小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

山本有三「波」その2 尋常夜学校 ~知られざる「もう一つの小学校」~

 行介の受け持つ組で級長をしている君塚きぬ子は、生活苦から大阪の芸者屋へ「下地っ子」として売られていきました。行介は大阪の警察に知り合いがあったことから、抱え主に掛け合ってもらい、二年間での借金返済を条件にきぬ子は東京に戻りますが、父親は彼女を精工舎で働かせます。学業の継続を願う行介は、14歳になっているきぬ子を「夜学の尋常科」に入れる手続きを取りました。

 

 尋常夜学校は学齢になっても小学校にはいらなかったもの、昼間働いているために通学出来ないもの、そういう人達を重(おも)に収容していた。だから二十で尋常一年生というような生徒もいた。そして一つの教室に各学年の生徒が雑居しているから、一方で五年生が算術をやっている間に、三年生は読本を読んでいるという工合で、何のことはない、昔の寺子屋という観があった。
 それだけ教えにくくはあったが、行介は少ない給料をいくらかでも多くするために、この夜学部の方にも一週二日ずつ働いていた。それできぬ子にもまた教室で時々顔を合わせた。彼女は昼間時計工場で時計の機械磨きをやって、疲れ切った体を、夜には感心に学校に運んだ。併(しか)し余程(よっぽど)疲れるものと見えて、彼女はよく教室で居眠りをした。 (二ノ十二)

※本文は岩波文庫版によるが、新字・新仮名に改めています。

■ 尋常夜学校とは

 東京市では、日露戦争後に大小多数の工場が増設され、家庭の経済状況からそうした工場で働かざるを得ない学齢期の児童や学齢期を過ぎた小学校未修了者などのために、夜間の小学校として、「特殊夜学校」(特殊小学校夜間部とも呼ばれた)を開設しました。

 明治39年(1906)に神田・京橋・小石川・下谷に開設されて以降、大正3年(1914)までに34 校の特殊夜学校が設置され、そこで学ぶ児童生徒数は増加の一途をたどります。
  その後、大正5年(1916)に年少労働者の保護を主な目的の一つとした「工場法」明治44年・1911、法律第46号)の施行に合わせて、「尋常夜学校」という名称に変わりました。

 前年の大正4年(1915)には、34の「特殊夜学校」に4886名の児童生徒が在籍していましたが、「尋常夜学校」に移行5年後の大正10年(1921)には、42校、在籍者7433人と大幅な増加が見られました。

 

 東京市立尋常夜学校学則」(大正5年・1916)によると、この夜学校は次のように規定されていました。

・対象・・・原則として12歳以上で義務教育の課程の未修了者で、昼間の就学が出来ないもの(学齢期を過ぎた者も一部含まれていた)
・修業期間・・・3カ年(半年ごとに1期から6期に分けて実施)
・授業時間・・・毎夜7時から9時の2時間を3時限に分かつ
・授業料・・・不要、学用品等は給与または貸与
・教科目・・・ 修身 国語 算術 日本歴史 地理 理科 図画 唱歌 体操 裁縫(女子)
※1週18時間の授業のうち、学年により異なりますが、ほとんどが国語と算術(11~15時間)にあてられていました。なお、この学則により、尋常小学校の教科修了が認定されるようになりました。

細民街の多かった旧下谷区、旧浅草区の長屋と子どもたち
(大正10年・1921、東京市社会局「東京市内の細民に関する調査」より)

■ 夜学校 その実態は・・・ 

 夜学校では専任の教員は極めて少なく、行介のように昼間の教員が兼任していた比率が全体の三分の二に及び、その他、いわゆるアルバイトの教員を雇ったりもしていたようです。

 在籍していた児童生徒の内訳ですが、大正6年(1917)においては次のようになっており、男女とも工員(女工が4割近くを占めていました。

「尋常夜学校職業別生徒数」(『墨田区史・上』より)

 これらの児童生徒たちのほとんどは、家庭の状況から朝早くから夜遅くまで就労せざるを得ない者であり、厳しい労働による疲労が学習を妨げる上に、使用人や保護者の理解を得られないことも多く、就学の継続は並大抵のことではありませんでした。

