小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

「教育あれこれ」シリーズ第三弾 まもなくAmazonで販売開始!!

本ブログは半年以上停止(..;)していますが、このブログの原稿を元にした「教育あれこれ」シリーズ第三弾がまもなくAmazonで発売となります!!

 

小説にみる大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

【番外】 有明夏夫『なにわの源蔵事件帳① 大浪花別嬪番付』より「尻無川の黄金騒動」      その2  屎尿汲み取り代金が学校経費に!?

 

NHKアーカイブズより

 

源蔵親分と竹内監事との話が続きます。

「そら、まあ、(屎尿汲み取り)代金のこともおろそかにはでけまへんわなあ。学校でも色々と物入りだっしゃろしー」と持ち掛けてみると、「そういうことだ」
 意外にも監事は素直に頷いた。「西南の役が始まって以来物価は鰻のぼり、一方生徒の数は増えるばかり、実際頭が痛いわ」
「この学校にはなんぼほど生徒がいてまんねん?」
「男子生徒百五十一名、女子生徒百五十二名、それに夜学生徒が男子二十一名、女子が七名おる」
「へえそないにいてまんのか」
(中略)
「学校の費用はいくらあっても足らんのだー夜学となるとランプを欠かすわけにはゆかんが、どう始末しても月に四升の油が要る。この油代がいかほどにつくと思う」(後略)

 監事は学校予算の乏しさから、少しでも高くと屎尿汲み取りをモグリ百姓たちに頼んだ訳を話しました。
 今のように事務職員がいない小学校では、経理部門まで監事と呼ばれる教師が担当していたのでしょう。

肥とり舟(屎尿下水研究会ホームページより)

 毎回、一見落着の後は、源蔵親分のお手柄が「上方新聞」という地元紙(瓦版のようなものだったでしょうが)に掲載されるというのが、この事件帳の特徴です。
 このたびは、次のような記事が載りましたが、関係部分を抜粋してみると・・・

 

 このままでは大阪が大変なことになってしまう、なんとかうまい手は見つからぬものかーこう考えた親方サンは(中略)実にすばらしい着想を思いつきました。すなわち、各家庭の屎尿売却代金をば、小学校の経費に回すという妙計です。
 現在、大阪府下における小学校の経費は、国庫よりの補助も多少はあるものの、その大部分を篤志家の寄付、受業料、学区内集金等に頼っております。このうち、地元の負担である学区内集金について述べれば、 ところによっては戸別割、間口割、宅地の坪数割、竈の数割、その他といった具合にまことにヤヤコシイ有様です。もし、この支出をスッキリと屎尿売却代金一本に絞ることが出来れば、これほど簡便かつ有益な名案はありますまい。知恵者で名の高かったかの太閤サンも、さぞかし地下でビックリしていることと存じます。
(以下略)

 

明治6年に建てられた旧新田小学校校舎(大阪府豊中市WIKIPEDIA

 

    学校経費に関しては  『学制百年史』「三 教育財政」に以下のように述べられており、作中の記述はまず正確と見てよいようです。ただ、「国庫よりの補助」は無きに等しいものでした。

学制下における教育財政
 学制における教育財政の基本的な考え方は、教育は個人の「身ヲ立ルノ財本」であり、各人の立身治産に役だつものであるから、学校の運営に要する経費は官に依頼すべきものではなく、教育を受ける人民みずからがこれを負担すべきであるという原則に立つものであった。この考え方に基づいて学制は、学校経費はまず授業料の形で生徒の父兄がこれを負担すべきであるが、同時に、学校経費のことごとくを授業料でまかなうことは不可能であるから、その不足を寄附金・学区内集金その他の方法によって学区が負担すべきものとし、生徒の「受業料」を中心にした民費による負担を原則としたのであった。

教育費のうち小学扶助金および授業料収入を除く残りはすべて学区が調達した。学区の調達する経費は、学区内集金、寄附金その他の諸入金などの方法によっていたが、その多くの部分は学区内集金により、その他は寄附金によっていた。学区内集金は、学齢児童の有無にかかわりなく戸数に割り当てたり、各戸の収入・反別等に応じて学区内住民に割り当てて徴収された。
しかし、当時の国民の負担能力にとっては過度の負担でもあり、就学拒否・学校破壊などの騒擾を結果し、地租改正や徴兵令などに対する不満とからみあって、政治不安をも招来するに至ったのである。 ※   太字は筆者

 

 

