名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

藤森成吉 「ある体操教師の死」① モデル・山本喜市のこと

【作者】藤森成吉(ふじもりせいきち)
 小説家、劇作家。明治25年8月28日、長野県諏訪(すわ)郡上諏訪町に生まれる。東京帝国大学独文科卒業。第一高等学校卒業の年(1913)の夏、伊豆の大島に遊び、それを素材とした『波』(のち『若き日の悩み』と改題)を自費出版し、鈴木三重吉(みえきち)らに認められた。大学卒業後、一時第六高等学校講師となったが半年で辞職。1919年(大正8)第一創作集『新しい地』を出版、以後、多くの創作集が刊行され、目覚ましい活躍ぶりが目だった。その後しだいに社会主義的傾向を示し、24年には妻とともに労働生活を体験、翌年その記録『狼(おおかみ)へ!』を発表した。26年の『磔茂左衛門(はりつけもざえもん)』以後劇作に専念、『何が彼女をさうさせたか』(1927)は流行語にもなった。30年(昭和5)旧ソ連に潜行、ハリコフの世界文学者会議に出席。32年帰国後検挙、以後、執筆活動に制限を受けながら『渡辺崋山(かざん)』(1935)などを執筆。戦後も民主的立場にたって数多くの著作を発表した。昭和52年5月26日没
出典:小学館日本大百科全書」(ニッポニカ)

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神奈川近代文学館ホームページ

【作品】
 大正11年(1922)に発表された短編小説。明治末期から大正中期にかけての中学校(旧制)の一人の体操教師を題材にしたもので、作者の経験を踏まえて書かれたであろうと思われる。体操教師の木尾先生は、いつもすこぶる風采のあがらない容貌、服装をしていた。しかし、先生は生徒指導において生真面目で厳格かつ熱心で、体操の授業においてもあらゆる場面において、自ら範を示さないでは済ませないほどであった。厳格、熱心であればあるほど、ペッカァ(啄木鳥・きつつき)とあだなされる程の生徒の反発を招いたが、木尾先生は「今たとえどんなでも、学校を出てからきっと自分に感謝するだろう」と信じて疑わなかった。ところが、40歳を過ぎる頃から体力・気力ともに急速に衰え、授業中の示範においても失敗が目立つようになった先生はいたたまれずに学校を退き、早死にしてしまう。それを知った生徒達は「あの人だで、今ン頃地獄へ行って体操をやっているか」と冗談を言い合った。

 木尾先生は、或る山国の地方の中学教師だった。教師と云っても体操科の ー 一生をそれで終わったのである。
 然(しか)し生徒達は、誰も先生の本姓を呼ぶ者はなかった。みんなペッカア(啄木鳥・きつつき)と云う符号で呼んだ。
 その奇妙な綽名(あだな)は、あきらかに容貌に拠っていたらしかった。先生は割合顔が小さく細長く頬がやせこけていた、そのせいか、口の部分が丁度犬や狐のそれのように特口形(とっこうがた)をしていた、その特徴は、先生が口を開いてまさに物を云おうとするとき殊に著しかった。
(中略)
 先生はどの生徒からも馬鹿にされていた。
 一つには、それは先生の頗(すこぶ)るあがらない風采から来ていた。あの突口のほか、先生はいつも質素なジャンギリ頭で、くりくり円い眼つきをして、薄い茶色のショボショボ髭を生やしていた。いつも日にあたっているので、全体に真黒にやけてはいたが、元来貧血症らしいその顔色は青黒かった。身体も鍛えられてはいたが、痩せて一向肉がなかった。そこへ服装なぞは少しも構わずに、始終まるで軍人でも着るようなごしごししたカアキイ色の詰め襟を着ていた。
 そう云う風采に加えて、先生には何の学問の背景もなかった、先生は高等師範出身ではなく、体操教習所を卒業してすぐに赴任したのだった。ー従って幾年勤めても、給料は職員中で一番低かった。
(本文は『現代日本文学全集第47篇 吉田絃二郎・藤森成吉集』〈改造社昭和4年〉により、新字新仮名遣いに改めました)

   小説ですから仕方ありませんが、よくもここまでひどい書かれ方をしたものだと、もしご子孫の方がご覧になったら、憤慨されることでしょう。
 「木尾先生」の名誉のためにも、その実像について述べてみたいと思います。

■ モデル・山本喜市氏のこと

 主人公の木尾先生にはモデルとなった体操教師がいました。
 明治37年(1904)8月に長野県立諏訪中学校に赴任し、大正8年(1919)11月まで在職されていた山本喜市氏です。(同校の後身である長野県立諏訪清陵高等学校同窓会事務局にご教示いただきました)
 ちなみに、作者・藤森成吉も同校に学んでいます。(明治38~43年と思われます)

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内閣官報局「明治38年職員録(乙)より」

 山本氏は着任したばかりで、寄宿舎の舎監を兼ねていたようです。

 

 山本氏の事績については、諏訪湖畔に建てられた顕彰碑がありますので、その前半部分を紹介してみましょう。(自転車で諏訪湖を一周しておられた方が、ブログにアップされていた写真がありました)

先生は、明治13年栃木県足利郡富田村(現足利市)に生まれ、同37年日本体育会体操学校高等本科(現日本体育大学)を卒業後、大正8年秋病床に臥すまでの15年間、諏訪中学校(現諏訪清陵高等学校)体育教師として教鞭を執られた。先生は大正10年2月わずか40歳の若さでこの世を去るまで、生涯を諏訪の体育振興に捧げられた。その誠実真面目な人柄を熱心な研究心、加えて理想に燃える実行力は多くの人々に深い影響を与え、数々の業績を上げられた。(後略)
平成3年8月吉日 山本喜市先生顕彰碑建立実行委員会 会長 諏訪市長 笠原俊一

