明させる。

○摘書(単語3、連語2) 黒板の文字、文章を読ませる。
(例)魚 粟 算盤 
(例)学校に出でテは書物を読み又手習ひすへし帽をあ■■袴を着る
○問答 五十音 濁音 誦読
(例)カ行を大きな声で言わせる。ザ行を大きな声で言わせる。
火鉢 柿 馬  読んでその性質や用法を答えさせる

  

第二席(第二試験場)】   集合試験
○書き取り (例)ニジ うめ ちょうちん えび ぼきん
初め石盤に書き取らせ、ついで用紙に正体または草体で書かせる。
○算術 加算九九暗誦 単語累積加法(例・5+6+3+4+2=?) 
数字算用数字換写 
○習字 正体 草体 
(例)アカサ/たな/月日 氏名/年月

  愛媛県の規則では、総点52点のうち、4割以上を及第とし、それ未満の得点を「落第」と定めています。

 いかがでしょうか?小学1年生の前半を終えようとする子供たちにとって、下線部のような的確な説明を求める設問や、漢字の書き取り(提灯、募金)はかなり難しかったと思われます。

 

 初期の試験問題について、千葉寿夫『明治の小学校』は次のように述べています。

 これらは、各級の定期試験や小試験に課せられる問題であるが、音読させることや暗誦させることで、知識をテストしている。これは当時、注入式教授法が全盛をきわめたことを物語るものであるが、筆記試験が全然なかったことや、考える問題が一つもないことがその特徴であった。(中略)

 当時の教授法は注入式に終始していて、作業を通じて考えさせたり、児童の心理に即した教授法など、少しも考えられていなかった。生徒たちは機械的に本を暗記しているだけだから、それが身についた知識とならなかったのは当然であった、また、こうした試験法は、記憶の悪い生徒や、人前で口をきけないような気の弱い生徒は、どうしてもいい成績がとれず、落第することが多かった。※太字は筆者

 試験問題が暗記中心に偏ったり、教授法が未熟であったことが指摘されていますが、もう一つ生徒たちにプレッシャーを与えたのが、試験場の人員配置でした。

 これは兵庫県における事例ですが、「定期試験の際には郡の学務担当書記・学務委員及び巡回訓導が臨監することになっており、卒業試験には上記の人員の外にさらに県の学務課員が加わることになって」いたということです。(宮川秀一「明治前期における小学校の試験」)

 厳正を期すためとは言え、当該学校の教員以外の関係者の見守る中で、特に口頭試問の場合は相当の緊張を強いられ、日頃の力を充分に発揮できなかったり、欠席して不受験扱いとなったりする者が多くいたというのも無理からぬところではないでしょうか。

木下義雄 編『小学試業法心得』 (益志堂、1883年)より試験場配置図

■ 信賞必罰の時代 ー飛び級と褒賞ー

  厳しい試験制度の下で、落第に怯え、不受験から退学への道をたどる生徒が数多く見られた一方で、学力の優秀な者に対しては、明治5年(1872)の「学制」において、「試験 ノ時生徒優等ノモノニハ褒賞ヲ与フル事アルヘ シ」(第51章)と規定し、これを元に各府県の試験規則では褒賞に関する条項が定められていました。

 また、半年で二つの級を修了する飛び級をする優秀な生徒も中にはいました。
 よく知られているのは夏目漱石(本名・金之助、慶応3~大正5年・1867~1916)の事例でしょう。通常、上等下等計8年かかるところを5年で修了したと言われています。

 当時の「東京府試験規則」には第四条に、「定期試験ノ外学業優等ノ者ハ臨時試験ヲ行 ヒ、昇級セシムルコトアルベシ」とあり、東京府の視学や学務取締が学校に出張して、臨時の試験が実施され、合格者には飛び級が認められていました。

 
   荒正人漱石研究年表』(漱石文学全集別巻、集英社、1974年)によると、漱石(金之助)は飛び級優等生の褒賞のどちらも経験していたことが分かります。

※下線は筆者

 明治7年(1874)12月、戸田学校(第五中学区第十一番小学校)に1年遅れで入学
 明治8年(1875)5月、戸田学校で下等小学第八級と第七級を同時に修了  (臨時試験に及第したものと思われる)
  褒賞として箕作麟祥『勧善訓蒙』内田正雄訳『輿地誌略』を貰う