「学制」表紙


   「受業料」は、「学制」では月に50銭または25銭と規定されていましたが、当時の庶民には家計を圧迫する相当な高額で、これを徴収しない府県も多かったとされています。
 地域からの拠出、つまり集金、寄付、積金(利息)などは本作品の当時では全国平均で69.2%と学校経費の7割近くを占めていました。
 裕福な商人などが学校建築費の大半を拠出した事例も中にはありますが、そうしたのはむしろ例外であり、農村では田畑を学校所有としてそこから上がる収入を充てたりしていたところもあったようです。(中村文夫 樋口修資「学制期を中心とした教育財政の制度史」『明星大学研究紀要ー教育学部 第3号』 2013年)
  本作品のような大都市の下町では、集金、寄付などに依拠せざるを得なかったのでしょうが、西南の役による諸物価の高騰は庶民の生活を圧迫しており、学校維持に必要な経費を徴収するのはなかなか難しかったのではないでしょうか。
 そうした状況から生まれた屎尿売却代金」を経費の一部に充当というこの名案(?)が果たして実現したのかどうかは不明です(関係する書物、論文にもこのことに言及したものは未見です)が、学制期の学校経費をめぐる実態の一側面を描き出していることに間違いはないことでしょう。
   なお、学校経費を設置する町や村が負担するようになるのは、「学制」の次に公布された「教育令」明治12年・1879)においてからでした。

 

 

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【番外】 有明夏夫『なにわの源蔵事件帳① 大浪花別嬪番付』より「尻無川の黄金騒動」 その1 木刀をさげた学校監事

   40年余り前の20代後半の頃、NHKで今は亡き桂枝雀師匠が主人公に扮した『なにわの源蔵事件帳』というドラマを放映していたのをひょんなことから思い出し、図書館で原作を借りてきて読んでいます。

 今回取り上げたのは「尻無川の黄金騒動」。時代は西南の役明治10年)直後、大阪の町なかにおけるし尿の汲み取りをめぐる屎尿取締会所とモグリの百姓との紛争から、不正を働く百姓たちを追及する過程で、「海坊主の親方」こと赤岩源蔵が凶悪な強盗の逮捕につながるお手柄をあげるという話になっています。

  屎尿汲み取り代金を払わない(後の時代とはちがい、当時は肥料にするためにくみ取った農民側が支払っていた)との苦情を会所へ申し立てた小学校へ向かった源蔵・・・。

 

 

「こら、そこで何をしておる!」
とうしろで呼ぶ声がした。振り返れば痩せた禿げ頭の小男が、肩いからせて源蔵をにらんでいる。最初は小使いかと思ったが、目を落とすと、腰に短い木刀を帯びてござる。すると、この御仁が学校監事かいな。(中略)
 通されたのは監事部屋だった。が、二人が席に着いた直後に、受業時間の区切りを告げるらしい太鼓が鳴った。(中略)
 源蔵は正面の壁を見上げた。そこには二枚の額がかかっている。まず右は

 

 第一大区第一、二番小学校
        五等訓導 竹内冶一
 兼第一大区第一、二番小学校
 監事申付候事
   明治十年三月廿六日
   大阪府

   続いて左は

  竹内冶一
 東第十五区小学
 読物教師申付
 勤中帯刀差許候事
  壬申十一月   *明治5年(1872)
 大阪府権知事
  渡 辺  昇

 

■ 「五等訓導兼学校監事」とは

  「訓導」という職名は、明治初期の学制の頃から、戦後間もなく「教諭」に替わるまで、初等・中等学校において長らく正教員の呼称でした。

 この作品の頃は次のように五段階に分けられていました。

 

 学制当初は、名称・等級・給料は各府県ごとにまちまちであったので、明治6年8月に小学校教員の等級をあらためて一等から五等までとし、その給料の基準を、訓導は「五等月給三十円以下十円マテヲ与フ」と定めた。そして、「師範学校卒業生派出規則」を次のように布達し、初任給のときから訓導に任じられるようにした。
 
  教員ノ等級及月給ヲ定ムルハ地方官ノ適宜タルヘシト雖(イエド)モ下等小学科卒業生ハ最初五等訓導上等小学科卒業生ハ最初三等訓導ニ補シ順次昇等セシムルヲ法トス(第7条)
       「港区教育史 第2巻 通史編2」 明治期の教育 上 訓導・授業生とその待遇

  この竹内という教師は訓導の中でも最下等の五等ではありますが、元は伊丹(兵庫県)にあった儒学者・橋本香坡が長らく教頭を勤めた明倫堂という郷校(郷学)で教えていたという設定で、プライドの高い老士族として描かれています。

 ところで「訓導兼監事」とはどういうことでしょうか。
 小学校におけるそうした発令は未見ですが、師範学校や専門学校等においては、明治初期にそういう職名が散見されます。
 その頃は「校長」という職名が定着しておらず、下の論文のように「首座教員」と呼ばれており、この竹内氏もその態度にふさわしく(?)この小学校の「管理者=校長」であるようです。

