小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

中勘助『銀の匙』その2 日清戦争下の小学校ーちゃんちゃん坊主と大和魂ー

と 主人公が重い麻疹(はしか)に罹って学校を休んでいる間に、大好きな中沢先生ー病気のために予備役になっていた元海軍士官ーは、日清戦争の勃発により招集されており、新任の丑田先生が受け持ちになっていましたが、彼はこの先生と全く気が合わないのでした。

 

 それはそうと戦争が始まつて以来仲間の話は朝から晩まで大和魂とちやんちやん坊主でもちきつてゐる。それに先生までがいつしよになつてまるで犬でもけしかけるやうになんぞといへば大和魂とちやんちやん坊主をくりかへす。私はそれを心から苦苦(にがにが)しく不愉快なことに思つた。先生は予譲(よじやう)や比干(ひかん)の話はおくびにも出さないでのべつ幕なしに元寇と朝鮮征伐の話ばかりする。さうして唱歌といへば殺風景な戦争ものばかり歌はせて面白くもない体操みたいな踊りをやらせる。それをまたみんなはむきになつて眼のまへに不倶戴天のちやんちやん坊主が押寄せてきたかのやうに肩をいからし肘を張つて雪駄の皮の破れるほどやけに足踏みをしながらむんむと舞ひあがる埃のなかで節も調子もおかまひなしに怒鳴りたてる。私はこんな手合ひと歯(よはひ)するのを恥とするやうな気もちでわざと彼らよりは一段高く調子をはづして歌つた。また唯さへ狭い運動場は加藤清正北条時宗で鼻をつく始末で、弱虫はみんなちやんちやん坊主にされて首を斬られてゐる。町をあるけば絵草紙屋の店といふ店には千代紙やあね様づくしなどは影をかくして到るところ鉄砲玉のはじけた汚らしい絵ばかりかかつてゐる。耳目にふれるところのものなにもかも私を腹立たしくする。ある時また大勢がひとつところにかたまつてききかじりの噂を種に凄(すさま)じい戦争談に花を咲かせたときに私は彼らと反対の意見を述べて 結局日本は支那に負けるだらう といつた。この思ひがけない大胆な予言に彼らは暫くは目を見合はすばかりであつたが、やがてその笑止ながら殊勝な敵愾心(てきがいしん)はもはや組長の権威をも無視するまでにたかぶつてひとりの奴は仰山に
「あらあら、わりいな、わりいな」
といつた。他のひとりは拳固でちよいと鼻のさきをこすつてみせた。もうひとりは先生のまねをして
「おあいにくさま、日本人には大和魂があります」
といふ。私はより以上の反感と確信をもつて彼らの攻撃をひとりでひきうけながら
「きつと負ける、きつと負ける」
といひきつた。そしてわいわい騒ぎたてるまんなかに坐りあらゆる智慧をしぼつて相手の根拠のない議論を打ち破つた。仲間の多くは新聞の拾ひ読みもしてゐない。万国地図ものぞいてはゐない。史記十八史略の話もきいてはゐない。それがためにたうとう私ひとりにいひまくられて不承不承に口をつぐんだ。が、鬱憤はなかなかそれなりにはをさまらず、彼らは次の時間に早速先生にいつけて
「先生、□□さんは日本が負けるつていひます」
といつた。先生はれいのしたり顔で
「日本人には大和魂がある」
といつていつものとほり支那人のことをなんのかのと口ぎたなく罵つた。それを私は自分がいはれたやうに腹にすゑかねて
「先生、日本人に大和魂があれば支那人には支那魂があるでせう。日本に加藤清正北条時宗がゐれば支那にだつて関羽張飛がゐるぢやありませんか。それに先生はいつかも謙信が信玄に塩を贈つた話をして敵を憐むのが武士道だなんて教へておきながらなんだつてそんなに支那人の悪口ばかしいふんです」
  そんなことをいつて平生のむしやくしやをひと思ひにぶちまけてやつたら先生はむづかしい顔をしてたがややあつて
「□□さんは大和魂がない」
といつた。私はこめかみにぴりぴりと癇癪筋のたつのをおぼえたがその大和魂をとりだしてみせることもできないのでそのまま顔を赤くして黙つてしまつた。
  忠勇無双の日本兵支那兵と私の小慧(ざか)しい予言をさんざんに打ち破つたけれど先生に対する私の不信用と同輩に対する軽蔑をどうすることもできなかつた。
                            (後篇 二 傍線は筆者)

「日本大勝利平壌攻撃ノ圖」(「日清戦争錦絵美術館」より、https://nissinsensonishikie.jimdo.com/#gsc.tab=0

 

■ 軍国主義的風潮の高揚

 開戦後まもなく、文部省は「北海道及び府県に対する小学校の体育及び衛生に関する訓令」(明治27年8月29日、文部省訓令第六号)を発しました。
 内容を分かりやすく箇条書きにすると以下のようになります。

 一 普通体操、兵式体操ともに手足、全身の筋肉を活発に動かすような体操を行うこと。
 二 高等小学校男子は兵式体操の授業においては、軍歌を歌うなどして気勢を上げるようにすること。
 三 小学校生徒には活発な動きが出来るように、洋服和服を問わず筒袖を着用させること。
 四 放課後も外で活発な遊戯を行うように指導し、「大声、急走、嬉戯」を良くないこととし、「沈静」を良いこととして「品行点」に加えるようなことは好ましくないこと。
 五 筆記や暗誦などに力を入れることは、「過度に脳力」を浪費するので、特に必要がなければやめること。
 六 生徒が困難を覚える作文は初年級の者には課さず、簡単な作文であってもそれを試験問題とはしないこと。
 七 試験の点数によって席順を上下したり褒美を与えることには、生徒の神経を過度に刺激する弊害があり、生徒の身体的成長に害を及ぼすのでやめること。
 八 小学校生徒の喫煙は禁ずること。
 九 都会の生徒が登下校の際に人力車を用いることは軟弱を招くので、なるべく徒歩で登下校するよう指導すること。               ※太字は筆者

 

 この訓令は、小学生徒の間にも「尚武の気風」を醸成させるとともに、「将来の兵士としての小学校生徒の身体への関心を高め」(『福井県史』通史編5/第二章日清・日露戦争と県民/第三節明治後期の教育・社会)ようとするものでした。

高等小学校生徒による兵式体操 「ジャパンアーカイブズ」より

 また、文部省は「修身」の時間に、「教科書を使用しないで授業してもよい」旨の訓令も発しています。その結果、学校現場ではこの戦争を題材にした講話などが盛んに行われるようになりました。
 神奈川県のある小学校では、「日清韓事件ニ付修身時間ノ一部ヲ以テ之ニ関スル歴史談ニ充テ尊王愛国ノ士気ヲ養成センコトヲ図ル」(『明治期の社会と文化』神奈川県立公文書館)として、修身の時間に時局を反映した授業を実施しています。
 その影響でしょうか、児童全員が陸海軍に対する資金献納を申し出るという「美談」まで生まれたということです。

 

 『兵庫県教育史』では、日清戦争と小学生」と題して、戦時色に染まった当時の学校生活や出来事として以下の内容を取り上げていますが、同様のことは全国各地で行われていました。

1 出征兵士の見送り(行き過ぎが軍の注意を受けるほどであった)
2 戦勝祈願のための神社参拝
3 戦勝祝賀会(特に旅順港占領のときには盛大であった)
4 軍資金献納運動(生徒、教員ともに)
5 戦勝祝賀大運動会の開催(軍国調の競技種目に参観者は大喜びであった)
6 各地域の中心的な小学校への戦利品の交付と展示
7 兵式体操の強化
8 軍事指導普及のための軍人講話、兵営の見学、軍艦の参観など

 

■ 「ちゃんちゃん坊主」の氾濫
  

 「ちゃんちゃん坊主」という中国人に対する侮蔑的な呼称の語源については諸説あるようですが、「江戸時代に江戸の町を中国人の格好をして鉦をチャンチャンと鳴らしながら売り歩いていた商人がいた」ことに由来するというのが有力なようです。
    研究者によれば、日本人が中国人を蔑視の対象とし、侮蔑的な言葉を使うようになったのはアヘン戦争で中国が列強に敗退した頃からですが、日清戦争が始まるまでは民衆の中にまでは浸透していなかったということです。(小松裕「近代日本のレイシズムー民衆の中国(人)観を例にー」)
  