  後半の省略部分には、山本氏が「諏訪湖一周マラソン」の創設と諏訪湖におけるスケートの普及に功績があったことなどが記されています。

 一方、諏訪清陵高等学校のホームページ「略史」には「大正2年 第1回諏訪湖横断遠泳
」「大正4 年 第1回諏訪湖一周マラソン」とあることから、これらの行事の創設に山本氏が尽力されたことが推察されます。

 

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明治42年、我が国初のアイススケートの実技解説書を著されています。

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旧制諏訪中学生が諏訪湖でスケートを楽しむ様子(年代不明)

下諏訪町デジタルアルバム」より

 そういう訳で、作品のモデルは立派な業績を残された方だということが、断片的ではありますが、諸資料から確認できました。

 

山本有三「波」④ 中等教員検定 その2

 

    しかし中等教員検定試験の日が近づいたので、行介はあまりそんなことを考えている暇はなかった。試験は今度で三度目だった。今度駄目だったら、彼はもう諦めようと思っていた。彼は中等教員になりたいのが主眼ではなかった。何かこういうものを目標にして勉強しなくては、なかなか勉強が出来ないと思ったからだった。
 試験の日が来た。予備試験はうまく通った。本試験も大抵うまく行ったような気がするが、一題あやふやなのがあって心配だった。学校の卒業試験ならば無論大丈夫だが、検定試験では少しでも怪しいのがあると通過は困難だった。金持のお坊ちゃんがほとんど遊び半分に通っている学校では点が甘くって、高等の学校に入学出来なかった、むしろ同情されるべき立場にある人達の方が、却(かえっ)て苛酷に採点されるというのは、実に妙な話だがそれが現在の実情だった

  「金持のお坊ちゃんがほとんど遊び半分に通っている学校では点が甘」いというのはどういうことでしょうか、ちょっと気になる箇所です。

 

 前回もとりあげましたが、もう一度。
 中等学校教員(中学校・高等女学校・師範学校)の養成と資格取得方法のタイプ別

(1)目的学校による養成・・・高等師範学校、女子高等師範学校、臨時教員養成所

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東京高等師範学校

 (2)検定による資格取得
   ①無試験検定(出願者の提出した学校卒業証明書・学力証明書等を通じて判定する間接検定方式)
   ○指定学校方式・・・官立高等教育機関帝国大学、高等学校等)卒業生について検定する。
   ○許可学校方式・・・公私立高等教育機関の卒業生について検定する。
   哲学館(東洋大学)、國學院國學院大学)、東京専門学校(早稲田大学)等
  ②試験検定(出願者の学力・身体・品行を試験によって判定する直接検定方式) 
    「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」(文検)

 

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昭和10年(1935)早稲田高等師範部の学舎として建てられた(現在の教育学部

 行介は上記(2)の②「文検」に該当するわけですが、彼が批判の対象としているのは、(2)の①のうち、「許可学校方式」(公私立高等教育機関の卒業生について検定する)に属する私立の高等教育機関(大学、専門部、高等師範部など)だろうと思われます。

 この「許可学校方式」の「無試験検定」というのは、当該学校の教育課程を修了することで原則中等教員免許の付与を認める検定制度で、一定の条件をクリアしたの私学に許可されたものでした。

 天野郁夫『旧制専門学校』(日経新書、1978)によると、「中等学校教員の免許制についても、最初は官立学校の卒業者だけが試験免除の恩典にあずかっていたが、私学関係者の運動の結果、明治32年に至ってようやく東京専門学校(早稲田大学)、哲学館(東洋大学)、國學院の三校が無試験検定の「許可学校」となり、以後青山学院、日本法律学校日本大学)、慶應義塾、女子英学塾(津田塾大学)などの文学。師範関係の学科が追加された。」という経緯がありました。 ※()内は筆者

 

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 初めから中等学校の教員を目指す人達の進学先としては、いわゆる「目的学校」としての高等師範学校がありましたが、定員が限られている上に、時々の経済的な状況にも左右されますが、かなり高い入試競争倍率を示していました。
 東京高等師範学校(後の東京教育大学、現在の筑波大学)の場合は、明治末期から大正中期までは 5倍前後、大正末期から昭和初期 の不況期には12〜 17倍にも達していました。
    一方、早稲田大学に設けられた高等師範部(現在の教育学部)では、入試が開始された のは大正9年ごろで、それまでは事実上無試験入学でした。入試開始以降もその競争率は昭和初期まで 1 〜 2 倍でしかありませんでした。(太田拓紀「戦前期私学出身者の中等教員社会における位置と教師像ー早稲 田大学高等師範部出身者の事例ー」) 

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 上記の太田論文には、昭和戦前期の受験案内から次のような文章が紹介されています。

 高等師範学校に入学すれば、学費は国家から補 助 さ れ、卒業すれば独りで就職先が決まり、且つ中 等教員としては最高の地位で、待遇も不景気時代の学士様の安サラリーに反し,月額九十円内外を給せられるといふのであるから、正に高師様様といふやうになり、全国の秀才揃ひの入学志願者が殺到して、とても凡才連中の入れさうなところではない 。
(中略)
 高等師範学校には入れないが、中等教員にはなりたい。(中略)『検定試験も困難だから、何とかして中等教員の無試験検定を得られる学校に入り度い』と希ふ人々 の為にあるのが、この無試験検定許可の学校である。(中略)具体的に云へば、私立大学にある専門学校令の高等師範部乃至は高等師範科などは、この適例と看るべきであらう。 (「受験と学生」編輯部編「 中等教員検定試験受験案内」昭和15年・1940、研究社)

 前回に見たように、大正年間における「試験検定」(文検)の平均合格率が9.3%と1割にも満たなかったのに対して、「無試験検定」の場合は大正7年(1918)で85%、だいたい80から90%の間でありました。

 こうした状況を指して「点が甘い」と言っているのでしょうが、もちろん在学中の成績には一定の水準以上を要求されますから、各大学とも高等師範部の学生は、その他の学部学科の学生に比して、真面目に勉強する学生が多かったと言われています。