  一校あたりの教員の数がおよそ二人程度であった明治初期においては「校長」という概念は存在しなかった。教員を統率する「首座(主座)教員」がのちに自然発生したが,学校の維持・管理は学校世話役や学校取締,監事などいわゆる「学校役員」紛が担当していたため,首座は現在でいう「校長」の機能・役割を担う必要がなかった。
 明治10年頃になって,就学人口の増加による学校規模の拡大や教授方式の変化による教場管理の必要性から,学校内部管理が非常に複雑化したため,これを(首座)教員が担当する慣行が各地で成立し,かような教員に対し地域によっては「校長」の呼称を与えるようになった。
     
元兼正浩「明治期における小学校長の法的地位の変遷に関する一考察」『教育経営教育行政学研究紀要』第1号,九州大学,1994

    それにしても、「校長」が木刀を腰にさげて校内をウロウロというのはいかにも不思議な光景ではありますが、明治9年(1876)に廃刀令が出てから間もないその当時にあっては、刀がさせなくなった寂しさを紛らせる人も中にはいたのでしょうか。

小林信彦『東京少年』その6  勤労動員・初めての田植え

 総力戦のさなかなので、田植えにも、中学生の総力を結集する、と教師が宣言した。ぼくたちは割り当てられた高田市周辺の農家に二人ずつ泊まりこんだ。
 曽我といっしょだといいと思っていたが、選ばれた相手は色が黒く、たくましい別の少年だった。
 数日とはいえ、他人と起居をともにするのは堪えがたい。学校で顔を合わせている分には知らずにすむ、お互いのいやな面や欠点を、否応なしに見る羽目になる。いずれにしろ、ろくなことはない。
 ぼくは〈軽い肺炎〉にでもなれたら、と思った。泊まりこみを避ける方法は、それくらいしかない。まあ、頭痛でもいいのだが。
 病気を装わなかったのは、総力戦に協力しない、と指弾されるのを恐れたからだった。埼玉の山の中で叩き込まれたふるまい方が本能的に働いた。
 赤茶けていたるところが擦り切れた畳の上で、ぼくは、見知らぬ中年の農民夫婦、同級生と生活することになった。(中略)
 ぼくが醜態を演じたのは,翌日の田植えの時だった。苗を左手に持って、後ずさりしながら植えてゆくのだが、水田の泥をまさぐる脚に奇妙な感覚がある。かゆいのでも、いたいのでもないが、どうもおかしい。
 泥から引き抜いてみると、黒いものがもぐさのように幾つも臑(すね)に付着している。驚いて畦(あぜ)に上り、とり去ろうとしたが、足を振ったぐらいでは落ちなかった。
 ようやく蛭(ひる)らしいことに気づいた。(中略)
  「われ、なにしてんだ。そんな田植えがあるか!」
 向こうで、同級生が苗を手にしたまま、ぼくを睨んでいた。
「だって・・・・蛭が血を吸うから・・・・」
「ボケ!蛭のいない田んぼがあるかや」
 相手が〈おまん(きみ)ではなく、〈われ(てめえ)〉呼ばわりしたのも、ぼくを傷つけた。が、そういう呼び方をした相手の気持ちもわからぬではない。
 涙がこみ上げてきた。ぼくは戦争という網に捕らえられた小さな鳥に過ぎない。どうしようもない。この泥の中から逃れることができないのだ。ただ情けなくて、ぼくは涙を流した。
  (14 その前夜)

宇都宮実業学校の生徒による田植え
(『高根沢町史 通史編Ⅱ』第四章・昭和恐慌と戦争の時代/四節・戦時下の村政と村民生活

■ 学徒動員体制の強化

 「学徒勤労動員」(学徒動員)とは、働き盛りの男性が出征したために生じた農村や工場の労働力不足を補うため、強制的に進められた学生や生徒(学徒)の動員のことです。
 太平洋戦争開戦以前から終戦までの間、学徒動員体制が強化されていく過程を、文部省(当時)の『学制百年史』「戦時教育体制の進行」をもとにまとめてみました。

昭和13年(1938)6月
 「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」
 作業実施期間は、夏季休暇の始期終期その他適当な時期において、中等学校低学年は三日、その他は五日を標準とし、農事・家事の作業・清掃・修理・防空施設や軍用品に関する簡易な作業・土木に関する簡易な作業が対象。
昭和14年(1939)3月
 中等学校以上に対し、集団勤労作業を「漸次恒久化」し、学校の休業時だけでなく随時これを行ない、正課に準じて取り扱うことを指示。勤労作業の対象は、主として木炭増産、飼料資源の開発、食糧増産等。
昭和16年(1941)3月
 「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」において、文部省はこの運動を「国策ニ協カセシムル実践的教育」であるとし、「一年ヲ通ジ三十日以内ノ日数ハ授業ヲ廃シ」て作業に当てることができ、その日数・時数は授業したものと認めた。 

昭和16年(1941)8月
   全国の諸学校において学校報国隊が結成される。

動員学徒の服装の例 (広島平和記念資料館ホームページ)