 日清戦争開戦時に数え年13歳(高等小学校2年生)だったジャーナリストの生方敏郎(明治15~昭和44年・1882~1969、現在の群馬県沼田市生まれ)は名著『明治大正見聞史』(中公文庫、1978)において、同様のことを述べています。

 私たち子供は学校の先生から色々聞かされてからでも、まだこの戦の始まりはよく分からなかった。
 何故かと言えば、私たちはこの戦の始まるその日まで支那人を悪い国民とは思っていなかったし、まして支那に対する憎悪というものを少しも我々の心の中に抱いていなかったのだから。(中略)

 私等子供の頭に、日清戦争以前に映じた支那は、実はこの位立派な、ロマンチックな、そしてヒロイックなものであった。(中略)
 戦争の初めに持った不安の念が人々から脱れると共に、勝ちに乗じてますます勇む心と敵を軽蔑する心とが、誰の胸にも湧いてきた
 戦争が始まると間もなく、絵にも唄にも支那人に対する憎悪が反映してきた。私が学校で教えられた最初の日清戦争の唄は、
 討てや膺(こら)せや清国を、清は皇国(みくに)の仇なるぞ、討ちて正しき國とせよ。(中略)
 また、俗謡に踊りの振りまで付けて流行したのは、
 日清談判破壊せば、品川乗り出すあづま艦、つづいて八重山浪速艦、・・・・西郷死するも彼がため、大久保殺すも彼奴(きゃつ)がため、怨み重なるチャンチャン坊主
 というのだ。

 

麟児堂主人『ちやんちやん征伐子供の夜話 : 一名・日本男児の精神』
(三井新次郎、1894年)の表紙
開戦後、「ちゃんちゃん征伐」と題する書物が数多く出版されました。

 当初は、「眠れる獅子」と見られていた清国に対する不安や警戒心がありましたが、平壌の一戦に勝利の後は連戦連勝であっために、上で見たような侮蔑の念が人々の間に定着するようになっていきました。

 引用文中には、「また唯さへ狭い運動場は加藤清正北条時宗で鼻をつく始末で、弱虫はみんなちやんちやん坊主にされて首を斬られてゐる」とありますが、そうした風潮は小学生たちの戦争ごっこにも早速影響を与えていたようです。

小国政「日本魂嬰児の闘争」1894年、
「くもん子ども浮世絵ミュージアム」(https://www.kumon-ukiyoe.jp)より

  加熱する軍国主義的教育の風潮に対して、自由主義的・合理主義的な教育思想の持ち主であった時の文部大臣・西園寺公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年~昭和15年・1849~1940)は訓令を発して「戦争唱歌による安手の戦意昂揚や敵愾心の鼓吹を戒め」(海原徹『明治教員史の研究』)ましたが、一片の訓令ではいかんともしがたいほどに学校現場は軍国調一辺倒に陥っていたということです。

 

 小学校に入った頃はビリだった主人公も、この頃には勉強に目覚めたのでしょうか、組長(級長)を指名される(当時は選挙でなく、成績優秀者を教師が指名していた)ほどに成長していました。

 多くの級友とは違い、精神年齢も高かった主人公には、彼らや教師の言動は理不尽で馬鹿らしく、とうてい受け入れがたいものでありました。

 

【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション

※教育史編纂会編『明治以降教育制度発達史第3巻』竜吟社、1938年
小松裕「近代日本のレイシズム : 民衆の中国(人)観を例に」『熊本大学文学部論叢 78』2003年
 生方敏郎『明治大正見聞史』中公文庫、1978年
 ※麟児堂主人『ちやんちやん征伐子供の夜話 : 日本男児の精神』三井新次郎、1894年
兵庫県教育委員会兵庫県教育史』1963年
海原徹『明治教員史の研究』ミネルヴァ書房、1973年
福井県史』通史編5/第二章日清・日露戦争と県民/第三節明治後期の教育・社会
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-2-01-03-01-04.htm
「デジタル神奈川県史 通史編 4」 近代・現代(1) 政治・行政1
 https://archives.pref.kanagawa.jp/www/contents/1555825099952/index.html

 

中勘助『銀の匙』その1   試験と席次

 【作品】長編小説。前編は大正二年(一九一三)四月から大正六年(一九一七)二月まで「東京朝日新聞」に連載。脱俗孤高の詩人として知られる中勘助の幼少年時代を浮き彫りにした作で、夏目漱石はこれを「子供の世界の描写として未曾有のものである」と激賞した。この作品の底には、生きる苦悩を知り始めた少年の切ない思いがこめられている。(『日本近代文学大事典 机上版』)

昭和10年頃、作者50歳前後、「Wikipedia」より)

【作者】中勘助
(1885-1965)明治18年、東京神田生れ。一高をへて東京帝国大学英文科入学、その後、国文科に転じる。高校、大学時代、漱石の教えを受けた。信州野尻湖畔で孤高の生活を送っていたが、父の死と兄の重病という家族の危機に瀕し、1912(明治45・大正元)年、処女作『銀の匙』を執筆、漱石の強い推薦で「東京朝日新聞」に連載された。ほかに『提婆達多』『犬』といった幻想的な小説、『しづかな流』『街路樹』といった随筆がある。
(「新潮社著者プロフィール」https://www.shinchosha.co.jp/book/120571/

 

■席次

 私はそれからは恐しい夢に魘(おそ)はれることもなく体もめきめきと発育するやうになつたが、生得のぼんやりと学校をなまけることとは相変らずであつた。それは虚弱のためばかりでなく、うぶな子供にとつてあまり複雑で苦痛の多い学校生活が私をいやがらせたからである。ただ嬉しいことにはそのときの受持ちの中沢先生は大好きないい人で、おまけに私の席は先生の机のすぐ前にあつた。中沢先生は私がいくら欠席してもなんともいはず、どんなに出来なくてもくすくす笑つてばかりゐた。が、いつか並んでる安藤繁太といふ奴と喧嘩したときにたつたいつぺん叱られたことがあつた。(後略)   (四十) ※下線は筆者、以下同じ

石森延男 編『現代日本名作集』 (「少年少女新世界文学全集38」、講談社、1965年)より

 不勉強の報いは覿面(てきめん)にきていよいよ試験となつたときにはほとんどなんにも知らなかつた。ほかの者がさつさとできて帰つてゆくのに自分ひとりうで章魚(たこ)みたいになつて困つてるのはゆめさら楽なことではない。なかでもつらかつたのは読本だつた。私は最後に先生の机へ呼びだされた。問題は蔚山(うるさん)の籠城といふ章だつた。蔚山なんて字はつひぞ見たこともない。黙つて立つてるもので先生はしかたなしに一字二字づつ教へて手をひくやうにして読ませたけれど私は加藤清正が明軍に取囲まれてる挿画に見とれるばかりで本のはうは皆目わからない。先生は根気がつきて
 「どこでも読めるところを読んでごらん」
といつて読本を私のまへへ投げだした。私はわるびれもせず
 「どつこも読めません」
といつた。試験がすんでからもやつぱり居坐りだつた。私はいちばん前にゐるから一番だと思つてゐた。名札のびりつこにかかつてることも、点呼のときしまひに呼ばれることも、自分が事実できないことさへもすこしの疑ひすら起させなかつた。好きな先生のそばにおかれてちつとも叱られずにゐる、これが一番でなくてどうしようか。それに私はつひぞ免状とりに出たことがなかつたし、学校から帰つて一番だといつて自慢するとみんなは えらい えらい といつて笑つてるので自分だけは至極天下泰平であつた。(四十一)

 名勘助「こまの歌」(「銀の匙補遺」)によると、これは作者が尋常3年明治26年・1893)のときに経験したことを元にしているということで、「事態がこれほど悲壮で劇的で」あったかどうかは「請け合はれない」と断ってありますが、少年時代の忘れ得ぬ思い出の一つであったことに間違いないことでしょう。

  さて、ここでは主人公が教室(当時は「教場」と言いました)の最前列、教卓の前に座らされたことが述べられています。

 実は、これは成績順による「座席の指定」ということを意味しているのです。
 主人公は学校を休みがちで、試験の時もまりっきり答えられず、どうやらクラス最下位の成績で、担任から教卓前の席を指定されているようです。