 このあたりの記述には、当時の世間一般の私立大学生に対する偏見も影響しているのではないでしょうか。

    あるいは、苦学する青年を描いた名作路傍の石の作者である山本有三の見方でもあったかも知れません。

 

 最後に「金持のお坊ちゃんがほとんど遊び半分に通っている学校」という箇所についてです。

 行介の生い立ちについてはよくわかりませんが、おそらく経済的理由から、官費の師範学校(当時は中等学校でした)に進んだ彼は、私立の大学や専門学校などに進んだ人達のことを、自分たちとは対照的な存在と見て「金持のお坊ちゃん」と呼んだのでしょう。

 私学に入った人が皆「金持のお坊ちゃん」だったかどうかは疑問です。苦学生も多くいたことでしょう。学生やその家庭の経済的な実態を調べるすべもありませんが師範学校生については、その出自、家庭状況についての研究があります)、念のために主な学校の授業料についてまとめてみました。

 

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 上記の案内では、さらに「学費調査」として、概ね次のような額を平均として挙げています。
 

下宿料16円 授業料月額3円50銭 書籍費2円50銭 雑費7円  学友会費2円
制服制帽靴代3円20銭  合計34円20銭

 これらは3年前の大正4年に比べて5割の増だそうで、この間の物価高騰の激しさがよく現れています。

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早稲田大学の図書館(大正3年・1914、早稲田大学ホームページより)

 その頃の小学校教員の給与は全国平均で月額29円67銭2厘でした。

大正8年「市町村立小学校教員月俸平均」海原徹『大正教員史の研究』より)

 こうして見てくると、もし行介が文検に受からず、小学校教員のままで、一人息子の駿を私立大学に進ませようとしたとすると、なかなか大変な状況な状況だったことが分かりますね。

山本有三「波」③ 中等教員検定

 行介はきぬ子との間に出来た男の子(実の子どもではないのではと悩んでいたが・・・)を里子に出すことにしました。

 

 行介もさすがに残り惜しいような気がしないでもないが、しかしこれで駿(すすむ)の片がつけば、彼は本当に身軽になれるばかりでなく、十分勉強も出来ると思った。彼は一生小学校の教員で終わりたくなかった。せめて中等教員の免状ぐらいは取っておきたかった。その素養を土台にして、彼はもっと先の研究もしたかった。で、今まででも僅かな時間と費用とを割いて、こつこつと勉強していたのだった。今度、駿の里扶持の金が浮けば、夜学にも通えると彼は思った。
(中略)
 しかし中等教員検定試験の日が近づいたので、行介はあまりそんなことを考えている暇はなかった。試験は今度で三度目だった。今度駄目だったら、彼はもう諦めようと思っていた。彼は中等教員になりたいのが主眼ではなかった。何かこういうものを目標にして勉強しなくては、なかなか勉強が出来ないと思ったからだった。
 試験の日が来た。予備試験はうまく通った。本試験も大抵うまく行ったような気がするが、一題あやふやなのがあって心配だった。学校の卒業試験ならば無論大丈夫だが、検定試験では少しでも怪しいのがあると通過は困難だった。金持のお坊ちゃんがほとんど遊び半分に通っている学校では点が甘くって、高等の学校に入学出来なかった、むしろ同情されるべき立場にある人達の方が、却(かえっ)て苛酷に採点されるというのは、実に妙な話だがそれが現在の実情だった。

  長年の努力の甲斐あって、行介は中等教員の英語の検定試験に見事合格し、小田原市内にある某中学校に採用されることになりました。

■ 「文検」とは
 行介が受験していた「中等教員検定試験」というのは、正式名称を「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」(略して「文検:ぶんけん)といいました。
 明治17年(1884)から昭和23年(1948)までの60年余の長きにわたり実施されていた中等教員免許の検定試験でした。
 ここで、戦前の旧制度下における中等学校教員(中学校、高等女学校、師範学校、実業学校)の教員養成制度の概略を見ておくことにします。
当時の中等学校教員(中学校・高等女学校・師範学校)の養成資格取得について分類すると次のようになります。

(1)目的学校による養成・・・高等師範学校、女子高等師範学校、臨時教員養成所
(2)検定による資格取得
   ①無試験検定(出願者の提出した学校卒業証明書・学力証明書等を通じて判定する間接検定方式)
   ○指定学校方式・・・官立高等教育機関帝国大学、高等学校等)卒業生について検定する。
   ○許可学校方式・・・公私立高等教育機関の卒業生について検定する。
   哲学館(東洋大学)、國學院國學院大学)、東京専門学校(早稲田大学)等
   ②試験検定(出願者の学力・身体・品行を試験によって判定する直接検定方式) 
    「文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験」(文検)

 

 

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「文検」受験者向けに多くの参考書や問題集が出版されていました。

 統計が残されている第8回(明治27年・1895)から第71回(昭和14年・1939)までの総計で、受験者は23,395人。毎回の合格率が10%前後という、相当な難関でした。

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大正年間の「文検」受験者と合格者数

■ 小学校教員と中等学校教員 ー給料の格差ー
 明治時代以来、中等学校の教員は給料も社会的地位も小学校教員に比べると、はるかに高いものがありました。
 夏目漱石坊っちゃんの中で、教頭の赤シャツが「元来中学の教師なぞは社会の上流に位するものだからして」と言う場面がありますが、社会的威信の高い職業と見なされていたのです。
 若い小学校教員の中には独学で検定試験合格に向けての受験勉強に励む者が多く見られ、一時は「小学校教師の試験病」(天野郁夫『学歴の社会史ー教育と日本の近代』)と揶揄されたことがあるほどでした。

