小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

徳富健次郎『小説 思出の記』その1 「寺子屋に毛のはえたくらい」の小学校

 

 

【作品】
 零落した旧家の一人息子菊池慎太郎の波瀾に富む人生を描いた長篇小説。主人公の思想と情熱、彼を取り巻く人々の人情、明治二〇年代の世相の描写などには、多分に作者の自伝的要素が含まれている。『黒い眼と茶色の目』『寄生木』などの系列につらなり、蘆花の文学的生涯を知る上に重要な鍵となる作品。(岩波文庫解説)

国立国会図書館「近代日本人の肖像」より

【作者】
   徳冨蘆花(とくとみ ろか)
明治元年10月25日 〜 昭和2年9月18日(1868年12月8日 〜 1927年9月18日)
出生地 熊本県
別称 徳富健次郎(とくとみ けんじろう)
 小説家。少年時に同志社に入学、洗礼を受ける。同志社を中退後、明治22(1889)年兄徳富蘇峰の経営する民友社に入る。31年から国民新聞に連載した「不如帰」は明治屈指のベストセラーとなり、それに続く「自然と人生」「思出の記」などにより小説家としての地位を確立した。39年エルサレム巡礼に出、トルストイも訪問する。40年東京府千歳村粕谷(現世田谷区)へ転居、半農生活に入る。兄蘇峰とは長らく絶交状態であったが、昭和2(1927)年伊香保で療養中に和解、その翌日に死去した。
国立国会図書館ホームページ、「近代日本人の肖像」より)

 

 小学校には相変わらず通っていた。僕の家から六七町田の中にちょこりんと一つ立った茅葺(かやぶき)のがそれで、田舎の事だからまあ寺小屋にちと毛のはえたくらいのもの。文庫硯(すずり)に、それでもさすが石盤だけはあって、夏の盛りは朝手習いといって暗いうちに蝋燭(ろうそく)をつけて手習いをする、冬はてんでに火鉢を持って行く、というありさま。都遠い片田舎、ことに摺鉢(すりばち)の底のような所で、どっちへ出るにも坂ばかり、文明開化もここへ来るには、草鞋(わらじ)がけで汗だらけになろうというので、貧乏人が呼ぶ医者ではないがなかなかちょいと来てくれぬ。東京の新聞紙と申すものが天にも地にたった一枚来るばかり、それを町での識者(ものしり)といわれる三四十人が戸ごとに読み回すので、最後の読者が日本の出来事を知るころは、もうその事のあった以来地球が五六十ぺんも寝返えりうって、気の早いフランスなどでは革命の五六ぺんもして内閣が十ぺんも変っておろうと云うくらい。だから、社会の風潮を感ずる神経は極めて鈍なものであるが、しかし明治も未だ十歳にならぬその頃の改革また改革経験また経験片時(へんじ)も固定した精神のなかったことは、今思うても分かる。  (五)
 

石盤と石筆

明治初年から昭和の初め頃まで、主に低学年用の筆記具として広く用いられた。

「地域の生活・文化データベース」より



明治7年(1874)に建てられた黒髪小学校旧校舎。平屋萱葺きの二棟
(『熊本県教育史 上巻』より)

 作中では、主人公の出生地を「妻篭(つまご)の里」としていますが、これは妻・愛子の出身地である菊池郡隈府(わいふ:現・菊池市)をイメージしたものと言われています。

 

 ■ 寺子屋に毛のはえたくらいの小学校 

 作中に描かれた小学校は、作者自身が小学校に入った明治8年(1875)から明治10年(1877)頃のそれであると思われます。

 

 国民皆学をめざした明治新政府は、近代学校制度として明治5年(1872)8月に公布した『学制』の序文の中で、「必ず邑(むら)に不学の戸なく家に不学の人なからしめん事を期す」と謳(うた)いました。

「学制」表紙

「学制」序文の冒頭
国立教育政策研究所・教育図書館・貴重資料デジタルコレクション
   https://www.nier.go.jp/library/rarebooks/seido/373.2-308/

 翌明治6年(1873)以降、文部省および府県の勧奨により、おびただしい数の小学校短時日の間に開設されてゆき、明治8年(1875)において、全国で2万4,303校の多きを数えるに至りました。(令和元年〈2019〉時点で国公私立合わせて19,738校)
 ちなみに、江戸期以来庶民の教育機関として知られる寺子屋は、明治初年には全国では1万5千余りが存在したとされています。(2万を超えるという説もあるようです)

寺子屋を描いた渡辺崋山画『一掃百態』
玉川大学教育博物館ホームページhttps://www.tamagawa.ac.jp/museum/archive/2002/131.html

 