明治17年に建てられた石川啄木の母校渋民尋常小学校旧校舎の教室
https://tabi-mag.jp/iw0091/

 明治13年(1880)7月「小学教則」には、「毎月末小試験ヲ行ヒ其ノ点数ノ多寡ニ依リテ級中ノ席次ヲ進退ス」とあり、試験成績による教室内の座席上下は、後に見るように明治27年(1894)に廃止されるまで、全国の小学校でごく普通に行われていました。

 

 山田正雄『教育史夜話〈兵庫県〉』(のじぎく文庫、1964年)では、当時の時代背景を「きびしかった初期試験制度」と題して次のように述べています。

 このように毎月試験を行う目的は、生徒の競争心を刺激して、大いに勉強心をおこさせることにあった。そこで試験の結果によって席順を上下するという方法が考え出された。現在、教室における生徒の座席はだいたい身長順によって定められるが、当時の学校では、すべて月次試験の成績にしたがって座席が決められたのである。そして、試験当日、欠席した場合の成績は零点となり、最末席に座らねばならなかった。そのほか成績一覧表が大きくはり出され、また教室内の生徒名札が成績順にかけられるなど、生徒を刺激するためのおぜんだてはそろっていた。   (下線 筆者)

※明治前期の小学校における試験制度などについては、以下の記事をご参照ください。

コラム6 小学校で落第その1
    https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2022/09/04/162707
 コラム6 小学校で落第その2
  https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2022/09/14/173946

 学事奨励という大義名分から始まった、厳しい試験制度でしたが、目的を達成するどころか、逆に弊害の方が目立っていました。
 「徳育重視」を謳った明治24年(1891)の「小学校教則大綱」以後、試験制度の厳格さは緩和の方向に向かい、明治27年(1894)9月1日に文部省は訓令を発して、「試験による席次上下」の廃止を通達しています。時あたかも日清戦争勃発の直後でした。
 『兵庫県教育史』は、このタイミングで訓令が発せられたことについて、「この訓令を発した文部省の意図は、このような非常時に際して、小学校の教育が知育に偏重することをさけ、より体育や徳育に重点を置くべきことを強調するにあったと思われる」と述べています。

 たしかに、9箇条にわたる当訓令は、体育(普通体操、兵式体操)と学校衛生に重点を置いたものになっており、時局を反映したものと言えるでしょう。

 

【参考・引用文献】        ※国立国会図書館デジタルコレクション
中勘助銀の匙岩波文庫、2017年
日本近代文学館『日本近代文学大事典 机上版』講談社1984
中勘助「こまの歌」(「銀の匙」補遺)『中勘助全集第1巻』角川書店、1960年  
山田正雄『教育史夜話〈兵庫県〉』のじぎく文庫、1964年
※教育史編纂会編『明治以降教育制度発達史 第3巻』竜吟社、1938年  
兵庫県教育委員会兵庫県教育史』1963年

コラム6 小学校で落第 その2

 

陶山直良 編『画引小学読本』( 積玉圃、1876年)より



 それでは、進級試験では実際にどんな問題が出題されていたのでしょうか。ここでは、明治10年(1877)愛媛県伊予師範学校編「小学試験参考」の中から、下等第八級の問題を見ていきましょう。ただし、「参考例」ですので、各校において難易度の違いはあったと思われます。※原文では分かりにくいので、易しく言い換えています。

 

第一席(第一試験場)】  生徒一人ずつ
○読物(5個)    単語図3語 連語図2個 掛け図の中の語を教師が教鞭で指して答えさせる。

「連語図」(玉川大学教育博物館http://www.tamagawa.ac.jp/museum/archive/2006/174.html


○釈義(1行)  連語図の中から任意の一行について、その意味を簡単に説明させる。

○摘書(単語3、連語2) 黒板の文字、文章を読ませる。
(例)魚 粟 算盤 
(例)学校に出でテは書物を読み又手習ひすへし帽をあ■■袴を着る
○問答 五十音 濁音 誦読
(例)カ行を大きな声で言わせる。ザ行を大きな声で言わせる。
火鉢 柿 馬  読んでその性質や用法を答えさせる

  

第二席(第二試験場)】   集合試験
○書き取り (例)ニジ うめ ちょうちん えび ぼきん
初め石盤に書き取らせ、ついで用紙に正体または草体で書かせる。
○算術 加算九九暗誦 単語累積加法(例・5+6+3+4+2=?) 
数字算用数字換写 
○習字 正体 草体 
(例)アカサ/たな/月日 氏名/年月

  愛媛県の規則では、総点52点のうち、4割以上を及第とし、それ未満の得点を「落第」と定めています。

 いかがでしょうか?小学1年生の前半を終えようとする子供たちにとって、下線部のような的確な説明を求める設問や、漢字の書き取り(提灯、募金)はかなり難しかったと思われます。

 

 初期の試験問題について、千葉寿夫『明治の小学校』は次のように述べています。

 これらは、各級の定期試験や小試験に課せられる問題であるが、音読させることや暗誦させることで、知識をテストしている。これは当時、注入式教授法が全盛をきわめたことを物語るものであるが、筆記試験が全然なかったことや、考える問題が一つもないことがその特徴であった。(中略)

 当時の教授法は注入式に終始していて、作業を通じて考えさせたり、児童の心理に即した教授法など、少しも考えられていなかった。生徒たちは機械的に本を暗記しているだけだから、それが身についた知識とならなかったのは当然であった、また、こうした試験法は、記憶の悪い生徒や、人前で口をきけないような気の弱い生徒は、どうしてもいい成績がとれず、落第することが多かった。※太字は筆者

 試験問題が暗記中心に偏ったり、教授法が未熟であったことが指摘されていますが、もう一つ生徒たちにプレッシャーを与えたのが、試験場の人員配置でした。

 これは兵庫県における事例ですが、「定期試験の際には郡の学務担当書記・学務委員及び巡回訓導が臨監することになっており、卒業試験には上記の人員の外にさらに県の学務課員が加わることになって」いたということです。(宮川秀一「明治前期における小学校の試験」)

 厳正を期すためとは言え、当該学校の教員以外の関係者の見守る中で、特に口頭試問の場合は相当の緊張を強いられ、日頃の力を充分に発揮できなかったり、欠席して不受験扱いとなったりする者が多くいたというのも無理からぬところではないでしょうか。

木下義雄 編『小学試業法心得』 (益志堂、1883年)より試験場配置図

■ 信賞必罰の時代 ー飛び級と褒賞ー

  厳しい試験制度の下で、落第に怯え、不受験から退学への道をたどる生徒が数多く見られた一方で、学力の優秀な者に対しては、明治5年(1872)の「学制」において、「試験 ノ時生徒優等ノモノニハ褒賞ヲ与フル事アルヘ シ」(第51章)と規定し、これを元に各府県の試験規則では褒賞に関する条項が定められていました。

 また、半年で二つの級を修了する飛び級をする優秀な生徒も中にはいました。
 よく知られているのは夏目漱石(本名・金之助、慶応3~大正5年・1867~1916)の事例でしょう。通常、上等下等計8年かかるところを5年で修了したと言われています。

 当時の「東京府試験規則」には第四条に、「定期試験ノ外学業優等ノ者ハ臨時試験ヲ行 ヒ、昇級セシムルコトアルベシ」とあり、東京府の視学や学務取締が学校に出張して、臨時の試験が実施され、合格者には飛び級が認められていました。

 
   荒正人漱石研究年表』(漱石文学全集別巻、集英社、1974年)によると、漱石(金之助)は飛び級優等生の褒賞のどちらも経験していたことが分かります。

※下線は筆者

 明治7年(1874)12月、戸田学校(第五中学区第十一番小学校)に1年遅れで入学
 明治8年(1875)5月、戸田学校で下等小学第八級と第七級を同時に修了  (臨時試験に及第したものと思われる)
  褒賞として箕作麟祥『勧善訓蒙』内田正雄訳『輿地誌略』を貰う

