名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。

井上靖『しろばんば』① 「通知簿と袴」

 一学期の終わる最後の日は、いつもこの日に通知簿(成績表)を貰うので洪作はよそ行きの着物を着せられ、袴(はかま)を穿(は)かされ、先生から貰った通知簿を包む大型のハンケチを持たされた。
 洪作にとっては学期末の通知簿を貰う日は辛い日であった。袴を穿くのは全校で二人しなかなかった。穿く者は決まっていた。洪作と上の家のみつだけであった。それからお役所という呼び方で村人から呼ばれている帝室林野管理局天城出張所の所長に子供のある人が赴任して来ると、大抵そこの子供たちが袴を穿いたが、しかし、洪作が二年になった時は、子のない所長が赴任していたので、袴を着けるのはみつと洪作の二人だけだった。
 洪作もみつも袴を着けるのは厭(いや)だったが、何となく自分たちは袴を着けなければならぬもののように思いこまされていた。
(中略)
    朝礼が終わって第一時間目に、生徒たちは教師の手から一人ひとり通知簿を渡された。通知簿を渡してから老いた教師は、一学期の成績は一番が浅井光一、二番が洪作であると発表した。みつは八番であり、酒屋の芳衛は終いから三番であった。生徒たちは自分の席次が何番であろうとも少しも気にかけなかった。みんな一様に無表情な顔で、自分の席次を親に伝えるために、教師から告げられた順位を忘れないように口の中で何回も唱えていた。一番びりだと言われた新田部落の木樵(きこり)の子供は、自分だけが何番という数字を知らされないで、”びり”だということに納得がいかないらしく、
   「うらあ、何番だ、うらあ、何番だ」
と前や背後の机をのぞき込んで喚(わめ)きたてた。そしてその挙句の果てに、短気な老教師に耳を掴(つか)まれて引っ張り上げられ、いきなり頬を二つ殴られた。(前篇 二章)
                                                    *うら(方言)・・・私、おれ

  

f:id:sf63fs:20190712151359j:plain

 

 『しろばんば』は、井上靖の自伝的長編小説である。題名の「しろばんば」とは雪虫のこと。本作品の舞台であり、作者自身が幼少時代を過ごした静岡県伊豆半島中央部の山村・湯ヶ島では、秋の夕暮れ時になればこの虫が飛び回る光景が見られた。

 本作品の時代背景は大正初期で、前編は、主に主人公・洪作と母方の叔母・さき子や義理の曽祖父の妾・おぬい婆さんとの触れ合い、後編は主に転校生・あき子との初恋、そしておぬい婆さんの死が描かれている。さらに沼津の商家「かみき」の蘭子や三島の伯母など、数多くの親戚が登場する(特に後編)のも特徴である(例示した両者は『夏草冬濤』の前半で登場する)。このように、多くの親戚との触れ合いの中で井上靖の豊かな人格が形成されたことが伺える。
     ( 出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

 

f:id:sf63fs:20190712151429j:plain

  井上靖明治40年~平成3年・1907~1991)旭川市生れ。京都大学文学部哲学科卒業後、毎日新聞社に入社。戦後になって多くの小説を手掛け、1949(昭和24)年「闘牛」で芥川賞を受賞。1951年に退社して以降は、次々と名作を産み出す。「天平の甍」での芸術選奨(1957年)、「おろしや国酔夢譚」での日本文学大賞(1969年)、「孔子」での野間文芸賞(1989年)など受賞作多数。1976年文化勲章を受章した。(新潮社 著者プロフィール)

 

■ 通知簿と順位
  

 主人公の洪作(尋常小学校2年生)は父が軍医で母と妹を伴って豊橋に赴任しており、この湯ヶ島ではおぬい婆さんと暮らしています。

    一学期の終業式(この作品では普通の「朝礼」はあったようですが、「式」は描かれていません)というのは、「明日からいよいよ夏休みだ!」という解放感・期待感がある一方で、その学年で初めての通知表(通知簿)をもらうということから緊張感があって、子供にとっては結構気の重い日でもあります。

 この部分で気になったのは、担任教師が各生徒のクラス内順位を全員の前で発表しているところです。
 明治24年「小学校教則大綱」(文部省令第11号)以降、 昭和12年(1937)までは「甲乙丙丁」(こう おつ へい てい)という評定が行われていました。但し、「丁」はほとんど使われなかったとか。
(その後3年間・・・優良可(操行)、10点法(操行以外の教科目、昭和16年からはすべて「優良可」http://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?page=ref_view&id=1000189877) 

 クラス内の順位を付けるとなると、「甲乙丙丁」のそれぞれを数値化して、合計を出したのでしょうか。
 1960年代に小学校生活を送った経験から言うと、小学生の間はクラスや学年内の順位というものは知らされていなかったように思います。
 中学校に入ると、定期考査や実力考査などがあり、初めて「厳しい現実」を突き付けられたと記憶しています。

f:id:sf63fs:20190712155328j:plain

(大正時代・「全甲」の通知簿、https://blog.goo.ne.jp/momonngamomo/e/3924017f9bce391d1bf5d1be3e0417ec 

 

■ 小学生と袴

 近年、都会の小学校では、卒業式で女子児童に袴を着用させる(レンタルでしょうか)保護者が目立ってきて、学校や教育委員会の対応がちょっとしたニュースになっています。

f:id:sf63fs:20190713164710j:plain

 (大正初期、http://www.library.pref.nara.jp/supporter/naraweb/tukigase-gakkou.html

  写真はおそらく卒業式(人数が少ないので高等小学校かもしれません)のものと思われます。全員、袴を着用し、男子の中には羽織を着ている生徒もいます。

 作品の中では、おぬい婆さんがしきりと洪作に「袴を着けて登校するよう」に言います。

 その昔、特に地方では家の「格」(家格)というものが重んぜられました。
 軍医の長男を預かる保護者としてのおぬい婆さんには、終業式にはそれなりの服装で登校させるものだという強い思いがあったものと見られます。
   明治期でもいわゆる「良家」の子どもたちは、袴を着けて登校していたようですが、そうでない普通の家の子供も大正時代には袴を着けることが多くなったということです。
 ただし、これは都会の話で、田舎では昭和に入って洋服が普及するまでは「袴無し」が普通だったとか。
   私たちの小学生の頃(昭和37~42年)でもまだそうでしたが、小学生の服装一つとっても、家と家の間に、また都会と田舎との間にはっきりした「格差」が見られたものでした。

