小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

山本有三「波」その4 中等教員への道 その2

 

 

 しかし中等教員検定試験の日が近づいたので、行介はあまりそんなことを考えている暇はなかった。試験は今度で三度目だった。今度駄目だったら、彼はもう諦めようと思っていた。彼は中等教員になりたいのが主眼ではなかった。何かこういうものを目標にして勉強しなくては、なかなか勉強が出来ないと思ったからだった。
 試験の日が来た。予備試験はうまく通った。本試験も大抵うまく行ったような気がするが、一題あやふやなのがあって心配だった。学校の卒業試験ならば無論大丈夫だが、検定試験では少しでも怪しいのがあると通過は困難だった。金持のお坊ちゃんがほとんど遊び半分に通っている学校では点が甘くって、高等の学校に入学出来なかった、むしろ同情されるべき立場にある人達の方が、却(かえっ)て苛酷に採点されるというのは、実に妙な話だがそれが現在の実情だった。(「父」一の八)

※下線は筆者

 

■ 「金持のお坊ちゃん」には点が甘い!?

 「金持のお坊ちゃんがほとんど遊び半分に通っている学校では点が甘い」というのはどういうことなのでしょうか、ちょっと気になる箇所です。
 この件に関係するので、前回(その3)でもとりあげましたが、もう一度「中等学校教員(中学校・高等女学校・師範学校)の養成と資格取得方法」を整理したものを挙げてみます。

 

(1)目的学校による養成・・・高等師範学校、女子高等師範学校、臨時教員養成所

東京高等師範学校(明治41年・1908、「ジャパンアーカイブズ」より)
広島高等師範学校と共に中等学校教員養成機関として知られた。

 (2)検定による資格取得
   ①無試験検定(出願者の提出した学校卒業証明書・学力証明書等を通じて判定する間接検定方式)
   ○指定学校方式・・・官立高等教育機関帝国大学、高等学校等)卒業生について検定する。
   ○許可学校方式・・・公私立高等教育機関の卒業生について検定する。
   哲学館(東洋大学)、國學院國學院大学)、東京専門学校(早稲田大学)等
  ②試験検定(出願者の学力・身体・品行を試験によって判定する直接検定方式) 
    「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」(文検)

昭和10年(1935)早稲田大学高等師範部の学舎として建てられた。(現在の教育学部

 行介が「金持のお坊ちゃんがほとんど遊び半分に通っている学校 云々」と言っているのは、上記(2)の①のうち、「許可学校方式」(公私立高等教育機関の卒業生について検定する)に属する私立の高等教育機関(大学、専門部、高等師範部など)のことだろうと思われます。

 この「許可学校方式」「無試験検定」というのは、当該学校の所定の教育課程を修了することで、原則として中等教員免許の付与を認めるという検定制度で、一定の条件をクリアしたの私立の大学、専門学校に許可されたものでした。

 天野郁夫『旧制専門学校』(日経新書、1978)によると、「中等学校教員の免許制についても、最初は官立学校の卒業者だけが試験免除の恩典にあずかっていたが、私学関係者の運動の結果、明治32年に至ってようやく東京専門学校早稲田大学、哲学館東洋大学國學院の三校が無試験検定の「許可学校」となり、以後青山学院、日本法律学校日本大学慶應義塾、女子英学塾津田塾大学)などの文学、師範関係の学科が追加された」という経緯があったということです。 ※()内は筆者

 中等学校の教員養成の「目的学校」としては、男子の場合、東京と広島に高等師範学校がありましたが、定員が限られている上に、時々の経済的な状況にも左右されますが、かなり高い入試競争倍率を示していました。
 東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)の場合は、下のグラフのように明治末期から大正中期までは 5倍前後、大正末期から昭和初期 の不況期には12〜 17倍にも達していました。

  一方、早稲田大学に設置された高等師範部(現在の教育学部)では、入試が開始されたのは大正9年(1920)ごろで、それまでは事実上無試験入学でした。入試開始以降もその競争率は昭和初期まで 1 〜 2 倍でしかありませんでした。(太田拓紀「戦前期私学出身者の中等教員社会における位置と教師像ー早稲 田大学高等師範部出身者の事例ー」) 