自伝的小説『道草』には、以下のように描かれています。

 証書のうちには賞状も二、三枚交っていた。昇り竜と降り竜で丸い輪廓を取った真中に、甲科と書いたり乙科と書いたりしてある下に、いつも筆墨紙と横に断ってあった。
「書物も貰った事があるんだがな」
 彼は『勧善訓蒙』だの『輿地誌略』だのを抱いて喜びの余り飛んで宅へ帰った昔を思い出した。御褒美をもらう前の晩夢に見た蒼い竜と白い虎の事も思い出した。これらの遠いものが、平生と違って今の健三には甚だ近く見えた。(『道草』三十一)

 

学業優等証書(神奈川県近代文学館)

11月、同校で下等小学第六級と第五級を同時に修了 
明治9年(1876)5月、戸田学校で下等小学第四級を修了。
10月、市谷学校(第三中学区第四番小学校)下等小学第三級を修了
明治10年(1877)5月、同校で下等小学第二級を修了
12月、下等小学第一級を修了
明治11年(1878)4月、市谷学校で上等小学第八級を修了。学業優等で賞与を与えられた。
10月、転校した錦華学校(第四中学区第二番小学校)尋常科第二級後期を優等で修了(学業優秀で飛び級したと思われる)

  

 

(明治初期に修身の教科書として使われた箕作麟祥『泰西勧善訓蒙』「近代書誌・近代画像データベース」より)

 

 斉藤利彦『試験と競争の学校史』(講談社学術文庫、2010年)には、優等者に対する褒美の物品として以下のような例が紹介されています。

次学年の教科書(千葉県)

『小学修身訓』、『山県地誌略』(広島県

『習字本』、『小学問答』、『小学算術』(栃木県)

『懐中硯』、『石盤』、『大筆』(島根県

 また、金銭の授与を定めた県もありました。
 「定期試験の優等者には若干の金員を、大試験の優等生には、下等二十五銭より七十銭、上等には一円より一円五十銭を賞与す」(明治12年神奈川県の規則)

 さらに斉藤・前掲書には、知事を招いて優等生褒賞授与式を行った県や、成績優秀者の氏名が県の公報や新聞紙上に掲載されたという事例も紹介されています。

 

 このように、競争心、向学心を煽る仕掛けとして企画されていたのが初期の試験制度でした。
 今から見ると、現状を無視して学務当局の意気込みばかりが先行していたり、中には過剰な対応があったりしたように思われます。
 授業料を取られた上に、「試験!試験!」と脅かされては、当局の思うように就学率が上がらなかったのも、子どもや親の立場からは当然のことでした。

 

 ここまで書いて、二葉亭四迷(元治元年~明治42年・1864~1909)の『平凡』明治41年・1908)の中にある、次のような一節を思い出しました。

 今になって考えて見ると、無意味だった。何の為に学校へ通ったのかと聞かれれば、試験の為にというより外はない。全く其頃の私の眼中には試験の外に何物も無なかった。試験の為に勉強し、試験の成績に一喜一憂し、如何(どんな)事でも試験に関係の無い事なら、如何(どう)なとなれと余処に見て、生命の殆ど全部を挙げて試験の上に繋(か)けていたから、若し其頃の私の生涯から試験というものを取去ったら、跡は他愛(たわい)のない烟(けむ)のような物になって了う。(二十二)

(「青空文庫」、底本:「二葉亭四迷全集 第一巻」筑摩書房1984年)

 

 

 

【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション

※近代史文庫編『愛媛近代史料.第11 (愛媛県「学制」時代教育関係史料 第3輯(明治10年の部)』近代史文庫、1963年

千葉寿夫『明治の小学校』津軽書房、1969年津軽書房、1969年

宮川秀一「明治前期における小学校の試験」『大手前女子大学論集巻20』1986年

斉藤利彦『試験と競争の学校史』講談社学術文庫、2010年

荒正人漱石研究年表』(漱石文学全集別巻)集英社、1974年

コラム6 小学校で落第 その1

島津製作所二代目・島津源蔵の卒業証書(明治11年3月)
島津製作所ホームページより「~二代目源蔵の卒業証書にみる当時の小学校事情~」
  https://www.shimadzu.co.jp/visionary/memorial-hall/blog/20150630.html

■ 半年ごとに卒業証書

 上の写真は、島津製作所の2代目社長・島津 源蔵明治2年 - 昭和26年・1869~1951年、明治時代から昭和時代にかけての実業家、発明家、幼名は梅次郎)が京都市の銅駝(どうだ)小学校で下等小学第八級(現在の1学年前半)を修了したことを示す「卒業」証書です。

 なお、梅次郎は下等第七級に進級したものの、途中で退学しています。

明治8年(1875)頃の銅駝小学校
出典:上掲写真に同じ

 「卒業」と言えば、今では小中学校などの全課程を修了したことを証するものですが、明治5年(1872)の「学制」に定められた小学校の課程は上等小学、下等小学と大きく2段階に分かれており明治14年に初等科3年・中等科3年・高等科2年となる)、さらにそれぞれのが8段階に分かれていたことから、「下等小学八級」から「上等小学一級」まで全部で16の級があり、各級ごとに「卒業証書」が発行されていたのでした。

 今の小学校は「学年制」を採用しており、1年たてば自動的に上の学年に進級できますが、当時は「等級制」で、進級試験に合格した者だけが上の級に進めたのです。

 

 「学制」では、「生徒及試業ノ事」として次のように規程されていました。

第四十八章

生徒ハ諸学科二於テ必ズ其等級ヲ踏マシムルコトヲ要ス、故二一級毎二必ズ試験アリ、一級卒業スル者ハ試験状ヲ渡シ、試験状ヲ得ルモノニ非ザレバ進級スルヲ得ズ

※試験状・・・各級の卒業(修了)を証する免状 太字は筆者

 

 夏目漱石の自伝的小説『道草』大正4年・1915、「朝日新聞に連載」)には、書き付けの束の中から、小学時代の卒業証書をいくつか見つけるという場面があります。

 彼はやがて四つ折にして一纏めに重ねた厚みのあるものを取り上げて中を開いた。
「小学校の卒業証書まで入れてある」
 その小学校の名は時によって変っていた。一番古いものには第一大学区第五中学区第八番小学などという朱印が押してあった。
「何ですかそれは」
「何だか己も忘れてしまった」
「よっぽど古いものね」
 証書のうちには賞状も二、三枚交まじっていた。昇(のぼり)竜と降(くだり)竜で丸い輪廓(りんかく)を取った真中に、甲科と書いたり乙科と書いたりしてある下に、いつも筆墨紙と横に断ってあった。(三十一)

 細君にはこの古臭い免状がなおの事珍らしかった。夫の一旦(いったん)下へ置いたのをまた取り上げて、一枚々々鄭寧(ていねい)に剥繰(はぐ)って見た。
「変ですわね。下等小学第五級だの六級だのって。そんなものがあったんでしょうか」
「あったんだね」(三十二)

 

第一大学区第五中学区第八番小学(戸田学校)の卒業証書
当時は養父・塩原の姓を名乗っていた
神奈川近代文学館ホームページより

 「変ですわね。下等小学第五級だの六級だのって。そんなものがあったんでしょうか」と主人公の妻が言っていますが、作者・夏目漱石と妻の鏡子とでは10歳の歳の開きがありました。その間に「学制」から「教育令」への移行に伴って小学校の制度が変わっていたことをうかがわせる記述になっています。

 

■ 厳しかった試験制度

 初期の小学校では、どんな種類の試験が行われていたのでしょうか。

 「学制」では、「進級試験」(48章)と「卒業試験」(49章)の規程があるだけですが、明治10年前後では、一般的に次の三種類の試験が行われていました。

1 月次(つきなみ)試験 毎月  小試験、月例試験などとも称された

 多くの学校では試験の成績により、席順を上下させていた。

2 進級試験 年2回 階級試験、定期試験等とも

 春と秋の二回実施され、及落が判定された。問題作成は生徒の担任以外が行い、官吏の立ち会いを条件とした。 

3 全科卒業試験 大試験、大試業などとも

※この他に、臨時試験、比較試験(複数の学校から優秀な生徒を選抜し優劣を競わせる)などの試験もありました。

 一例を挙げると、兵庫県氷上郡(現・丹波市)の崇広(そうこう)小学校では、明治14年(1881)3月から翌15年(1882)2月までの一年間に、上記3種類の試験が計12回も実施されていました。(山田正雄『教育史夜話〈兵庫県〉』)

