中勘助『銀の匙』その1 試験と席次
【作品】長編小説。前編は大正二年(一九一三)四月から大正六年(一九一七)二月まで「東京朝日新聞」に連載。脱俗孤高の詩人として知られる中勘助の幼少年時代を浮き彫りにした作で、夏目漱石はこれを「子供の世界の描写として未曾有のものである」と激賞した。この作品の底には、生きる苦悩を知り始めた少年の切ない思いがこめられている。(『日本近代文学大事典 机上版』)
(昭和10年頃、作者50歳前後、「Wikipedia」より)
【作者】中勘助
(1885-1965)明治18年、東京神田生れ。一高をへて東京帝国大学英文科入学、その後、国文科に転じる。高校、大学時代、漱石の教えを受けた。信州野尻湖畔で孤高の生活を送っていたが、父の死と兄の重病という家族の危機に瀕し、1912(明治45・大正元)年、処女作『銀の匙』を執筆、漱石の強い推薦で「東京朝日新聞」に連載された。ほかに『提婆達多』『犬』といった幻想的な小説、『しづかな流』『街路樹』といった随筆がある。
(「新潮社著者プロフィール」https://www.shinchosha.co.jp/book/120571/)
■席次
私はそれからは恐しい夢に魘(おそ)われることもなく体もめきめきと発育するようになったが、生得のぼんやりと学校をなまけることとは相変らずであった。それは虚弱のためばかりでなく、うぶな子供にとってあまり複雑で苦痛の多い学校生活が私をいやがらせたからである。ただ嬉しいことにはそのときの受持ちの中沢先生は大好きないい人で、おまけに私の席は先生の机のすぐ前にあった。中沢先生は私がいくら欠席してもなんともいわず、どんなに出来なくてもくすくす笑ってばかりいた。が、いつか並んでる安藤繁太といふ奴と喧嘩したときにたったいっぺん叱られたことがあった。(後略) (前編 四十) ※下線は筆者、以下同じ
不勉強の報いは覿面(てきめん)にきていよいよ試験となったときにはほとんどなんにも知らなかった。ほかの者がさっさとできて帰ってゆくのに自分ひとりうで章魚(たこ)みたいになって困ってるのはゆめさら楽なことではない。なかでもつらかったのは読本だった。私は最後に先生の机へ呼びだされた。問題は蔚山(うるさん)の籠城という章だった。蔚山なんて字はついぞ見たこともない。黙って立ってるもので先生はしかたなしに一字二字ずつ教えて手をひくようにして読ませたけれど私は加藤清正が明軍に取囲まれてる挿画に見とれるばかりで本のほうは皆目わからない。先生は根気がつきて
「どこでも読めるところを読んでごらん」
といって読本を私のまえへ投げだした。私はわるびれもせず
「どっこも読めません」
といった。試験がすんでからもやつぱり居坐りだった。私はいちばん前にいるから一番だと思っていた。名札のびりっこにかかってることも、点呼のときしまいに呼ばれることも、自分が事実できないことさえもすこしの疑いすら起させなかった。好きな先生のそばにおかれてちっとも叱られずにいる、これが一番でなくてどうしようか。それに私はついぞ免状とりに出たことがなかったし、学校から帰って一番だといって自慢するとみんなは えらい えらい といって笑ってるので自分だけは至極天下泰平であった。(前編 四十一)
中勘助「こまの歌」(「銀の匙補遺」)によると、これは作者が尋常3年(明治26年・1893)のときに経験したことを元にしているということで、「事態がこれほど悲壮で劇的で」あったかどうかは「請け合はれない」と断ってありますが、少年時代の忘れ得ぬ思い出の一つであったことに間違いないことでしょう。
さて、ここでは主人公が教室(当時は「教場」と言いました)の最前列、教卓の前に座らされたことが述べられています。
実は、これは成績順による「座席の指定」ということを意味しているのです。
主人公は学校を休みがちで、試験の時もまるっきり答えられず、どうやらクラス最下位の成績で、担任から教卓前の席を指定されているようです。
明治13年(1880)7月の「小学教則」には、「毎月末小試験ヲ行ヒ其ノ点数ノ多寡ニ依リテ級中ノ席次ヲ進退ス」とあり、試験成績による教室内の座席上下は、後に見るように明治27年(1894)に廃止されるまで、全国の小学校でごく普通に行われていました。
山田正雄『教育史夜話〈兵庫県〉』(のじぎく文庫、1964年)では、当時の時代背景を「きびしかった初期試験制度」と題して次のように述べています。
このように毎月試験を行う目的は、生徒の競争心を刺激して、大いに勉強心をおこさせることにあった。そこで試験の結果によって席順を上下するという方法が考え出された。現在、教室における生徒の座席はだいたい身長順によって定められるが、当時の学校では、すべて月次試験の成績にしたがって座席が決められたのである。そして、試験当日、欠席した場合の成績は零点となり、最末席に座らねばならなかった。そのほか成績一覧表が大きくはり出され、また教室内の生徒名札が成績順にかけられるなど、生徒を刺激するためのおぜんだてはそろっていた。 (下線 筆者)
※明治前期の小学校における試験制度などについては、以下の記事をご参照ください。
コラム6 小学校で落第その1
https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2022/09/04/162707
コラム6 小学校で落第その2
https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2022/09/14/173946
学事奨励という大義名分から始まった、厳しい試験制度でしたが、目的を達成するどころか、逆に弊害の方が目立っていました。
「徳育重視」を謳った明治24年(1891)の「小学校教則大綱」以後、試験制度の厳格さは緩和の方向に向かい、明治27年(1894)9月1日に文部省は訓令を発して、「試験による席次上下」の廃止を通達しています。時あたかも日清戦争勃発の直後でした。
『兵庫県教育史』は、このタイミングで訓令が発せられたことについて、「この訓令を発した文部省の意図は、このような非常時に際して、小学校の教育が知育に偏重することをさけ、より体育や徳育に重点を置くべきことを強調するにあったと思われる」と述べています。
たしかに、9箇条にわたる当訓令は、体育(普通体操、兵式体操)と学校衛生に重点を置いたものになっており、時局を反映したものと言えるでしょう。
【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション
中勘助『銀の匙』岩波文庫、2017年
日本近代文学館『日本近代文学大事典 机上版』講談社、1984年
※中勘助「こまの歌」(「銀の匙」補遺)『中勘助全集第1巻』角川書店、1960年
山田正雄『教育史夜話〈兵庫県〉』のじぎく文庫、1964年
※教育史編纂会編『明治以降教育制度発達史 第3巻』竜吟社、1938年
兵庫県教育委員会『兵庫県教育史』1963年