早稲田大学高等師範部と東京高師の入試倍率

 上記の太田論文には、昭和戦前期の「受験案内」から次のような文章が紹介されています。

 高等師範学校に入学すれば、学費は国家から補助され、卒業すれば独りで就職先が決まり、且つ中 等教員としては最高の地位で、待遇も不景気時代の学士様の安サラリーに反し,月額九十円内外を給せられるといふのであるから、正に高師様様といふやうになり、全国の秀才揃ひの入学志願者が殺到して、とても凡才連中の入れさうなところではない 。
(中略)
 高等師範学校には入れないが、中等教員にはなりたい。(中略)『検定試験も困難だから、何とかして中等教員の無試験検定を得られる学校に入り度い』と希ふ人々 の為にあるのが、この無試験検定許可の学校である。(中略)具体的に云へば、私立大学にある専門学校令の高等師範部乃至は高等師範科などは、この適例と看るべきであらう。 (「受験と学生」編輯部編「 中等教員検定試験受験案内」昭和15年・1940、研究社)※下線は筆者

 

 

 前回に見たように、大正年間における「試験検定」(文検)の平均合格率が9.3%と1割にも満たなかったのに対して、「無試験検定」の場合は大正7年(1918)で85%、だいたい80から90%の間でした。

 行介は、こうこうした状況を指して「点が甘い」と言っているのではないしょうか。
 もちろん、在学中の成績には一定の水準以上を要求されるので、各大学とも高等師範部の学生は、その他の学部学科の学生に比して、真面目に勉強する学生が多かったと言われていますが・・・。

 どうも、このあたりの記述には、当時の世間一般の私立大学生に対する偏見が反映されているではと思われます。

 また、自らも苦学の道をたどり、その体験などをもとに名作路傍の石を著した山本有三の見方でもあったと見ることも出来るでしょう。

 

■ 「金持のお坊ちゃんがほとんど遊び半分に通っている学校」!?

 

 行介の生い立ちについてはよくわかりませんが、「高等の学校に入学出来なかった、むしろ同情されるべき立場にある人達」とあることから、おそらく経済的理由から、官費の師範学校(当時は中等学校でした)に進んだと思われる彼にとっては、労せずして私立の大学や専門学校などに進んだ人たちは、「金持のお坊ちゃん」と呼ぶにふさわしい存在だったのでしょう。

 もちろん、私学に入った人が皆「金持のお坊ちゃん」であったはずはなく、当時のことですから苦学生も多くいたことでしょう。
 そもそも、本当に「金持のお坊ちゃん」なら、中等学校の教員を目指したりはしないで、学科も法律や経済などを選んだのではないでしょうか。
 

 私立大学や専門学校に在籍した学生とその家庭の経済的な実態を調べる余裕はありませんが、念のために大正期半ばの主な学校の授業料などについて調べてみました。

 太田英隆『入学選定男女東京遊学案内と学校の評判』(二松堂書店、大正7年)では、生活費についても述べています。
 

 一方私立専門学校では、早稲田、慶応、明治各大学を通じて共に月三十円が最低の見積もりとなっている。若し参考書や辞書を充分に買い込んで上等の下宿にでも暮らそうとなったら月五十円は必ず要る。

※太字は筆者 新字現代仮名遣いに改めています

 さらに、同書では東京における「学費調査」として、生活費の内訳の平均値を挙げています。

下宿料16円 授業料月額3円50銭 書籍費2円50銭 雑費7円  学友会費2円
制服制帽靴代3円20銭  合計34円20銭

 これらは3年前の大正4年に比べて5割の増だそうで、この間の物価高騰の激しさがよくわかります。

早稲田大学の図書館(大正3年・1914、早稲田大学ホームページより)

 一方、その頃の小学校教員の給与は全国平均で月額29円67銭2厘でした。
大正8年「市町村立小学校教員月俸平均」海原徹『大正教員史の研究』より)
 こうして見てくると、もし行介が文検に受からず、小学校教員のままで、一人息子の駿を私立大学に進ませようとしたとすると、なかなか大変な状況な状況だったことが分かります。

 

【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション
天野郁夫『旧制専門学校』日経新書、1978年
太田拓紀「戦前期私学出身者の中等教員社会における位置と教師像ー早稲 田大学高等師範部出身者の事例ー」日本教社会学会『教育社会学研究 78』2006年
海原徹『大正教員史の研究』ミネルヴァ書房、1977年
 ※太田英隆『入学選定男女東京遊学案内と学校の評判』二松堂書店、1918年