 崇広小学校における秋季の定期試験については、下記のような結果が残っています。

 

明治15年(1882)10月 受験者335名(男子223名、女子112名)

 平均点 90点以上 24名 賞状と賞品が授与された。

 落第 平均50点未満の者 40名(11.9%)

 

 この年はそれほど高い落第率ではありませんが、2年後の明治17年(1884)の秋季定期試験では、受験者390名中の192名(49%)が落第という厳しい数字が残っています。

 

 試験の落第率については全国的な統計がなく、府県、地域、学校、さらに等級による差がかなりありましたが、概して10%未満といったところが多かったようです。

 問題は「試験による落第」よりも不受験者長期欠席者の多いことでした。

 月次試験で席順を決められ、定期試験では落第を恐れ、その成績一覧表が校内あるいは校門に掲示されたそうですから、「試験恐怖症」の生徒が多数発生していたとしても無理もありません。※当時は小学校でも児童ではなく「生徒」と称していました。

 現に、上記の崇広小学校では明治18年(1885)秋の定期試験においては、受験予定者396名に対して、「不受験者」の数が252名にも上ったということです。(山田正雄・前掲書)

 こうして、下等8級から始まる階梯を上等1級まで登りつめることができた者は、極めてわずかな数でした。

山根俊喜「明治前期の小学校における等級制,試験と進級―「日本的」学級システムの形成 (1)一」より 

 上記は明治10年前後の統計ですが、今の小学2年生(下等6・5級)を終えたぐらいでほとんどの生徒が退学(「半途退学」といった)していたことがわかります。

 

 以上概観したような「試験万能」の風潮は、やがて厳しい批判にさらされ、文部省による是正措置が講じられていきました。

 まず、日清戦争開戦直後の明治27年(1894)9月に、「試験ニ依レル席順ノ上下」が文部省訓令により禁止されました。

 そして、明治33年(1900)公布の「小学校令施行規則」において、「小学校ニ於テ各学年ノ課程ノ修了若ハ全教科ノ卒業ヲ認ムルニハ別ニ試験ヲ用フルコトナク児童平素ノ成績ヲ考査シテ之ヲ定ムヘシ」(第一章 教科及編制、第一節 教則、第二十三条 下線は筆者)と、「学制」以来の「試験による進級・卒業」という制度が完全に廃止されることになりました。

 

 この頃は、いわば「小学校中退」の人が殆どだったのですね。学校や学歴に対する意識も今とは全く違ったと思われます。

 「日本の植物分類学の父」と称された牧野富太郎文久2~昭和32年・1862~1957、高知県高岡郡佐川町出身)は小学校時代を次のように振り返っています。

牧野富太郎

 小学校は上等・下等の二つに分たれ、上等が八級、下等が八級あって、つまり十六級あった。試験によって上に進級し、臨時試験を受けて早く進むこともできた。私は明治九年頃、せっかく下等の一級まで進んだが、嫌になって退校してしまった。嫌になった理由は今判らないが、家が酒屋であったから小学校に行って学問をし、それで身を立てることなどは一向に考えていなかった
  青空文庫」、底本:「牧野富太郎自叙伝」長嶋書房、1956年

※下線は筆者

 

【参考・引用文献】

島津製作所ホームページ「~二代目源蔵の卒業証書にみる当時の小学校事情~」
  https://www.shimadzu.co.jp/visionary/memorial-hall/blog/20150630.html

宮川秀一「明治前期における小学校の試験」『大手前女子大学論集20』1986年

夏目漱石『道草』(「青空文庫」、底本:漱石全集 第6巻」岩波書店、1985年)
斉藤利彦『試験と競争の学校史』講談社学術文庫、2010年 

山田正雄『教育史夜話〈兵庫県〉』のじぎく文庫、1964年

山根俊喜「明治前期の小学校における等級制,試験と進級―「日本的」学級システムの形成 (1)一」 『鳥取大学教育地域科学部紀要. 教育・人文科学 1 (1)』1999年

島崎藤村『破戒』その3  「天長節」

 本ブログでは「田山花袋田舎教師』③」でも、「天長節」を取り上げています(https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2019/05/07/114653)が、今回は少し違った話題を取り上げます。

    さすがに大祭日だ。町々の軒は高く国旗を掲げ渡して、いづれの家も静粛に斯の記念の一日(ひとひ)を送ると見える。少年の群は喜ばしさうな声を揚げ乍ら、霜に濡れた道路を学校の方へと急ぐのであつた。悪戯盛(いたづらざかり)の男の生徒、今日は何時にない大人びた様子をして、羽織袴でかしこまつた顔付のをかしさ。女生徒は新しい海老茶袴(えびちやばかま)、紫袴であつた。  (第五章 一)

    国のみかどの誕生の日を祝ふために、男女の生徒は足拍子揃へて、二階の式場へ通ふ階段を上つた。銀之助は高等二年を、文平は高等一年を、丑松は高等四年を、いづれも受持々々の組の生徒を引連れて居た。退職の敬之進は最早(もう)客分ながら、何となく名残が惜まるゝといふ風で、旧(もと)の生徒の後に随いて同じやうに階段を上るのであつた。
  (中略)
 殊に風采の人目を引いたのは、高柳利三郎といふ新進政事家、すでに檜舞台(ひのきぶたい)をも踏んで来た男で、今年もまた代議士の候補者に立つといふ。銀之助、文平を始め、男女の教員は一同風琴の側に集つた。
 『気をつけ。』
  と呼ぶ丑松の凛(りん)とした声が起つた。式は始つたのである。
  主座教員としての丑松は反つて校長よりも男女の少年に慕はれて居た。丑松が『最敬礼』の一声は言ふに言はれぬ震動を幼いものゝ胸に伝へるのであつた。軈(やが)て、『君が代』の歌の中に、校長は御影(みえい)を奉開して、それから勅語を朗読した。万歳、万歳と人々の唱へる声は雷(らい)のやうに響き渡る。其日校長の演説は忠孝を題に取つたもので、例の金牌(きんぱい)は胸の上に懸つて、一層(ひとしほ)其風采を教育者らしくして見せた。『天長節』の歌が済む、来賓を代表した高柳の挨拶もあつたが、是はまた場慣れて居る丈だけに手に入つたもの。雄弁を喜ぶのは信州人の特色で、斯ういふ一場の挨拶ですらも、人々の心を酔はせたのである。     (第五章 二)
  ※ 風琴・・・・オルガン

教育勅語奉読」と「祝歌合唱」(明治27年元旦)「ジャパンアーカイブズ」より
https://jaa2100.org/entry/detail/045982.html

■ 主座教員・丑松
 
 主人公の瀬川丑松師範学校を出て幾年も経っていないのですが、「主座教員」(普通は「首座教員」と表記)の地位にあります。
  明治33(1900)年8月20日に改正された「第三次小学校令」以前は、「校長」に相当する者を「首座教員」とか「主席訓導」と呼んでいました。
 本作品の時代背景は明治30年代の後半と思われますので、「第三次小学校令」の下で校長は必置となっていました。
 ですから、この重要な儀式において、若い丑松は現在の教頭のような役割を果たしていることになります。
    同僚教員の多くが、検定試験や講習を受けて教職にある者や代用教員であったために、若い丑松が首座にいたものと思われます。
   この当時、師範学校の卒業生といえば、教員界のエリート的な存在だったのです。

 

■ 「祝日大祭日儀式」と唱歌の斉唱

 「天長節とは、現在の天皇誕生日のことです。
 明治年間は、明治天皇の誕生日である11月3日(後に「明治節」、現在の文化の日)がその日となります。
   この天長節に「四方拝」(1月1日),「紀元節」(2月11日)を加えた「三大節」の当日には、児童生徒も登校して盛大に儀式が挙行されました。
   
 教育勅語発布の翌明治24年(1891)6月には「小学校祝日大祭日儀式規程」(文部省令第4号)が公布され、三大節、神嘗祭(かんなめさい、10月17日)および新嘗祭(にいなめさい、11月23日)における儀式の内容が示されました。
 次はその訓令をもとに、明治25年(1892)に長野県が定めた「小学校祝日大祭日儀式次第」(抜粋)です。
  (作中の「来賓の挨拶」は下の次第にはありませんから、作者の創作かと思われます。)