 

 

 

趣味あれこれ 第322回「西明石・浪漫笑」

   毎月第二金曜日の夜は、西明石駅近くの酒屋さん「HANAZONO」の地下ライブハウス(50名収容)で開かれている見出しの落語会へ通い始めて三年が経ちました。

  

f:id:sf63fs:20190713123005j:plain

 

  昨夜の演目は

・笑福亭乾瓶さん  「大安売り」


f:id:sf63fs:20190713110109j:image

 

鶴瓶さんの一番新しいお弟子さんで、年季明け間近とか)

・桂梅団治さん(この地域寄席を主宰)

「兵庫船」


f:id:sf63fs:20190713111042j:image

・桂阿か枝さん

「住吉駕籠」(蜘蛛駕籠40分の大熱演でした👍

お名前のとおり、地元明石市のご出身❗️


f:id:sf63fs:20190713111343j:image

 

以上の三席で1200円。

 

終演後の咄家さんとの打ち上げ参加者の場合は3000円となります。

来月はバーベキューなんで、久しぶりに打ち上げも参加しようかと。(加古川線は終電となりますが😥)

 

来週は「ハルカス寄席」(あべの近鉄)にしようか、「雀三郎一門の梅田にぎわい亭」にしようか思案中です😅

 

島崎藤村『破戒』③  「天長節」


 本ブログでは5月7日の「田山花袋田舎教師』③」でも、「天長節」を取り上げています(https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2019/05/07/114653)が、今回は少し違った話題を取り上げます。

 

    さすがに大祭日だ。町々の軒は高く国旗を掲げ渡して、いづれの家も静粛に斯の記念の一日(ひとひ)を送ると見える。少年の群は喜ばしさうな声を揚げ乍ら、霜に濡れた道路を学校の方へと急ぐのであつた。悪戯盛(いたづらざかり)の男の生徒、今日は何時にない大人びた様子をして、羽織袴でかしこまつた顔付のをかしさ。女生徒は新しい海老茶袴(えびちやばかま)、紫袴であつた。  (第五章 一)

    国のみかどの誕生の日を祝ふために、男女の生徒は足拍子揃へて、二階の式場へ通ふ階段を上つた。銀之助は高等二年を、文平は高等一年を、丑松は高等四年を、いづれも受持々々の組の生徒を引連れて居た。退職の敬之進は最早(もう)客分ながら、何となく名残が惜まるゝといふ風で、旧(もと)の生徒の後に随いて同じやうに階段を上るのであつた。
  (中略)
 殊に風采の人目を引いたのは、高柳利三郎といふ新進政事家、すでに檜舞台(ひのきぶたい)をも踏んで来た男で、今年もまた代議士の候補者に立つといふ。銀之助、文平を始め、男女の教員は一同風琴の側に集つた。
 『気をつけ。』
  と呼ぶ丑松の凛(りん)とした声が起つた。式は始つたのである。
  主座教員としての丑松は反つて校長よりも男女の少年に慕はれて居た。丑松が『最敬礼』の一声は言ふに言はれぬ震動を幼いものゝ胸に伝へるのであつた。軈(やが)て、『君が代』の歌の中に、校長は御影(みえい)を奉開して、それから勅語を朗読した。万歳、万歳と人々の唱へる声は雷(らい)のやうに響き渡る。其日校長の演説は忠孝を題に取つたもので、例の金牌(きんぱい)は胸の上に懸つて、一層(ひとしほ)其風采を教育者らしくして見せた。『天長節』の歌が済む、来賓を代表した高柳の挨拶もあつたが、是はまた場慣れて居る丈だけに手に入つたもの。雄弁を喜ぶのは信州人の特色で、斯ういふ一場の挨拶ですらも、人々の心を酔はせたのである。     (第五章 二)※風琴=オルガン

 

 

f:id:sf63fs:20190710153123j:plain

教育勅語奉読)

 

■ 主座教員・丑松
 
 主人公の瀬川丑松は師範学校を出て幾年も経っていないのですが、「主座教員」(普通は「首座教員」と表記)の地位にあります。
  明治33(1900)年8月20日に改正された「第三次小学校令」以前は、「校長」に相当する者を「首座教員」とか「主席訓導」と呼んでいました。
 本作品の時代背景は明治30年代の中頃と思われますから、「第三次小学校令」の下で校長は必置となっていました。
 ですから、この重要な儀式において、若い丑松は現在の教頭のような役割を果たしていることになります。
    同僚教員の多くが、検定試験や講習を受けて教職にある者や代用教員であったために、若い丑松が首座にいるのでしょう。
   この当時、師範学校の卒業生といえば、教員界のエリートだったのですね。

 

f:id:sf63fs:20190710153417p:plain

明治28年の「静岡県学事関係職員録」より、「校長」とカッコ内に書かれています。小規模校には校長がいないところがあります。)

 

■ 祝日大祭日儀式と「唱歌の斉唱」

 