昭和18年(1943)10月
 「教育ニ関スル戦時非常措置方策」によって、修業年限の短縮と学校の整理統合、戦時勤労動員の強化等の措置が決定された。勤労動員を「教育実践ノ一環」として、「在学期間中一年ニ付概ネ三分ノ一相当期間」実施することとなった。
昭和19年(1944)1月
   「緊急学徒勤労動員方策要綱」を決定。学徒動員を「勤労即教育ノ本旨ニ徹シ」て強化し、動員の性格が従来の「教育実践ノ一環トシテ」の勤労動員から「勤労即教育」となった。
昭和19年(1944)3月
   「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」閣議決定、動員の基準を明らかにした。1)学徒の通年動員、2)学校の程度・種類による学徒の計画的適正配置、3)教職員の率先指導と教職員による勤労管理などが強調された
昭和19年(1944)7月
   「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」を通牒し、1)一週六時間の教育訓練時間の停止 2)国民学校高等科児童の継続動員 3)それでも供給不足の場合は中等学校低学年生徒の動員 4)深夜業を中等学校三年以上の男子のみならず女子学徒にも課する 5)出動後二か月たたない学徒にも深夜業を課することなどを指令した。

「ああ紅の血は燃ゆる」 (副題「学徒動員の歌」)
作詞: 野村俊夫、作曲: 明本京静
歌唱:酒井弘、安西愛子 
昭和19年(1944)9月日蓄レコード

花もつぼみの 若桜
五尺の生命(いのち) ひっさげて
国の大事に 殉ずるは
我ら学徒の 面目ぞ
ああ紅の 血は燃ゆる

後(あと)に続けと 兄の声
今こそ筆を 投げうちて
勝利揺るがぬ 生産に
勇み立ちたる 兵(つわもの)ぞ
ああ紅の 血は燃ゆる

君は鍬(くわ)とれ 我は鎚(つち)
戦う道に 二つなし
国の使命を 遂(と)ぐること
我ら学徒の 本分ぞ
ああ紅の血は燃ゆる

何を荒(すさ)ぶか 小夜嵐(さよあらし)
神州男児 ここに在り
決意ひとたび 火となりて
守る国土は 鉄壁ぞ
ああ紅の 血は燃ゆる

・昭和20年(1945)3月
   「決戦教育措置要綱」閣議決定し、国民学校初等科ヲ除キ、学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル間、原則トシテ之ヲ停止スル」こととした。五月二十二日「戦時教育令」が公布された。

 このように、学徒勤労動員の体制が強化される中で、集団作業を効率的に行えるように組織されたのが「学校報国隊」でした。
  当初は、学校を修練のための道場にするため,学校長を会長もしくは団長とする教職員・学生生徒一体の組織をつくれというものでしたが、次々に発せられた文部省の訓令、次官通牒により変質をさせられていきました。
 すなわち、「学徒の修練組織と言いながら学校教練、食糧増産作業等へ適時出動できる国家的組織の形成と指揮命令系統の確立をねらったもの」という結果になったわけです。
 (神辺 靖光 「学徒勤労動員の行政措置 : 中等学校を中心に」『明星大学教育学研究紀要,(11)』、1996)

 

 昭和19年(1944)3月の「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」では、学校種別、学年別に動員先が定められました。※大学・専門学校などは省略

イ,国民学校高等科(現在の中学1・2年生に相当))
  土地の状況,心身の発達を考慮して適当な作業。
ロ,中等学校
  1・2学年は国民学校高等科に準じる。
 ①工業学校……軍関係その他の重要工場。
 ②商業学校から転換した工業学校㈹……特定工場または学校工場。
 ③農業学校……食糧増産,国防建設事業。
 ④中学校・商業学校・高等女学校……食糧増産,国防建設事業,工場事業場(輸送を含む)。
 女子はできるだけ学校工場。大都市の中学校・商業学校の生徒は疎開及び防空施設事業。

 中学に入ったばかりの主人公たちは、農村地帯ということで田植えに駆り出されたわけですが、都市部にあっては、低学年の生徒でも工場へ派遣された例は多くあったようです。

 それぞれの職場において終戦詔勅を聞いた動員学徒の数は三四○万人をこえたといわれています。また、学徒動員中の空襲や事故などによる死亡者は一万九六六人、傷病者は九、七八九人の多きを数えています。(文部省『学制百年史』より)

 

※(参考)東京・中野区内中等学校の動員先一覧(中野区公式ホームページ)

 

【参考・引用文献】   
高根沢町史 通史編Ⅱ』「第四章 昭和恐慌と戦争の時代 四節 戦時下の村政と村民生活」2009年(高根沢町図書館/高根沢町デジタルミュージアムhttps://adeac.jp/takanezawa-lib/catalog/mp000020-000010
文部省『学制百年史』(1972年)第四章・戦時下の教育 第一節・三 戦時教育体制の進行 https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317693.htm
 神辺靖光「学徒勤労動員の行政措置 :中等学校を中心に」『明星大学教育学研究紀要,(11)』1996年
 山本哲生「戦時下の学校報国団設置に関する考察」『教育學雑誌 17』 (土屋忠雄先生追悼号)1983年
広島平和記念資料館ホームページ http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0407/exh04073.html