 

第一条 紀元節 天長節 元始祭 神嘗祭新嘗祭ノ儀式ハ左ノ次第ニ拠ルヘシ 但未タ 御影ヲ拝戴セサル学校ニ於テハ第四款第十款第十一款ヲ省ク  
 一 生徒ノ父母親戚及町村内ノ参観人着席  
 二 生徒一同着席  
 三 町村長学校職員其他参列員着席  
 四 学校長若クハ首席教員 陛下ノ御影ヲ奉開ス 此間一同起立
 五 一同最敬礼   学校長若クハ首席教員一同ニ代リ左ノ祝辞ヲ陳フ 

     謹テ天皇陛下ノ万歳ヲ祝シ奉ル    
     謹テ皇后陛下ノ万歳ヲ祝シ奉ル  
 六 唱歌君が代)一同起立合唱ス  
 七 学校長若クハ教員 勅語ヲ奉読ス 此間一同起立  
 八 学校長若クハ教員小学校祝日大祭  日儀式規程第一条第三款ニヨリ演説ス  
 九 唱歌(第四条ニ拠ル)一同起立合唱ス  
 十 一同最敬礼  
 十一 学校長若クハ首席教員 陛下ノ 御影ヲ奉閉ス 此間一同起立  
 十二 一同退席             

 

天長節』の歌 「祝日大祭日歌詞並楽譜」
明治26年文部省告示第3号、1893年明治26年)8月12日

www.youtube.com

 「小学校祝日大祭日儀式規程」の制定により、明治20年代の後半以降、「三大節」を初めとする主要な学校儀式において、御真影への拝礼」・「教育勅語奉読」・「君が代と式歌斉唱」が必ず実施されるようになります。
    中でも、唱歌の斉唱は、もちろん欧米の儀式を模したものですが、 国家主義的な教育を推進した初代の文部大臣・森有礼が、その教育的効果に着目して導入を命じたと言われています。

森有礼(弘化4年~明治22年・1847~1889、「近代日本人の肖像」より)

 留学経験のある森は欧米の教会儀式などをイメージしてこの内命を考案したのであ ろうと思われる。つまり学校儀式での唱歌斉唱は、教会の賛美歌を真似たものと見ることが出来る。即ち教会の賛美歌は荘厳な雰囲気を生み出し、意識を空虚にさせ神へと帰一する意識を植え付けようとするものであるが、森は神を天皇に置換え、新生国家である 日本が天皇を中心とした全国民の意識の統一によってまとめられることを期待したもの であろうと考えられるのである。

(入江直樹「儀式用唱歌の法制化過程」、 下線は筆者)

 渡辺裕『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』(中公新書、2010年)では、「天長節」を初めとする「祝日大祭日唱歌が「子供たちに、自らが万世一系天皇を中心に成り立つ日本国という共同体の一員たる『国民』であるという自覚を植え付け、体で覚えさせるためのものだった」と述べて、儀式唱歌皇国史観な意味合いをもつものばかりであったと指摘されています。

 

■ 最敬礼とは

 長野県の上記「次第」においては、第五条に「最敬礼の方法」が示されています。

第五条  
 最敬礼ノ式ハ帽ヲ脱シ体ノ上部ヲ傾ケ頭ヲ垂レ手ヲ膝ニ当テヽ敬意ヲ表スルモノトス  但女子洋服着用ノ節ハ脱帽ノ限リニ在ラス

Wikipedia」より

当時の礼法、礼式の本、或いは師範学校の教科書などには、次のように書かれていました。

(お辞儀の角度)   会釈  (15度)    敬礼・普通礼(30度)  最敬礼 (45度)

 

  長野県のこの条文は、「小学校祝日大祭日儀式規程」の交付とともに文部省が発した各府県への通牒(最敬礼式の通牒)の文言そのままで、他県でも同様の例が確認できます。

   

 

■ 学校儀式の教育的効果!?

相島亀三郎『学校儀式要鑑』前川文榮閣、1910年

 明治末から昭和戦前にかけて、学校儀式、礼法等に関する著作の多い相島亀三郎は、上掲の『学校儀式要鑑』の中で、儀式の教育的効果について次のように述べており、そこには我が国独特の「儀式教育観」を見ることが出来ます。

  學校の訓話は、幼年生にはよく分らずとも、儀式の教育的價値は、發揮し得られないものではないと思ふのである。即ち、儀式の價値は、概ね、外形に現れた荘嚴なる形式に依て發揮し得らるゝものであるから、幼年生は、縱令、訓話の大部分が分らぬとしても、其の式場の荘嚴、會衆の謹愼靜粛、學校長の謹嚴なる態度等に依て、外形より感情を刺戟せらるゝことが多大であるからである。 是に依て考へて見ると、訓話は、儀式擧行については、第二位にあるもので、第一位にあるものは、 儀式そのものゝやり方、即ち、外形に現はるゝ部分であると思ふ。 ※下線は筆者

 いかがでしょうか。「古くさくて非教育的な主張だ」と一概には否定しきれないところはないでしょうか。

 事の善し悪しはともかくも、自身の経験から言うと、こうした「伝統」は今に生き延びているようにも思われます。

 

【参考・引用文献】         ※国立国会図書館デジタルコレクション
 入江直樹「儀式用唱歌の法制化過程一 1894年 『訓令第7号』が学校内唱歌に残したもの一」『教育學雑誌 28』日本大学, 1994年
 仲嶺政光「小学校祝日大祭日儀式規程とその式次第」『富山大学地域連携推進機構生涯学習部門年報』2016年
 渡辺裕『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』中公新書、2010年
 ※「教育報知 第287号」東京教育社、1891年10月
 ※相島亀三郎『学校儀式要鑑』前川文榮閣、1910年

島崎藤村『破戒』その2 老教員の本音・「教師像」の変化

 『・・・・我輩なぞは二十年も――左様(さやう)さ、小学教員の資格が出来てから足掛十五年に成るがね、其間唯同じやうなことを繰返して来た。と言つたら、また君等に笑はれるかも知れないが、終(しま)ひには教場へ出て、何を生徒に教へて居るのか、自分乍ら感覚が無くなつて了つた。はゝゝゝゝ。いや、全くの話が、長く教員を勤めたものは、皆な斯ういふ経験があるだらうと思ふよ。実際、我輩なぞは教育をして居るとは思はなかつたね。羽織袴(はおりはかま)で、唯月給を貰ふ為に、働いて居るとしか思はなかつた。だつて君、左様(さう)ぢやないか、尋常科の教員なぞと言ふものは、学問のある労働者も同じことぢやないか。毎日、毎日――騒しい教場の整理、大勢の生徒の監督、僅少(わづか)の月給で、長い時間を働いて、克(よ)くまあ今日迄自分でも身体が続いたと思ふ位だ。あるひは君等の目から見たら、今茲(こゝ)で我輩が退職するのは智慧(ちゑ)の無い話だと思ふだらう。そりやあ我輩だつて、もう六ヶ月踏堪(ふみこた)へさへすれば、仮令(たと)へ僅少(わづか)でも恩給の下(さが)る位は承知して居るさ。承知して居ながら、其が我輩には出来ないから情ない。是から以後(さき)我輩に働けと言ふのは、死ねといふも同じだ。家内はまた家内で心配して、教員を休(や)めて了(しま)つたら、奈何(どう)して活計(くらし)が立つ、銀行へ出て帳面でもつけて呉れろと言ふんだけれど、どうして君、其様(そんな)真似が我輩に出来るものか。二十年来慣れたことすら出来ないものを、是から新規に何が出来よう。根気も、精分も、我輩の身体の内にあるものは悉皆(すつかり)もう尽きて了つた。あゝ、生きて、働いて、仆(たふ)れるまで鞭撻(むち)うたれるのは、馬車馬の末路だ――丁度我輩は其馬車馬さ。はゝゝゝゝ。』(第四章 四) ※下線は筆者

丑松(間宮祥太朗)と風間敬之進(高橋和也
東映ビデオ配給 映画「破戒」(2022年7月)より
https://twitter.com/hakai_movie/status/1527536542474190848