 天長節」とは、今でいうところの天皇誕生日です。
 明治時代にあっては、明治天皇の誕生日である11月3日がその日となります。
    この「天長節」に「四方拝」(1月1日),「紀元節」(2月11日)を加えて、「三大節」と呼んで、当日は児童生徒も登校して盛大に儀式が行われました。
   次は文部省の文部省訓令をもとに、明治25年(1892)に長野県が定めた「小学校祝日大祭日儀式次第」(抜粋)です。
  (作中の「来賓の挨拶」は下の次第にはありませんから、作者の創作かと思われます。)

小学校祝日大祭日儀式次第

 

第一条 紀元節 天長節 元始祭 神嘗祭新嘗祭ノ儀式ハ左ノ次第ニ拠ルヘシ 但未タ 御影ヲ拝戴セサル学校ニ於テハ第四款第十款第十一款ヲ省ク  
 一 生徒ノ父母親戚及町村内ノ参観人着席  
 二 生徒一同着席  
 三 町村長学校職員其他参列員着席  
 四 学校長若クハ首席教員 陛下ノ 御影ヲ奉開ス 此間一同起立
 五 一同最敬礼   学校長若クハ首席教員一同ニ代リ左ノ祝辞ヲ陳フ    

    謹テ天皇陛下ノ万歳ヲ祝シ奉ル    

    謹テ皇后陛下ノ万歳ヲ祝シ奉ル  
 六 唱歌君が代一同起立合唱ス  
 七 学校長若クハ教員 勅語ヲ奉読ス 此間一同起立  
 八 学校長若クハ教員小学校祝日大祭  日儀式規程第一条第三款ニヨリ演説ス  
 九 唱歌(第四条ニ拠ル)一同起立合唱ス  
 十 一同最敬礼  
 十一 学校長若クハ首席教員 陛下ノ 御影ヲ奉閉ス 此間一同起立  
 十二 一同退席             (下線は筆者)

 

 明治20年代後半から、主要な学校儀式においては「御真影への拝礼」・「教育勅語奉読」・「君が代と式歌斉唱」がワンセットになって必ず実施されるようになります。
    中でも、唱歌の斉唱は、もちろん欧米の儀式を模したものですが、 国家主義的な教育を推進した初代の文部大臣・森有礼が、その教育的効果に着目して導入を命じたと言われています。

 

 留学経験のある森は欧米の教会儀式などをイメージしてこの内命を考案したのであ ろうと思われる。つまり学校儀式での唱歌斉唱は、教会の賛美歌を真似たものと見るこ とが出来る。即ち教会の賛美歌は荘厳な雰囲気を生み出し、意識を空虚にさせ神へと帰一する意識を植え付けようとするものであるが、森は神を天皇に置換え、新生国家である 日本が天皇を中心とした全国民の意識の統一によってまとめられることを期待したもの であろうと考えられるのである。 (入江直樹「儀式用唱歌の法制化過程」、 下線は筆者)

f:id:sf63fs:20190710153735p:plain

 

(「天長節」作詞:黒川真頼 、作曲:奥 好義)

 

■ 最敬礼

 上の次第にあるように、こうした重要な儀式では、普通の「礼」ではなく「最敬礼」が要求されました。
 「次第」の第五条には「最敬礼の方法」が示されています。

第五条  
 最敬礼ノ式ハ帽ヲ脱シ体ノ上部ヲ傾ケ頭ヲ垂レ手ヲ膝ニ当テヽ敬意ヲ表スルモノトス  但女子洋服着用ノ節ハ脱帽ノ限リニ在ラス

f:id:sf63fs:20190710154716j:plain

    当時の礼法、礼式の本、或いは師範学校の教科書などには、よく次のように書かれています。(お辞儀の角度)

   会釈  (15度)    敬礼・普通礼(30度)

  最敬礼 (45度)

島崎藤村『破戒』② 老教員の本音

 

 『・・・・我輩なぞは二十年も――左様(さやう)さ、小学教員の資格が出来てから足掛十五年に成るがね、其間唯同じやうなことを繰返して来た。と言つたら、また君等に笑はれるかも知れないが、終(しま)ひには教場へ出て、何を生徒に教へて居るのか、自分乍ら感覚が無くなつて了つた。はゝゝゝゝ。いや、全くの話が、長く教員を勤めたものは、皆な斯ういふ経験があるだらうと思ふよ。実際、我輩なぞは教育をして居るとは思はなかつたね。羽織袴(はおりはかま)で、唯月給を貰ふ為に、働いて居るとしか思はなかつた。だつて君、左様(さう)ぢやないか、尋常科の教員なぞと言ふものは、学問のある労働者も同じことぢやないか。毎日、毎日――騒しい教場の整理、大勢の生徒の監督、僅少(わづか)の月給で、長い時間を働いて、克(よ)くまあ今日迄自分でも身体が続いたと思ふ位だ。あるひは君等の目から見たら、今茲(こゝ)で我輩が退職するのは智慧(ちゑ)の無い話だと思ふだらう。そりやあ我輩だつて、もう六ヶ月踏堪(ふみこた)へさへすれば、仮令(たと)へ僅少(わづか)でも恩給の下(さが)る位は承知して居るさ。承知して居ながら、其が我輩には出来ないから情ない。是から以後(さき)我輩に働けと言ふのは、死ねといふも同じだ。家内はまた家内で心配して、教員を休(や)めて了(しま)つたら、奈何(どう)して活計(くらし)が立つ、銀行へ出て帳面でもつけて呉れろと言ふんだけれど、どうして君、其様(そんな)真似が我輩に出来るものか。二十年来慣れたことすら出来ないものを、是から新規に何が出来よう。根気も、精分も、我輩の身体の内にあるものは悉皆(すつかり)もう尽きて了つた。あゝ、生きて、働いて、仆(たふ)れるまで鞭撻(むち)うたれるのは、馬車馬の末路だ――丁度我輩は其馬車馬さ。はゝゝゝゝ。』(第四章 四)

 

 

f:id:sf63fs:20190704174109j:plain

(1962年の映画『破戒』、丑松を演じたのは市川雷蔵

  

