小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

コラム10 級長さんは大変だった!? ー 明治の小学校における級長規則から ー

 現在、小・中・高等学校などにおいては、各学級に「学級委員長」(クラス委員、クラス委員長、委員長などとも)が置かれているのが普通です。(私学の中には、戦前と同じく「級長」と称しているところもあるようです。さすがに「組長」はないでしょうが (^0^))
 今回は、明治時代の小学校尋常小学校、尋常高等小学校)の「級長規則(心得)」をとりあげてみました。

明治30年頃の尋常小学校児童(丹波篠山市立古市小学校ホームページより)

 そもそも、我が国の小学校に学級制度が導入されたのは明治18年(1885)のことで、当初は学級の定員尋常小学校においては80人以下(明治24年より70人以下)、高等小学校では60人以下と定めていました。
 深谷昌志「学歴主義と学校文化」では、「級長制が導入された時期は厳密には必ずしも明らかではないが、明治20年代前半に大規模校で級長制が導入されるようになった」としています。

 

  下記は、学級制度の発足から間もない明治22年(1889)に長野県の小学校で定められた「級長心得」です。

第一条 級長(正副)ハ各級ニ於テ学力品行共ニ優等ナル者ニ非ザレバ其撰ニ当ラザルヲ以テ百事善良ノ模範ヲ示ス可(ベ)
第二条 級長ハ生徒ノ集合解散礼式及ビ監督忠告等ノ事ヲ掌(つかさど)
第三条 級長ハ各自互ニ同心協力シ生徒ノ利益トナルコトヲ謀リ学校職員ノ補助タルコトヲ自任スルヲ要ス
(第四・第五条は略)
第六条 校ノ内外ヲ問ハズ善良ノ行為ヲ実行シタル生徒ト認ムルトキハ其ノ都度受持教員又ハ校長ニ詳細ヲ具申ス可シ
第七条 第二条ノ事項等ニ付懇篤ナル注意ヲ与フルト雖(いえど)モ若シ其指揮ニ従ハザル者アルトキハ受持教員又ハ校長ヘ其旨ヲ報告ス可シ
  『長野県教育史11巻 資料編5』

「長野県下高井郡日野尋常小学校級長心得」(現在の中野市立日野小学校)

『長野県教育史第11巻』より
  ※( )内のふりがなは筆者


 まず、級長の第一条件は「学力優秀」・「品行方正」の模範生徒であることでした。
多くの学校では、学力品行ともに第一位の子を級長に、第二位の子を副級長に担任教員が推薦し、校長が任命するという形をとっていました。

 この「級長心得」を見ると、現代の「学級委員長」の任務と大きく異なる点があります。それは、第三条中の「学校職員ノ補助タルコトヲ自任スルヲ要ス」という文言です。

 「補助」の具体的な内容は、第六条及び七条に規定されています。
 一つは、級中の児童生徒を日頃からよく観察し、「善良ノ行為」があれば教師に報告するという任務。
 もう一つは、級長の「監督忠告等」(第二条)に従わない場合も「受持教員又ハ校長ヘ其旨ヲ報告」(第七条)するという任務です。

 このように、当時の級長には他の児童の模範となることはもちろんですが、いわば「隊長」たる担任教員を補佐し、必要に応じて級友を指導する役割を期待されていたという点で、軍隊における下士官的な存在」を期待されていたと言えるのではないでしょうか。

 級長副級長は校長が任命権を持っており、胸に誇らしく「級長章」(徽章)をつけた彼らは、校の内外で周囲から特別のまなざしで見られる存在だったようです。

 

 もう一つ。これは明治末期頃の教師用の書物から、「級長規程(心得)」を作る際の留意点を箇条書きにしたものです。なお、表現は現代風に改めています。

級長規程の例
任務及び心得
1 始業の時報で全級児童を集合整列させること
2 教室への出入りに際して定められた方法で誘導すること
3 教師の命令の伝達
4 随時級中の出来事を教師に報告すること
5 日々児童の出欠、遅刻早退などを調べて報告すること
6 学級日誌を調製 (5年生以上)
7 毎日放課後翌日の当番を決めること
8 転入生に対して親切に規則慣例などを指導すること
9 級長副級長は始業20分前には登校すること

羽山好作編、相島亀三郎 校『小学校に於ける科外教育の理論及実際』 (明誠館、1911年)より

 1から4は、上に挙げた日野尋常小学校の心得にもあった内容ですが、ここでは、5~8に見られるような、本来は担任教師のなすべき事柄も級長の仕事のように規定されています。

 たしかに、尋常小学校の場合は50~70名という多くの児童が狭い教室にひしめいていたわけで、担任教師が「助手」を持ちたい気持ちが分からなくはありませんが、それにしても教師にとって「都合のよい心得」になってはいないでしょうか。

 

 初めに、級長は「担任教員が推薦(指名)」と述べましたが、その当時にあっても、現代と同じく級中の児童による「互選」(選挙)によって級長、副級長を選んでいた小学校も、おそらく少数ではあったでしょうが存在していたようです。

「級長会議」(『長野県教育史』第11巻 ・史料編 6』より)

 また、これは極めて珍しいケースでしょうが、長野県下伊那郡松尾尋常高等小学校では、明治33年に児童自治活動についての規則を定め、定期的に「級長会議」を開いていました。その当時としては、他に例を見ない先進的な取り組みでした。(『伊那』1978年11月号)

 

 こうして見てくると、明治時代の小学校における「級長」は、今の「学級委員長」とは少し異質の重い役割を担わされた存在であったことがわかります。

 中学校の場合は、級長の任務を立派に務めた場合に、特待生扱いになったり、授業料免除の特典があったりという例があったようですが、小学校ではどうだったのでしょうか?進学に際して、いわゆる内申書などで優遇されていたのでしょうか?

 残念ながら、そのあたりは不明です。

 

【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション

※教育学術研究会 編『小学校事彙』同文館、1904年

※羽山好作 編, 相島亀三郎 校『 小学校に於ける科外教育の理論及実際 』明誠館、1911年

※長野県教育史刊行会 編『長野県教育史』第11巻 (史料編 5 明治19年-32年),長野県教育史刊行会,1976年

※同上『長野県教育史 第13巻 』(史料編 7 明治40年大正8年) 長野県教育史刊行会 1978年

伊那史学会『伊那』1978年11月号、1978年

深谷昌志「学歴主義と学校文化」日本教社会学会『教育社会学研究第38集』1983年
深谷昌志『子ども考現学福武書店、1985年