コラム7 明治時代 小学生の通学服は・・・
■ 明治前半期 ー筒袖以前の通学服ー
思想家・社会主義運動家の山川均(明治13~昭和33年・1880~1958、岡山県倉敷村〈現・倉敷市〉生まれ)は明治20年(1887)に地元の尋常小学校に入りましたが、その頃の小学生の姿を次のように述べています。※引用文中の太字は筆者
小学生の制服などというものは、もちろん無かったし、ツツソデもあまり着なかったので、たいていの子供は長いソデの着物に角帯をしめ、コンのマエダレ(マエカケ)を掛けていた。尋常科の時代には、まだシャツというものはなく、冬まれに羽織を着た子供もいたが、たいていはハンテンで、黒いエリのかかったのを着ているのが多かった。
(山川菊栄・向坂逸郎 編『山川均自伝 ある凡人の記録・その他』 岩波書店、1961年)
このように、後に見るような筒袖が奨励される以前は、男女ともに長い袖の着物の着流しスタイルが学童の姿としては一般的であったと思われます。
■ 筒袖の着物に前掛けのスタイル
明治中頃の様子をうかがう資料として、明治19年(1886)東京の日本橋に生まれ、明治25年(1892)に阪本尋常小学校に入った谷崎潤一郎の回想を挙げてみましょう。
生徒たちは全部和服で、男の子は皆筒袖であったが、羽織を着ることは許されていた。山の手方面のことは知らないが、下町の小学校では袴を穿かず、女の子は着流しのまま、男の子は前掛けを締めていた。
(中略)
男の子の衣類は木綿の盲縞や久留米絣などが多く、少し余裕のある家の子は糸織や黄八丈や、夏は透綾なども着、雪駄を穿いてチャリンチャリン裏金の音を鳴らしながら歩いた。
これは東京の下町の小学生です。地方においては、都市部とは違って、着物は「手織りの縞の筒袖」が主流であり、「紺絣を着るようになったのは、大正時代の初期」(データベース『えひめの記憶』)という記述も見られます。
まだまだ商品経済の未発達な地方では、手織り(地織り)の木綿の着物を着ている子どもが普通でした。
■ 日清戦争と筒袖の奨励
開戦後まもなく、文部省の発した「北海道府県に対する小学校の体育及び衛生に関する訓令」(明治27年9月1日、文部省訓令第六号)の中に「三 小学校生徒ハ活発ナル運動ニ便スル為ニ不得已場合ノ外学校内ニ於テハ洋服又ハ和服ヲ問ハス都テ筒袖ヲ用ヰシムヘシ」という一項があります。
戦時中とあって、小学生にも「勤倹尚武」の風を醸成しようとする意図の下で出された訓令でした。
また、この頃から、市町村や各小学校において「服装に関する規則」を定めるところが目立ってきました。
深谷昌志『子どもたちの明日は?ー子ども考現学』には、明治31年(1898)新潟市で定められた規則が紹介されています。
平素の服装は華美高価なるべからず
一 男生徒の服装は筒袖とし制帽を用ふること
二 学校用平常の服装は縮緬(ちりめん)類絹布類は用ひざること
三 女生徒帯上(おびあげ)帯止(おびとめ)羽織の紐は高価のものなるべからざること
四 女生徒前垂(まえだれ)は木綿とし衣類より華美なるものを用ふべからず
満足な衣服を用意できない家庭が多くあった反面、一部には子どもに高価で華美な服装をさせる保護者がいたことをうかがわせる内容となっています。
この頃、袴はまだまだ高価であったために、代わりに学帽の着用を奨励するようになった学校も多くあったようです。
小学生の衣服としては、明治期を通して殆どが「木綿の縞の着物」でした。
明治後期になると、無地と縞の中に少しずつ絣が見られるようになったということで、中流以下の家庭の子供は縞の着物、中流以上になると紺絣の着物という違いも見られました。
■ 袴(はかま)が次第に普及
羽織に袴というスタイルは、明治30年代以降、次第に高学年の男子の中には見られるようになったものの、初めの頃は、三大節や卒業式などの式典に限られていたということです。
小学生が日常の通学用として袴を着用するようになったの は、恐らく上級学校である中学校、女学校の通学服 の影響をうけてのことと思われる。就学率も高まり小学校教育が一応定着した明治末頃から、まず高等科の生徒から始まり、次第に低学年に及んでいったとみられる。
(松田歌子ほか「明治・大正・昭和前期の学童の衣生活との背景(第1報)」)
加茂小学校は、筆者の地元兵庫県加東市にある現・滝野東小学校の前身で、校区は農村地帯でした。全員ではありませんが、卒業式ということで男女とも羽織袴姿の生徒が見られます。
また、男子教員が二人とも制服・制帽姿で写っています。岩崎雅美「明治後期小学校男子教師の服制について ー兵庫県の事例を中心にしてー」によれば、兵庫県で男子教員の制服が定められていたののは明治31年から37年までの期間だということです。写真のキャプションは「明治末期」となっていますが、30年代の可能性もあります。
本記事を書くに際して、多くの卒業写真などを見てきた中に、男子教員の詰め襟姿は結構ありましたが、制帽らしきものは珍しいように思われます。
袴の着用は、整った外観とは裏腹に、子供たちにとっては不便で、不潔で、邪魔なものでした。(松田歌子ほか前掲論文)
洗濯機のない時代、頻繁に洗うことも出来ず、活発な小学生のことですから、その不潔さは現代人の想像を超えるものであったかも知れません。
なお、小学生に洋服姿が見られるようになったのは、大正中期頃からと言われていますが、それもほとんどは大都市の師範学校附属小学校や私立の小学校においてのことでした。
全国的な広がりを見せたのは昭和一桁あたりということですが、やはり地域格差、家庭の経済的格差の大きかった当時のことですから、それも一概には言えない実態があったことは想像に難くありません。
【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション
深谷昌志『子どもたちの明日は?ー子ども考現学』福武書店 1985年
※山川菊栄/向坂逸郎 編『山川均自伝 ある凡人の記録・その他』 岩波書店、1961年
松田歌子・高島愛・伊地知美知子「明治・大正・昭和前期の学童の衣生活との背景(第1報)」『文教大学教育学部紀要 巻17』1983年
国立教育政策研究所「近代教科書デジタルアーカイブ」
https://nieropac.nier.go.jp/lib/database/KINDAI/advanced/?lang=0
データベース「えひめの記憶」『中山町誌 第六編』民俗・文化/第二章衣食住の変遷/第一節衣生活
https://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:3/39/view/11410
兵庫県教育委員会『兵庫県教育史』1963年
岡本孝道『目で見る北播磨の100年』郷土出版社、1995年
谷崎潤一郎『幼少時代』岩波文庫、1998年
岩崎雅美「明治後期小学校男子教師の服制について ー兵庫県の事例を中心にしてー」
『日本家政学会誌Vol. 42 No.10』1991年