    風間敬之進(けいのしん)は五十の声を聞くようになったベテランの同僚教師で、丑松とは親子ほどの年の開きがあります。
 学校では、丑松が主席教員(訓導)で高等科4年(現在の中学2年生)を担任しているのに対して、敬之進は尋常科の担当でした。
 先妻・後妻と合わせて六人の子持ち(未就学児も含み)ですが、まもなく健康面を理由に退職の予定となっています。
 元は士族(飯山藩士)の出で、詳しい経歴は語られていませんが、おそらく丑松のように師範学校という正規のルートをたどってはいなくて、検定によって正教員の地位を得ているものと思われます。
 引用した部分は、町はずれの居酒屋・笹屋へ敬之進が丑松を誘ったときの、彼の述懐です。「老朽な小学教員」の本音というか愚痴が出てしまっています。

 

■ 教員の恩給

 「恩給」とは、また懐かしい言葉の響きですね。子どもの頃、周りの大人たちが「学校の先生は恩給がついてええな・・・」などと言っていたのを思い出します。
  

恩給(おんきゅう)・・・恩給法(大正12年法律第48号)に規定される、官吏であったものが退職または死亡した後本人またはその遺族に安定した生活を確保するために支給される金銭をいう。なお、地方公務員については各地方公共団体が定める条例(恩給条例など)により支給され、退隠料と称されることもある。(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

 
 支給には要件がありました。教員の場合は、原則として在職15年以上で、失格原因なくして退職した者に支給されるというものです。
 風間敬之進の場合は14年と半年で、6か月足らないのです。丑松は勤務校を訪れていた郡視学に何とかならないかと訴えましたが、規則を盾に一蹴されました。
 (居酒屋での様子からは、あと半年の勤務が無理とは思えないのですが・・・) 
   普通恩給の年額は、退職当時の俸給年額の3分の1から2分の1程度でした。
  そもそも、小学校教員の俸給自体が割と低かった(明治末ごろの尋常小学校本科正教員の平均月俸は20円余り)ので、子だくさんの敬之進の退職後の生活は厳しいものとなることが予想されます。
 

    このように見てくると、では「恩給と他の年金との違いは何?」という疑問が自然と生じてきます。
 総務省のホームページでは、やはり「恩給Q&A」というコーナーがあり、 
  次のような回答があります。(文末が「~考えています。」というのは、お役所の文章としてはちょっと違和感がありますね)
 
 

 恩給がもともと対象としていたのは、明治憲法下の国家における軍人、官吏等であり、国家に身体、生命を捧げて尽くした公務員です。
   恩給制度は、こうした公務員の傷病等の場合や死亡後の遺族に対し、国家として補償を行うという考え方に基づいてつくられた年金制度です。
   このような恩給の基本的性格については、相互扶助の考え方に基づき、保険数理の原則によって運営される社会保障としての公的年金とは異なっているものと考えています。 ※太字は筆者 http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/onkyu_toukatsu/onkyu_qa.htm#q22

 

 ■ 教員は労働者!?

 教員としての誇りも意欲もなくしてしまったような敬之進の話は自嘲に満ちていて、「こんな先生には教えてもらいたくないな」と思わせるような内容になっています。
 教職というものをどう見るかについては、ずいぶんと昔から「教師聖職者論」vs「教師労働者論」の対立や論争がありますが、近年はそれに「教師専門職論」も加わっています。
   (「教師専門職論」・・・高い教養と能力の上に、特殊な専門技術が積み上げられた職業という考え方で、実際、1996年「ILO・ユネスコ共同勧告」の教師の地位に関する勧告では、「教師は、専門職でなければならない」と規定されている。)

 

 一方で、教員史研究の専門家によると、明治時代の教員を類型化すると、次のような4つのパターンになるということです。(陣内靖彦『日本の教員社会』)

1 「師匠的」教員=明治初年代、先生と生徒との間にパーソナル(私的)な人間関係があり、教師が自らの職業を「天職」と考えているような特徴が見られる。幕末期の寺子屋師匠の名残が見られる。

f:id:sf63fs:20190706170202j:plain

寺子屋の師匠・『一掃百態図』より/渡辺崋山 画)

「士族的」教員=明治10年前後から20年代前半。教員の中核部分を、維新によって経済的基盤を失った士族階級が占めていた。教職を世俗から超越したものとしてとらえ、生徒を啓蒙する公的な社会の代表としての一面をもっていた。

f:id:sf63fs:20190706170334j:plain

(士族の女性の小学校准教員免許状)

「師範型」教員=明治20年代後半から30年代の教員養成が制度化されると、教員の役割も画一的、形式主義的になっていく過程で生じた。教員は知識伝達と道徳教化の技術者という側面を持つとともに、国家からは「准官吏」に位置付けられた。

f:id:sf63fs:20190706170554j:plain

(長野県師範学校の絵葉書/長野名勝)

4 「小市民的」教員=明治末期から大正期前半。学校現場で組織化・官僚制化が進む中で、周辺的・傍系的教員の中には、教育という公務に献身しようという意欲を見失い、教職を「食うための手段」、「しがない教師稼業」としてとらえる向きが生じてきた。

 

 敬之進の場合、族籍は2の「士族的教員」なのですが、教員としての生き方は、まさに4の「小市民的教員」そのものです。

 

 

 早くも明治の三十年代の作品に、酒席とはいえ、このように「教師労働者論」を吐く「デモシカ教員」が描かれているところに、正直言って意外の感を禁じえませんでした。

    明治女学校、東北学院、小諸義塾などで教師経験のある藤村は、こういう教師を現に見てきたのでしょうか。ちょっと気になりました。

    

島崎藤村『破戒』① 「名誉の金牌と教育基金」

 