 このような急速な設置状況について、『学制百年史』はこう説明しています。

    小学校制度が急激に整備できたことの背後にはいくつかの理由がある。そのうちもっとも重要なものはわが国における文教のながい歴史、ことに近世における学校教育の著しい発展が素地となっていたことは見のがすことのできない点である。寺子屋の発達普及は幕末においてすでに全国に及び、数万をもって数えられるまでになっていた。そしてこれらの庶民学校としての寺子屋が整理されて新制度による小学校となったのであった。
   (中略)
 全国の状況を見ると、第三の方針(註:寺子屋・私塾等を学区制に基づいて併合して、そのままこれを小学校に再編)をとった地方がもっとも多く、ある県のごときは従来あった寺子屋・私塾をすべてそのままただちに新しい制度の小学校としたのであった。多くの場合、いくつかの寺子屋・私塾を集めて一つの小学校をつくり、手習師匠を小学校教師に任命し、寺子をただちに小学校生徒としたのである。
(第一編近代教育制度の創始と拡充/第1章近代教育制度の創始/第二節初等教育/四小学校の普及と就学状況) ※下線は筆者

 主人公が通った小学校も、村にあった寺子屋を転用したものであったようです。

 なお、明治8年(1875)における就学率は、男子50.63%、女子18.70%、男女35.38%(日々出席平均人数73.21%)という数字が残っています。

 

■ 「間借り」の校舎と擬洋風建築

 

 「学制」公布直後における小学校は、従来の寺子屋私塾などをそのまま使用したり、改造したりしたものがほとんどでした。

 上の表に見るように、新築の校舎は約18%で、どこかに「間借り」している学校が約82%を占めているというのが実態でした。

 寺院民家の一室などはまだ良い方で、中には城の櫓(やぐら)門や伝馬所(てんまじょ)、芝居小屋の舞台などという劣悪で非衛生的な環境のものもあったということです。

 下の写真は、民家を小学校に充てた一例です。

並木小学校(明治初年、現南古谷小学校)
川越市蔵作り資料館ホームページより
   川越の文明開化/川越の学校 https://www.kawagoe.com/kzs/shakaika/index.html

 

 一方で、明治初期の小学校建築というと、近代学校建築として初めて国宝に指定された旧開智学校校舎(長野県松本市)などを思い浮かべる方もいらっしゃることでしょう。

 多くの小学校が劣悪な状況下に置かれていた一方で、「擬洋風建築」と呼ばれる校舎が、現在の長野県、静岡県などを始めとして各地で次々と建てられました。  

 

旧開智学校Wikipedia明治9年(1876)4月竣工

 「学制」は、その理念こそ高邁(こうまい)でしたが、肝心の財政的な裏付けが全くなく、小学校の建築に要する費用は、ほぼすべてを民間に頼らざるを得ませんでした。
  総工費として11,128 円 余り(現在の金額では2~億円)を費やした旧開智学校の場合も、時の筑摩県権令・永山盛輝の教育にかける情熱と強力な指導力によるものとされていますが、校舎建築費用については、その約7割を地元の松本町(当時)住民の寄付に頼り、残りの3割をその他の寄付金などで調達しています。 
 言うまでもなく、こうした目を見張るような豪壮で華麗な小学校建築は、全国的に見れば「例外中の例外」と言ってよいものでした。

 

 「学制」公布直後の小学校といえば、建物だけではなく「実質的に従来の寺子屋とほとんどかわらぬものが多く、ただ看板を小学校と書きかえたものが大部分」(『兵庫県教育史』でありました。

 そういう状況を福沢諭吉は、「田舎に小学校あれども、是は唯(ただ)寺子屋の改名にして、門戸にペンキを塗りたるまでなり。」(『福沢諭吉全集 第4巻』「福沢文集巻之二」)と評しています。

 

【参考・引用文献】 国立国会図書館デジタルコレクション

文部省『学制百年史』ぎょうせい、1972

井上久雄『増補 学制論考』風間書房、1991年

兵庫県教育委員会兵庫県教育史』1963年

熊本県教育会 編『熊本県教育史 上巻』(熊本県教育会年 1931
熊本県熊本県史 近代編第一』1961年
慶応義塾編『福沢諭吉全集 第4巻』岩波書店、1959年

佐藤秀夫編著『改訂 教育の歴史』(放送大学教材)放送大学教育振興会、2000年
仲新監修『学校の歴史 第2巻 小学校の歴史』第一法規、1979年
中田正浩「明治時代の学校建築から見えてくる教育思想・文化―長野県内に現存する学校校を事例に(その一)―」『人間教育学研究3』奈良学園大学人間教育学部、2015年