小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

「東京少年」⑥ 勤労動員 初めての田植え

    総力戦のさなかなので、田植えにも、中学生の総力を結集する、と教師が宣言した。ぼくたちは割り当てられた高田市周辺の農家に二人ずつ泊まりこんだ。
 曽我といっしょだといいと思っていたが、選ばれた相手は色が黒く、たくましい別の少年だった。
 数日とはいえ、他人と起居をともにするのは堪えがたい。学校で顔を合わせている分には知らずにすむ、お互いのいやな面や欠点を、否応なしに見る羽目になる。いずれにしろ、ろくなことはない。
 ぼくは〈軽い肺炎〉にでもなれたら、と思った。泊まりこみを避ける方法は、それくらいしかない。まあ、頭痛でもいいのだが。
 病気を装わなかったのは、総力戦に協力しない、と指弾されるのを恐れたからだった。埼玉の山の中で叩き込まれたふるまい方が本能的に働いた。
 赤茶けていたるところが擦り切れた畳の上で、ぼくは、見知らぬ中年の農民夫婦、同級生と生活することになった。(中略)
 ぼくが醜態を演じたのは,翌日の田植えの時だった。苗を左手に持って、後ずさりしながら植えてゆくのだが、水田の泥をまさぐる脚に奇妙な感覚がある。かゆいのでも、いたいのでもないが、どうもおかしい。
 泥から引き抜いてみると、黒いものがもぐさのように幾つも臑(すね)に付着している。驚いて畦(あぜ)に上り、とり去ろうとしたが、足を振ったぐらいでは落ちなかった。
 ようやく蛭(ひる)らしいことに気づいた。(中略)
  「われ、なにしてんだ。そんな田植えがあるか!」
 向こうで、同級生が苗を手にしたまま、ぼくを睨んでいた。
「だって・・・・蛭が血を吸うから・・・・」
「ボケ!蛭のいない田んぼがあるかや」
 相手が〈おまん(きみ)ではなく、〈われ(てめえ)〉呼ばわりしたのも、ぼくを傷つけた。が、そういう呼び方をした相手の気持ちもわからぬではない。
 涙がこみ上げてきた。ぼくは戦争という網に捕らえられた小さな鳥に過ぎない。どうしようもない。この泥の中から逃れることができないのだ。ただ情けなくて、ぼくは涙を流した。
  (14 その前夜)

f:id:sf63fs:20210916151012j:plain

軍需工場への学徒動員 (東京・練馬) 「一般戦災ホームページ」 https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/virtual/photo/edogawaku_02.html

f:id:sf63fs:20210916151442j:plain

宇都宮実業学校の生徒による田植え
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11E0/WJJS06U/0938605100/0938605100100020/ht002960
高根沢町史 通史編Ⅱ 第四章 昭和恐慌と戦争の時代 四節 戦時下の村政と村民生活

■ 学徒動員体制の強化

   学徒勤労動員(学徒動員)とは、働き盛りの男性が出征したために生じた農村や工場の労働力不足を補うため、強制的に進められた学生や生徒(学徒)の動員のことです。
 太平洋戦争開戦以前から終戦までの学徒動員体制が強化されていく過程を、文部省(当時)の『学制百年史』の「戦時教育体制の進行」をもとにまとめてみました。  

※下線は筆者

昭和13年(1938)6月
 「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」
 作業実施期間は、夏季休暇の始期終期その他適当な時期において、中等学校低学年は三日、その他は五日を標準とし、農事・家事の作業・清掃・修理・防空施設や軍用品に関する簡易な作業・土木に関する簡易な作業が対象。
   ・昭和14年(1939)3月
 中等学校以上に対し、集団勤労作業を「漸次恒久化」し、学校の休業時だけでなく随時これを行ない、正課に準じて取り扱うことを指示。勤労作業の対象は、主として木炭増産、飼料資源の開発、食糧増産等。
  ・昭和16年(1941)3月
 「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」において、文部省はこの運動を「国策ニ協カセシムル実践的教育」であるとし、「一年ヲ通ジ三十日以内ノ日数ハ授業ヲ廃シ」て作業に当てることができ、その日数・時数は授業したものと認めた
  ・昭和16年(1941)8月
   全国の諸学校において学校報国隊が結成される。
 

f:id:sf63fs:20210916152019j:plain

動員学徒の服装の例
広島平和記念資料館ホームページ http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0407/exh04073.html

 

昭和18年(1943)10月
 「教育ニ関スル戦時非常措置方策」によって、修業年限の短縮と学校の整理統合、戦時勤労動員の強化等の措置が決定された。勤労動員を「教育実践ノ一環」として、「在学期間中一年ニ付概ネ三分ノ一相当期間」実施することとなった。
  ・昭和19年(1944)1月
   「緊急学徒勤労動員方策要綱」を決定。学徒動員を「勤労即教育ノ本旨ニ徹シ」て強化し、動員の性格が従来の「教育実践ノ一環トシテ」の勤労動員から「勤労即教育」となった
昭和19年(1944)3月
   「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」閣議決定、動員の基準を明らかにした。1)学徒の通年動員、2)学校の程度・種類による学徒の計画的適正配置、3)教職員の率先指導と教職員による勤労管理などが強調された
  ・昭和19年(1944)7月
    「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」を通牒し、1)一週六時間の教育訓練時間の停止 2)国民学校高等科児童の継続動員 3)それでも供給不足の場合は中等学校低学年生徒の動員 4)深夜業を中等学校三年以上の男子のみならず女子学徒にも課する 5)出動後二か月たたない学徒にも深夜業を課することなどを指令した。
 

f:id:sf63fs:20210918112957j:plain

 https://search.yahoo.co.jp/video/search?p=%E5%AD%A6%E5%BE%92%E5%8B%95%E5%93%A1%E3%81%AE%E6%AD%8C%20&ei=UTF-8

 「ああ紅の血は燃ゆる」 (副題「学徒動員の歌」)
作詞: 野村俊夫、作曲: 明本京静
歌唱:酒井弘、安西愛子 
昭和19年(1944)9月日蓄レコード

花もつぼみの 若桜
五尺の生命(いのち) ひっさげて
国の大事に 殉ずるは
我ら学徒の 面目ぞ
ああ紅の 血は燃ゆる

後(あと)に続けと 兄の声
今こそ筆を 投げうちて
勝利揺るがぬ 生産に
勇み立ちたる 兵(つわもの)ぞ
ああ紅の 血は燃ゆる

君は鍬(くわ)とれ 我は鎚(つち)
戦う道に 二つなし
国の使命を 遂(と)ぐること
我ら学徒の 本分ぞ
ああ紅の血は燃ゆる

何を荒(すさ)ぶか 小夜嵐(さよあらし)
神州男児 ここに在り
決意ひとたび 火となりて
守る国土は 鉄壁ぞ
ああ紅の 血は燃ゆる

 ※今ではエセ右翼の街宣車から流れるくらいですが、当時は「国民歌」として盛んに

唄われました。

・昭和20年(1945)3月
   「決戦教育措置要綱」閣議決定し、「国民学校初等科ヲ除キ、学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル間、原則トシテ之ヲ停止スル」こととした。五月二十二日「戦時教育令」が公布された。

   

    上述のように、学徒勤労動員の体制が強化される中で、集団作業を効率的に行えるように組織されたのが「学校報国隊」でした。
  当初は、学校を修練のための道場にするため,学校長を会長もしくは団長とする教職員・学生生徒一体の組織をつくれというものでしたが、次々に発せられた文部省の訓令、次官通牒により変質をさせられていきました。
 すなわち、「学徒の修練組織と言いながら学校教練、食糧増産作業等へ適時出動できる国家的組織の形成と指揮命令系統の確立をねらったもの」という結果になりました。
 (神辺 靖光 「学徒勤労動員の行政措置 : 中等学校を中心に」『明星大学教育学研究紀要,(11)』、1996)
 

 この報国隊の組織は下のように、軍隊を模したものでした。

f:id:sf63fs:20210918105211j:plain

(安達宏昭「戦時下の学校報国団設置に関する考察」より)

 

 昭和19年(1944)3月の「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」では、学校種別、学年別に動員先が定められました。※大学・専門学校などは省略

イ,国民学校高等科(現在の中学1・2年生に相当))
  土地の状況,心身の発達を考慮して適当な作業。
ロ,中等学校
  1・2学年は国民学校高等科に準じる。
 ①工業学校……軍関係その他の重要工場。
 ②商業学校から転換した工業学校㈹……特定工場または学校工場。
 ③農業学校……食糧増産,国防建設事業。
 ④中学校・商業学校・高等女学校……食糧増産,国防建設事業,工場事業場(輸送を含む)。
 女子はできるだけ学校工場。大都市の中学校・商業学校の生徒は疎開及び防空施設事業。