    風間敬之進(かざま けいのしん)は五十に手が届こうかというベテランの同僚教師で、丑松とは親子ほどの年の開きがあります。
 学校では、師範学校出の丑松が首席訓導で高等科4年(現在の中学2年生)を担任しているのに対して、敬之進は尋常科の担任でした。
 先妻・後妻と合わせて六人の子持ち(未就学児も含み)ですが、まもなく健康面を理由に退職する予定です。
 元は士族(飯山藩士)の出で、詳しい経歴は語られていませんが、おそらく丑松のように師範学校という正規のルートをたどったのではなくて、検定によって正教員の地位を得ているものと思われます。
 引用した部分は、町はずれの居酒屋・笹屋へ敬之進が丑松を誘ったときの、彼の述懐です。丑松は「老朽な小学教員」の本音(愚痴)を聞かされています。

 

■ 教員の恩給

 「恩給」とは、また懐かしい言葉の響きです。子どもの頃、明治生まれの祖父母世代の大人たちが「学校の先生は恩給がついてええな・・・」などと言っていたのを思い出します。

 

恩給(おんきゅう)・・・恩給法(大正12年法律第48号)に規定される、官吏であったものが退職または死亡した後本人またはその遺族に安定した生活を確保するために支給される金銭をいう。なお、地方公務員については各地方公共団体が定める条例(恩給条例など)により支給され、退隠料と称されることもある。(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

 支給には要件がありました。教員の場合は、原則として在職15年以上で、失格原因なくして退職した者に支給されるというものです。
 風間敬之進の場合は在職期間が14年と半年で、6か月足らないのです。丑松は勤務校を訪れていた郡視学に何とかならないかと訴えましたが、規則を盾に一蹴されました。
 (居酒屋での様子からは、あと半年の勤務が無理とは思えないのですが・・・) 
   恩給の年額は、退職当時の俸給年額の3分の1から2分の1程度でした。
  そもそも、小学校教員の俸給自体が低かった(明治末ごろの尋常小学校本科正教員の平均月俸は20円余り)ので、子だくさんの敬之進の退職後の生活は厳しいものとなることは目に見えています。

 

  それでは、この「恩給」と現在の「年金」はどう違うのでしょうか。
 そういう疑問を持つ人は、筆者も含めて多いようで、総務省のホームページには、「恩給Q&A」というコーナーがあり、次のような回答があります。
 
 

 恩給がもともと対象としていたのは、明治憲法下の国家における軍人、官吏等であり、国家に身体、生命を捧げて尽くした公務員です。
   恩給制度は、こうした公務員の傷病等の場合や死亡後の遺族に対し、国家として補償を行うという考え方に基づいてつくられた年金制度です。
   このような恩給の基本的性格については、相互扶助の考え方に基づき、保険数理の原則によって運営される社会保障としての公的年金とは異なっているものと考えています。 ※太字は筆者 http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/onkyu_toukatsu/onkyu_qa.htm#q22

    「国家として補償」に対して、社会保障としての公的年金とありますが、これだけの説明で理解するのは難しいように思います(笑)

(役所の文章なのに、文末が「~考えています。」というのはユニークです。)

 

■ 「学問のある労働者!?」 ー教師像の変遷ー

 教員としての誇りも勤務に対する意欲もなくしてしまったような敬之進の話は自嘲に満ちていて、「こんな先生には教えてもらいたくないな」と思わせるような内容です。

 

 本作品の時代背景は明治30年代の後半ですが、その当時小学校教員が世間の人々からどのように見られていたのかがよくわかるような記述が、作品の初めの方にあります。

 

  蓮華寺を出たのは五時であつた。学校の日課を終ると、直ぐ其足で出掛けたので、丑松はまだ勤務(つとめ)の儘の服装(みなり)で居る。白墨と塵埃(ほこり)とで汚れた着古しの洋服、書物やら手帳やらの風呂敷包を小脇に抱へて、それに下駄穿(げたばき)、腰弁当。多くの労働者が人中で感ずるやうな羞恥(はぢ)――そんな思を胸に浮べ乍ら、鷹匠(たかしやう)町の下宿の方へ帰つて行つた。町々の軒は秋雨あがりの後の夕日に輝いて、人々が濡れた道路に群つて居た。中には立ちとゞまつて丑松の通るところを眺めるもあり、何かひそひそ立話をして居るのもある。『彼処(あそこ)へ行くのは、ありやあ何だ――むゝ、教員か』と言つたやうな顔付をして、酷(はなはだ)しい軽蔑(けいべつ)の色を顕(あらは)して居るのもあつた。是が自分等の預つて居る生徒の父兄であるかと考へると、浅猿(あさま)しくもあり、腹立たしくもあり、遽(にはか)に不愉快になつてすたすた歩き初めた。(二)

※下線は筆者

 

 教員史の研究者によると、明治時代の小学校教員像の変遷は、4つのパターンに類型化して説明できるということです。(陣内靖彦『日本の教員社会』)

1 「師匠的」教員=明治初年代、先生と生徒との間にパーソナル(私的)な人間関係があり、教師が自らの職業を「天職」と考えているような特徴が見られる。幕末期の寺子屋師匠の名残が見られる。

2「士族的」教員=明治10年前後から20年代前半。教員の中核部分を、維新によって経済的基盤を失った士族階級が占めていた。教職を世俗から超越したものとしてとらえ、生徒を啓蒙する公的な社会の代表としての一面をもっていた。

3「師範型」教員=明治20年代後半から30年代の教員養成が制度化されると、教員の役割も画一的、形式主義的になっていく過程で生じた。教員は知識伝達と道徳教化の技術者という側面を持つとともに、国家からは「准官吏」に位置付けられた。

明治37年(1904) 群馬県安中尋常高等小学校 高等科卒業写真
「明治時代の安小」  http://www.annaka.ed.jp/annaka/top/150memorial%20rekisi/anshou%20no%20tannjou/meijijidai%20no%20annshou.htm

4 「小市民的」教員=明治末期から大正期前半。学校現場で組織化・官僚制化が進む中で、周辺的・傍系的教員の中には、教育という公務に献身しようという意欲を見失い、教職を「食うための手段」、「しがない教師稼業」としてとらえる向きが生じてきた。※下線は筆者

 上記のうち、4「小市民的教員」の説明は、まさに風間敬之進のことを言っているかのようです。

 

 唐沢富太郎『教師の歴史』は、そのあたりの事情を次のように述べています。

 明治三十年代になると、教師も次第に職業人としての性格を自覚するに至った。しかし、この職業化ー社会的地位の低さを物語る教師の低賃金(?)は必然的に従来の教師観を一変させ、三十七年から三十八年にかけて作られた藤村の『破戒』には次の如き(上掲の引用文)教師像が描かれるに至っているのである。

「Ⅳ 氏族階級より農民階級へ」「一 明治三十年代の教員」

 上の卒業写真を見ると、立派な髭を蓄えて威厳のありそうな男性教員の姿に目を引かれますが、生活実態だけではなく、世間の教師を見る目にもなかなか厳しいものがあったようです。

 

【参考・引用文献】
  総務省ホームページ   総務省トップ > 政策 > 国民生活と安心・安全 > 恩給 > 恩給Q&A
  https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/onkyu_toukatsu/onkyu_qa.htm
  陣内靖彦『日本の教員社会 歴史社会学の視野』東洋館出版社、1988年
  唐沢富太郎『教師の歴史』創文社、1955年

 