 それでは、待遇にどれほどの格差があったかのでしょうか。
 陣内靖彦『日本の教員社会ー歴史社会学の視野』には、次のような数字があがっています。
 

大正6~8年頃(1917~1919)※免許状、職階などの条件は考慮せず
 小学校教員の平均月俸 22円~30円
 中学校及び甲種実業学校 49円~55円

  具体的な一例を挙げてみましょう。
 大正4年(1915)度の「東京府学事関係職員録」からです。額は同書掲載の俸給表より。諸手当、加俸額などは含んでいません。

 それぞれの学歴の詳細までは分かりませんが、中学校教員は小学校教員のおよそ2倍近い給料をもらっていたと見てよいでしょう。

 ○府立第三中学校の場合 
 校長(奏任官待遇)年額1500円(月額125円)
 教諭中の筆頭者(奏任官待遇)年額1000円(月額83.3円)
 判任官待遇の教諭中 最高俸給月額70円 最低40円
 全教諭の平均俸給月額57.3円 ※俸給表をもとに計算しています。

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 ○深川尋常小学校
 校長(判任官待遇)70円
 訓導中 最高俸給月額50円 最低16円
 全訓導の平均俸給月額30.8円

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 陣内・前掲書では、小学校教員の置かれた状況について、次のように述べられています。

 中等教員の生活が全体として楽であったとは必ずしも言えないけれども、それと比べて小学校教員は物質的にも、世間の評価からしても貧弱な相貌を呈していることは否定すべくもなかった。向上心に燃える青年教師の中には、こうした窮状にあき足らず、この世界から抜け出して、もっと華やかな世界にはばたきたいとひそかな野心を懐いていた者も少なくなかったであろう。

 

山本有三「波」② 尋常夜学校

 行介の受け持つ組で級長をしている君塚きぬ子は、生活苦から大阪の芸者屋へ「下地っ子」として売られていきました。行介は大阪の警察に知り合いがあったことから、抱え主に掛け合ってもらい、二年間での借金返済を条件にきぬ子は東京に戻りますが、父親は彼女を精工舎で働かせます。学業の継続を願う行介は、14歳になっているきぬ子を「夜学の尋常科」に入れる手続きを取りました。

 尋常夜学校は学齢になっても小学校にはいらなかったもの、昼間働いているために通学出来ないもの、そういう人達を重(おも)に収容していた。だから二十で尋常一年生というような生徒もいた。そして一つの教室に各学年の生徒が雑居しているから、一方で五年生が算術をやっている間に、三年生は読本を読んでいるという工合で、何のことはない、昔の寺子屋という観があった。
 それだけ教えにくくはあったが、行介は少ない給料をいくらかでも多くするために、この夜学部の方にも一週二日ずつ働いていた。それできぬ子にもまた教室で時々顔を合わせた。彼女は昼間時計工場で時計の機械磨きをやって、疲れ切った体を、夜には感心に学校に運んだ。併(しか)し余程(よっぽど)疲れるものと見えて、彼女はよく教室で居眠りをした。 (二ノ十二)

※本文は岩波文庫版によるが、新字・新仮名に改めています。

  東京市では、日露戦争後に大小多数の工場が増設され、家庭の経済状況からそうした工場で働かざるを得ない学齢期の児童のために、「特殊夜学校(夜間小学校)」(または特殊夜学部とも呼ばれた)を設置しました。

 明治39年(1906)に神田・京橋・小石川・下谷に開設されて以降、大正3年(1914)までに34 校の特殊夜学校が設置され、そこで学ぶ児童生徒数は増加の一途をたどりました。

 「市立尋常夜学校学則」(大正5年・1916)によると、この夜学校は次のように規定されていました。

・対象・・・原則として12歳以上で義務教育の課程を修了しておらず、昼間の就学が出来ないもの
・修業期間・・・3カ年(半年6期に分ける)
・授業時間・・・毎夜2時間を3時限に
・授業料・・・不要、学用品等は給与または貸与
・教科目・・・ 修身 国語 算術 日本歴史 地理 理科 図画 唱歌 体操 裁縫(女子) 

※1週18時間の授業のうち、学年により異なるがほとんど国語と算術

※下記のように「各種学校」に分類され、卒業しても尋常小学校卒業の資格は得られなかった。

 

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東京市学事年報第18回」(1921)より、大正7年度(1918)夜学校の統計

 夜学校では専任の教員は極めて少なく、全教員の3分の2は昼間の教員が兼任したり、行介がそうであったように、アルバイトの教員を雇ったりしていたようです。

 在籍していた児童生徒の内訳ですが、大正14年(1925)の卒業生の場合、次のようになっていました。

卒業生職業
店員・見習い小僧 261  徒弟職工 371  給仕 25  女工 46 

芸妓見習い 34  女中 67  子守 29  家事手伝い 88 

無職14  その他 54   合計991 

 

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昭和57年(1982)俳優座「波-わが愛」 作:山本有三 演出:島田安行 

■ 不就学の多さ

 行介が勤めていた特殊小学校のあった深川区(現在の江東区の北西部)は、大正10年(1921)の東京市内の細民に関する調査」東京市)によると、東京市内で最も生活困窮者の比率の高い区となっています。
 世帯数では東京市内で「細民」と規定された18,351世帯のうち4,818世帯(26.3%)。人口では74,493人のうち19,303人(25.9%)という高い数値が残っています。

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下谷区浅草区の「細民」街の住居の様子と子供たち(大正10年東京市社会局「東京市内の細民に関する調査」より)

 こうした環境では子供たちも十分な教育を受けられないことが多く、下の表のように、不就学者の比率は概して東京市の平均よりも高い数値を示していました。

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■ 就学の猶予と免除

 明治33年(1900年)の「小学校令」(第三次)では、小学校を尋常・高等の二段階とし、修業年限は各四か年としました。就学義務の学齢は六歳から十四歳に至る八か年で、父母・後見人は尋常小学校四か年(明治40年、六年に延長)を修了するまでは児童を就学させる義務があるとしています。