 中学に入ったばかりの主人公たちは、農村地帯ということで田植えに駆り出されたわけですが、都市部にあっては、低学年の生徒でも工場へ派遣された例は多くありました。
 (参考)東京・中野区の動員先一覧(中野区公式ホームページ)

f:id:sf63fs:20210918113556j:plain

f:id:sf63fs:20210918113625j:plain

 

 それぞれの職場において終戦詔勅を聞いた動員学徒の数は三四○万人をこえたといわれています。また、学徒動員中の空襲や事故などによる死亡者は一万九六六人、傷病者は九、七八九人の多きを数えています。(文部省『学制百年史』より)

f:id:sf63fs:20210918114152j:plain

動員学徒慰霊塔 (広島市ホームページ)
碑文
第二次世界大戦中増産協力等いわゆる勤労奉仕に動員された学徒は、全国にわたり三百数十万人。あたら青春の光輝と、学究の本分を犠牲にしつつ挺身した者のうち、戦禍にたおれたものは一万有余人。その六千余人は原爆死を遂げた。この塔は明眸青雲を望み、将来空高く羽ばたこうとした夢も空しく、祖国に殉じたそれら学徒の霊を慰めようと有志同胞の手によってうち建てた。」

「東京少年」⑤ 昭和20年 英語の時間

 昭和20年(1945)3月、無試験で合格した東京の「一流と称される」中学校(東京高師付属中)が空襲で焼けたために、主人公は再疎開先の新潟県にある高田中学校(現・県立高田高等学校)に転校することになりました。
 転校の手続きが遅れ、既に学校は始まっていました。

f:id:sf63fs:20210909154641j:plain

雪都・上越高田の宝物 日本一の雁木通り(ミツカン水の文化センターホームページ)

 教室に入ると、英語の時間だった。
 敵の本土上陸が迫っている時に、その敵の言葉を勉強したなんて、創り話だろうと、後年、よく言われたが、冗談ではない。文部省検定済みの教科書使用である。
 国民学校のころ、(ABCD包囲陣)という言葉が新聞に大きく出ていたから、A、B、C、Dは知っていた。もう一つ、Xも知っていたように思う。
  しかし、文章になっている教科書の英語は、まるで、理解できない。理解どころか、呆然とした
  入学通知がくる前に、アルファベットと発音記号の授業はすでに終わっていたのである。その事実は、帰りに、曽我に説明された。
「そうか、知らなかったのか」
 その夜、父は無表情でノートに鉛筆でアルファベットと読み方を書いた。
 こんなもの、すぐには覚えきれない、とぼくは思った。見たことがないものがならんでおり、しかも、大文字と小文字の二種類があるのだ。 
 仕方なく、ぼくは形からくる連想の日本語で覚えようとした。〈L〉は、〈直角〉、〈t〉は〈ご尤も〉といった具合に。そんな覚え方は、そもそも無理なのだが、それでも、なんとか授業についていけるようになったのは、不思議というほかない。
 教科書の英文は、たとえば、次のようなものだった。
 There is a tank on the hill.
    That is a Japanese tank.
 また、こういうのもあった。
   Is that a bird or an animal.
  あとで冷静に考えれば、〈あれは日本の戦車です〉という呟き(会話?)は、ラバウルガダルカナル島での敵兵のものとしか思えないのだが、その時は、そんなことは考えもしなかった。
〈あれは鳥ですか、動物ですか?〉という問いも、よく考えれば、ずいぶんと変なのだが、その時は発音の方に苦労してていた。鳥〈バード〉の発音には英語教師の方言が入っていて、〈ブーチュ〉ときこえた。

 クラスには、東京からの縁故疎開者が何人かいた。
 直接の疎開者と、ぼくのように集団疎開を経てきた者が混じっていたが、クラスの雰囲気は明るかった。当時はそんな言葉はなかったが、この中学は土地の〈エリート校〉だったのである。生徒たちは、疎開者を苛(いじ)めるというような、ありがちなことを避けるようにしていた。
(13  山鳩の声)

 

■ 疎開先の中学校へ転校

 主人公が転校した新潟県立高田中学校(現・高田高等学校)は高田藩の藩校・脩道館を淵源とする県下屈指の伝統校です。
 皇后雅子妃の父方の祖父・小和田穀夫氏(明治30~平成5年・1897~1993、広島高等師範卒)は昭和21年(1946)に旧制中学最後の校長として赴任、昭和33年(1958)3月までお勤めになっています。
   旧制中学出身の文学者では、小川未明(児童文学作家)、小田嶽夫(第3回芥川賞作家)、相馬御風(詩人、早大校歌「都の西北」で知られる)などの方々がよく知られています。

f:id:sf63fs:20210909154733j:plain


新潟県立高田高等学校(Wikipedia

 大都市に住む中学生(旧制)が縁故疎開し、その地の中学校へ転校するということが、戦争末期には、ごく普通に行われていたようです。

 筆者の母校の前身・兵庫県立小野中学校(現・小野高等学校)の場合、生徒定員各学年200名(全校で1000名)に対して、転入生は昭和19年度においては約50名でしたが、翌20年4月には、「三月のアメリカ軍による連続大都市爆撃の影響もあってか、一挙に全校で百十名の多くを受け入れ」たということです。(『八十周年記念史誌』、1983年)
 その百十名のうちの一人で、筆者にとってはその昔同僚であった書道のY氏(故人)は、昭和20年3月、大阪の四條畷中学から三年生の時に転入した体験を以下のように綴っておられます。
  

 当時は軍か県の命令でほとんど強制的に定員に関係なく私たち転校生を受け入れたのであろう。今みると学籍簿保証人の欄が転校生はすべて空白である。いかに慌ただしい受け入れであるかがわかる。

 国鉄の切符すら自由に買えない時代であって、事前の転入試験など出来もしなかったであろう。私も母に連れられて三月に一度面接を受けたのみで、新学期には掲示板の前で多くの転校生とともに担任の先生に迎えられて教室へ入った。

 Y氏の学年は、昭和18年の一年時には218名でしたが、二年時は242名になり、最も多い時期には280名を数えたとあります。

 空襲の恐れのない郡部の中学校では、似たような状況が生じていたのではないでしょうか。

   なお、記念史誌に掲載された転入簿の写真(1ページ半ほど)を見ると、大阪、福井、愛媛(松山)などの「内地」の中学校だけでなく、上海、天津、京城、台湾など「外地」の中学校からも、引き揚げに伴って転校してきた生徒が多くいたことがわかります。

 

■ 戦争末期 旧制中学の英語教育

 昭和12年(1937)の日中戦争勃発から、昭和16年(1941)太平洋戦争へと突き進む中で、英語は「敵性語」(敵国語とみなされ、身の回りのあらゆる物の名が、横文字から日本語に言い換えられたということが、面白おかしく語られることがあります。

f:id:sf63fs:20210911093904j:plain

敵性語の言い換えの一例

戦時中の敵国語(敵性語)についての日米対比 | 国内で海外留学体験?合宿制英会話学校 ランゲッジ・ヴィレッジ

 また、 「太平洋戦争中の中学校などでは英語教育が禁止されていた」というような話を耳にすることがありますが、実際はどうだったのでしょうか。
 

 主人公が高田中学校に転校した昭和20年(1945)4月の時点では、前年の「学徒動員令」昭和19年8月)及び「決戦教育措置要綱」(20年3月)に拠り、三年生以上は軍需工場などへの動員で不在。かろうじて、1、2年生が校内にとどまり、制約の多い中で学校生活を送っていたようです。

 昭和18年(1943)の 「中等学校令 」(勅令第36号)及び「中学校規程」により、第3学年以上では外国語(英語)は実業科との選択教科となりました。週あたりの時間数も4時間と減じられています。当時の英語教育の実態を知る人達は、「英語教育の暗黒時代」と評しているほどです。(清水貞助「我が国の中学校における英語の指導時数の変遷の研究」立正女子大学短期大学部、『英米学研究 巻8』 1971) 

 

f:id:sf63fs:20210911095543j:plain

昭和18年の各教科時間数

f:id:sf63fs:20210911095626j:plain

昭和6年の各教科時間数(上記、清水論文より、上の図も同じ)

 さて、主人公が使っていた英語の教科書は、中等学校教科書株式会社発行の「英語1 中学校用」昭和19年発行)です。当社は出版社の戦時統合により発足した国策会社で、中等学校の各種教科書を一元的に発行していました。(戦後は中教出版として長らく続きましたが、2004年に倒産)

