名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。

田山花袋『田舎教師』⑤ 日露戦争下の小学校

   日露開戦、八日の旅順と九日の仁川とは急雷のように人々の耳を驚かした。紀元節の日には校門には日章旗が立てられ、講堂からはオルガンが聞こえた。(中略)交通の衝に当たった町々では、いち早く国旗を立ててこの兵士たちを見送った。停車場の柵内には町長だの兵事係りだの学校生徒だの親類友だちだのが集まって、汽車の出るたびごとに万歳を歓呼してその行をさかんにした。(四十四)

 

 

    戦争はだんだん歩を進めて来た。(中略)それがすむと、卒業証書授与式が行なわれた。郡長は卓の前に立って、卒業生のために祝辞を述べたが、その中には軍国多事のことが縷々(るる)として説かれた。「皆さんは記念とすべきこの明治三十七年に卒業せられたのであります。日本の歴史の中で一番まじめな時、一番大事な時、こういう時に卒業せられたということは忘れてはなりません。皆さんは第二の日本国民として十分なる覚悟をしなければなりません」平凡なる郡長の言葉にも、時世の言わせる一種の強味と憧憬とがあらわれて、聴く人の心を動かした。 (四十六)

 

 

    行田からの帰り途、長野の常行寺の前まで来ると、何かことがあるとみえて、山門の前には人が多く集まって、がやがやと話している。小学校の生徒の列も見えた。
  青葉の中から白い旗がなびいた。
  戦死者の葬式があるのだということがやがてわかった。清三は山門の中にはいってみた。白い旗には近衛歩兵第二連隊一等卒白井倉之助之霊と書いてあった。五月十日の戦いに、靉河(あいが)の右岸で戦死したのだという。フロックコートを着た知事代理や、制服を着けた警部長や、羽織袴の村長などがみな会葬した。村の世話役があっちこっちに忙しそうにそこらを歩いている。
  遺骨をおさめた棺は白い布で巻かれて本堂にすえられてあった。ちょうど主僧のお経がすんで知事代理が祭文を読むところであった。その太いさびた声が一しきり広い本堂に響きわたった。やがてそれに続いて小学校の校長の祭文がすむと、今度は戦死者の親友であったという教員が、奉書に書いた祭文を高く捧げて、ふるえるような声で読み始めた。その声は時々絶えてまた続いた。嗚咽する声があっちこっちから起こった。

 柩が墓に運ばれる時、広場に集まった生徒は両側に列を正して、整然としてこれを見送った。それを見ると、清三はたまらなく悲しくなった。(四十九)

 

 

 

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日露戦争出征列車、

ジャパンアーカイブズ - Japan Archives 日本の近現代史150年をビジュアルで振り返る

■ 文部省の訓令
 ロシアに対して宣戦布告した明治37年(1904)の3月10日、文部省は、戦争下における教育について訓令を出しました。
 それは「教育に従事する者は、戦争下といえども、平生の沈着なる態度を変えることなく、その職務を遂行すること、生徒をして、一勝一敗の報に接して常度を失することがないようにすること、生徒が課業をなげすてて、軍人の送迎をすることがないようにすること、生徒が父兄に強要して、献金をするようなことをしてはいけないこと、教員が出征した場合は同僚が応召者の職務を分担すること」などを指示したもので、学校教育が戦争の渦に巻込まれないようにとの配慮でした。文部大臣は、学校生徒の提灯行列を禁止したい旨の発言をもしたということです。
 しかし、戦争に対する一般の人々の熱狂は、学校生活にも影響を与えずにはいませんでした。上の訓令はほとんど守られないような実態がありました。

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日露戦争凱旋式・花畔〈ばんなぐろ〉尋常高等小学校校庭、「いしかり博物誌/第58回」、http://www.city.ishikari.hokkaido.jp/soshiki/bunkazaih/2783.html

■ 開戦直後の小学校では
 

 『兵庫県教育史』(1963)は日露開戦直後の出石郡(現在の豊岡市)弘道小学校の様子を紹介しています。(記録文体を易しく書き改めました)
  

(明治37年)
    2月10日 昨日朝鮮仁川沖において日露両国艦隊衝突し、ロシア艦2隻を撃沈したという速報が入り、児童を雨天体操場に集め、このことを伝えた。高等科の児童には日露外交の始末書について講話を行った。
 2月11日 紀元節の拝賀式
 午後2時から 運動場で出石町民の戦勝祝賀会が催された。
 2月12日 ロシアに対して宣戦の詔勅が発せられたという号外が出た。そこで高等科の児童に対して訓話を行った。
 2月16日 午前7時、児童招集規程により、課外招集を行い、神美村のうち宮内村の出石神社で行われる敵国降伏祈願臨時祭に参拝し、午前11時に帰校した。

   勉強など手に付かないほどの興奮状態が想像されます。
 一方、教員も夜間校区の各地区に出かけて、戦争講話会を開いたところがありました。
 その内容は次のとおりです。
 1 日露関係交渉始末  2 日清韓地図について説明  

 3 交戦以来の戦況 4 各国、特に英米の同情  

 5 国民の覚悟(軍費応募、勤倹貯蓄、余業の途)
   メディアの未発達の時代、小学校の先生たちは、(おそらく無報酬で)戦意高揚のために動員されていました。

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(戦争ごっこ「ジャパンアーカイブズ 」明治38年)