 大正9年(1920)の統計では、卒業率は25.8%という数字が残っています。(川向秀武「東京における夜間小学校の成立と展開ー『特殊夜学校』・『尋常夜中学校』を中心として」)

 「学則」にはありませんが、『墨田区史・上』によると、「東京市は、夜学校の振興に意を用い、夜学校の生徒費として就学困難な者に一ヶ月十三銭を支給した」とあります。

 また、中には後援会や保護者会を組織して、学費の軽減、設備の充実に取り組んだところもありましたが、次に見るように児童労働の問題の根は深く、加えて当時の急速なインフレによる生活難が背景にあったことから、夜学校に通う児童生徒たちが困難な状況に置かれていたことは当事者たちの回想などによってうかがうことができます。

 

 こうした貧困による不就学児童の問題は、大正期半ば以降、大きな社会問題となっていきました。それは東京のみならず、大阪市、神戸市、名古屋市などの主要大都市に共通する問題でした。

 大正9年(1920)2月15日の大阪朝日新聞(京都附録版)には、「惨めな幼年労働者 : 頑迷な親や雇主は覚めよ : 補習夜学校の現状」と題する記事があり、京都市における尋常小学校に附設された「夜学校」の実態が報じられています。記事は雇用主と保護者の無理解を嘆く論調となっています。

  西陣方面を初め市内各小学校に於ける夜学校の出席者歩合を聞くに生徒は貧困者の子弟にあらざれば店員や職工ばかりなれば世の中の景気不景気に連れて異動甚だしく殊に昨今は幼年労働者を多く収容せる夜学校の如きは出席者寂寥々たるものなりと今上京十一学区正親校の模様に就き同校訓導は語る
 雇主に教育の趣味のあるのと否で雇われる人々の境遇が定まり幸不幸がある、出席者数の異動の激しいには驚く、大資資本家の雇人は幸いであるが、小資本家の雇人は実に惨しい、明日の仕事に差支えるからとて酷使されるから気の毒なものである、会社の雇人は欠席するものが少ない
尚某教育家は語る
 半途退学者は依然として防止することが出来ない、雇人もまた目覚めて呉れぬ、親達も悟っていない、彼れ等は目前の利慾の為に義務教育未終了者を酷使するばかりで、某雇人の前途を考えてはやらぬ、僅の利益の為めに親達は無惨にも学校を退学せしめて奉公に出し、学校から出席を促しても訳の判らぬ親や雇主は「やれ病気だの」「用事がある」のと言って出席せしめ様とせぬ、真黒な油に染りながら火になった鉄に槌を打ち下しつつある鍛治屋の幼年職工の前途は如何、犬猫同様追い使われる少年店員の将来は如何、自分は斯うした幼年職工や少年店員を見る度に眼覚めざる親や雇主の残酷を憎む
(「神戸大学新聞記事文庫」より)※下線は筆者

 「夜間中学」は今でもたまに新聞紙上などで目にすることがありますが、「夜間小学校」の存在は初めて知りました。

 文部省の統計では明治の末年には、全国の就学率は98%に達しているとされていますが、実際は「貧困」が就学猶予の対象となっており、それらの不就学児童の救済策として設けられたこの「尋常夜学校」昭和16年・1941、以降は国民夜学校と改称)は、東京では終戦時まで存続したということです。

 

 石井昭示氏が『近代の児童労働と夜間小学校』の「まえがき」の冒頭で次のように書かれているのが、大変印象深く心に残りました。(太字は筆者)

  

私たちは、満六歳で入学する義務教育においては、昼間通学することに何の疑問も持たずにきた。

 ところがそのことが当たり前でなく、午後六時~七時授業開始という「もう一つの小学校」ともいうべき夜間小学校があったのである。(後略)

 

【参考・引用文献】    国立国会図書館デジタルコレクション
※「東京市例規集」東京市、1922年
川向秀武「東京における夜間小学校の成立と展開ー『特殊夜学校』・『尋常夜中学校』を中心として」『人文学報. 教育学 8』東京都立大学人文学部、1973年
『東京都教育史 通史編2』東京都立教育研究所、1995年
※東京都墨田区編『墨田区史・上』墨田区、1979年
石井昭示『近代の児童労働と夜間小学校』明石書店、1992年