 ですから、「文部省検定済み」には違いないのですが、「準国定」教科書というほうが適切かも知れません。

f:id:sf63fs:20210911101951j:plain

第8課より

f:id:sf63fs:20210911102043j:plain

第9課より 「big tank」とありますが、砲身の長さから「軽戦車」でしょうか。 

 

 当然のことながら、時局を反映して、題材としては「大東亜共栄圏、軍事、戦時的自覚、神社参拝、天皇崇拝を内容とする軍国主義的な課が二割ほど盛り込まれていた」(磯辺ゆかり・江利川春雄「『墨ぬり』英語教科書の実証的研究」『和歌山大学教育学研究科紀要』、2005年)ということです。

 戦争が終わると、そうした国家主義や戦意を鼓舞する内容を含む箇所は、GHQの指示によって、生徒自らの墨み塗りによって抹消されました。

f:id:sf63fs:20210911104059j:plain

上記磯辺・江利川論文より

 まさに、英語受難の時期でした。英語教師は失業におびえ、生徒の中には通学の列車内でうっかりと英語の教科書を広げたばかりに、「非国民!」と殴られたといった者もあるといった類いの話が今に語り伝えられています。

 

※参考文献 斎藤兆史『日本人と英語 もう一つの英語百年史』(研究社、2007)

※文部省の監督を受けなかった海軍兵学校では、戦争末期の昭和19年になっても、校長であった井上成美中将が年限短縮と軍事学重点化の要求に反対して、英語を含む普通学に比重を置いたことがよく知られています。私は、若い頃に阿川弘之さんの小説でそのことを知りました。

「東京少年」④ 中学受験の結果は・・・

 疎開先での集団生活は、主人公たちには色々と過酷な試練を与え続けました。
 

飢えからの赤蛙食い  親元との通信に教師の検閲 児童たちの中のスパイ疑惑
動物性タンパクの不足から栄養失調  脱走騒ぎ 下痢の蔓延  ジフテリアでの死者

f:id:sf63fs:20210903152947j:plain

疎開先の食事 | NHK for School

 昭和20年に入り、2月12日には「修了疎開学童の東京引揚計画」(2月21日から3月10日)が発表されましたが、B29による「帝都盲爆」はいっそう激しさを増し、主人公たちの校区の街々が焼かれ、級友たちの中にも家族を失った者が出るようになってきていました。

f:id:sf63fs:20210903153424j:plain

3月10日の東京大空襲
東京の下町は一晩で焼け野原になってしまった。

 びっくり箱の仕掛けはまだ残っていた。
 翌日の夕食後、六年生の集合を命じた教師は、
「重大な発表をする・・・・・」
 玉砕を報じるアナウンサーのような緊張した声で言った。
昭和二十年度本校卒業生は、全員無事、各自の志望校に入学できた。先刻、校長先生から電報が入ったのだ。みんな、喜ぶように・・・・」
 軽い歓声が上がった。気の抜けたような声であった。
 どうなっているのだろう、とぼくは困惑した。要は、時局がら(無試験)ということらしかった。一流と称される中学に、ぼくは無試験で入れたのだ。 身体検査すらなしに。
 たしかに、それは、ありがたいことだった。落ちたとき、どうするかを、ぼくは親と相談するつもりでいたからだ。が、こうなると、入試のための一年間の受験勉強は、どういうことになるのだろう。しかも、ーこれは教師に呼ばれて告げられたのだが、ぼくが入れた中学校は、数日前の空襲で焼失してしまっていた。
 ぼくのほかにも、そういう立場の者がいた。つまり、ぼくたちは新入生の幽霊なのだ。
 
 三月十日の東京大空襲で、主人公の実家のある日本橋区は家屋がほぼ焼失し、待ちに待った疎開の引き揚げは無期延期となってしまいます。

  (中略)

 ぼくの国民学校では、成績がまずまずであれば三中(現・両国高校)に進むのがふつうであり、ぼくもそう思っていた。隅田川を渡らなければならないが、それを当然と考える世界に生きていた。
 山の手の中学に入れよう、と考えたのは父らしい。彼自身がその中学出身だったから、というのが理由だろう。父を教えた教師がまだ学校にいる、といった事情もあったらしい。
  (10 昭和二十年三月十日)

 

■ 無試験で合格した「一流の中学」
 主人公の通う国民学校からは、府立第三中学校(明治33年創立、当時の本所区柳原町にあった。現在の都立両国高等学校)が近かったようです。
 「成績がまずまずであれば三中(現・両国高校)に進むのがふつう」とありますが、戦争末期で中等学校(実業学校などを含む)への進学率は相当に向上していたとはいうものの、三中のような伝統校に「成績がまずまず」で入学できるというのは、学力レベルの高い学校だったのでしょうか。    

f:id:sf63fs:20210903153958j:plain

現在の都立両国高等学校

 さて、「山の手」の「一流と称される」父親の出身校(作者の父は病気で中退 Wikipedia)というのは、当時の小石川区大塚(現在の文京区大塚)にあった東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学付属中学校・高等学校)のことでした。
 同校は、府立一中(現・都立日比谷高等学校、昭和18年都政施行により都立第一中学校)と並ぶ進学名門校として古くから知られていました。      

f:id:sf63fs:20210903154137j:plain

東京高師付属中学校

 創設以来の著名な出身者は、各界において枚挙に遑がないほどなので、リンクを張っておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E6%B3%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%84%E5%B1%9E%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7
(1~58回は旧制中学出身、59回以降は新制高校出身)

f:id:sf63fs:20210903160936j:plain

旧制第一高等学校に入学した学生の出身中学校(旧制)別ランキング

第一高等学校 (旧制) - Wikiwand

■ 戦時下の中学入試は・・・

 前回の③「『日常生活』の開始」で取り上げた本文には、以下のような記述がありました。
 

    ぼくたち六年生の学習は大広間に寝転がって、粗末な印刷の中学入試問題集をひもとくだけだった。(3飢餓への序曲)

  また、上の引用文中には「入試のための一年間の受験勉強」ともあります。
 

 これまでに、色々と読んだり調べたりした中で、戦争中の中等学校(中学校、高等女学校、実業学校など)入学試験(正式には入学考査)は、学力試験(筆記試験)がなくて、内申書、口頭試問、身体検査によって行われていたというように思っていたのですが、「問題集を使って受験勉強をしている」とあります。いったい、本当のところはどうだったのでしょうか。

 

 昭和の初めから、中学校入試の改革が数度にわたり行われてきていました。
   大正後半期以降、中等教育への進学希望者が増大の一途をたどる一方で、学校の増設や規模拡大が追いつかず、入学試験競争が激化していました。
   小学校児童の過度な受験勉強や小学校での補習授業の公然化などが社会問題となり、文部省はその是正に向けて取り組んでいました。概略は以下の通りです。(文部科学省「学制百二十年史」等による)

昭和2年(1927)11月
 中学校令施行規則を一部改正。従前の入学試験を、小学校最終二学年分の学業成績などについての小学校長の報告書(いわゆる内申書)、口頭試問による人物考査、及び身体検査の三つから成る「入学考査」(「徳性考査」)に改めた。「小国民体位の向上と錬成を図るために教科に基づく試問を禁止する」という趣旨であった。
 ・昭和4年(1929)11月
 文部次官通牒により、人物考査の際「必要アル場合ニ於テハ筆記試問ノ方法ヲ加フルヲ得ルコト」となり、事実上筆記試験による入学者選抜が復活
 ・昭和10年(1935)
 難問奇問の横行を防ぐために文部次官通牒により、地方長官(府県知事)が試験問題を事前に審査することを指示。
昭和14年(1939)9月
 次官通牒をもって筆記試験の全廃を再度指示し、報告書の客観化を目指す委員会の設置や人物考査法の基準などを示して十五年度から厳密に実施することとした。
 ・昭和18年(1943)12月
   人物考査について従来の「口問口答ヲ以テシ」から「口問口答ニヨルヲ本体トシ」に後退したので、多くの府県で再び「簡易な筆記試験」が復活した
 ・昭和19年11月
 学童疎開・学徒勤労動員などの強化の情勢に則した方式を通牒(データベース『えひめの記憶』)※内容の詳細は不明

  上記の内容や『兵庫県教育史』(1963)、塚野克己『長崎の青春 旧制中学校高等女学校の生活誌』(長崎文献社、1998)等によると、全く筆記試験が行われなかったのは、昭和15年度から18年度の間でした。
 主人公たちの昭和20年度入試の詳細は不明ですが、「中学入試問題集をひもと」いて「受験勉強」をしていたとありますので、当然のことながら学科の試験があったと思われます。

 

 三月十日の空襲で焼失した学校も多かったために、昭和20年度の中等学校入試に際して、東京都は各中等学校に以下のような内容の「臨時非常措置」を通達しました。

 