 毎月二十八日は月給の渡る日とあつて、学校では人々の顔付も殊に引立つて見えた。課業の終を告げる大鈴が鳴り渡ると、男女の教員はいづれも早々に書物を片付けて、受持々々の教室を出た。悪戯盛(いたづらざかり)の少年の群は、一時に溢れて、其騒しさ。弁当草履を振廻し、『ズック』の鞄を肩に掛けたり、風呂敷包を背負(しよつ)たりして、声を揚げ乍(なが)ら帰つて行つた。丑松もまた高等四年の一組を済まして、左右に馳せちがふ生徒の中を職員室へと急いだのである。
    校長は応接室に居た。斯(こ)の人は郡視学が変ると一緒にこの飯山へ転任して来たので、丑松や銀之助よりも後から入つた。学校の方から言ふと、二人は校長の小舅(こじうと)にあたる。其日は郡視学と二三の町会議員とが参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許(すこしづゝ)観た。郡視学が校長に与へた注意といふは、職員の監督、日々にち/\の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する『トラホオム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件ことであつた。応接室へ帰つてから、一同雑談で持切つて、室内に籠る煙草(たばこ)の烟(けぶり)は丁度白い渦(うづ)のやう。茶でも出すと見えて、小使は出たり入つたりして居た。
    斯(こ)の校長に言はせると、教育は則ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。もと/\軍隊風に児童を薫陶(くんたう)したいと言ふのが斯人の主義で、日々にち/\の挙動も生活も凡(すべ)て其から割出してあつた。時計のやうに正確に――これが座右の銘でもあり、生徒に説いて聞かせる教訓でもあり、また職員一同を指揮(さしづ)する時の精神でもある。世間を知らない青年教育者の口癖に言ふやうなことは、無用な人生の装飾(かざり)としか思はなかつた。是主義で押通して来たのが遂に成功して――まあすくなくとも校長の心地こゝろもち)だけには成功して、功績表彰の文字を彫刻した名誉の金牌(きんぱい)を授与されたのである。
    丁度その一生の記念が今応接室の机の上に置いてあつた。人々の視線は燦然(さんぜん)とした黄金の光輝(ひかり)に集つたのである。一人の町会議員は其金質を、一人は其重量(めかた)と直径(さしわたし)とを、一人は其見積りの代価を、いづれも心に商量したり感嘆したりして眺めた。十八金、直径(さしわたし)九分、重量(めかた)五匁、代価凡そ三十円――これが人々の終(しま)ひに一致した評価で、別に添へてある表彰文の中には、よく教育の施設をなしたと書いてあつた。県下教育の上に貢献するところ尠(すく)なからずと書いてあつた。『基金令第八条の趣旨に基き、金牌を授与し、之を表彰す』とも書いてあつた。
 (第二章 一)

 

f:id:sf63fs:20190702115157j:plain

 『破戒』(はかい)は、島崎藤村の長編小説。1905(明治38)年、小諸時代の最後に本作を起稿。翌年の1906年3月、緑陰叢書の第1編として自費出版被差別部落出身の小学校教師がその出生に苦しみ、ついに告白するまでを描く。藤村が小説に転向した最初の作品で、日本自然主義文学の先陣を切った。夏目漱石は、『破戒』を「明治の小説としては後世に伝ふべき名篇也」(森田草平宛て書簡)と評価した。 
 

(あらすじ)
 明治後期、信州小諸城下の被差別部落に生まれた主人公・瀬川丑松(せがわうしまつ)は、「その生い立ちと身分を隠して生きよ」と父より戒めを受けて育った。その戒めを頑(かたく)なに守り成人し、小学校教員となった丑松であったが、同じく被差別部落に生まれた解放運動家、猪子蓮太郎(いのこれんたろう)を慕うようになる。丑松は、猪子にならば自らの出生を打ち明けたいと思い、口まで出掛かかることもあるが、その思いは揺れ、日々は過ぎる。やがて学校で丑松が被差別部落出身であるとの噂が流れ、更に猪子が壮絶な死を遂げる。 その衝撃の激しさによってか、同僚などの猜疑(さいぎ)によってか、丑松は追い詰められ、遂に父の戒めを破りその素性を打ち明けてしまう。そして丑松はアメリカのテキサスへと旅立ってゆく。     

出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

f:id:sf63fs:20190702120054j:plain

 

■ 名誉の金牌と教育基金

 引用した部分の後半には、主人公・瀬川丑松の勤務する小学校の校長が、これまでの功績を認められ、名誉の金牌を授与されたことが話題になっています。
 いつの時代にも退職の間際に、例えば「教育功労賞」などといった名称で、教育委員会などからそういう類の表彰はあるものです。
 ここでは、「『基金令第八条の趣旨に基き~」の部分に注目して、「お金の出どころ」について以下に述べてみたいと思います。

 この「基金令」ですが、正式には明治32年(1899)11月22日公布の「教育基金令」(勅令第四百三十五号)と称しました。

  

教育基金令(勅令第四百三十五号)

第一条 教育基金元資金ヨリ生スル収入ハ本令ノ規定ニ依リ之ヲ使用ス
第二条 文部大臣ハ教育基金特別会計法第四条ニ依リ一般ノ歳出トシテ毎年度予算ニ於テ定マリタル金額ヲ前年十二月三十一日現在ノ学齢児童数ニ応シテ北海道庁及府県ニ配当ス
(中略)
第八条 府県ハ毎年配当ヲ受ケタル金額十分ノ三以内ヲ限リ文部大臣ノ認可ヲ受ケ市町村立小学校教員ノ奨励其ノ他普通教育ニ関スル費用ニ充ツルコトヲ得
(以下略)