小林信彦『東京少年』その5  昭和20年 英語の授業

 昭和20年(1945)3月、無試験で合格した東京の「一流と称される」中学校(東京高師付属中)が空襲で焼けたために、主人公は再疎開先の新潟県にある高田中学校(現・県立高田高等学校)に転校することになりました。同校は、高田藩の藩校・脩道館を淵源とする県下屈指の伝統校です。

新潟県立高田高等学校(Wikipedia

 

  転校の手続きが遅れ、既に学校は始まっていました。


 教室に入ると、英語の時間だった。
 敵の本土上陸が迫っている時に、その敵の言葉を勉強したなんて、創り話だろうと、後年、よく言われたが、冗談ではない。文部省検定済みの教科書使用である。
 国民学校のころ、(ABCD包囲陣)という言葉が新聞に大きく出ていたから、A、B、C、Dは知っていた。もう一つ、Xも知っていたように思う。
  しかし、文章になっている教科書の英語は、まるで、理解できない。理解どころか、呆然とした
  入学通知がくる前に、アルファベットと発音記号の授業はすでに終わっていたのである。その事実は、帰りに、曽我に説明された。
「そうか、知らなかったのか」
 その夜、父は無表情でノートに鉛筆でアルファベットと読み方を書いた。
 こんなもの、すぐには覚えきれない、とぼくは思った。見たことがないものがならんでおり、しかも、大文字と小文字の二種類があるのだ。 
 仕方なく、ぼくは形からくる連想の日本語で覚えようとした。〈L〉は、〈直角〉、〈t〉は〈ご尤も〉といった具合に。そんな覚え方は、そもそも無理なのだが、それでも、なんとか授業についていけるようになったのは、不思議というほかない。
 教科書の英文は、たとえば、次のようなものだった。
 There is a tank on the hill.
    That is a Japanese tank.
 また、こういうのもあった。
   Is that a bird or an animal.
  あとで冷静に考えれば、〈あれは日本の戦車です〉という呟き(会話?)は、ラバウルガダルカナル島での敵兵のものとしか思えないのだが、その時は、そんなことは考えもしなかった。
〈あれは鳥ですか、動物ですか?〉という問いも、よく考えれば、ずいぶんと変なのだが、その時は発音の方に苦労してていた。鳥〈バード〉の発音には英語教師の方言が入っていて、〈ブーチュ〉ときこえた。

 クラスには、東京からの縁故疎開者が何人かいた。
 直接の疎開者と、ぼくのように集団疎開を経てきた者が混じっていたが、クラスの雰囲気は明るかった。当時はそんな言葉はなかったが、この中学は土地の〈エリート校〉だったのである。生徒たちは、疎開者を苛(いじ)めるというような、ありがちなことを避けるようにしていた。
(13  山鳩の声)

 

  大都市に住む中学生(旧制)が縁故疎開し、その地の中学校へ転校するということが、戦争末期には、ごく普通に行われていたようです。
  『東京都教育史 通史編四』(東京都立教育研究所、1997年)には、そのあたりの事情について、以下のような記述があります。

  

 文部省は、(昭和18年11月22日)省令第79号「大東亜戦争中ニ於テ分散疎開ニ依ル中等学校生徒ノ転学ノ取扱ニ関スル件」により、所定の転学手続きをとる疎開生徒の受け入れに際しては、中学校規程・高等女学校規程などの規定する生徒数・学級数を超えて生徒を収容し得ることを認め、また告示「中等学校生徒転学ニ関スル手続ニ関スル件」により、疎開転校の場合、現在校の校長から本人申出の転住先都道府県長官あてに願書・証明書・調書等を提出、地方長官は本人の志望・居住地・学業成績・家庭事情などを総合判定して転学校を決定し関係書類を送付、送付を受けた学校長は当該生徒の転入を認めるとの手続き方法を定めた。」

(第二章学童疎開/二縁故疎開と集団疎開/学童・生徒縁故疎開の方策)

  筆者の母校の前身・兵庫県立小野中学校(現・小野高等学校)の場合、生徒定員各学年200名(全校で1000名)に対して、転入生は昭和19年度においては約50名でしたが、翌20年4月には、「三月のアメリカ軍による連続大都市爆撃の影響もあってか、一挙に全校で百十名の多くを受け入れ」たということです。(『八十周年記念史誌』、1983年)
 その百十名のうちの一人で、筆者にとってはその昔同僚であった書道のY氏(故人)は、昭和20年3月、大阪の四條畷中学から三年生の時に転入した体験を以下のように綴っておられます。
  