 1 応募者が募集人員が定員以下の場合は全員合格

 2 応募者が定員を超えた場合は報告書(内申書)のみ審査で合否を判定

 3 報告書を消失した中等学校では再提出を求めず抽選で合否を決定できる

(安達宏昭「通年勤労動員下の立教中学校(一)」『立教学院史研究(15)』2018

 主人公の場合が上のいずれに該当するのかは不明ですが、いずれにせよ、報告書(内申書のみで合格が決まったことに間違いはありません。

 とにかく、東京をはじめとする大都市圏では、通常の入学試験など実施不可能な状況下にあったのでした。

 東京からの疎開体験を綴った文章の中には、3月20日に行われる東京都の中等学校の入学試験のために東京に戻っていた国民学校6年生の多くが、3月10日の東京大空襲に居合わせて亡くなったことを記しているものがあります。

 主人公たちの場合は、「疎開の引き揚げ」が「無期延期」となったために、被災を免れたわけで、不幸中の幸いとでも言えるでしょうか。

 

■ 合格した中学は焼失・・・・

 こうした非常事態に対応すべく、政府は以下のような措置を講じました。

 二十年戦局はいよいよ苛烈となるに及んで、三月政府は「決戦教育措置要綱」閣議決定し、「国民学校初等科ヲ除キ、学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル間、原則トシテ之ヲ停止スル」こととした。さらに五月二十二日「戦時教育令」が公布された。

(『学制百年史』より「戦時教育体制の進行」)

決戦教育措置要綱
昭和20年3月18日 閣議決定

第一 方針
現下緊迫セル事態ニ即応スル為学徒ヲシテ国民防衛ノ一翼タラシムルト共ニ真摯生産ノ中核タラシムル為左ノ措置ヲ講ズルモノトス
第二 措置
一 全学徒ヲ食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究其ノ他直接決戦ニ緊要ナル業務ニ総動員ス
二 右目的達成ノ為国民学校初等科ヲ除キ学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル期間原則トシテ之ヲ停止ス
国民学校初等科ニシテ特定ノ地域ニ在ルモノニ対シテハ昭和二十年三月十六日閣議決定学童疎開強化要綱ノ趣旨ニ依リ措置ス
三 学徒ノ動員ハ教職員及学徒ヲ打ツテ一丸トスル学徒隊ノ組織ヲ以テ之ニ当リ其ノ編成ニ付テハ所要ノ措置ヲ講ズ但シ戦時重要研究ニ従事スル者ハ研究ニ専念セシム
四 動員中ノ学徒ニ対シテハ農村ニ在ルカ工場事業場等ニ就業スルカニ応ジ労作ト緊密ニ連繋シテ学徒ノ勉学修養ヲ適切ニ指導スルモノトス
五 進級ハ之ヲ認ムルモ進学ニ付テハ別ニ之ヲ定ム
六 戦争完遂ノ為特ニ緊要ナル専攻学科ヲ修メシムルヲ要スル学徒ニ対シテハ学校ニ於ケル授業モ亦之ヲ継続実施スルモノトス但シ此ノ場合ニ在リテハ能フ限リ短期間ニ之ヲ完了セシムル措置ヲ講ズ
七 本要綱実施ノ為速ニ戦時教育令(仮称)ヲ制定スルモノトス

 上記五では「進学ニ付テハ別ニ之ヲ定ム」とあり、おそらく筆記試験をなくして、内申書、口頭試問などで行うということだったのではないかと思われますが、詳細は不明です。

 

f:id:sf63fs:20210905163729j:plain

東京高等師範学校も門柱を残して焼け落ちていました

 

 主人公が合格していた「山の手」の「一流と称される」中学校も、空襲で焼失していました。

 また、実家も空襲で焼けたために、主人公一家は新潟県の親戚を頼って、「縁故疎開」をすることになります。主人公にとっては、「再疎開でした。

「東京少年」③ 疎開生活の「日常」

 穴の中での日常が始まった。
 起床は五時半だ。海軍にいた教師にとって早起きは得意らしく、定刻五分前には大広間の奥の襖をあけて、
「起床五分前!」
 と叫び、やがて、「起床!おこるぞぉ」とつけ加えた。ただちに起きないと、おれは怒るぞ、と念を押すのである。
 立場上、ぼくは定刻に飛び起きたが、他の者を起こすのが厄介だった。
(中略)
 寝具整理、乾布摩擦、清掃、洗面、境内に整列、軍隊風の点呼(人数が揃っているかどうかを調べること)、宮城遙拝、体操ーをすませて、朝食になる。
 献立は、質・量ともに、急速に落ちた。朝は玉ねぎの味噌汁と量の少ない丼飯だった。食べ盛りの少年たちが、これだけで足りるはずがない。
 あとで思いついたことだが、五十三人分の配給米が寺にくるはずだった。そして、はるか後年に耳にしたことだが、主食の三分の一が東京から寺への配送手続きの途中で、誰かに〈抜かれて〉いたというのだ。〈誰か〉というのは、のちにいたるもわからない。そんなことが赦されるのだ。それが戦時下というものである。
 朝食の後片付けが終わると、学習の時間になる。
 といっても、授業はまったく行われなかった。六年生が大部分とはいえ、五年生から三年生までいる生徒すべてを、一人の教師が教えるのは無理らしかった。
 すぐ近くに、村の国民学校があったが、ぼくたちは没交渉で過ごした。
 時には、全員で〈表敬訪問〉して、体操をいっしょにやることもあったが、あくまでも儀礼的なももので、ぼくたちは村の子を珍しい動物のように眺め、彼らは彼らで、肌の色の生っ白い〈ソカイ〉を冷ややかに見ていた。
 ぼくたち六年生の学習は大広間に寝転がって、粗末な印刷の中学入試問題集をひもとくだけだった。おのおのの志望校はすでに決まっていたが、来年の三月まで中学が焼けずにいるかどうか、そして、ぼくたちの生命が試験日までもつのかどうかーはなはだ心もとない。それでも、問題集をやり始めると、欲と競争意識が芽生えた。分厚い問題集に没頭すると、入試も、戦争も忘れた。それどころか、すべてがうまくゆくような気さえしてくるのだった。

 

f:id:sf63fs:20210828170258p:plain

朝の体操(西宮市ホームページ「戦時下の暮らし 学童疎開」)

■ 朝礼で「宮城遙拝」
 「遙拝」という言葉は、若い頃によく読んだ井伏鱒二氏の作品に『遙拝隊長』(昭和25年・1950)という傑作があり、そこで知ったように記憶しています。

宮城遥拝(きゅうじょうようはい)とは、日本や大東亜共栄圏において、皇居(宮城)の方向に向かって敬礼(遥拝、拝礼)する行為である。遥拝する場所は、日本国内(内地)、外地、外国を問わず用いられている。皇居遥拝ともいう。
日本国民が天皇への忠誠を誓う行為の一つであり、御真影への敬礼とともに、宮城遥拝も盛んに行われた。特に第二次世界大戦中には、天皇へ忠誠を介して戦意高揚を図る目的で、宮城遥拝は盛んに行われた。(Wikipedia

 

 昭和12年(1937)9月以降、第一次近衛内閣は国民精神総動員運動を展開しました。これは同年7月に勃発した日中戦争が拡大する中、「挙国一致、尽忠報国堅忍持久」をスローガンに、国民の戦意高揚と戦争協力体制の強化を図ろうとするものでした。毎月全国一斉に催される諸行事においては、「宮城(皇居)に向かって敬礼をする行為」(宮城遙拝)が必ず行われるようになりました。

 昭和16年3月1日に公布された国民学校令」は、 「 皇国の道に則って初等普通教育を施し、国民の基礎的錬成を行う」ことを目的としており、「教科の教育と一体のものとして,儀式・行事・団体訓練が重視され」、「四大節の儀式のみならず,日常的には登下校の際の御真影奉安殿への最敬礼,国旗掲揚朝礼での宮城遥拝・訓話・行進・神社参拝・清掃などが行われるようになった」ということです。
(馬新媛・西村正登「近代日本における道徳教育の変遷」『山口大学教育学部研究論叢58巻1号』2009)※下線は筆者

f:id:sf63fs:20210828171948j:plain

戦勝祈願のための神社参拝、昭和16年,北海道岩見沢国民学校生徒の岩見沢神社参拝、http://iwamizawatizu.web.fc2.com/photo_iwami/n_gunji.html

 

■ 疎開生活の一日は・・・・ 
 学童疎開を経験された方々の著書、思い出を収録した書籍類などは無数にあります。近年では、戦争を知らない若い世代にも伝えておきたいという思いからでしょうか、ネット上にもたくさんの記事が見られます。
 以下は、その一例に過ぎませんが、疎開生活の「日常」がよくうかがえます。