 ところが、「小学校令」は第33条で「就学務の免 除と猶予」について定めていました。

第五章 就学

第三十三条 学齢児童瘋癲白痴又ハ不具癈疾ノ為就学スルコト能ハスト認メタルトキハ市町村長ハ監督官庁ノ認可ヲ受ケ学齢児童保護者ノ義務ヲ免除スルコトヲ得

学齢児童病弱又ハ発育不完全ノ為就学セシムヘキ時期ニ於テ就学スルコト能ハスト認メタルトキハ市町村長ハ監督官庁ノ認可ヲ受ケ其ノ就学ヲ猶予スルコトヲ得

市町村長ニ於テ学齢児童保護者貧窮ノ為其ノ児童ヲ就学セシムルコト能ハスト認メタルトキ亦前二項ニ準ス

   就学の猶予や免除を認められた者は、明治43年(1910)で 約14万 人でしたが、それ以降も大正6年(1917)までは毎年10万人以上に上っていました。

 そのうちの約70%近くが貧困を理由とするものとされています。

(田中勝文 「学齢児童就学奨励規程」制定の背景)

 

■ 児童労働・工場法・夜学校

 明治44年(1911)にようやく成立した「工場法」は、労働者の最低年齢、少年および女性に関する労働時間制限・夜業禁止・休暇等の規定等を定めたものでしたが、適用範囲は「常時15人以上の職工を使用する工場」という抜け道が設けられていました。

 また、「満12歳未満の学齢児童でも、工場内に義務教育の施設を設ければ軽易な作業 に使用できる」ことになっていました。

 その実態は以下のようであったということです。

 約2万人余の学令児童が「工場法」の施行下で適用工場に就労していたことになる。 これら労働学令児童は(中略)その80%ちかくが染織工場に働き、10%あまりが化学工場に就労していた。 染織工場の中でも紡績業と織物業がもっとも多く、 染織工場中の過半をこの二つの業種が占め、 ついで製糸業と紐物編物業がそれに次いでいる。化学工場ではほとんどの児童が、 硝子・陶磁器等の窯業と燐寸製造業に従事し、 とりわけ燐寸製造業に化学工業中の約6割の児童が就労していた。

(田中勝文「児童労働と教育 ー1911年工場法の施行をめぐってー」)

 

 貧困による不就学児童の問題は、大正期半ば以降、大きな社会問題となっていきました。

    それは東京のみならず、大阪市、神戸市、名古屋市などの主要大都市に共通する問題でした。

 「東京市における尋常夜学校の入学者と卒業者」

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 (川向秀武「東京における夜間小学校の成立と展開」より) 

 

 大都市を中心として、各地に夜学校が開設されていきましたが、上の東京市における卒業者の比率から分かるように、昼間厳しい労働にさらされている児童生徒にとって、その修学は並大抵のものではありませんんでした。

 そして、何よりも財政的、物質的な補助の乏しさが常態化していました。

    また、この学校がいわゆるスラム街に設置されることが多かったために、貧困イメージの定着、差別意識の助長等々、様々な問題を抱えながらの学校運営が続いたのでした。

 

※「日本近代文学大系」では「深川区のT小学校」でしたが、岩波文庫版では「深川区の○○小学校」となっています。やはり、地名が特定されることに配慮してのことでしょうか。いかにも、岩波らしいですね。

山本有三「波」① 特殊小学校

 本ブログで山本有三の作品を取り上げるのは、「路傍の石」に続き2回目となります。

【作品】

長編小説。1928年(昭和3)7月から11月まで『朝日新聞』に連載。「妻」「子」「父」の三部構成で、翌年2月に朝日新聞社刊。小学校教師見並行介(みなみこうすけ)は、売られた芸者屋から逃げ出してきた教え子君塚きぬ子と過失を犯し、責任感から結婚する。が、彼女は医学生と出奔し、連れ戻されるものの、男の子を生んで死んでしまう。遺児進(すすむ)が自分の子かどうかに悩んだすえに、やがて彼は、子供は私有物ではなく、社会の子であり人類の子なのだという考えにたどり着く。繰り返し打ち寄せる荒波のように、「あやまち、迷い、愛し、苦しみ、争い、疲れつつ、死んでいく」人生にあって、なお誠実に生きることの意味を問いかけた、求道的な作品。(日本大百科全書・ニッポニカ)

 

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【作者】

[生]1887(明治20).7.27. 栃木
[没]1974(昭和49).1.11. 熱海
劇作家,小説家。本名勇造。東京帝国大学独文科卒業。 1910年第一高等学校在学中に戯曲『穴』を書き,雑誌『歌舞伎』に掲載され上演もされた。 14年3月第3次「新思潮」を豊島与志雄菊池寛久米正雄芥川龍之介らと興した。 16~24年早稲田大学の講師をつとめ,辞任後,作家生活に入った。 20年『人間』誌上に発表した『生命の冠』が井上正夫一座によって上演され,劇作家としての地歩を固め,『嬰児殺し』『坂崎出羽守』『同志の人々』『女人哀詞』『米百俵』など 20編余の戯曲を執筆。 23年頃から小説も書きはじめ,『波』『女の一生』『真実一路』『路傍の石など,その作品は,社会的視野に立って生活のなかの理想と現実の相克を追求し,広い読者層から支持された。国語問題にも尽力し,41年帝国芸術院会員。 46年貴族院議員に勅選され,翌年参議院議員。 65年文化勲章受章。
出典 (「ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典」)

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■ 特殊小学校!? 