  このように、第八条には「小学校教員ノ奨励」という文言があり、作中の表彰がこれに該当するものと分かります。

 関連する法律ですが、それは明治32年(1899)3月22日公布の「教育基金特別会計法」明治32年法律第80号、昭和18年廃止)というものです。

教育基金特別会計法(明治三十二年三月二十二日法律第八十号)
 第一条 教育基金ヲ置キ其歳入歳出ハ一般会計ト区分シ特別会計ヲ設置ス
 第二条 償金特別会計資金ノ内千万円ハ教育基金ニ組入ルヘシ
 第三条 教育基金ハ普通教育費ニ使用ス
 前項普通教育費ノ使用ニ関スル規程ハ命令ヲ以テ之ヲ定ム
(以下略)

 

f:id:sf63fs:20190702120703j:plain

 市川崑監督の映画『破戒』1962年)

 これは日本史の必修事項にもなっているでしょうが、日清戦争後に我が国は清国から3億6,451万円(当時の国家予算8千万円の4.5倍)もの賠償金と還付報奨金を得ました。
 その主な使途は・・・

日清戦争の戦費(臨時軍事費特別会計に繰入)・・・7,896万円21.9%
・軍拡費・・・2億2,606万円62.6%(陸軍5,680万円15.7%、海軍1億3,926万円38.6%、軍艦水雷艇補充基金3,000万円8.3%)

・その他・・・15.5%(製鉄所創立費58万円0.2%、運輸通信費321万円0.9%、台湾経営費補足1,200万円3.3%、帝室御料編入2,000万円5.5%、災害準備基金1,000万円2.8%、教育基金1,000万円2.8%

  

f:id:sf63fs:20190702154956j:plain

 1,000万円の教育基金の利子を毎年普通教育(小学校教育)費の補助に充てることになり、以後日露戦争の前まで続きました。
 明治33年(1900)の「小学校令」では小学校の授業料を原則廃止としました。その結果、明治35年(1902)には男女平均の就学率が90%を超えるようにもなりました。
 その後も、国定教科書制度明治37年・1904)の開始、小学校における6年制の義務教育化明治40年・1907)の実現へとつながっていきました。

 

 というわけで、日本史の授業では、日清戦争の賠償金は、軍備費拡張の費用や八幡製鉄所を初めとする工業化インフラの整備、金本位制の確立などに充てられたと習うのですが、わずか3%足らずの金額とはいえ、小学校教育の振興にも少なからぬ余得をもたらしたということも忘れてはならないと思います。

中勘助『銀の匙』⑤ 修身と操行点

 


f:id:sf63fs:20190627170415p:plain


 私のなにより嫌ひな学課は修身だつた。高等科からは掛け図をやめて教科書をつかふことになつてたがどういふ訳か表紙は汚いし、挿画はまづいし、紙質も活字も粗悪な手にとるさへ気もちがわるいやくざな本で、載せてある話といへばどれもこれも孝行息子が殿様から褒美をもらつたの、正直者が金持ちになつたのといふ筋の、しかも味もそつけもないものばかりであつた。おまけに先生ときたらただもう最も下等な意味での功利的な説明を加へるよりほか能がなかつたので折角の修身は啻(ただ)に私をすこしも善良にしなかつたのみならずかへつてまつたく反対の結果をさへひき起した。このわづかに十一か十二の子供のたかの知れた見聞、自分ひとりの経験に照してみてもそんなことはとてもそのまま納得ができない。私は 修身書は人を瞞著(まんちやく)するものだ と思つた。それゆゑ行儀が悪いと操行点をひかれるといふ恐しいその時間に頬杖をついたり、わき見をしたり、欠伸(あくび)をしたり、鼻唄をうたつたり、出来るだけ行儀を悪くして抑へ難い反感をもらした。
 私は学校へあがつてから「孝行」といふ言葉をきかされたことは百万遍にもなつたらう。さりながら彼らの孝道は畢竟かくのごとくに生せいを享(う)け、かくのごとくに生をつづけてることをもつて無上の幸福とする感謝のうへにおかれてゐる。そんなものが私のやうに既にはやく生苦の味をおぼえはじめた子供にとつてなんの権威があらうか。私はどうかしてよく訳がききたいと思ひある時みんなが悪性の腫物(はれもの)のやうに触れることを憚(はばか)つて頭から鵜呑みにしてる孝行についてこんな質問をした。
「先生、人はなぜ孝行しなければならないんです」
 先生は眼を丸くしたが
「おなかのへつた時ごはんがたべられるのも、あんばいの悪い時お薬ののめるのも、みんなお父様やお母様のおかげです」といふ。
私「でも僕はそんなに生きてたいとは思ひません」
 先生はいよいよまづい顔をして
「山よりも高く海よりも深いからです」
「でも僕はそんなこと知らない時のはうがよつぽど孝行でした」
 先生はかつとして
「孝行のわかる人手をあげて」
といつた。ひよつとこめらはわれこそといはないばかりにぱつと一斉に手をあげてこの理不尽な卑怯なしかたに対して張り裂けるほどの憤懣をいだきながら、さすがに自分ひとりを愧ぢ顔を赤くして手をあげずにゐる私をじろじろとしりめにかける。私はくやしかつたけれどそれなりひと言もいひ得ずに黙つてしまつた。それから先生は常にこの有効な手段を用ひてひとの質問の口を鎖(とざ)したが、こちらはまたその屈辱を免れるために修身のある日にはいつも学校を休んだ
(後篇 十)

 

 「修身」・・・・自分の行為を正しくし,身を修め整えること。旧制の学校の道徳に関する教科の名称。国民道徳の実践,徳性の涵養を目的とした。 1880年の教育令改正により小学校教科の首位におかれ,教育勅語発布 (1890) 後は小学校だけでなく各学校の国民道徳,国民教育の基本として特に重視された。その後,国家主義教育政策を推進する中核的な教科として位置づけられたこともあって,第2次世界大戦後は廃止された。

コトバンクhttps://kotobank.jp/word/%E4%BF%AE%E8%BA%AB-77070

 