座談会「あれから60年 横浜の学童疎開 (2)」
◇5時半起床、朝礼では必ず宮城遥拝と体操を

松信裕(有隣堂社長)集団疎開先では、どういう生活だったんですか。
小柴俊雄(横浜演劇史研究家、平沼国民学校6年生、昭和20年4月小柴足柄下郡下中村へ疎開)  
 5時半に起床、6時に朝礼で宮城遙拝[きゅうじょうようはい]と体操をやる。 それから、御製奉唱[ぎょせいほうしょう]といいまして、天皇のつくった和歌を復唱する。 宮城遙拝は必ずやりました。 それから掃除。 6時半に朝食でした。
 授業は近くの学校に行くこともあったようです。 12時に昼食で、午後も少し勉強しています。 3時ぐらいから、遊びの時間があって、6時に夕食です。 8時半の寝るまでの間に自由時間がある。 そして三日に一回入浴があるわけです。 これが集団疎開の一日の生活ぶりです。

f:id:sf63fs:20210829165133j:plain

(「楽しみは三度の食事」 小石川区竹早国民学校早乙女勝元他『写真・絵画集成 戦争と子どもたち 5家族と離れて生きる』日本図書センター、1994)

 

大石規子(詩人間門国民学校 箱根の宮ノ下の奈良屋旅館へ疎開) 
 私たちは太鼓の音で起床でした。 そして庭に出て点呼を受けまして、体操や、乾布摩擦をしましたね。 勉強というのは余りなくて、旅館ですから、お部屋に長い机を置きまして、そこで先生が何か教えてくださったり、たまには近所の温泉村の学校を借りまして、そこで授業をしたこともありました。
 薪をとりに山に行ったり、行軍といって体を鍛えるために歩いたり、お洗濯や食事の手伝い、ちょっとした時間には、かわいそうな話なんですが、みんなですき櫛でシラミをすくんです。 すると、パラパラパラッてシラミが落ちるんです。 それが自由時間にお互いにすることでした。 シラミは大変な思い出ですね。
「有鄰」(平成16年8月10日、第441号)https://www.yurindo.co.jp/static/yurin/back/yurin_441/yurin2.html

■ 勉強は大丈夫?

f:id:sf63fs:20210829163255j:plain

旅館の一室が教室に(竹早国民学校、出典は同上)


 見知らぬ土地へ我が子を疎開に出す親たちにとって、まず気がかりになるのは、医療・衛生面の体制はどうなっているのかということでしょう。
 また、主人公のように六年生で、中等学校への進学を控えている場合は、学業が継続して保障されるかどうか、進学先はどうなるのかなどということも気がかりになると思われます。
 そうした想定される保護者の心配や疑問などに対して、東京都教育局では、学童疎開問答」昭和19年7月16日)というものを作成していました。(星田言『学童集団疎開の研究』近代文芸社、1994)
 学習や進学に関する当局の回答は以下の通りです。

問 旅館や集会所其の他の場所等で国民学校としての教育がやれるのでしょうか。
答 疎開先の学校で教育する場合は問題ありませんが、旅館其の他では設備の点からご質問のような不審が起こると思います。 然し普通の学校と違い一日中二十四時間を通して先生の指導の下にあることだけ考えても設備の不足を補ってあまりあることといえましょう。其の他創意工夫をこらして国民学校の教育が立派にやれるようにします。

問 所で私の子供は現に六年に在学しているのですが、子供が疎開した場合、進学についてはどんな方針を都はおとりになるですか。
答 現在の戦局は来年の進学のことなどよりも此の夏をどうするか、今年を勝ち抜かねば来年のことなど考えられない位に急迫しています。然し六年の児童の御両親ともなれば御心配ごもっともですからお答えしましょう。都立の中等学校なり都内私立の中等学校なり従来通り受験できますから、その点は御心配はありません。
(其の他の質疑の項目  学童疎開の進行状況、対象の学年、行き先、宿舎と引率者、持参物、食糧、輸送の問題、病気の場合、1日の生活スケジュール、経費、縁故疎開から集団疎開へ、残留生徒の件)

 平素の授業については、受け入れ先に教室、机・椅子など、物理的に余裕がないため、たしかに様々な工夫はなされてはいたようですが、最低限必要な学習体制も整わなかった事例が多く報告されています。

 学童集団疎開の研究』の著者・星田氏も、自らが疎開した長野県小県郡別所村(現在の上田市別所温泉)での体験を以下のように述べています。

 別所国民学校だけではすべての疎開学園の授業する教室の余裕が無い為に近隣の村まで歩いて山越えして学校に通った疎開学童もあった。桃井第二国民学校の五年生男子は隣村西塩田国民学校まで峠を越えて小一時間歩いて通学、しかも毎時間空いている教室を探してはそこで授業し、どこも空いていない時には校庭で日向ぼっこをした記憶が何度かあったのである。

 

※ 問答の答えに「然し普通の学校と違い一日中二十四時間を通して先生の指導の下にあることだけ考えても設備の不足を補ってあまりある」という表現があります。

一見、苦し紛れの言い訳のようにも見えますが、「主知 的教授を排し、心身一体として教育し、教授・訓練・養護の分離を避け、国民としての統一的人格の育成を期する」という国民学校における教育の方向性に即したものと見ることもできそうです。

 

「東京少年」② 集団疎開1日目

    集団疎開に応じることが決まると、主人公は明治座で芝居を見たり、中華料理屋で豪華な「闇料理」を食べたりと、裕福な商家のお坊ちゃんらしい日々を送り、出発の日に備えていました。

 主人公たちが向かう疎開先は、埼玉県入間郡名栗村(現在は飯能市)の竜源寺でした。

 長い一日だった。
 学校での壮行式を終えて、校庭を出て省線電車に乗り、池袋駅で午前中を費やした。日本橋区の生徒は全員が埼玉県に向かうので、少しずつ送り出さなければならず、手違いもあったように思う。
 この竜源寺にたどりついたのは五十三人で、そのうち六年生は四十五人だった。残りが弟妹ということになる。
(中略)

f:id:sf63fs:20210825153916j:plain

現在の飯能市名栗地区

f:id:sf63fs:20210825154008j:plain


  ぼくたちが生活することになる本堂は、五十畳ほどの広さがあった。障子や襖を外して、四つの部屋をつなげると、その程度の広さになる。
 さらに教員室として、奥の八畳間があり、たった一人の教師が占拠した。寮母は庫裏に続く十畳ほどの部屋に寝起きし、そこは〈医務室〉と呼ばれるようになる。じっさい、この年は夏の去り方が急速だったので、病人が絶えることがなかった。
 手洗いは本堂の裏手に作られていた。生徒を受け入れるための応急仕事らしく、生木とベニヤの匂いが鼻腔を刺した。下見したぼくは、慣れることができそうもないと感じた。水洗式でない手洗いを初めて見たのである。
 裸電球の弱く赤っぽい光の下で、夕食が始まった。さすがに山の中だけあって灯火管制はゆるかったが。
 献立は、カボチャのカレー汁、魚の干物、小丼の盛り切りご飯で、これは、元旦を除けば、この寺における最高の食事だった。特に、魚ーその種類は不明だが、ーは、これが最初で最後だった。
(中略)
 気力が残っている者は、先に着いていた行李を解き始めた。六年生は、中学に進む時の学用品まで持ってきたので、荷物が多いのだ。ぼくも、父に貰ったスイス製の腕時計や、使い方のまるでわからない製図用具の大きなセット、さらに中学受験用の問題集まで持ってきていた。
 寝転んだ連中は、闘球盤やダイヤモンド・ゲームを始めた。柱にもたれて、漫画や少年講談を読む者もいた。 下級生の一人が、縁側でハーモニカを吹き始めた。調子っぱずれの「さらば、ラバウルよ」をくりかえしている。
(2第一の異界)

 

f:id:sf63fs:20210825152950p:plain

壮行会(神田・芳林国民学校昭和19年8月、早乙女勝元他編集『写真・絵画集成 戦争と子どもたち』日本図書センター、1994)

 ■ 疎開は「子どもの戦闘配置」!?