 

■ 軍資金の献納
 小学生たちは、出征軍人の見送り、慰問状の発送、軍人遺家族の慰問などと忙しかったのですが、教員もまた職員懇親会の費用を陸海軍に献金したり、多額の戦時国債を購入するなどして、国策に協力しています。

 

■ 教育費削減と二部授業
 莫大な戦費調達のために、教育費が削減されました。小学校では教員の整理が行われ、二部授業という変則的なスタイルを取ることになりました。
 まず、教員の整理ですが、兵庫県では明治37年(1904)に500名近い教員(全体の約12%)が退職を命じられています。
 その結果、一例として次のような授業形態とることとなりました。(当時、尋常小学校は4年制です)
   1年生・2年生(各1クラス)・・・午前中登校、
 3年生(2クラス)・・・午後登校
 (午前中に1・2年生を担当した教員が授業)
 4年生・・・午前登校で通常授業 
   こうした変則的な授業に対して、学校関係者は当然批判的な思いは持っていたことでしょうが、時局がら公然と声を上げることができないというのが実情であったようです。

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 (遼陽占領の号外、下野新聞

趣味あれこれ 「東京混声+神戸市混声」


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待ちに待ったこの演奏会❗️

草刈りは昼までに終えて、五時過ぎから出かけました。

東混は2年前に茨木市へ聴きに行って以来。

(神戸市混声は加東混声で「第9」をやったときに、賛助出演してもらいました。)

内容コメントは省略して、とにかくこの顔ぶれでS席4000円は安いです。

なにせ、東混といえば、この世界では最高峰ですから🗻(その昔、40年ほど前ですが、伊丹混声の指揮者、井上一朗氏が練習中に「東混みたいですね」と笑わせていたのを思い出しました)

指揮者も地方公演では音楽監督や常任ではない「えっ、誰?」みたいな若手の場合がありますが、さすがに神戸市混声30周年ということで、山田和樹(「平成のヤマカズ」とか)さんが振りました。なんとまだ40歳の若さ。

アンコールの二曲目、山田耕筰の「赤とんぼ」(松原千振氏指揮)を合同の60名あまりで演奏。

現在我が国で聴ける最高レベルの「赤とんぼ」でした😀

涙腺が緩んだ人も多かったのではないでしょうか。

なにせ、観客のほとんどが、高齢者ですから。(笑)

出演者のお見送りも意外でした。やはり時代ですかね😃

地下鉄の西神中央では構内でグランドピアノを弾いている女性が(曲目は不明)。これも流行りですかね😃
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田山花袋『田舎教師』④ 講習会と夏休み

 ■ 教員講習会

 次の土曜日には、羽生の小学校に朝から講習会があった。校長と大島と関と清三と四人して出かけることになる。大きな講堂には、近在の小学校の校長やら訓導やらが大勢集まって、浦和の師範から来た肥った赤いネクタイの教授が、児童心理学の初歩の講演をしたり、尋常一年生の実地教授をしてみせたりした。教員たちは数列に並んで鳴りを静めて謹聴している。志多見という所の校長は県の教育界でも有名な老教員だが、銀のような白い髯をなでながら、切口上で、義務とでも思っているような質問をした。肥った教授は顔に微笑をたたえて、一々ていねいにその質問に答える。十一時近く、それがすむと、今度は郁治の父親や水谷というむずかしいので評判な郡視学が、教授法についての意見やら、教員の心得についての演説やらをした。梅雨は二三日前からあがって、暑い日影はキラキラと校庭に照りつけた。扇の音がパタパタとそこにも、ここにも聞こえる。女教員の白地に菫色の袴が眼にたって、額には汗が見えた。成願寺の森の中の蘆荻(ろてき)はもう人の肩を没するほどに高くなって、剖葦(よしきり)が時を得顔(えがお)にかしましく鳴く。
    講習会の終わったのはもう十二時に近かった。詰襟の服を着けた、白縞の袴に透綾の羽織を着たさまざまの教員連が、校庭から門の方へぞろぞろ出て行く。
(中略)
  「湯屋で、一日遊ぶようなところができたって言うじゃありませんか、林さん、行ってみましたか」校門を出る時、校長はこう言った。
  「そうですねえ、広告があっちこっちに張ってありましたねえ、何か浪花節なにわぶしがあるって言うじゃありませんか」
  大島さんも言った。
  上町の鶴の湯にそういう催しがあるのを清三も聞いて知っていた。夏の間、二階を明けっ放して、一日湯にはいったり昼寝でもしたりして遊んで行かれるようにしてある。氷も菓子も麦酒も饂飩(うどん)も売る。ちょっとした昼飯ぐらいは食わせる準備したくもできている。浪花節も昼一度夜一度あるという。この二三日梅雨があがって暑くなったので非常に客があると聞いた。(中略)
  「どうです、林さんに一つ案内してもらおうじゃありませんか。ちょうど昼時分で、腹も空いている……」
  校長はこう言って同僚を誘った。みんな賛成した。
   (中略)
 やがて校長の顔も大島さんの顔もみごとに赤くなる。
   「講習会なんてだめなものですな
  校長の気焔がそろそろ出始めた。
  大島さんがこれに相槌をうった。各小学校の評判や年功加俸の話などが出る。郡視学の融通のきかない失策談が一座を笑わせた。けれど清三にとっては、これらの物語は耳にも心にも遠かった。年齢が違うからとはいえ、こうした境遇にこうして安んじている人々の気が知れなかった。かれは将来の希望にのみ生きている快活な友だちと、これらの人たちとの間に横たわっている大きな溝を考えてみた。
   「まごまごしていれば、自分もこうなってしまうんだ!」
  この考えはすでにいく度となくかれの頭を悩ました。(十五)