島崎藤村『破戒』その1 「名誉の金牌」とは  

 毎月二十八日は月給の渡る日とあつて、学校では人々の顔付も殊に引立つて見えた。課業の終を告げる大鈴が鳴り渡ると、男女の教員はいづれも早々に書物を片付けて、受持々々の教室を出た。悪戯盛(いたづらざかり)の少年の群は、一時に溢れて、其騒しさ。弁当草履を振廻し、『ズック』の鞄を肩に掛けたり、風呂敷包を背負(しよつ)たりして、声を揚げ乍(なが)ら帰つて行つた。丑松もまた高等四年の一組を済まして、左右に馳せちがふ生徒の中を職員室へと急いだのである。
    校長は応接室に居た。斯(こ)の人は郡視学が変ると一緒にこの飯山へ転任して来たので、丑松や銀之助よりも後から入つた。学校の方から言ふと、二人は校長の小舅(こじうと)にあたる。其日は郡視学と二三の町会議員とが参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許(すこしづゝ)観た。郡視学が校長に与へた注意といふは、職員の監督、日々(にち/\)の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する『トラホオム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件(こと)であつた。応接室へ帰つてから、一同雑談で持切つて、室内に籠る煙草(たばこ)の烟(けぶり)は丁度白い渦(うづ)のやう。茶でも出すと見えて、小使は出たり入つたりして居た。
    斯(こ)の校長に言はせると、教育は則ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。もと/\軍隊風に児童を薫陶(くんたう)したいと言ふのが斯人の主義で、日々の挙動も生活も凡(すべ)て其から割出してあつた。時計のやうに正確に――これが座右の銘でもあり、生徒に説いて聞かせる教訓でもあり、また職員一同を指揮(さしづ)する時の精神でもある。世間を知らない青年教育者の口癖に言ふやうなことは、無用な人生の装飾(かざり)としか思はなかつた。是主義で押通して来たのが遂に成功して――まあすくなくとも校長の心地こゝろもち)だけには成功して、功績表彰の文字を彫刻した名誉の金牌(きんぱい)を授与されたのである
    丁度その一生の記念が今応接室の机の上に置いてあつた。人々の視線は燦然(さんぜん)とした黄金の光輝(ひかり)に集つたのである。一人の町会議員は其金質を、一人は其重量(めかた)と直径(さしわたし)とを、一人は其見積りの代価を、いづれも心に商量したり感嘆したりして眺めた。十八金、直径(さしわたし)九分、重量(めかた)五匁、代価凡そ三十円――これが人々の終(しま)ひに一致した評価で、別に添へてある表彰文の中には、よく教育の施設をなしたと書いてあつた。県下教育の上に貢献するところ尠(すく)なからずと書いてあつた。『基金令第八条の趣旨に基き、金牌を授与し、之を表彰す』とも書いてあつた。
 (第二章 一)

【作品】
   明治後期、部落出身の教員瀬川丑松は父親から身分を隠せと堅く戒められていたにもかかわらず、同じ宿命を持つ解放運動家、猪子蓮太郎の壮烈な死に心を動かされ、ついに父の戒めを破ってしまう。その結果偽善にみちた社会は丑松を追放し、彼はテキサスをさして旅立つ。激しい正義感をもって社会問題に対処し、目ざめたものの内面的相剋を描いて近代日本文学の頂点をなす傑作である。  (新潮文庫 解説)

【作者】
  島崎藤村(明治5~昭和18年・1872-1943)筑摩県馬籠村(現在の岐阜県中津川市)に生れる。明治学院卒。1893(明治26)年、北村透谷らと「文学界」を創刊し、教職に就く傍ら詩を発表。1897年、処女詩集『若菜集』を刊行。1906年、7年の歳月をかけて完成させた最初の長編『破戒』を自費出版するや、漱石らの激賞を受け自然主義文学の旗手として注目された。以降、自然主義文学の到達点『家』、告白文学の最高峰『新生』、歴史小説の白眉『夜明け前』等、次々と発表した。1943(昭和18)年、脳溢血で逝去。享年72。(新潮社 著者プロフィール)

 

■  郡視学と校長

郡視学
 郡が行政単位の一つであった時の、地方教育行政官。郡長の命令をうけて、郡内小学校の学事視察・教育指導・教員の任免・学事に関する庶務などに従事する判任官。
田舎教師(1909)〈田山花袋〉六「郡視学と云へば、田舎では随分こは持(もて)のする方で」    『精選版 日本国語大辞典

 作中の表現には、やや誇張が含まれているかもしれませんが、ここでは郡視学と校長の関係が軍隊や官僚組織における「上官(上司)」と「部下」のそれのように描かれています。
 中央集権的であった当時の教育行政組織の末端にあって、官僚的・形式主義的な監督をおこなっていた郡視学と唯々諾々(いいだくだく)としてそれに従う校長の姿を、一青年教師が批判的な眼で眺めているといった構図になっています。
 当時の教育界に管理主義、形式主義が横行していたということを印象づける描写と言ってよいでしょう。

 

東映ビデオ配給 映画『破戒』(2022年7月)予告編より 
校長役は本田博太郎
https://www.toei.co.jp/movie/details/1228263_951.html

■ 「名誉の金牌」と「教育基金
 引用した部分の後半では、主人公・瀬川丑松の勤務する小学校の校長が、これまでの功績を認められ、名誉の金牌を授与されたことが話題になっています。

 これはどういう類いの表彰なのでしょうか。表彰文の文言「基金令第八条の趣旨に基き~』」に注目して、以下にその制度と背景について述べてみたいと思います。

 まずは、この基金令」ですが、正式には明治32年(1899)11月22日公布の「教育基金令」(勅令第四百三十五号)と称されるものでした。

教育基金(勅令第四百三十五号)

第一条 教育基金元資金ヨリ生スル収入ハ本令ノ規定ニ依リ之ヲ使用ス
第二条 文部大臣ハ教育基金特別会計法第四条ニ依リ一般ノ歳出トシテ毎年度予算ニ於テ定マリタル金額ヲ前年十二月三十一日現在ノ学齢児童数ニ応シテ北海道庁及府県ニ配当ス
(中略)
第八条 府県ハ毎年配当ヲ受ケタル金額十分ノ三以内ヲ限リ文部大臣ノ認可ヲ受ケ市町村立小学校教員ノ奨励其ノ他普通教育ニ関スル費用ニ充ツルコトヲ得
(以下略)※太字は筆者

 

 第八条には「小学校教員ノ奨励」という文言があり、作中の「金牌」はこの規程に基づいて授与されたものであることが分かります。

 次に、本勅令に関連する法令ですが、明治32年(1899)3月22日公布の「教育基金特別会計法」明治32年法律第80号、昭和18年廃止)という法律がありました。

教育基金特別会計(明治三十二年三月二十二日法律第八十号)
 第一条 教育基金ヲ置キ其歳入歳出ハ一般会計ト区分シ特別会計ヲ設置ス
 第二条 償金特別会計資金ノ内千万円ハ教育基金ニ組入ルヘシ
 第三条 教育基金ハ普通教育費ニ使用ス
 前項普通教育費ノ使用ニ関スル規程ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム
(以下略)

 

 第二条の「償金特別会計資金」とは何でしょうか。

この「償金」とは、日清戦争後に我が国が清国から得た総額3億6,451万円(当時の国家予算8千万円の4.5倍)という莫大な賠償金と還付報奨金を指しています。その主な使途は以下の通りでした。

永地秀太筆「下関講和談判」(Wikipedia

日清戦争の戦費(臨時軍事費特別会計に繰入)・・・7,896万円21.9%
・軍拡費・・・2億2,606万円62.6%(陸軍5,680万円15.7%、海軍1億3,926万円38.6%、軍艦水雷艇補充基金3,000万円8.3%)

・その他・・・15.5%(製鉄所創立費58万円0.2%、運輸通信費321万円0.9%、台湾経営費補足1,200万円3.3%、帝室御料編入2,000万円5.5%、災害準備基金1,000万円2.8%、教育基金1,000万円2.8%)

 

 1,000万円の教育基金の利子を毎年普通教育(小学校教育)費の補助に充てることになり、これは日露戦争の前まで続きました。
 明治33年(1900)の「小学校令」では小学校の授業料を原則廃止としました。その結果、明治35年(1902)には男女平均の就学率が90%を超えるようになったと言われています。
 さらに、国定教科書制度明治37年・1904)の開始、小学校における6年制の義務教育化(明治40年・1907)の実現にもつながっていきました。

 というわけで、日本史の授業では、日清戦争の賠償金は、軍備費拡張の費用や八幡製鉄所を初めとする工業化インフラの整備、金本位制の確立などに充てられたと習うのですが、わずか3%足らずの金額とはいえ、小学校教育の振興にも少なからぬ余得をもたらしたということも忘れてはならないと思います。

 

※「この賠償金額は今の金額になおすとどれぐらい?」という質問がネット上にはたくさんあります。銀換算、米価換算、国家予算との対比などと色んな計算があるようですが、経済に疎くて、どの回答が正しいのかよく分かりません((;。;))

ただ、超低金利の現在とは違い、かなりのまとまったお金が初等教育の振興に使われたことには間違いないことでしょう。