 東京都における学童集団疎開は、昭和19年(1944)の7月から8月にかけて、急速に具体化されていきました。
 各学校では7月17日から、児童・保護者への「勧奨」を開始し、20日までに保護者の申請書を提出させるという慌ただしさでした。
 都下のすべての国民学校(小学校)長を招集した会議で、当時の大達茂雄東京都長官(知事に相当)が訓示した内容について、逸見勝亮『学童集団疎開史 子どもたちの戦闘配置』(大月書店、1998)では、以下のような内容の訓示があったことが紹介されています。

1 学童疎開の意義は、「防空の足手まとい」を除くことで防空態勢を強化する一方、「若き生命を空爆の惨禍より護り、次代の戦力を培養することになる」こと。
 言い換えると、「帝国将来の国防力培養であり、帝都学童の戦闘配置を示すもの」

2 引率教員に対しては、「全く名誉の応召者と同様の決意と矜持を以て服務するのでなければ・・・・集団疎開教育は成立しない」という覚悟が必要なこと。

  都下の国民学校では、すぐさま父兄会(保護者会)を開き、あまりに急なことでためらう親たちを、あの手この手で「勧奨」しました。
 逸見・前掲書では、7月18日付けの「東京都隣組回報」の「勧奨文」が紹介されています。

 「学童の疎開について父兄各位に急告」 ※現代仮名使いに改めています
 次代を担う少年の、否決戦下の後続部隊たる学童の生命を、空襲の惨禍から救うことは、これこそ真に親の大愛の発露だと言うべきです。グズグズしてはいられません。即断即決、大切なお子さんを疎開させましょう。戦いに勝ち抜くために。

  こうして、当局と各学校の必死の努力の甲斐あってか、集団疎開希望者は予定していた20万を大きく上回り、約26万にも達したと言うことです。
 その結果、当局は受け入れ先の調整や新たな確保に忙殺されることとなりました。

f:id:sf63fs:20210825155343j:plain

東京都学童集団疎開先各区割当・集団疎開希望者数(逸見・前掲書)

疎開先は、神奈川を除く関東各県と、遠くは東北地方の3県にも割り当てられていました。

f:id:sf63fs:20210825155834p:plain

疎開先に向かう列車内での記念撮影、神田・芳林国民学校

子どもたちの表情には、「戦闘配置」の悲壮感は見られません。

 早乙女勝元他編集の前掲書より、下も同じ

 

f:id:sf63fs:20210825160446p:plain

受け入れ先としては、旅館、寺院などが多く使われました。

壁も黒板もない、広いお寺の本堂での授業風景

 ※戦前でありながら、水洗便所しか知らなかったという主人公は、何度も繰り返しますが、やはり都会のお坊ちゃんだったんですね。

小林信彦 『東京少年』① 疎開ー縁故か集団か?

【作品】

 東京都日本橋区にある老舗の跡取り息子。昭和十九年八月、中学進学を控えた国民学校六年生の彼は、級友たちとともに山奥の寒村の寺に学童疎開することになった。閉鎖生活での級友との軋轢、横暴な教師、飢え、東京への望郷の念、友人の死、そして昭和二十年三月十日の大空襲による実家の消失、雪国への再疎開……。多感な少年期を、戦中・戦後に過ごした小林信彦が描く、自伝的作品。 (新潮社ホームページ)

f:id:sf63fs:20210819161735j:plain

 

【作者】
 1932(昭和7)年、東京・旧日本橋区米沢町(現・中央区日本橋2丁目)に和菓子屋の長男として生れる。幼少期より、多くの舞台や映画に触れて育った。早稲田大学文学部英文科卒業後、江戸川乱歩の勧めで「宝石」に短篇小説や翻訳小説の批評を寄稿(中原弓彦名義)、「ヒッチコックマガジン」創刊編集長を務めたのち、長篇小説『虚栄の市』で作家デビュー。創作のかたわら、日本テレビ井原高忠プロデューサーに誘われたことがきっかけで、坂本九植木等などのバラエティ番組、映画の製作に携わる。その経験はのちに『日本の喜劇人』執筆に生かされ、同書で1973(昭和48)年、芸術選奨新人賞を受賞。以来、ポップ・カルチャーをめぐる博識と確かな鑑賞眼に裏打ちされた批評は読者の絶大な信頼を集めている。主な小説作品に『大統領の密使』『唐獅子株式会社』『ドジリーヌ姫の優雅な冒険』『紳士同盟』『ちはやふる奥の細道』『夢の砦』『ぼくたちの好きな戦争』『極東セレナーデ』『怪物がめざめる夜』『うらなり』(菊池寛賞受賞)などがある。また映画や喜劇人についての著作も『世界の喜劇人』『われわれはなぜ映画館にいるのか』『笑学百科』『おかしな男 渥美清』『テレビの黄金時代』『黒澤明という時代』など多数。(新潮社ホームページ 著者プロフィール)

 

f:id:sf63fs:20210819161754j:plain

小林信彦(新潮社ホームページ 著者プロフィール)

■ 縁故疎開か集団疎開か?

「ねえ、どっちにするの?」
 黒い遮光紙に包まれた電球の下で、問いつめるように母が言う。
「あさって、学校に返事しなければならないのよ。急すぎる話だから、答えにくいだろうけど」
 七月半ばの夜である。みぞおちのあたりを汗が流れるのが、ぼくにはわかった。
 いかにも突然の話だった。
 〈ソカイ〉というものは、ぼくからかなり遠い所にあるはずだった。
 だいいち、東京を離れる者は〈祖国の危機から逃げる〉という意味で、卑怯者とか国賊、と言われていたはずである。
 その言葉が、不意に、ぼくたちに近づいたのは去年〈昭和十八年〉の夏だったと思う。文部省が、学童の〈エンコソカイ〉を促進する、と言い出したのだ。
〈エンコソカイ〉とは、漢字で〈縁故疎開〉と書く。文字通り、血縁をたよって地方に移住することである。それもたった独りでだ。
 ぼくの学級に〈エンコソカイ〉した者が一人いた。今年の春だったと思う。
 三週間ぐらいで逃げ帰ってきた。東北地方のどこかの町の親戚へ行ったのだが、その家ではいかにも迷惑そうで、落語風に言えば、ご飯の時に、三杯目をそっと貰わなければならなかったらしい。
 色が白く、背が高い少年なので、土地の学校へ行けば、「アメリカ人」と呼ばれ、石をぶつけられる。国旗掲揚塔に縛り付けられたこともあり、あんな思いをするのだったら、東京にいた方がずっと良い、と語った。
(中略)
 あとで知ったことだが、国民学校(小学校のこと)三年生~六年生の学童疎開を実施するという政府の方針が、学校側から親たちに伝えられたのは、この年〈昭和十九年〉の七月半ばであり、疎開か残留かの回答を七月二十日までに決めるように内務省から求められていた。
 (中略)
 集団疎開という言葉は知らなかったが、ぼくはその光景を見たことがある。外国のニュース・フィルムの中でだった。
 ソ連(現在・ロシア)の小学生たちが列車に詰め込まれている。駅頭で、分厚いコートを着た母親たちが窓から出た子供たちの首に巻き付いて泣いている。たしか、スターリングラード戦の前だったと思う。
「きみも、あんな風になるかも知れない」
 ニュース映画館につれて行ってくれた叔父がぼくにささやいた。叔父は、若いのにシニックな男だった。
(まさか・・・・)
 ぼくは思った。
(「1眠ったような街」)

 

f:id:sf63fs:20210820105333j:plain

実家の和菓子屋は「すずらん通り」にありましたー落合学(落合道人 Ochiai-Dojin)ブログより、「大震災復興絵葉書にわが家を見つけた」( 2011/06/04 23)

図中の○実家というのは、落合氏の実家を指しています

f:id:sf63fs:20210819162143p:plain

主人公が通っていた日本橋区立千代田国民学校

(「東京市教育施設復興図集」より、関東大震災後に建てられた鉄筋コンクリート造りの近代的な学校建築でした)

   学童集団疎開が開始されるまでに、政府は昭和18年(1943)12月21日、「都市疎開実施要綱」閣議決定し、文部省においても「学童の縁故疎開促進」を発表(12月10日)していました。
    学童を含む人員の疎開ということについては、軍部や右翼に拒否的な姿勢が強く、時の首相・東條英機などは「国民精神の基盤は日本の家族制度で、死なばもろともという気概が必要で家族の疎開などもっての外」とまで叱責したということです。(星田言「学童集団疎開」の研究)
 しかし、その後の戦況の悪化*から、昭和19年6月30日、学童疎開促進要綱」閣議決定し、7月17日発表、8月実施ということになりました。

昭和19年(1944年)1月~7月
1.4 戦時官吏服務令・文官懲戒戦時特例公布。
1.7 大本営,インパール作戦を認可。インド東北部のインパールを攻略,英・印軍の反攻の阻止と自由インド仮政府の拠点確保をねらう。
1.24 大本営,大陸打通作戦を命令。京漢・湘桂・秀漢の3鉄道を占領して南方占領地との連絡の確保と米空軍基地の破壊を目的とする。
2.17 米機動部隊,トラック島を空襲。日本海軍,艦船43隻・航空機270機を失う。
2.21 東条首相(陸相兼任),参謀総長をも兼任。軍政両面で独裁体制確立
4.4 政府,国内13道府県に非常警備隊設置を決定。

f:id:sf63fs:20210820103715j:plain

東條英機、明治17~昭和23年・1884~1948(Wikipedia

 