 

 

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(初版本口絵、https://shakaigaku.exblog.jp/i7/


 夏休みをひかえた7月のある土曜日に、地域の中心地である羽生で行われた教員講習会の様子を描いた場面です。
 当時は今のような教育委員会制度がありませんから、こうした講習会を開いていたのは郡当局と郡の教育会だったと思われます。
 講演や講義と授業参観、その後の研究協議、質疑応答といったパターンは現代の研修会にもよく見られるものです。
 お酒が入っているとは言え、校長自らが「講習会なんてだめなものですな」と言い始めるあたりに、いわゆる官製講習会の形式主義なところが批判的に描かれてます。
  ちなみに、「浦和の師範から来た肥った赤いネクタイの教授が・・・」というところがありますが、師範学校は昭和18年(1943)に専門学校程度に格上げされるまでは、長らく「中等学校」でしたから、正しくは「教授」ではなくて「教諭」と称すべきでした。
   この場面で面白いのは、窮屈で退屈な(?)講習会の後、教員たちが「上町の鶴の湯」の二階でリラックスしてくつろぐ様子です。皮肉にも、講習の内容よりもこうした場面でのやりとりが長く記憶に残ったりするものです(笑)

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(明治37年発行の「学校管理法教科書」)

 

   ■ 夏休み

 七月はしだいに終わりに近づいた。暑さは日に日に加わった。(中略)
 学校では暑中休暇を誰もみんな待ちわたっている。暑い夏を葡萄棚の下に寝て暮らそうという人もある。浦和にある講習会へ出かけて、検定の資格を得ようとしているものもある。旅に出ようとしているものもある。東京に用足しに行こうと企てているものもある、月の初めから正午(ひるぎり)になっていたが、前期の日課点を調べるので、教員どもは一時間二時間を教室に残った。それに用のないものも、午(ひる)から帰ると途中が暑いので、日陰のできるころまで、オルガンを鳴らしたり、雑談にふけったり、宿直室へ行って昼寝をしたりした。(中略)
  三十日の学課は一時間で終わった。生徒を集めた卓テーブルの前で、「皆さんは暑中休暇を有益に使わなければなりません。あまりに遊び過ごすと、せっかくこれまで教わったことをみんな忘れてしまいますから、毎日一度ずつは、本を出してお復習(さらえ)をなさい。それから父さん母さんに世話をやかしてはいけません。桃や梨や西瓜(すいか)などをたくさん食べてはいけません。暑いところを遊んで来て、そういうものをたくさんに食べますと、お腹(なか)をこわすばかりではありません。恐ろしい病気にかかって、夏休みがすんで、学校に来たくッても来られないようになります。よく遊び、よく学び、よく勉めよ。本にもそう書いてありましょう。九月の初めに、ここで先生といっしょになる時には、誰が一番先生の言うことをよく守ったか、それを先生は今から見ております」こう言って、清三は生徒に別れの礼をさせた。お下げに結った女生徒と鼻を垂たらした男生徒とがぞろぞろと下駄箱のほうに先を争って出て行った、いずれの教室にも同じような言葉がくり返される。女教員は菫色の袴をはっきりと廊下に見せて、一二、一二をやりながら、そこまで来て解散した。校庭には九連草の赤いのが日に照らされて咲いていた。紫陽花の花もあった。(十七)

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(准教員免許状 期限付きとなっています)

 

 7月に入ると午前中の短縮授業が行われていました。中には普段よりも1時間以上早く7時始業という学校もあったようです。
 30日が(描かれていませんが)一学期の終業式です。表現は違いますが、いつの時代も夏休みの生活についての注意内容は同じようなものですね。
 さて、この「夏休み」ですが、昔は「暑中休暇」「暑中休業」「夏季休暇」「夏季休業」「暑休」など様々な呼び方がありました。
   夏期休暇制度が小学校に普及していったのは、学制期後半の明治10年(1877)頃と言われています。
    期間(日数)ですが、当初はお盆の頃の7~10日程度のところが多かったようです。
ただ、地方によって、また学校によって期間、日数は様々でした。
 文部省は明治14年(1881)の「小学校教則綱領」第7条において「小学校二於テハ日曜日,夏季冬季休業日及大祭日,祝日等ヲ除クノ外授業スへキモノトス」と規定しました。これが「夏期休暇」が全国的な法制度上で明示された最初のものでした。(現在は設置者である市町村教育委員会の規則で定められています)
    作品の時代背景である明治30年代半ば頃には、北日本は別にして、8月いっぱいを夏休みとしていたところが多かったようです。
    現在よりも10日程度少ないわけですが、農村地域では「農繁休暇」といって、田植え時期にも一週間ほどの休業期間がありました。(戦後もしばらくは残っていました)