 当時は軍か県の命令でほとんど強制的に定員に関係なく私たち転校生を受け入れたのであろう。今みると学籍簿保証人の欄が転校生はすべて空白である。いかに慌ただしい受け入れであるかがわかる。

 国鉄の切符すら自由に買えない時代であって、事前の転入試験など出来もしなかったであろう。私も母に連れられて三月に一度面接を受けたのみで、新学期には掲示板の前で多くの転校生とともに担任の先生に迎えられて教室へ入った。

 Y氏の学年は、昭和18年の一年時には218名でしたが、二年時は242名になり、最も多い時期には280名を数えたとあります。
 空襲の恐れのない郡部の中学校では、似たような状況が生じていたのではないでしょうか。

 

■ 戦争末期 旧制中学の英語教育

 昭和12年(1937)の日中戦争勃発から、昭和16年(1941)太平洋戦争へと突き進む中で、英語は「敵性語」敵国語)とみなされ、身の回りのあらゆる物の名が、横文字から日本語に言い換えられたということが、面白おかしく語られることがあります。

敵性語の言い換えの一例

 また、 「太平洋戦争中の中学校などでは英語教育が禁止されていた」というような話を耳にすることがありますが、実際はどうだったのでしょうか。
   主人公が高田中学校に転校した昭和20年(1945)4月の時点では、前年の「学徒動員令」昭和19年8月)及び「決戦教育措置要綱」(20年3月)に拠り、三年生以上は軍需工場などへの動員で不在。かろうじて、1、2年生が校内にとどまり、制約の多い中で学校生活を送っていたようです。

 昭和18年(1943)の 「中等学校令 」(勅令第36号)及び「中学校規程」により、第3学年以上では外国語(英語)は実業科との選択教科となりました。週あたりの時間数も4時間と減じられています。当時の英語教育の実態を知る人達は、「英語教育の暗黒時代」と評しているほどです。(清水貞助「我が国の中学校における英語の指導時数の変遷の研究」立正女子大学短期大学部、『英米学研究 巻8』 1971) 

昭和18年(1943)の各教科時間数

昭和6年(1931)の各教科時間数
(上記、清水論文より、上の表も同じ)

  さて、主人公が使っていた英語の教科書は、中等学校教科書株式会社発行の「英語1 中学校用」(昭和19年発行)です。当社は出版社の戦時統合により発足した国策会社で、中等学校の各種教科書を一元的に発行していました。(戦後は中教出版として長らく続きましたが、2004年に倒産)

 時局を反映して、題材としては「大東亜共栄圏、軍事、戦時的自覚、神社参拝、天皇崇拝を内容とする軍国主義的な課が二割ほど盛り込まれていた」(磯辺ゆかり・江利川春雄「『墨ぬり』英語教科書の実証的研究」『和歌山大学教育学研究科紀要』、2005年)ということです。

第8課より

第9課より 「big tank」とありますが、砲身の長さ見ると「軽戦車」でしょうか。

 まさに、英語受難の時期でした。英語教師は失業におびえ、生徒の中には通学の列車内でうっかりと英語の教科書を広げたばかりに、「非国民!」と殴られたといった者もあるといった類いの話が今に語り伝えられています。

 戦争が終わると、そうした国家主義や戦意を鼓舞する内容を含む箇所は、GHQの指示によって、生徒自らの墨み塗りによって抹消されました。

上記磯辺・江利川論文より

 

【参考・引用文献】
斎藤兆史『日本人と英語 もう一つの英語百年史』研究社、2007年
磯辺ゆかり・江利川春雄「『墨ぬり』英語教科書の実証的研究」『和歌山大学教育学研究科紀要. 人文科学 56』2006年
清水貞助「我が国の中学校における英語の指導時数の変遷の研究」立正女子大学短期大学部英米学研究 巻8』1971年
兵庫県立小野高等学校80年記念史誌』1983年
東京都立教育研究所『東京都教育史 通史編四』1997年

小林信彦「東京少年」その4 中学受験の結果は・・・

 疎開先での集団生活は、主人公たちに色々と過酷な試練を与え続けました。

 

飢えからの赤蛙食い  親元との通信に教師の検閲 児童たちの中のスパイ疑惑
動物性タンパクの不足から栄養失調  脱走騒ぎ 下痢の蔓延  ジフテリアによる死者 等々

疎開先の食事の一例 (NHK for Schoolより)

 昭和20年(1945)に入ると、2月12日には「修了疎開学童の東京引揚計画」(2月21日から3月10日)が発表されましたが、B29による「帝都盲爆」はいっそう激しさを増し、主人公たちの校区の街々は焼かれ、級友たちの中にも家族を失った者が出るようになっていました。

3月10日の東京大空襲 により、東京の下町は一晩で焼け野原になってしまった。

 