 行介が深川のT小学校に奉職したのは、もう七、八年も前のことである。そこは、いわゆる特殊小学校で、月謝は無論とらないし、教科書なども、たいていは支給していた。そういう学校だから、生徒の家庭はほとんど貧しいものに限られていた
 彼が最初に受け持ったのは、尋常三年の女生徒の組だった。この級は柏木(かしわぎ)訓導の受け持ちで、一年からずっと持ちあがってきたのが、不幸にして同訓導が重病にかかったので、行介がそのあとを引きついだのであった。きぬ子はその生徒のうちのひとりだった。
 師範を出たばかりで、すぐ女生徒を受け持つのは、かなり苦しいことだった。学課以外に、時には、生徒の髪を結んでやったり、髪にわいてるシラミを取ってやらなくてはならないようなことが、往々あったけれども、実地に教育に携わる喜びは、どんな労苦をも労苦とは思わなかった。もとより教壇の上から見る生徒は、どれも一様に彼の子どもだった。ある生徒をより多く愛し、ある生徒をより少なく愛するというようなことは、いっさいなかった。ただ、きぬ子だけは級長をしていたので、いくらか多く目についたが、級長にしては、そう頭のいいほうではない、と思ったくらいで、彼女を特別にかわいがるということはなかった。(二ノ一)

※作品が新聞に掲載されたのは、昭和3年(1928)ですが、主人公が当該の小学校に勤め始めたのは、「もう七、八年も前のこと」とあるので、作中時間は大正半ば頃と思われます。

  手元にある『日本近代教育史事典』(平凡社)にも、「特殊教育」(現在の特別支援教育)の項目はありますが、「特殊小学校」は見当たりませんでした。

 「CiNii Articles - 日本の論文をさがす」で調べると、いくつかの論文が見つかりました。

 それらの内容をもとにまとめてみると、次のようなことがわかりました。

 明治期における東京のスラム街(貧民窟)の実態については、松原岩五郎『最暗黒の東京』明治26年・1891)や横山源之助『日本之下層社会』明治32年・1899)などによって、明らかにされてきました。
 そうしたスラム街における「貧困」、「児童労働」、「不就学」などへの対策として東京市が設けたのが、この「特殊尋常小学校でした。
    設置されたのは、俗に「三大スラム」と呼ばれた、下谷区万年町、芝新網町、四谷区鮫河橋町を初めとする大規模なスラム街の10箇所でした。
 東京市が市会に特殊尋常小学校設立の議案を提出した明治34年(1901)において、全国の就学率が88.05%であったのに対して、東京市82.42%。スラムの存在した区では次のような低い数値を示していました。
深川(71.1) 本所(75.9) 下谷(65.7) 四谷(75.2)

(加登田恵子「我が国における貧児教育ー東京市特殊尋常小学校の成立と展開ー」)

 

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松原岩五郎『最暗黒の東京』より「残飯屋」

  「月謝は無論とらないし、教科書なども、たいていは支給していた」とありますが、その実態はどうだったのでしょうか。
 「東京市立小学校施設事項第一輯」(大正6年・1917、東京市教育課:国立国会図書館デジタルコレクション」に記載された「萬年特別尋常小学校についての記述をまとめてみました。

1 主な給与品
・学用品・・・半紙 習字筆 筆記筆 鉛筆 雑記帳 綴方帳 算術帳 手工用品 裁縫用品など
・生活用品・・・石鹸・手拭 油元結いビン梳櫛 校内履き物 手巾 洗濯石鹸 児童会費 保護者会費
・その他・・・疾病手当用品 運動会・遠足用品(1回1銭五厘) 式日用品  

2  授業時間
・昼間部・・・1~4学年は半日二部教授 毎週18時間(4~6月は24時間)
・夜間部・・・5・6学年は午後6時から9時、毎週18時間 

3 生計上の補助
・特別手工科・・・万年人形を主とする粘土細工(男子)編み物(女子)
※生活上の困難の甚だしい者には、実業家との連絡を取りながら、仕事を紹介している。 

幼児保育・・・保育の施設はないが、幼い弟妹を連れて登校、近くの「幼児受託場」に預けさせ、子守のために就学の機会がなくならないようにしている。
・衣類食料の給与

 

4 収容方法と収容者数
イ 本校職員の「奨励説諭」により申し出た者
ロ 区役所より指定された者
ハ 家主、警官、医師、僧侶などの紹介で次の職業に相当する貧困な者
 ①紙屑拾い 日傭人足 下層の日給取り 人力車夫 荷車挽き 刃物研ぎ 蝙蝠傘の骨直しなど
 ②内職、家内工業に従事する者  
ニ 開校以来の収容者数(明治36~大正6年・1903~1917)
 男子1732人 女子1909人 計3641人

5 出席奨励法
 通学団・・・各学級毎に通学団を設け、団長には団員の出席を督励させ、学級担任への遅刻欠席の届けもさせる。

6 家庭訪問 

 欠席や遅刻の多い者には担任が家庭訪問をし、行方不明または奉公に出た者については、2~3ヶ月は在籍として注意を払う。

7 褒賞 

 学期末学年末に、「出席状況良好なる者」に対して賞状賞品を与える。
 出席状況良好な学級は学期末学年末に賞状賞品を与えて表彰する。 

 

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明治45年 山梨県甲府市の子守学校

(弟妹の子守の為に就学できない子どもをなくそうと各地に設置されていた。

甲府市ホームページより)

 主人公の見並行介は、こうしたずいぶん厳しい環境に置かれた生徒達に、分け隔てなく愛情をそそいで、誠実に対応する青年教師として描かれています。

 

 

    東京市が設置した「特殊小学校」のような学校の例が他の都市にもあったのか否かについては、これから追々に調べていきたいと思います。

谷崎潤一郎「小さな王国」⑧ 教員の待遇をめぐって

 七人目の子を生んでから、急に体が弱くなって時々枕に就いて居た貝島の妻が、いよいよ肺結核と云う診断を受けたのは、ちょうどその年の夏であった。M市へ引き移ってから生活が楽になったと思ったのは、最初の一二年の間で、末の赤児は始終煩(わずら)ってばかり居るし、細君の乳は出なくなるし、老母は持病の喘息が募って来て年を取る毎に気短かになるし、それでなくても暮らし向きが少しずつ苦しくなって居た所へ、妻の肺病で一家は更に悲惨な状態に陥って行った。貝島は毎月三十日が近くなると、一週間も前から気を使って塞ぎ込むようになった。貧乏な中にも皆達者で機嫌よく暮らして居た東京時代の事を想うと、あの時の方がまだ今よりはいくらか増しであったようにも考えられる。今では子供の数も殖えて居る上に、いろいろの物価が高くなったので、病人の薬代を除いても、月々の支拂いは東京時代とちっとも変わらなくなって居る。それに若い頃なら此れから追々月給が上ると云う望みもあったけれど、今日となっては前途に少しの光明もあるのではない。