 ここで一つ注目すべきは、「浦和にある講習会へ出かけて、検定の資格を得ようとしているものもある。」という部分です。
 師範学校出の正教員の少なかった当時、准教員や代用教員は検定試験を受けるための講習会に参加していたのでした。
 師範学校の教員が講師となって実施される講習会に参加することは、府県毎に実施されていた小学校教員検定試験に合格するためには必要なことだったのです。
    校長から検定試験受験を勧められながら、    「一生小学校教員で終わるつもりはない」と考えている清三には無縁の講習会でしたが、一般的にはキャリアアップにつながる大切な機会でした。

#  授業時間の確保、エアコンの普及等の理由で、夏休みの日数は年々短縮傾向にあります。

   教員のほうも、補習授業、三者面談、部活指導(試合、合宿)、研修等でやはり年々多忙になっています。

    就職したての40年ほど前には、夏休み全く顔を見せないベテランの先生もいたりしました。それを「古き良き時代」と言っていいのかどうか・・・・?

田山花袋『田舎教師』③ 天長節

 

 天長節には学校で式があった。学務委員やら村長やら土地の有志者やら生徒の父兄やらがぞろぞろ来た。勅語の箱を卓テーブルの上に飾って、菊の花の白いのと黄いろいのとを瓶にさしてそのそばに置いた。女生徒の中にはメリンスの新しい晴れ衣を着て、海老茶色の袴をはいたのもちらほら見えた。紋付を着た男の生徒もあった。オルガンの音につれて、「君が代」と「今日のよき日」をうたう声が講堂の破れた硝子をもれて聞こえた。それがすむと、先生たちが出口に立って紙に包んだ菓子を生徒に一人一人わけてやる。生徒はにこにこして、お時儀をしてそれを受け取った。ていねいに懐にしまうものもあれば、紙をあげて見るものもある。中には門のところでもうむしゃむしゃ食っている行儀のわるい子もあった。あとで教員連は村長や学務委員といっしょに広い講堂にテーブルを集めて、役場から持って来た白の晒布をその上に敷いて、人数だけの椅子をそのまわりに寄せた。餅菓子と煎餅とが菊の花瓶の間に並べられる。小使は大きな薬罐に茶を入れて持って来て、めいめいに配った茶碗についで回った。(二十三)

 

 

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祝祭日の学校の風景 ー教育勅語奉読ー
(『風俗画報』64号明治24年https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/1310305200/1310305200100210/ht002020

  

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(海老茶色の袴、女学校生徒の定番スタイルでした

 

■ 祝祭日儀式の意味

 天長節というのは天皇誕生日のことです。明治天皇の誕生日は11月3日でした。
 元日の「四方拝」、2月11日の「紀元節」と合わせて「三大節」と言いました。(昭和に入ると4月29日が天長節で、11月3日の「明治節」を加えて四大節と称すようになります。)

  こうした「祝祭日の学校儀式」の内容・次第は文部省令に定められていました。
 本作品の当時は、明治33年(1900)の「小学校令施行規則」に次のような規程がありました。  

 

第二十八条 

紀元節天長節及一月一日ニ於テハ職員及児童、学校ニ参集シテ左ノ式ヲ行フヘシ
一 職員及児童「君カ代」ヲ合唱ス
二 職員及児童ハ天皇陛下皇后陛下ノ御影ニ対シ奉リ最敬礼ヲ行フ
三 学校長ハ教育ニ関スル勅語ヲ奉読ス
四 学校長ハ教育ニ関スル勅語ニ基キ聖旨ノ在ル所ヲ誨告ス
五 職員及児童ハ其ノ祝日ニ相当スル唱歌ヲ合唱ス      (後略)

 

 「『君が代』と『今日のよき日』をうたう声が・・・・」とあります。

 この『今日のよき日』というのは、明治26年(1893)に文部省が公布した『祝日大祭日唱歌のうちの 天長節のことです。

天長節

作詞:黒川真頼 (くろかわ まより)
作曲:奥好義 (おく よしいさ)
音楽:東京音楽学校(現在の東京芸術大学音楽学部)生徒

今日のよき日は 大君の
うまれたまひし よき日なり

今日のよき日は みひかりの
さし出でたまひし よき日なり

ひかりあまねき 君が代
いわへもろ人 もろともに

めぐみあまねき 君が代
いはへもろ人 もろともに
    

 

天長節の歌 12月23日 / 祝日大祭日唱歌八曲

 

 祝祭日の学校儀式はなかなか定着しなかったようで、その実態について佐藤秀夫『学校ことはじめ辞典』は次のように述べています。

 教育勅語発布の翌年1891(明治24)年、それまで単なる休日だった祝祭日当日に教職員・児童を登校させ、御真影への拝礼、教育勅語の奉読、祝祭日の意義についての校長訓話、式歌斉唱などの式目からなる、荘重な学校儀式を挙行することとし、翌92年4月から実施させた。ところが、親たちの理解を得られぬままの当初の実施の結果はまことに惨憺たるもので、当日の子どもの出席は「平日ノ五分ノ一ニモ充タサル」ありさまだった。そこで学校側は、式終了後に紅白のお菓子屋餅を配って子どもの歓心をそそるようにした・・・・(後略)