■ 教育勅語と修身科

 

 明治二十年前後、学校制度がしだいに整えられてくると、知育偏重が批判されるとともに、国民教育の根本精神が各方面で論議されるようになりました。
    徳育のあるべき姿をめぐっては、旧来の儒教道徳を重視するもの、西洋の近代的な市民倫理を取り入れようとするものなど、様々な意見が並立し、修身教育の混乱を招く事態も生じていました。

 そんな中、明治二十三年(1890)十月三十日、明治天皇山県有朋総理大臣と芳川顕正文相を宮中に召して「教育に関する勅語教育勅語)を下賜されました。

   これによって、国民道徳および国民教育の根本理念が明示されることとなったわけです。

 

f:id:sf63fs:20190629111245j:plain

教育勅語謄本、各学校に下賜された)

 明治二十四年(1891)十一月の「小学校教則大綱」は、この教育勅語の趣旨に基づくものでした。

 「修身」については、「修身ハ教育二関スル勅語ノ旨趣二基キ児童ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養シ人道実践ノ方法ヲ授クルヲ以テ要旨トス」と定め、授けるべき徳目として、孝悌(てい)、友愛、仁慈、信実、礼敬、義勇、恭倹等をあげ、特に「尊王愛国ノ志気」の涵(かん)養求めました。

 その頃の修身教科書の特徴を「学制百年史」は次のように述べています。

 

 小学校の修身教科書は教育勅語の趣旨に基づいて特に厳格な基準によって検定が行なわれることとなった。

    そこでその後の修身教科書はきわめて忠実に教育勅語に基づいて内容が編集されている。

    当時の小学校修身教科書を見ると、毎学年(または毎巻)勅語に示された徳目を繰り返す編集形式がとられている。これは後に徳目主義と呼ばれているもので、教育勅語発布直後の修身教科書の特色である

    三十年代になると、ヘルバルト派の教育思想の影響により、歴史上の模範的人物を中心として編集した人物主義の修身教科書が多くあらわれたが、その際にも人物に教育勅語に示された徳目を配置して編集しており、教育勅語の趣旨は一貫している。

    このほか勅語の全文を各巻の巻頭にかかげているものも多く、高等小学校では一巻または一部を勅語の解説にあてているものも多い。

 

  

f:id:sf63fs:20190627173818p:plain

 

f:id:sf63fs:20190627173903p:plain

(「實驗日本修身書. 巻4尋常小學生徒用 -- 訂正再版」渡邊政吉編纂 -- 金港堂書籍, 明治26[1893].9-
 国立教育政策研究所    「明治期教科書デジタルアーカイブhttps://www.nier.go.jp/library/textbooks/K120.html

まず第一課は「孝行」で始まっています。)

 

⬛️   操行点とは

   

 

f:id:sf63fs:20190628161035j:plain

(明治34年の通信簿、http://www.sakura-sha.jp/blog/syoken_jiten-4/

 

 当時の成績通知簿には各教科の評価のほかに、「操行」の評価もありました。

 「操行」とは、「常日頃の行い。行状。品行。みもち。」(『日本国語大辞典』)のことで、現代風にいうと「行動の記録」になるのでしょうが、それにも「甲乙丙」と評価がなされていたのです。

 「修身」の評価も難しいと思うのですが、「操行」となると客観的な評価はさらに難しいのではないでしょうか。

 

 教育評価の研究者は次のように問題点を指摘しています。

 人物評価は,当時の教師の一般的な力量からすれば,観察,印象的 判断によりきわめて概略的に点数や評語を与えるという,主観性の強いもので

あった。松本尋常小学校の「日々人物検定表」では, 品行,勤勉,才幹とそれ ぞれ定点100 点が与えられ, 減点法で日々採点され, 各項目の合計点を平均す ると いう機械的方法がとられている。そこには評価におけるフィード・バック 機能を期待することはむずかしく, いきおい児童を相対的に比較して格づけ し及落及び褒賞の資料として利用されたものと考えられる。そして児童の行 動は,教室の内外を問わず観察(監視)され,収集された資料は指導改善のた めに利用されるというより児童を管理し校則に適応させる機能を果たしていた とみてよい。(天 野 正 輝「明治期における徳育重視策の 下での評価の特徴」  龍谷大学論集-93 、傍線は筆者)

  

 主人公の「操行」の評価はどうだったのでしょうか。

 これだけ教師に反抗的で生意気なことを言っているのですから、当然のことながら「甲」や「乙」ではなかったことでしょう。

 これが、中学校ともなると「操行点」も進級や卒業の要件となっており、生徒たちの日常の言動を規制するものとなっていました。

 私のもう一つのブログ「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」の中で取り上げています。ご参照ください。

 

12 その3「操行査定というもの」 - 『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ

 

中勘助『銀の匙』④ 日清戦争下の小学校②  「ちゃんちゃん坊主」と「大和魂」

 