 

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■ 小学校教員の経済的困窮

 

 M市に転任してきた頃の貝島は、月俸45円というまずまず恵まれたと言えるような給与を貰っていましたが、その後は引用文にあるような状況が出来して、「一家は更に悲惨な状態に陥って」いきました。

※参考

https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2021/03/02/114654
谷崎潤一郎小さな王国」③ ○ 貝島の俸給額は・・・

 小学校教員の”安月給”は、明治以来長らく言われ続けてきたことではありますが、大正期半ば以降は一層その度合いを増していきました。

 背景には、大正2年(1913)から大正9年(1920)までの7年の間に、消費者物価ともに平均2倍強にも上昇するという厳しい経済の状況がありました。

 貝島のみならず、小学校教員の多くが、インフレによる生活費の高騰に苦しんだ時代でした。

 そうした状況下で、「教育時論」「日本之小学教師」などの教育ジャーナリズムは、アンケートによる生活実態調査などをもとに、小学校教員の待遇改善を強く訴え続けました。
 大正7年(1918)に「義務教育費国庫負担法」が成立。小学校教員の標準月俸は同年と大正9年(1920)の二度にわたり改正、増額されて、一時は下のグラフのように急上昇を示しますが、物価上昇の勢いはそれ以上の激しさでした。

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■ 副業や内職を勧める文部大臣!?

 文部当局は上述のように、増俸の措置を取りましたが、「物価騰貴の激しさはこのていどの増俸措置をほとんど帳消しにした。それゆえ文部省は、この前後、勅令に関連するいくつかの訓令を発し責任の一端を果たす、というより責任逃れ」をするに至りました。(海原徹『大正教員史の研究』)

 1「教員家族副業訓令」大正8年8月6日)

 2「食糧訓令」(大正8年7月29日)・・・代用食の推奨も

 3「消費節約訓令」(大正8年8月19日)・・・質素倹約の実践は教員から

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戦後経営の方策として国民生活の充実と国富の増殖を図ることは今日最も緊要とするところである。固よりこれは容易な業でないから、国民は此の際非情な決心を以て之に当たらなければならぬ。
即ち徒に勤労を賤しみ漫りに徒食を誇るが如き旧来の陋習は断じて之を打破し、更に進んで大に業務を励み家産を治める一大覚悟を要するのである。教育の任に当たる者は単に学校に於いて此の趣意を生徒児童に教ふるに止まらず、延て弘く之を社会に勧め、尚事情の許す限り其の家族をして適当な副業に従事させることは実に勤労を尚ぶの美風を作興するものであって、又前述の方策に適応する所以である。 (漢字かな交じり、新字体に改めています)

 

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訓令を発した文部大臣・中橋徳五郎(文久元年~昭和9年・1861~1934)

 この訓令を知った(読んだ)教員たちは、いったいどんな気持ちだったでしょうか。

 当局の本音は言うまでもなく、「これ以上は増俸の余裕がないから、各家庭で副業や内職をして、家計の助けとしてくれ」ということです。

 それを、言うに事欠いて「徒に勤労を賤しみ漫りに徒食を誇るが如き旧来の陋習」とは・・・。

 もちろん、この文言は教員だけを指して述べたものではありませんが、文脈からそう受け取られても仕方はありません。

 大正7年(1920)から原敬内閣の文部大臣をつとめた中橋徳五郎は、高等教育機関大増設(高等学校10校、専門学校29校、医学専門学校5校の設置、東京高等商業学校の大学昇格など)の功績で知られている人物ですが、こんなお粗末な訓令を発していたとは知りませんでした。

 

■ 師範学校入学志望者の減少

 明治中期以降は4~5倍の志願倍率を維持していた師範学校の入学希望者ですが、次第に減少し始め、大正期に入ると急激な落ち込みを見せるようになりました。

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 この間の事情について、『兵庫県教育史』は次のように述べています。

 明治初期における師範学校は県下の最高学府であり、その生徒は一種のプライドを持っていた。ところが明治三十年代以降、県立中学校があいついで設立されると、前途有為の青年は多くこれらの中学校に入学し、師範学校は兵役のがれや、学資に不自由な人たちの入学する傾向が強くなった。
 また資本主義の発達は、金銭的にめぐまれぬ教師の地位を低いものとし、しだいにその職業を魅力のないものとしていった。(中略)
 特に第一次世界大戦後の好況期には、世人の教師観もきわめて軽視的となり、師範学校では生徒募集難におちいるありさまであった。(中略)
 そこで憂慮した県当局では、まず生徒給費を増額して入学志願者の誘引につとめ、さらに大正九年以降、従来まったくその例をみない入学準備金をさえ与えることにしたのである。
 しかし当局の苦心にもかかわらず、戦後のインフレ好況時代とあって、入学志願者は依然として増加せず、ついに大正八年には、県下の三師範学校とも、生徒の再募集をしなければならなくなった。

 

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大正4年(1915)の兵庫県立御影師範学校国立国会図書館「写真の中の明治・大正」)

 さて、「金銭的にめぐまれぬ教師の地位」とありますが、他の職業と比べるとどうだったのでしょうか。
 下の表は、大正8年(1919)の埼玉県の例ですが、学歴としては師範学校よりも低い中学校や商業学校卒の銀行員や鉄道現業員のほうが、高い初任給をもらっています。

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 また、大工職や左官職の日給をみると、どちらも1円50銭となっており、月25日の計算では月額は37~8円となります。小学校教員は師範出の正教員であっても、それらの労働者以下の待遇であったと分かります。

 

■ 転退職者の増加

 安月給の小学校教員という職に魅力を感じない青年たちが、師範学校を志望しなくなっただけでなく、現職の教員たちの中にも薄給による生活苦や将来の展望が見出せないことなどから、転職退職をする者が増えていきました。
 時あたかも大戦後の好景気で、商工業方面に人的な需要が高まったことも大きな要因でした。
 教育活動の中心となるべき正教員の流出を、当局は准教員や代用教員で補充しましたが、それでも教員不足はなかなか解消せず、当然のことながら教育活動の質的低下も避けられない様相を呈してきました。

