小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

コラム12 「学芸会」その2 明治末から大正・昭和初期

 明治 40 年以降になると、学芸会は儀式などの行事と同時に催され、保護者や学校関係者に日常の学習の成果を披露する行事として、確固とした地位を占めるようになってきます。(佐々木正昭「学校の祝祭についての考察:学芸会の成立」)
  明治末期から大正初期にかけては、西欧の近代的な教育思潮の影響もあり、それまでの形式的な学習成果の発表だけでなく、取り組みの進んだ学校においては「対話」、「問答」、「朗読」、「舞踊」なども次第に取り入れられるようになりました。

大正3年(1914)京都府師範学校付属小の「演技順序」
 「唱歌」「朗読」「談話」で構成されています。
佐々木正昭「学校の祝祭に関する考察:学芸会と唱歌」より)

■ 「学校劇」の登場と流行  

大正13年(1924)富山県清水町小学校の学芸会
八尾正治 編『写真集明治大正昭和富山 : ふるさとの想い出6』より

 後に学芸会の定番となる「学校劇」児童劇、童話劇などとも称される)は、大正7年(1918)に広島高等師範学校附属小学校(現・広島大学附属小学校)に赴任した小原国芳明治20年~昭和52年・1887- 1977、玉川学園の創立者)が、自らの実践をそのように命名したと言われています。

 

小原国芳(玉川学園ホームページより)

 

 

学校劇「天の岩戸」(玉川学園ホームページより)


児童文学者の巌谷小波(いわや さざなみ、明治3年~昭和8年・1870 - 1933)が、既に明治30年代後半から子どもたち自身が演じる「学校芝居」を提唱したこと、また、坪内逍遙安政6年~昭和10年・1859 - 19350、小説家・評論家・劇作家)が取り組んだ「児童劇運動」などが時代の背景にあってのこととされています。
 小原は成城小学校に移ってからも、「学校劇」に精力的な取り組みを見せました。折からの大正自由教育運動の波に乗って、この取り組みは全国に広まっていったのでした。

 大正9年(1920)に兵庫県社町立(現・加東市)福田尋常高等小学校を卒業した方が、「最後の学芸会の思い出」と題して、学芸会における劇の思い出をこう記されています。

(前略)三月の学芸会には郡内で初めての「少女歌劇 浦島太郎」を発表して大好評を受けました。ラジオもテレビもない時代の事ですから、今から思えば随分幼稚な事だったに違いありませんが、宝塚の少女歌劇の台本で、舞台、配役、扮装のすべてが、先生の指導で放課後の時間を幾日もかけて練習し、先生の予想よりも歌の下手な者もいて練習半ばで主役交代というような事もあり、それでも皆熱心に、時の経つのも忘れて練習に励みました。可愛らしく装った乙姫様、釣り竿を肩に腰蓑をつけた浦島太郎、すねまでの着物に藁草履を履き、亀の子をぶら下げた村の子供たち等、歌とともに幕が開き、また歌とともに幕を閉じる三幕四場の歌劇でしたが、全力を注いだ練習の甲斐あって、講堂一杯の観衆から、大きな拍手をいただいたときには、皆感激して胸の熱くなるのを覚えました。(後略) 卒業生 山口ふみ     (『開校百年のあゆみ』社町立福田小学校)


 こうして学芸会の中心は唱歌や談話、朗読から「学校劇」へと移り変わっていったのです。

 

■ 学校劇 ー学芸会の「人気者」から「日陰者」へー 

 瞬く間に全国的な広がりを見せ、学芸会の花形となった観があった「学校劇」でしたが、教育関係者からは根強い反対の声も強く、雑誌の特集になるほどでした。
 「演劇」(芝居)に対する差別や偏見は、明治以降も世間一般に見られたもので、大正10年以降においても、各地でその可否についての論議が行われていました。
 そんな中、大正13年(1924)8月に当時の岡田良平文部大臣により、いわゆる「学校劇禁止令」(訓令)が出されます。

 ただ、同年9月に出された文部次官通牒(「語学練習会等ニ於ケル演劇興行ニ近キ行為監督方」)によれば、 これは児童・生徒が華美な衣装や脂粉を身につけて演技し、それを一般の観客に見せるのを問題視して禁じたもので、普段の服装や学生服のままならかまわないという内容でした。

 その後、成城学園のような私立の小学校や師範学校付属小学校は別として、多くの公立小学校では、学芸会における劇の上演を自粛することとなり、「学校劇」は一気にその勢いを失いました。

 その後の状況は、「学校劇は、学芸会の『人気者』から、一転して『日陰者』になってしまった」と評されるほどでした。

 

 岡田文部大臣の訓示及び通牒によって、地域によっては一時自粛された学校劇は、早くも昭和2年(1927)には、教科書に掲載された「教材の劇化」という形で復活しはじめました。

小学唱歌に準拠した児童劇も登場(下はその目次)
(長谷山峻彦 著『学芸会用児童劇集 : 文部省小学唱歌準拠』より)

 その後、戦時中の一時期を除き、「学校劇」は学芸会にとっては、欠かせない魅力的なプログラムとして、長らく不動の地位を占め続けることになります。

 

【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション
佐々木 正昭「学校の祝祭についての考察 : 学芸会の成立」関西学院大学『人文論究 巻 57号1』2007年
佐々木 正昭「学校の祝祭についての考察 :学芸会と唱歌関西学院大学『人文論究 巻 58号1』2008年
佐々木 正昭「学校劇についての考察」関西学院大学『教育学論究 4号』2012年
佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館、1987年
唐沢富太郎『図説明治百年の児童史・上』講談社、1968年
福田小学校開校百周年記念誌編集委員会『開校百年のあゆみ』社町立福田小学校、1977年
※伊藤秀夫、佐々木渡、宮田丈夫編『明治図書講座学校行事 第1』明治図書出版、1959年
※日本学校劇連盟 編『学芸会の事典』国土社、1954年
※文部大臣官房文書課 編『文部省例規類纂』大正9-14年、文部大臣官房文書課、1926年

 ※八尾正治 編『写真集明治大正昭和富山 : ふるさとの想い出6』国書刊行会、1978年

※長谷山峻彦 著『学芸会用児童劇集 : 文部省小学唱歌準拠』大正書院、1930年

ブログ「粋なカエサル」より「江戸の寺子屋と教育」
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