 

■ 伴奏はオルガンで

 知りませんでしたが、単に「オルガン」というと、それは「パイプオルガン」を指すのだということです。
 その昔、小学校の教室にあったあの「足踏みオルガン」は、リードオルガン」( Reed Organ)が正式な名称です。   
 

 わが国では、明治の初めにまず来日したのはキリスト教の宣教師。外国製のリードオルガンを多数持ち込んで、宣教活動に使用しました。

     明治20年代から師範学校に、以後徐々に公立学校にも導入されていきましたが、早い時期にオルガンを導入できたところはほとんどが一般からの寄附に頼っていたと言われています。

 

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 一方、ピアノは格段に高価な楽器で(価格はオルガンの約20倍とも)、とても地方の 小学校ではお目にかかれない代物でした。   
     

 最後に「天長節」と「オルガン」の出てくる小説の一節を挙げておきます。

    『光り合ういのち』は作者・倉田百三の自伝的小説です。

    倉田百三は明治24年(1891)生まれですから、明治30年代半ば頃の小学校時代を回想しての文章と思われます。      

 
  私はその頃の天長節のことを忘れることが出来ない。それは十一月三日、明治天皇天長節で、恰度菊の盛りの頃にあった。私は礼装して式場に並ぶのが大好きだった。荘重なオルガンのクラシカルな音。女の子の美しい、高い声での唱歌。厳かな勅語捧読、最敬礼、菊の紋章のついたお菓子を貰って、その日はお休みだ。菊の薫りのように徳の薫りが漂うていた。記念の清書が張り出される。私はいつも一等賞だ。徳と美との雰囲気の中に学びの道にいそしむのは何という幸福であったろう!

倉田百三「光り合ういのち」(昭和15年:1940)

田山花袋『田舎教師』② 郡視学

 

 郁治の父親は郡視学であった。(中略)
  家が貧しく、とうてい東京に遊学などのできぬことが清三にもだんだん意識されてきたので、遊んでいてもしかたがないから、当分小学校にでも出たほうがいいという話になった。今度月給十一円でいよいよ羽生(はにゅう)在の弥勒(みろく)の小学校に出ることになったのは、まったく郁治の父親の尽力の結果である。(一)

 

 

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(「受け継がれる 羽生の歴史と文化」

http://www.citydo.com/prf/saitama/hanyu/citysales/02.html

 

 郡視学といえば、田舎ではずいぶんこわ持てのするほうで、むずかしい、理屈ぽい、とりつきにくい質(たち)のものが多いが、郁治の父親は、物のわかりが早くって、優しくって、親切で、そして口をきくほうにかけてもかなり重味があると人から思われていた。鬚はなかば白く、髪にもチラチラ交じっているが、気はどちらかといえば若いほうで、青年を相手に教育上の議論などをあかずにして聞かせることもあった。(六)

 

 「郡視学」という言葉は知らなくても、文脈から地方の教育行政官であって、地元教育界ボス的な存在なのではという推測はできます。
 また、この作品では主人公の就職の口利きをしたということから、教員人事にも権限をもつ存在だったこともうかがえますが、一応事典の説明を挙げておきます。

 

    学事に対する指導監督のための旧制度。 1886年から文部省に視学官 (督学官,教学官など時代により異なる) ,90年から地方に視学官,視学,郡視学などがおかれ,学事視察,教育内容面の指揮監督,教員の転免などを司り,監督行政の性格を強くもっていた。第2次世界大戦後は文部省に視学官,地方の教育委員会に指導主事がおかれ,いずれも教育の指導助言を職務とするよう改められた。(「ブリタニカ国際大百科事典」)

    「視学」を説明した文章の中には、「今日の指導主事に相当する」というような文言を含むものもあります。
 しかし、 戦前の「視学」が教育内容と教育人事・身分を権力的に監督したのに対し,指導主事はあくまでも教員に助言と指導を行うという点で大きな違いがあります。

 
  

 国立教育政策研究所「我が国の学校教育制度の歴史について 」というレジュメが、その当時の地方教育行政の仕組みを分かりやすくまとめています。

○府県の役割・権限
・教育事務に関する国の機関として、主務大臣である文部大臣の指揮監督を受けてそれぞれの管轄区域内における教育行政を行う。
・設置者として道府県立学校を管理
・郡視学の任命

○府県の機関
・地方長官(府知事・県令)
・学務課長(内務部第三課):地方長官の補助機関
・視学官:上官の命を承け学事の視察そのほか学事に関する事務を掌る。
内務部第三課長を兼務
・視学:上官の指揮を承け学事の視察そのほか学事に関する庶務に従事
する。(県内2~3人)
   イ)郡
○郡の役割・権限
・府県知事の指揮監督を受けてその郡内の教育行政事務について町村
長を指揮監督
○郡の機関
・郡長
・郡視学:郡長の補助機関。地方長官が任命
ウ)市町村
○市町村の役割・権限
・国からの委任事務として教育事務を担当
・小学経費は市町村の負担