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石川県師範学校大正8年卒業写真

(平成19年度金沢大学資料館・附属図書館特別展 「写真で見るいしかわの師範学校」)

 

谷崎潤一郎「小さな王国」⑦ 「怖い先生」から「面白いお友達」へ

 修身の時間に私語をする沼倉を叱り、立たせようとした貝島に、全級の生徒が「先生、僕も一緒に立たせて下さい」と言いました。
 貝島は予想外の事態に「癇癪と狼狽の余り、もう少しで前後の分別もなく」怒号するところを、ベテランらしく自制して、沼倉を懲罰するのをやめてしまいました。
 この一件があってから、貝島は「沼倉という一少年が持って居る不思議な威力について、内心に深い驚愕の情を禁じ得なく」なります。

 

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大正5年(1916)富岡尋常小学校卒業写真

(愛知県新城市「富岡ふるさと会館ホームページ・歴史写真館」)

 貝島は「全級の生徒を慴伏(しょうふく)させて手足の如く使う」沼倉のことを、同じクラスに在籍する長男の啓太郎から聞き出しました。 
 啓太郎によると「要するに、彼は勇気と、寛大と、義侠心とに富んだ少年であって、それが次第に彼をして級中の覇者たる位置につかしめたものである。(中略)実際沼倉は、『己は太閤秀吉になるんだ』と云って居るだけに、何となく度量の広い、人なつかしいところがあって、最初に彼を敵視した者でも、しまいにはと怡々(いい)として命令に応ずるようになる」というのです。

 貝島は「彼の勢力を善い方へ利用して、級全体の為めになるように導いてやろう」と考えて、ある日の放課後、沼倉を呼んでその統率力を褒めてやりました。

 

 自分は二十年も学校の教師を勤めて居ながら、一級の生徒を自由に治めて行くだけの徳望と技倆とに於て、此の幼い一少年に及ばないのである。  

    自分ばかりか、総べての小学校の教員のうちで、よく餓鬼大将の沼倉以上に、生徒を感化し心服させ得る者があるだろうか。
 われわれ「学校の先生」たちは大きななりをして居ながら、沼倉のことを考えると忸怩(じくじ)たらざるを得ないではないか。われわれの生徒に対する威信と慈愛とが、沼倉に及ばない所以(ゆえん)のものは、つまりわれわれが子供のような無邪気な心になれないからなのだ。全く子供と同化して一緒になつて遊んでやろうと云う誠意がないからなのだ。だから我れ我れは、今後大いに沼倉を学ばなければならない。生徒から「恐い先生」として畏敬されるよりも、「面白いお友達」として気に入られるように努めなければならない。

 

 

 こうして貝島は、これまでのように生徒を威圧して矯正しようとする「恐い先生」ではなく、「面白いお友達」として気に入られる方が、彼らの信頼を集めることができると思うようになりました。

 貝島の「沼倉操縦策」は成功して、「彼が受け持ちの教室の風規は、気味の悪いほど改まって」しまいました。

 実は、沼倉が「折々、懐から小さな閻魔帳を出して、ずっと室内を見廻しながら、ちょちょいとでも姿勢を崩して居る生徒があれば、忽ち見附け出して罰点を加えて居る」
という訳でした。

 

■ 生徒自身による取り締まり!?

 本作品のようなのは極めて特殊なケースでしょうが、いわゆる「生徒自身による生徒管理」という方法が明治時代の中学校では行われていました。

以下の記事をご参照下さい。
https://sf63fs.hatenablog.com/entry/2019/03/28/131914
坊っちゃん」に見る明治の中学校あれこれ コラム21 明治のトンデモ校則③

 

  ここからは、多分に推測の域を出ませんが、作者の谷崎が東京府立第一中学校府立一中、現在の都立日比谷高等学校)に在籍していた明治34~38年(1901~1905)の間、同校の校長であった勝浦鞆雄が、この生徒間での取り締まりの重要性を唱え、実際多くの中学校で実施されていたということです。(斉藤俊彦『競争と管理の学校史ー明治後期中学校教育の展開』)

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 これは、級長(組長)に学級内生徒の監督、指揮、観察などの権限を与え、学級内の秩序維持を図ろうとしたものでした。
 作中で、沼倉が「小さな閻魔帳を出して、ずっと室内を見廻しながら、~忽ち見附け出して罰点を加えて」いるという描写は、作者自身が実際に見聞きしたか、或いは自ら
経験したことがあるのではないかとも思われるのですが、いかがでしょうか。

 

■ 「怖い先生」から「面白いお友達」へ

 この小さな王国が発表された大正7年(1918)頃、我が国の教育界は、明治以来の「知識注入型」、「画一的」、「管理主義」などの言葉で批判されてきた「旧教育」から「新教育」への転換期にありました。

 いわゆる大正自由主義(デモクラシー)運動を背景に、教育界には「新教育」と呼ばれる理論や実践が活発に導入されていました。
 「児童の個性の理解」とともに、その「尊重」を唱える、いわゆる「個性尊重主義」が、教育界に広がっていった時期でした。

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大正6年(1917) 澤柳政太郎が創設した成城小学校

 言い換えると、「教師本位主義」から「児童本位主義」への移行を促すような大きな流れが起きており、貝島たちもその中に置かれていたのです。
 

 「『怖い先生』から『面白いお友達』へ」という貝島の発想の転換は、そうした時代背景の中で理解できるのではないでしょうか。
 「教育のパラダイム(支配的規範となる物の見方や捉え方)推移と同じように、貝島の教育のあり方も変化を余儀なくされた」(出木良輔「谷崎潤一郎小さな王国」論ー「新教育をめぐって」」)というのが、教育史からみた本作品の位置づけということになります。