 びっくり箱の仕掛けはまだ残っていた。
 翌日の夕食後、六年生の集合を命じた教師は、
「重大な発表をする・・・・・」
 玉砕を報じるアナウンサーのような緊張した声で言った。
昭和二十年度本校卒業生は、全員無事、各自の志望校に入学できた。先刻、校長先生から電報が入ったのだ。みんな、喜ぶように・・・・」
 軽い歓声が上がった。気の抜けたような声であった。
 どうなっているのだろう、とぼくは困惑した。要は、時局がら(無試験)ということらしかった。一流と称される中学に、ぼくは無試験で入れたのだ。 身体検査すらなしに。
 たしかに、それは、ありがたいことだった。落ちたとき、どうするかを、ぼくは親と相談するつもりでいたからだ。が、こうなると、入試のための一年間の受験勉強は、どういうことになるのだろう。しかも、ーこれは教師に呼ばれて告げられたのだが、ぼくが入れた中学校は、数日前の空襲で焼失してしまっていた。
 ぼくのほかにも、そういう立場の者がいた。つまり、ぼくたちは新入生の幽霊なのだ。
 
 三月十日の東京大空襲で、主人公の実家のある日本橋区は家屋がほぼ焼失し、待ちに待った疎開の引き揚げは無期延期となってしまいます。

  (中略)

 ぼくの国民学校では、成績がまずまずであれば三中(現・両国高校)に進むのがふつうであり、ぼくもそう思っていた。隅田川を渡らなければならないが、それを当然と考える世界に生きていた。
 山の手の中学に入れよう、と考えたのは父らしい。彼自身がその中学出身だったから、というのが理由だろう。父を教えた教師がまだ学校にいる、といった事情もあったらしい。
  (10 昭和二十年三月十日)

 

 引用文中の「山の手」の「一流と称される」父親の出身校(作者の父は病気で中退 Wikipedia)というのは、当時の小石川区大塚(現在の文京区大塚)にあった東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学付属中学校・高等学校)のことでした。
 同校は、府立一中(現・都立日比谷高等学校、昭和18年都政施行により都立第一中学校)と並ぶ進学名門校として古くから知られていました。  

  

東京高等師範学校附属中学校(『創立60年記念誌』東京文理科大学、1931年)

 創設以来の著名な出身者は、各界において枚挙に遑がないほどなので、リンクを張っておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E6%B3%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%84%E5%B1%9E%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7
(1~58回は旧制中学出身、59回以降は新制高校出身)

 

■ 戦時下の中学入試は・・・

 前回のその3「『日常生活』の開始」で取り上げた本文には、以下のような記述がありました。
 

    ぼくたち六年生の学習は大広間に寝転がって、粗末な印刷の中学入試問題集をひもとくだけだった。(3飢餓への序曲)

  また、上の引用文中には「入試のための一年間の受験勉強」ともあります。
 

 戦時中の中等学校(中学校、高等女学校、実業学校など)入学試験(正式には入学考査)は、学力試験(筆記試験)がなくて、内申書、口頭試問、身体検査によって行われていたというように思っていたのですが、「問題集を使って受験勉強をしている」とあります。いったい、本当のところはどうだったのでしょうか。

 

 大正後半期以降、中等教育への進学希望者が増大の一途をたどる一方で、学校の増設や規模拡大が追いつかず、入学試験競争が激化していました。
   小学校児童の過度な受験勉強や小学校での補習授業の公然化などが社会問題となり、文部省はその是正に向けて取り組んでいました。概略は以下の通りです。(文部科学省「学制百二十年史」等による)

 

昭和2年(1927)11月
 中学校令施行規則を一部改正。従前の入学試験を、小学校最終二学年分の学業成績などについての小学校長の報告書(いわゆる内申書)、口頭試問による人物考査、及び身体検査の三つから成る「入学考査」(「徳性考査」)に改めた。「小国民体位の向上と錬成を図るために教科に基づく試問を禁止する」という趣旨であった。
 ・昭和4年(1929)11月
 文部次官通牒により、人物考査の際「必要アル場合ニ於テハ筆記試問ノ方法ヲ加フルヲ得ルコト」となり、事実上筆記試験による入学者選抜が復活
 ・昭和10年(1935)
 難問奇問の横行を防ぐために文部次官通牒により、地方長官(府県知事)が試験問題を事前に審査することを指示。
昭和14年(1939)9月
 次官通牒をもって筆記試験の全廃を再度指示し、報告書の客観化を目指す委員会の設置や人物考査法の基準などを示して十五年度から厳密に実施することとした。
 ・昭和18年(1943)12月
   人物考査について従来の「口問口答ヲ以テシ」から「口問口答ニヨルヲ本体トシ」に後退したので、多くの府県で再び「簡易な筆記試験」が復活した
 ・昭和19年11月
 学童疎開・学徒勤労動員などの強化の情勢に則した方式を通牒(データベース『えひめの記憶』)※内容の詳細は不明