○市町村の機関
・市町村長
・学務委員:教育事務に関する市町村長の意見聴取機関
地方の名望家、学校の教員から市町村長が任命
10人以下(東京市のみは15人以下)

http://www.nier.go.jp/04_kenkyu_annai/.../kenkyu_01.pdf

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 (明治42年の「埼玉県学事関係職員録」
県には内務部長→学務課長→視学(2名)ほかの名前が挙がっています。)

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(郡では郡長→郡視学ほかの名前が挙がっています。)

 

 最後に、明治時代の小学校を描いた作品から、郡視学が出てくる場面を二つ挙げてみます。

 

 石川啄木  『葉書』 
  

 校長の門まで出て行く後姿が職員室の窓の一つから見られた。色の変つた独逸帽を大事さうに頭に載せた格好は何時見ても可笑しい。そして、何時でも脚気患者のやうに足を引擦つて歩く。甲田は何がなしに気の毒な人だと思つた。そして直ぐ可笑しくなつた。かまし屋の郡視学が巡つて来て散々小言を言つて行つたのは、つい昨日のことである。視学はその時、此学校の児童出席の歩合は、全郡二十九校の中、尻から四番目だと言つた。畢竟これも職員が欠席者督促を励行しない為だと言つた。その責任者は言ふ迄もなく校長だと言つた。好人物おひとよしの田辺校長は『いや、全くです。』と言つて頭を下げた。それで今日は自分が先づ督促に出かけたのである。
           初出「スバル 第十号」
    1909(明治42)年10月1日号

 

 島崎藤村『破戒』第二章 一
  

 校長は応接室に居た。斯(こ)の人は郡視学が変ると一緒にこの飯山へ転任して来たので、丑松や銀之助よりも後から入つた。学校の方から言ふと、二人は校長の小舅にあたる。其日は郡視学と二三の町会議員とが参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許づゝ観た。郡視学が校長に与へた注意といふは、職員の監督、日々の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する『トラホオム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件ことであつた。応接室へ帰つてから、一同雑談で持切つて、室内に籠る煙草の烟(けぶり)は丁度白い渦のやう。茶でも出すと見えて、小使は出たり入つたりして居た。
  斯(こ)の校長に言はせると、教育は則ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。(中略)
 是の主義で押通して来たのが遂に成功して――まあすくなくとも校長の心地だけには成功して、功績表彰の文字を彫刻した名誉の金牌を授与されたのである。
   1906(明治39)年3月25日

  中央集権的な教育行政の末端にあって、官僚的・形式主義的な監督をおこなっていた郡視学と唯々諾々としてそれに従う校長の姿が、一青年教師の視点から批判的に描かれています。

 よく知られていることですが、20歳の啄木(石川一)は明治39年(1906)4月から1年間、母校の渋民尋常高等小学校(学歴は盛岡中学校中退、月給8円)で、さらに明治40年6月から8月まで、函館区立弥生尋常小学校で、代用教員として勤務したことがありました。

田山花袋『田舎教師』① モデル小林秀三のこと

 

 作品の名前はよく知られていても、読まれた方はそう多くないでしょうから、作品と作者の解説文、それに冒頭部分を挙げておきたいと思います。

 日露戦争に従軍して帰国した花袋は,故郷に近い羽生で新しい墓標を見つける。それは結核を病んで死んだ一青年のものであった.多感な青年が貧しさ故に進学できず,代用教員となって空しく埋もれてしまったことに限りない哀愁を感じ,残された日記をもとに,関東の風物を背景にして『田舎教師』を書き上げた。 (岩波文庫・解説 前田 晁)

 

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 田山花袋、明治4~昭和5年:1871~1930、
 明治4年12月13日生まれ。江見水蔭の門下。明治32年博文館に入社。「重右衛門の最後」,評論「露骨なる描写」をかき,平面描写を主張。39年「文章世界」の主筆となり,自然主義運動をすすめる。40年発表の「蒲団」はのちの私小説の出発点となった。昭和5年5月13日死去。60歳。群馬県出身。本名は録弥。代表作はほかに田舎教師「百夜」など。

(デジタル版 日本人名大辞典+Plus、https://kotobank.jp/word/%E7%94%B0%E5%B1%B1%E8%8A%B1%E8%A2%8B-18832

 

(冒頭部分)

 

  一
  四里の道は長かった。その間に青縞(あおじま)の市のたつ羽生(はにゅう)の町があった。田圃にはげんげが咲き、豪家の垣からは八重桜が散りこぼれた。赤い蹴出(けだし)を出した田舎の姐さんがおりおり通った。
  羽生からは車に乗った。母親が徹夜して縫ってくれた木綿の三紋の羽織に新調のメリンスの兵児帯(へこおび)、車夫は色のあせた毛布(けっと)を袴の上にかけて、梶棒を上げた。なんとなく胸がおどった。
  清三の前には、新しい生活がひろげられていた。どんな生活でも新しい生活には意味があり希望があるように思われる。五年間の中学校生活、行田から熊谷まで三里の路を朝早く小倉服着て通ったことももう過去になった。卒業式、卒業の祝宴、初めて席に侍る芸妓なるものの嬌態にも接すれば、平生むずかしい顔をしている教員が銅鑼声(どらごえ)を張り上げて調子はずれの唄をうたったのをも聞いた。一月二月とたつうちに、学校の窓からのぞいた人生と実際の人生とはどことなく違っているような気がだんだんしてきた。