自伝的小説『道草』には、以下のように描かれています。

 証書のうちには賞状も二、三枚交っていた。昇り竜と降り竜で丸い輪廓を取った真中に、甲科と書いたり乙科と書いたりしてある下に、いつも筆墨紙と横に断ってあった。
「書物も貰った事があるんだがな」
 彼は『勧善訓蒙』だの『輿地誌略』だのを抱いて喜びの余り飛んで宅へ帰った昔を思い出した。御褒美をもらう前の晩夢に見た蒼い竜と白い虎の事も思い出した。これらの遠いものが、平生と違って今の健三には甚だ近く見えた。(『道草』三十一)

 

学業優等証書(神奈川県近代文学館)

11月、同校で下等小学第六級と第五級を同時に修了 
明治9年(1876)5月、戸田学校で下等小学第四級を修了。
10月、市谷学校(第三中学区第四番小学校)下等小学第三級を修了
明治10年(1877)5月、同校で下等小学第二級を修了
12月、下等小学第一級を修了
明治11年(1878)4月、市谷学校で上等小学第八級を修了。学業優等で賞与を与えられた。
10月、転校した錦華学校(第四中学区第二番小学校)尋常科第二級後期を優等で修了(学業優秀で飛び級したと思われる)

  

 

(明治初期に修身の教科書として使われた箕作麟祥『泰西勧善訓蒙』「近代書誌・近代画像データベース」より)

 

 斉藤利彦『試験と競争の学校史』(講談社学術文庫、2010年)には、優等者に対する褒美の物品として以下のような例が紹介されています。

次学年の教科書(千葉県)

『小学修身訓』、『山県地誌略』(広島県

『習字本』、『小学問答』、『小学算術』(栃木県)

『懐中硯』、『石盤』、『大筆』(島根県

 また、金銭の授与を定めた県もありました。
 「定期試験の優等者には若干の金員を、大試験の優等生には、下等二十五銭より七十銭、上等には一円より一円五十銭を賞与す」(明治12年神奈川県の規則)

 さらに斉藤・前掲書には、知事を招いて優等生褒賞授与式を行った県や、成績優秀者の氏名が県の公報や新聞紙上に掲載されたという事例も紹介されています。

 

 このように、競争心、向学心を煽る仕掛けとして企画されていたのが初期の試験制度でした。
 今から見ると、現状を無視して学務当局の意気込みばかりが先行していたり、中には過剰な対応があったりしたように思われます。
 授業料を取られた上に、「試験!試験!」と脅かされては、当局の思うように就学率が上がらなかったのも、子どもや親の立場からは当然のことでした。

 

 ここまで書いて、二葉亭四迷(元治元年~明治42年・1864~1909)の『平凡』明治41年・1908)の中にある、次のような一節を思い出しました。

 今になって考えて見ると、無意味だった。何の為に学校へ通ったのかと聞かれれば、試験の為にというより外はない。全く其頃の私の眼中には試験の外に何物も無なかった。試験の為に勉強し、試験の成績に一喜一憂し、如何(どんな)事でも試験に関係の無い事なら、如何(どう)なとなれと余処に見て、生命の殆ど全部を挙げて試験の上に繋(か)けていたから、若し其頃の私の生涯から試験というものを取去ったら、跡は他愛(たわい)のない烟(けむ)のような物になって了う。(二十二)

(「青空文庫」、底本:「二葉亭四迷全集 第一巻」筑摩書房1984年)

 

 

 

【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション

※近代史文庫編『愛媛近代史料.第11 (愛媛県「学制」時代教育関係史料 第3輯(明治10年の部)』近代史文庫、1963年

千葉寿夫『明治の小学校』津軽書房、1969年津軽書房、1969年

宮川秀一「明治前期における小学校の試験」『大手前女子大学論集巻20』1986年

斉藤利彦『試験と競争の学校史』講談社学術文庫、2010年

荒正人漱石研究年表』(漱石文学全集別巻)集英社、1974年