 

 上記の内容や『兵庫県教育史』(1963)、塚野克己『長崎の青春 旧制中学校高等女学校の生活誌』(長崎文献社、1998)等によると、全く筆記試験が行われなかったのは、昭和15年度から18年度の間でした。
 主人公たちの昭和20年度入試の詳細は不明ですが、「中学入試問題集をひもと」いて「受験勉強」をしていたとありますので、当然のことながら学科の試験が予定されていたものと思われます。

 

 三月十日の空襲で焼失した学校が多かったために、昭和20年度の中等学校入試に際して、東京都は各中等学校に以下のような内容の「臨時非常措置」を通達しました。

  

 1 応募者が募集人員が定員以下の場合は全員合格

 2 応募者が定員を超えた場合は報告書(内申書)のみ審査で合否を判定

 3 報告書を消失した中等学校では再提出を求めず抽選で合否を決定できる

(安達宏昭「通年勤労動員下の立教中学校(一)」『立教学院史研究(15)』2018

 主人公の場合が上のいずれに該当するのかは不明ですが、いずれにせよ、報告書(内申書)のみで合格が決まったことに間違いはありません。

 

 東京からの疎開体験を綴った文章の中には、3月20日に行われる東京都の中等学校の入学試験のために東京に戻っていた国民学校6年生の多くが、3月10日の東京大空襲に居合わせて亡くなったことを記しているものがあります。

 主人公たちの場合は、「疎開の引き揚げ」が「無期延期」となったために、被災を免れたわけで、不幸中の幸いと言えるでしょう。

 

■ 合格した中学は焼失・・・・

 こうした非常事態に対応すべく、政府は以下のような措置を講じました。

 二十年戦局はいよいよ苛烈となるに及んで、三月政府は「決戦教育措置要綱」を閣議決定し、「国民学校初等科ヲ除キ、学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル間、原則トシテ之ヲ停止スル」こととした。さらに五月二十二日「戦時教育令」が公布された。

(『学制百年史』より「戦時教育体制の進行」)

 

決戦教育措置要綱
昭和20年3月18日 閣議決定

第一 方針
現下緊迫セル事態ニ即応スル為学徒ヲシテ国民防衛ノ一翼タラシムルト共ニ真摯生産ノ中核タラシムル為左ノ措置ヲ講ズルモノトス
第二 措置
一 全学徒ヲ食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究其ノ他直接決戦ニ緊要ナル業務ニ総動員ス
二 右目的達成ノ為国民学校初等科ヲ除キ学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル期間原則トシテ之ヲ停止ス
国民学校初等科ニシテ特定ノ地域ニ在ルモノニ対シテハ昭和二十年三月十六日閣議決定学童疎開強化要綱ノ趣旨ニ依リ措置ス
三 学徒ノ動員ハ教職員及学徒ヲ打ツテ一丸トスル学徒隊ノ組織ヲ以テ之ニ当リ其ノ編成ニ付テハ所要ノ措置ヲ講ズ但シ戦時重要研究ニ従事スル者ハ研究ニ専念セシム
四 動員中ノ学徒ニ対シテハ農村ニ在ルカ工場事業場等ニ就業スルカニ応ジ労作ト緊密ニ連繋シテ学徒ノ勉学修養ヲ適切ニ指導スルモノトス
五 進級ハ之ヲ認ムルモ進学ニ付テハ別ニ之ヲ定ム
六 戦争完遂ノ為特ニ緊要ナル専攻学科ヲ修メシムルヲ要スル学徒ニ対シテハ学校ニ於ケル授業モ亦之ヲ継続実施スルモノトス但シ此ノ場合ニ在リテハ能フ限リ短期間ニ之ヲ完了セシムル措置ヲ講ズ
七 本要綱実施ノ為速ニ戦時教育令(仮称)ヲ制定スルモノトス

 上記五では「進学ニ付テハ別ニ之ヲ定ム」とあり、おそらく筆記試験をなくして、内申書、口頭試問などで行うということだったのではないかと思われますが、詳細は不明です。

 

東京高等師範学校も門柱を残して焼け落ちていました(Wikipedia

 

 主人公が合格していた「山の手」の「一流と称される」中学校も、空襲で焼失していました。

 また、実家も空襲で焼けたために、主人公一家は新潟県の親戚を頼って、「縁故疎開」をすることになります。主人公にとっては、「再疎開でした。

 

【参考・引用文献】

学制百二十年史:文部科学省 (mext.go.jp)

文部科学省『学制百年史』
 https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317552.htm

安達宏昭「通年勤労動員下の立教中学校(一)」『立教学院史研究(15)』2018年

塚野克己『長崎の青春 旧制中学校高等女学校の生活誌』長崎文献社、1998年

兵庫県教育委員会兵庫県教育史』1963年