 

⬛️ モデルとなった小林秀三

 

 「貧しさ故に進学できず,代用教員となって」、「結核を病んで死んだ一青年」とありますが、この主人公・林清三のモデルとなったのは小林秀三(こばやし ひでぞう)でした。

 「熊谷デジタルミュージアム」(http://www.kumagaya-bunkazai.jp/museum/ijin/kobayasihidezou.htm)には次のような説明があります。

 

 小林秀三
   栃木県足利市生まれ。9歳の時熊谷に移り住む。熊谷中学(現熊谷高校)第2回卒業生で、夏目漱石『坊ちゃん』のモデル弘中又一が熊谷中学に赴任して最初に卒業した教え子の一人。卒業後は北埼玉郡弥勒小学校の代用教員となり、羽生町(現羽生市)の建福寺に移り住み、「四里の道は長かった」で始まる『田舎教師』の通勤が始まった。明治37年9月22日21歳で没す。

 

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(「田舎教師」-羽生市田山花袋を文学散歩#1 http://www5e.biglobe.ne.jp/~elnino/Folder_DiscoverJPN/Folder_East/JPN_SaitamaHanyu.htm

 

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田舎教師の像、 http://kiku-saita-2525.my.coocan.jp/tiisanatabi-inkakyousi-kenpukuji.htm

 

⬛️ 中学卒業生の進路

 

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https://www.sankei.com/life/news/180325/lif1803250025-n1.html

 ある日曜日の午後に、かれは小畑と桜井と連れだって、中学校に行ってみた。(中略)当直室で一時間ほど話した。同級生のことを聞かれるままその知れるかぎりを三人は話した。東京に出たものが十人、国に残っているものが十五人、小学校教師になったものが八人、ほかの五人は不明であった。(十三)

  上の写真は埼玉県立熊谷中学校第2回卒業生の卒業記念写真です。

 入学時は112名であった同期生ですが、卒業時には47名となっていました。しかし、当時の中学校では珍しいことではありません。

 同期の進路については、「明治38年埼玉県立熊谷中学校一覧」に「卒業生名簿」と「卒業生就業別一覧表」が掲載されています。

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 秀三を含めて既に4名が亡くなっていました。

 

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 秀三たち熊谷中学校第2回生が卒業して5年後の卒業生の現況が一覧にありました。6名が小学校教員となっています。
  これらの人たちは、この時点ではまだ代用教員だったのではないでしょうか。

 進路状況をみると、同校は相当にレベルの高い中学校であったと思われます。

 

⬛️   弥勒の小学校

 弥勒(みろく)まではそこからまだ十町ほどある。
  三田ヶ谷村といっても、一ところに人家がかたまっているわけではなかった。そこに一軒、かしこに一軒、杉の森の陰に三四軒、野の畠はたの向こうに一軒というふうで、町から来てみると、なんだかこれでも村という共同の生活をしているのかと疑われた。けれど少し行くと、人家が両側に並び出して、汚ない理髪店、だるまでもいそうな料理店、子供の集まった駄菓子屋などが眼にとまった。ふと見ると平家造りの小学校がその右にあって、門に三田ヶ谷村弥勒高等尋常小学校と書いた古びた札がかかっている。授業中で、学童の誦読の声に交まじって、おりおり教師の甲走(かんばし)った高い声が聞こえる。埃(ほこり)に汚れた硝子窓には日が当たって、ところどころ生徒の並んでいるさまや、黒板やテーブルや洋服姿などがかすかにすかして見える。出はいりの時に生徒でいっぱいになる下駄箱のあたりも今はしんとして、広場には白斑(しろぶち)の犬がのそのそと餌をあさっていた。(二)

 

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 明治42年7月現在の「埼玉県学事関係職員録」中の北埼玉郡の一部です。

 秀三の勤めた弥勒尋常高等小学校は、その年の春(前年度末)に廃校になっていました。

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弥勒高等小学校跡の説明板、http://www5e.biglobe.ne.jp/~elnino/Folder_DiscoverJPN/Folder_East/JPN_SaitamaHanyu.htm
 この職員録を見ると、どの学校も教員数が少ないように思われます。どうも、代用教員は掲載されていなかったようです。

 なお、氏名の上の「五下」とか「六上」は給料表の等級を表しています。訓導(現在の教諭)兼校長でも24円から30円程度の月給であったことがわかります。

 ちなみに、代用教員である主人公・林清三の月俸は十一円となっています。

 

 

 

#   普通、「尋常高等小学校」というのかと思っていましたが、作中には「高等尋常小学校」とあります。

    どちらが正しいのでしょうか⁉️

 

正宗白鳥 『入江のほとり』③ 英語の独学

   