4月 軍令部,特攻兵器の回天・震洋を実現。
5.5 大本営,防衛総司令官に本土決戦準備の一環として本土内の各地上軍・航空部隊などの統率・指揮権を付与。
5.31 東条首相,軍需動員会議の彫上,7条件を提示して軍需生産力の回復を訓示。
6.15 米軍,マリアナ諸島サイパン島上陸(7.7日本軍守備隊3万人玉砕,住民死者1:万人)。
6.16 中国の成都から飛来した米軍機47機,八幡製鉄所を爆撃。
6.19 太平洋戦争中最大のマリアナ沖海戦(~20)。空母3隻・航空機430機を失っで惨敗。
7.4 大本営,インパール作戦の中止を命令(死者3万人,戦傷病者4万5000人)。
7.18 マリアナ沖海戦の敗北やサイパン島陥落を契機に東条独裁体制への不満が表面化。重臣・皇族らの内閣打倒工作で,東条内閣総辞職

 

 

 上の引用部分は、方針が発表された直後のことです。
 主人公は、比較的裕福な家庭に育っており、「外国のニュース・フィルム」で「ソ連学童疎開」を知っていたというあたりに、 知的好奇心の旺盛な都会っ子の姿が想像されます。

 では、その学童疎開促進要綱」とは、どのような内容だったのでしょうか。

 

学童疎開促進要綱  ※下線は筆者
昭和19年6月30日 閣議決定
https://rnavi.ndl.go.jp/politics/entry/bib00563.php

防空上ノ必要ニ鑑ミ一般疎開ノ促進ヲ図ルノ外特ニ国民学校初等科児童(以下学童ト称ス)ノ疎開ヲ左記ニ依リ強度ニ促進スルモノトス

一、学童ノ疎開ハ縁故疎開ニ依ルヲ原則トシ学童ヲ含ム世帯ノ全部若ハ一部ノ疎開又ハ親戚其ノ他縁故者アル学童ノ単身疎開ヲ一層強力ニ勧奨スルモノトス
二、縁故疎開ニ依リ難キ帝都ノ学童ニ付テハ左ノ帝都学童集団疎開実施要領ニ依リ勧奨ニ依ル集団疎開ヲ実施スルモノトス他ノ疎開区域ニ於テモ各区域ノ実情ヲ加味シツツ概ネ之ニ準シ措置スルモノトス
三、本件ノ実施ニ当リテハ疎開、受入両者ノ間ニ於テ共同防衛ノ精神ニ基ク有機一体的ノ協力ヲ為スモノトス
四、地方庁ハ疎開者ノ的確ナル数及疎開先ヲ予メ農商省ニ通知スルモノトス

f:id:sf63fs:20210820103836j:plain

国立公文書館ホームページ


帝都学童集団疎開実施要領
第一 集団疎開セシムベキ学童ノ範囲
区部ノ国民学校初等科三年以上六年迄ノ児童ニシテ親戚縁故先等ニ疎開シ難キモノトシ保護者ノ申請ニ基キ計画的ニ之ヲ定ムルモノトス
第二 疎開
疎開先ハ差当り関東地方(神奈川県ヲ除ク)及其ノ近接県トス
第三 疎開先ノ宿含
一、宿舎ハ受入地方ニ於ケル余裕アル旅館、集会所、寺院、教会所、錬成所、別荘等ヲ借上ゲ之ニ充テ集団的ニ収容スルモノトス
二、都ノ教職員モ学童ト共ニ共同生活ヲ行フモノトス
三、寝具、食器其ノ他ノ身廻品ハ最小限度ニ於テ携行セシムルモノトス
第四 疎開先ノ教育
一、疎開先ノ教育ハ必要ナル教職員ヲ都ヨリ附随セシメ疎開国民学校又ハ宿舎等ニ於テ之ヲ行フモトス
二、疎開先ノ地元国民学校ハ教育上必要ナル協力援助ヲ為スモノトス
三、疎開先ニ於テハ地元トノ緊密ナル連絡ノ下ニ学童ヲシテ適当ナル勤労作業ニ従事セシムルモノトス
四、宿舎ニ於ケル学童ノ生活指導ハ都ノ教職員之ニ当ルモノトス
五、疎開先ニ於ケル学童ノ養護及医療ニ関シテハ充分準備ヲ為シ支障ナキヲ期スルモノトス
第五 物資ノ配給
疎開先ニ於ケル食糧、燃料其ノ他ノ生活必需物資ニ付テハ農商省其ノ他関係省ニ於テ所要量ヲ用途ヲ指定シ特別ニ配給ヲ為スモノトス
第六 輸送
本件実施ニ伴フ輸送ニ関シテハ他ノ輸送ニ優先シ特別ノ措置ヲ講ズルモノトス
第七 経費ノ負担
一、本件実施ニ伴フ経費ハ保護者ニ於テ児童ノ生活費ノ一部トシテ月十円ヲ負担スルノ外凡テ都ノ負担トス
尚前項ノ負担ヲ為シ得ズト認メラルルモノニ付テハ特別ノ措置ヲ講ズ
二、国庫ハ都ノ負担スル経費ニ対シ其ノ八割ヲ補助スルモノトス
第八 其ノ他
一 本件実施ニ伴ヒ出来得ル限リ残存学級ノ整理統合ヲ行フモノトス
二 本件実施ニ当リテハ都ニ於テ疎開先ノ地元府県、市町村ト緊密ナル連絡ヲ図ルモノトス

  田舎に縁故のない主人公一家にとっては、あれこれと熟慮するいとまもなく、集団疎開に応ずることになりました。

「二十四の瞳」⑦ それぞれの進路

 同じ年に生まれ、同じ土地に育ち、同じ学校に入学した同い年の子どもが、こんなにせまい輪の中でさえ、もうその境遇は格段の差があるのだ。(中略)
 将来への希望について書かせたとき、早苗は教師と書いていた。子どもらしく先生と書かずに、教師と書いたところに早苗の精いっぱいさがあり、甘っちょろいあこがれなどではないものを感じさせた。六年生ともなれば、みんなはもうエンゼルのように小さな羽を背中につけて、力いっぱいに羽ばたいているのだ。
 変わっているのは、マスノの志望であった。学芸会に「荒城の月」を独唱して全校をうならせたマスノは、ひまさえあれば歌をうたい、ますますうまくなっていた。歌にむかうとき彼女の頭脳は特別のはたらきをみせ、楽譜をみてひとりで歌った。田舎の子どもとしては、それはじつに珍らしいことだった。彼女の夢のゆきつくところは音楽学校であり、そのために彼女は女学校へゆくといった
 女学校組はマスノのほかにミサ子がいた。あまりできのよくないミサ子は、受験のための居残り勉強にいんうつな顔をしていた。彼女の頭は算数の原理を理解する力も、うのみにする記憶力にもかけていた。しかもそれをじぶんでよく知っていて、無試験の裁縫学校にゆきたがった。だが彼女の母はそれを承知せず、毎日、彼女にいんうつな顔をさせた。なんとかして県立高女に入れたい彼女の母は、熱心に学校へきていた。その熱意で娘の脳みその構造が変わりでもするように。それでもミサ子は平気だった。
「わたしな、数字みただけで頭が痛いとうなるんで。県立の試験やこい、だれがうけりゃ。その日になったら、わたし、病気になってやる」
 彼女は算数のために落第することを見こしているのだ。そこへゆくと、コトエはまるで反対である。家でだれにみてもらうというでもないのに、数の感覚はマスノの楽譜と同じだった。いつもコトエは満点であった。その他の学課も早苗についでよくできた。彼女ならば女学校も難く入れるであろうに、コトエは六年きりでやめるという。あきらめているのか、うらやましそうでもないコトエに、たずねたことがある。
「どうしても六年でやめるの?」
 彼女はこっくりをした。
「学校、すきでしょ」
 またうなずく。
「そんなら、高等科へ一年でもきたら?」
 だまってうつむいている。
「先生が、家の人にたのんであげようか?」
 するとコトエははじめて口をひらき、
「でも、もう、きまっとるん。約束したん」
 さびしそうな微笑を浮かべていう。
「どんな約束? だれとしたの?」
「お母さんと。六年でやめるから、修学旅行もやってくれたん」
「あら、こまったわね。先生がたのみにいっても、その約束、やぶれん」
 コトエはうなずき、
「やぶれん」とつぶやいた。そして、前歯をみせて泣き笑いのような顔をし、
「こんどは敏江が本校にくるんです。わたしが高等科へきたら、晩ごはんたくもんがないから、こんどはわたしが飯たき番になるんです」
「まあ、そんなら今ごろは四年生の敏江さんがごはんたき?」
「はい」
「お母さん、やっぱり漁にいくの、まい日?」
「はい、大かた毎日」
(中略) 