 広い机の上には、小学校の教師用の教科書が二三冊あって、その他には「英語世界」や英文の世界歴史や、英文典など、英語研究の書籍が乱雑に置かれている。洋紙のノートブックも手許に備えられている。彼れは夕方学校から帰ると、夜の更けるまで、めったに机のそばを離れないで、英語の独学に耽るか、考えごとに沈んで、四年五年の月日を送ってきた。(中略)
    「風が吹けば浪が騒ぎ、潮が満ちれば潟が隠れる。漁船は年々殖えて魚類は年々減りつつあり。川から泥が流れでて海はしだいに浅くなる。幾百年の後にはこの小さな海は干乾からびて、魚の棲家には草が生えるであろう。……」こんな自作の文章を、辞書を繰っては、いちいち英字で埋めて行った。以前二三度英語雑誌へ宿題を投書したことがあったが、一度も掲載されなかったので、今はまったくそんな望みを絶って、ただ自作の英文は絹糸で綴じた洋紙の帳簿に綺麗に書留めておくに止めている。自分ながら初めの方のに比べると、文章はしだいに巧みになっているような気がする。熟語などもおりおり使われるようになった。
   「独学で何年やったって検定試験なんか受けらりゃしないぜ。ほかの学問とは違って語学は多少教師について稽古しなければ、役に立たないね」
 「………」辰男は黙って目を伏せた。
 

 

 ■ 変則英語の独学 
    東京から帰った長男の栄一(モデルの作者・白鳥は東京専門学校ー後の早稲田大学ーで英文学を修めていました)が辰男に言った言葉は、ここ数年にわたる英語独学が全く成果のないものであることを、兄として少し厳しめに言った内容になっています。
 

  「今お前の書いた英文をちょっと見たが、まるでむちゃくちゃでちっとも意味が通っていないよ。あれじゃいろんな字を並べてるのにすぎないね。三年も五年も一生懸命で頭を使って、あんなことをやってるのは愚の極だよ。発音の方はなおさら間違いだらけだろう。独案内の仮名なんか当てにしていちゃだめだぜ」

 

 きっかけや目的は不明ですが、辰男は辞書や参考書を買い揃え、雑誌「英語世界」(博文館、明治四〇年四月~大正七年一二月)を購読しながら、以前は英作文の「宿題」にも応募していたことなどが描かれています。
 「発音の方はなおさら間違いだらけだろう。独案内の仮名なんか当てにしていちゃだめだぜ」とあります。

  この部分からは、辰男の英語学習が全くの「変則」であることがわかります。
 この「変則」「正則」と対立する概念です。明治時代の英語教育を知る上でのキーワードと言ってよいでしょう。

 百科事典の説明を挙げてみます。
   

 当時の英語学習は,英語を介して西欧事情に通じ,西欧の学問,知識を吸収するのが目的であったから(しかもそれも書物によらざるを得なかった),したがってその教授・学習法は訳解が中心で,ちょうど漢文の〈返り点・送りがな〉方式に似ていた(このやり方はのちに変則英語教育と呼ばれた)。
 明治中期には,神田乃武(ないぶ),斎藤秀三郎,外山正一らによって,発音・会話と直読直解を重視する正則英語教育が唱えられ,正則英語学校の開設(明治29年・1896)や,外山の《正則文部省英語読本》とその解説書の発刊を見た。(「変則英語教育」平凡社『世界大百科事典』 第2版)*傍線は筆者

  このように、「変則英語」は、発音を重視しない学習法であったために、学習者の英語読みの中には惨憺たるものがあったといいます。
 たとえば(「時には」の意の)sometimes、(「隣人」の意の)neighborはそれぞれ「ソメチメス」「ネジボー」と読まれたということです。

 

■ 雑誌「英語世界」と南日恒太郎

 辰男が購読していた「英語世界」という雑誌は、地方にいながら独学で英語を修めようとする若者や、あるいは上京して上級学校へ入ろうとする受験生のニーズに応えようとしたものでした。

 この雑誌は旧制高等学校を始めとする高等教育機関の合格者や現職の教員たちを寄稿者として擁し、「独学」に関する記事をしばしば掲載していました。 
 

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 中でも実際に「独学」で成功を収めた存在として有名だったのは学習院教授・南日恒太郎(なんにち つねたろう)でした。(出木良輔「『変人』あるいは〈田舎教師〉の『幸福』― 正宗白鳥「『入江のほとり』と『独学』の時代 ―」)
    明治4年(1871)生まれの南日は富山中学校を中退後、明治29年(1896)に文部省の教員検定試験(文検)の英語科に「独学」で合格(明治26年に国語科にも合格しています)、東京正則英語学校や第三高等学校を経て学習院で教員を務めた人物です。

 晩年は大正12年(1923)、故郷に設立された富山高等学校(現在の富山大学)の校長も務めました。

   

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 (南日恒太郎・明治4~昭和3年:1871~1928)

 

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    南日の『英文解釈法』や『和文英訳法』は「明治のベストセラー参考書」と言われるぐらいに有名でした。
    南日は「英語世界」の中で、「独学」時代に読んだ書籍や雑誌、さらにはそれらを利用した「独学」の方法も紹介していました。
    地方在住の「独学青年」たちにとっては、南日はカリスマ的な存在だったと言えるでしょう。

    出版社は南日を「広告塔」に利用していたという見方もできますね。

 

# ほんとうに久しぶりに白鳥全集を本棚から取り出しました。
色々と読み返すうちに、赤穂線に乗って備前のあたりを散策してみたいなと思うようにもなりました。

 

 

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(穂浪漁港遠望、https://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2013-03-09