「そのかわり、えいこともあるん。さらい年敏江が六年を卒業したら、こんどはわたしをお針屋へやってくれるん。そして十八になったら大阪へ奉公にいって、月給みんな、じぶんの着物買うん。うちのお母さんもそうしたん」
「そしてお嫁にゆくの?」
 コトエは一種のはにかみをみせて、ふふっと笑った。
(中略) 
 岬の女子組では、あとに富士子が一人いるが、彼女の方向だけはきまっていなかった。いよいよ、こんどこそ家屋敷が人手に渡るという噂も、卒業のさしせまった富士子の動きをきめられなくしているのだろうと思うと、コトエと同様、あなたまかせの運命が彼女を待ちうけていそうであわれだった。やせて血のけのない、白く粉このふいたような顔をした富士子は、いつも袖口に手をひっこめて、ふるえているように見えた。陰にこもったような冷たい一重まぶたの目と、無口さだけが、かろうじて彼女の体面を保ってでもいるようだ。
 そこへゆくと、男の子はいかにもはつらつとしている。
「ぼくは、中学だ」
 竹一が肩かたをはるようにしていうと、正もまけずに、
「ぼくは高等科で、卒業したら兵隊にいくまで漁師だ。兵隊にいったら、下士官になって、曹長ぐらいになるから、おぼえとけ
「あら、下士官……」
 不自然にことばを切ったが、先生の気持の動きにはだれも気がつかなかった。月夜の蟹とやみ夜の蟹をわざわざもってきたような正が下士官志望は思いがけなかったのだが、彼にとっては大いにわけがあった。徴兵の三年を朝鮮の兵営ですごし、除隊にならずにそのまま満州事変に出征した彼の長兄が、最近伍長になって帰ったことが正をそそのかしたのだ。
下士官を志望したらな、曹長までは平ちゃらでなられるいうもん。下士官は月給もらえるんど」
 そこに出世の道を正は見つけたらしい。すると竹一も、まけずに声をはげまして、
「ぼくは幹部候補生になるもん。タンコに負けるかい。すぐに少尉じゃど」
 吉次や磯吉がうらやましげな顔をしていた。竹一や正のように、さしてその日の暮しにはこまらぬ家庭の息子とはちがう吉次や磯吉が、戦争について、家でどんなことばをかわしているか知るよしもないが、だまっていても、やがては彼らも同じように兵隊にとられてゆくのだ。その春(昭和八年)日本が国際連盟を脱退だったいして、世界の仲間はずれになったということにどんな意味があるか、近くの町の学校の先生が牢獄につながれたことと、それがどんなつながりをもっているのか、それらのいっさいのことを知る自由をうばわれ、そのうばわれている事実さえ知らずに、田舎の隅ずみまでゆきわたった好戦的な空気に包まれて、少年たちは英雄の夢を見ていた。
「どうしてそんな、軍人になりたいの?」
 正にきくと、彼はそっちょくに答えた。
「ぼく、あととりじゃないもん。それに漁師よりよっぽど下士官のほうがえいもん」
「ふーん。竹一さんは?」
「ぼくはあととりじゃけんど、ぼくじゃって軍人のほうが米屋よりえいもん」
「そうお、そうかな。ま、よく考えなさいね」
 うかつにもののいえない窮屈さを感じ、あとはだまって男の子の顔を見つめていた。正が、なにか感じたらしく、
「先生、軍人すかんの?」ときいた。
「うん、漁師や米屋のほうがすき」
「へえーん。どうして?」
「死ぬの、おしいもん」
「よわむしじゃなあ」
「そう、よわむし」

(七 羽ばたき)

 

f:id:sf63fs:20210808111310j:plain

綴方の時間に「将来の希望」を書く子どもたち

■ 尋常科を終えた後は・・・

 岬の子どもたち(岬組とも)が、6年生になった昭和8年(1933)当時の学校制度は概ね下の図のようになっていました。(「大正8年(1919)学校系統図」文部省『学制百年史』より、時期により細部の異同はあります)

f:id:sf63fs:20210808111707j:plain

 戦前は、いわゆる「複線分岐型」の学校制度でした。小学校尋常科6年卒業の時点で、その後の進路は大きく別れるという形になっていました。

 作中で、それぞれの子どもたちが持っていた進路希望と8年後に再会したときの現況、さらにその後の人生について、簡単にまとめてみました。(順不同)

 

       6年生当時の志望・進学先(就職先)・8年後・その後
1  山石早苗   教師・高等科から女子師範学校・母校の教員
2  香川マスノ  歌手・高等科・家業の料理屋
3  西口ミサ子  裁縫学校・ミドリ学園・東京の花嫁学校・結婚
4  片桐コトエ    ?・大阪で女中奉公(肺病で死去)
5  竹下竹一   家業の米屋より軍人・中学校・東京の大学・ 出征(戦死)
6  森岡正    漁師から下士官・高等科・神戸の造船所・ 出征(戦死)
7  徳田吉次             ?・ 高等科・岬の村で山伐りや漁師
8  岡田磯吉       ?・大阪の質屋へ奉公・失明して除隊
9 木下富士子    ?・兵庫に引越し後、親に売られて商売女になったと噂あり・消息不明
10  加部小ツル   ?・高等科から大阪の産婆学校・産婆
11  相沢仁太   ?・父親と石鹸製造・海軍(戦死)
12  川本松江 (5年生途中で中退) 高松のうどん屋・子どもが岬の学校に入学

 

f:id:sf63fs:20210808113214j:plain

放課後に進路の相談

 戦前の小学校では、尋常科6年の義務教育を終えると、そのまま社会に出るか、2年間の高等小学校(高等科)に進むというのが、最も多い進路選択でした。

 「文部省年報」掲載された児童数から算出すると、昭和8年(1933)当時の高等小学校への進学率は61.6%となります。

 家庭の経済状況などにより、それもかなわないとなると、いわゆる丁稚(女子では女中)奉公という形で都会の商店などに住み込みで働く者が多く見られました。

 一方、男子の場合は「中学校→高等学校(高等専門学校)→大学」という「正系ルート」をたどり、社会の各層におけるエリートをめざす者もいました。

 しかし、この中学校への進学率は、明治30年代の1~2%という時代から、大正期の量的な拡張を経て、昭和の初期にはかなりの向上してはいましたが、昭和8年時点の小学校尋常科卒業者(高等科を経ての進学者も一部に見られた)では、全国で10.3%(「文部省年報」より算出)という数値に留まっていました。(香川県では11.1%「香川県統計書」より算出)

 農漁村からの進学者といえば、地主や比較的裕福な商家の子弟が中心で、進学の可否を決めるのは、本人の学力もさることながら、主には家庭の経済状況であったと言えるでしょう。男子5人のうち、唯一の中学校進学者である竹下竹一も、親が米屋を営んでいました。

 女子の場合、「正系ルート」高等女学校への進学ということになります。

 本作品では、7人の女子のうち、結果的に高女へ進めた者は一人もいませんでした。

 教師志望の山石早苗は、高等科から女子師範学校へ進みました。これは、行き止まりの、いわゆる「傍系ルート」ということになります。

    彼女の家庭状況は不明ですが、師範学校の場合は、一定年限の奉職義務と引き換えに、官費の支給があったために、高女進学に比べて経済的負担は軽かったものと思われます。

 

 引用文の冒頭に、「同じ年に生まれ、同じ土地に育ち、同じ学校に入学した同い年の子どもが、こんなにせまい輪の中でさえ、もうその境遇は格段の差があるのだ」とあります。

 岬の分教場の、あの無邪気な12人の子どもたちも、昭和恐慌から戦争へと向かう時代の荒波の中で、自分たちの力ではどうしようもない酷薄な運命に翻弄されたのでした。

 

f:id:sf63fs:20210808165222j:plain

戦後、子弟再会の場面(マスノの料理屋の2階、海の見える座敷で大石先生の歓迎会)

 ※20年余り学級担任をしました。成績優秀なのに進学が出来ないという生徒は、ありがたいことにほとんどいなかったように思います。経済状況から夜間部を目指したり、奨学生となったりと、様々な方法がありました。

 戦前は優れた才能を持ちながら、置かれた境遇から、それを生かし切れずに終わった人達が、我々が想像できないぐらいに多かったのではないでしょうか。