 それはそうと戦争が始まつて以来仲間の話は朝から晩まで大和魂とちやんちやん坊主でもちきつてゐる。それに先生までがいつしよになつてまるで犬でもけしかけるやうになんぞといへば大和魂とちやんちやん坊主をくりかへす。私はそれを心から苦苦(にがにが)しく不愉快なことに思つた。先生は予譲(よじやう)や比干(ひかん)の話はおくびにも出さないでのべつ幕なしに元寇と朝鮮征伐の話ばかりする。さうして唱歌といへば殺風景な戦争ものばかり歌はせて面白くもない体操みたいな踊りをやらせる。それをまたみんなはむきになつて眼のまへに不倶戴天のちやんちやん坊主が押寄せてきたかのやうに肩をいからし肘を張つて雪駄の皮の破れるほどやけに足踏みをしながらむんむと舞ひあがる埃のなかで節も調子もおかまひなしに怒鳴りたてる。私はこんな手合ひと歯(よはひ)するのを恥とするやうな気もちでわざと彼らよりは一段高く調子をはづして歌つた。また唯さへ狭い運動場は加藤清正北条時宗で鼻をつく始末で、弱虫はみんなちやんちやん坊主にされて首を斬られてゐる。町をあるけば絵草紙屋の店といふ店には千代紙やあね様づくしなどは影をかくして到るところ鉄砲玉のはじけた汚らしい絵ばかりかかつてゐる。耳目にふれるところのものなにもかも私を腹立たしくする。ある時また大勢がひとつところにかたまつてききかじりの噂を種に凄(すさま)じい戦争談に花を咲かせたときに私は彼らと反対の意見を述べて 結局日本は支那に負けるだらう といつた。この思ひがけない大胆な予言に彼らは暫くは目を見合はすばかりであつたが、やがてその笑止ながら殊勝な敵愾心(てきがいしん)はもはや組長の権威をも無視するまでにたかぶつてひとりの奴は仰山に
「あらあら、わりいな、わりいな」
といつた。他のひとりは拳固でちよいと鼻のさきをこすつてみせた。もうひとりは先生のまねをして
「おあいにくさま、日本人には大和魂があります」
といふ。私はより以上の反感と確信をもつて彼らの攻撃をひとりでひきうけながら
「きつと負ける、きつと負ける」
といひきつた。そしてわいわい騒ぎたてるまんなかに坐りあらゆる智慧をしぼつて相手の根拠のない議論を打ち破つた。仲間の多くは新聞の拾ひ読みもしてゐない。万国地図ものぞいてはゐない。史記十八史略の話もきいてはゐない。それがためにたうとう私ひとりにいひまくられて不承不承に口をつぐんだ。が、鬱憤はなかなかそれなりにはをさまらず、彼らは次の時間に早速先生にいつけて
「先生、□□さんは日本が負けるつていひます」
といつた。先生はれいのしたり顔で
「日本人には大和魂がある」
といつていつものとほり支那人のことをなんのかのと口ぎたなく罵つた。それを私は自分がいはれたやうに腹にすゑかねて
「先生、日本人に大和魂があれば支那人には支那魂があるでせう。日本に加藤清正北条時宗がゐれば支那にだつて関羽張飛がゐるぢやありませんか。それに先生はいつかも謙信が信玄に塩を贈つた話をして敵を憐むのが武士道だなんて教へておきながらなんだつてそんなに支那人の悪口ばかしいふんです」
  そんなことをいつて平生のむしやくしやをひと思ひにぶちまけてやつたら先生はむづかしい顔をしてたがややあつて
「□□さんは大和魂がない」
といつた。私はこめかみにぴりぴりと癇癪筋のたつのをおぼえたがその大和魂をとりだしてみせることもできないのでそのまま顔を赤くして黙つてしまつた。
  忠勇無双の日本兵支那兵と私の小慧(ざか)しい予言をさんざんに打ち破つたけれど先生に対する私の不信用と同輩に対する軽蔑をどうすることもできなかつた。
                            (後篇 二 傍線は筆者)

 

f:id:sf63fs:20190625170653j:plain

(戦争ごっこ、「くもん 子ども浮世絵ミュージアム」より

https://www.kumon-ukiyoe.jp

 

■  「ちゃんちゃん坊主」
  

 「ちゃんちゃん坊主」という中国人に対する侮蔑的な呼称の語源については諸説あるようですが、「江戸時代に江戸の町を中国人の格好をして鉦をチャンチャンと鳴らしながら売り歩いていた商人がいた」ところからというのが、どうも有力なようです。
    研究者によれば、日本人が中国人を蔑視の対象とし、侮蔑的な言葉を使うようになったのはアヘン戦争で中国が列強に敗退した頃からですが、日清戦争の頃までは民衆の中にまでは浸透していなかったということです。(小松裕「近代日本のレイシズムー民衆の中国(人)観を例にー」)
  

 日清戦争開戦時に数え年13歳(高等小学校2年生)だったジャーナリストの生方敏郎(明治15~昭和44年:1882~1969、群馬県沼田市生まれ)は名著『明治大正見聞史』(中公文庫、1978)において、同様のことを述べています。

 

f:id:sf63fs:20190625175935j:plain

 私たち子供は学校の先生から色々聞かされてもからでも、まだこの戦の始まりはよく分からなかった。
 何故かと言えば、私たちはこの戦の始まるその日まで支那人を悪い国民とは思っていなかったし、まして支那に対する憎悪というものを少しも我々の心の中に抱いていなかったのだから。(中略)私等子供の頭に、日清戦争以前に映じた支那は、実はこの位立派な、ロマンチックな、そしてヒロイックなものであった。(中略)
 戦争の初めに持った不安の念が人々から脱れると共に、勝ちに乗じてますます勇む心と敵を軽蔑する心とが、誰の胸にも湧いてきた。
 戦争が始まると間もなく、絵にも唄にも支那人に対する憎悪が反映してきた。私が学校で教えられた最初の日清戦争の唄は、
 

 討てや膺(こら)せや清国を、清は皇国(みくに)の仇なるぞ、討ちて正しき國とせよ。
 

 (中略)
 また、俗謡に踊りの振りまで付けて流行したのは、
 

 日清談判破壊せば、品川乗り出すあづま艦、つづいて八重山浪速かん、・・・・西郷死するも彼がため、大久保殺すも彼奴がため、怨み重なるチャンチャン坊主
 

 というのだ。

f:id:sf63fs:20190625170717j:plain

(松本米兵衛「新版ちゃんちゃん坊主かぞえ歌」明治27年、

”一つトセ ひかりかがやくにっぽんを 小国とあなどり なまいきな コノチャンチャンくそぼうず”から始まり二十番まで)

 当初は、「眠れる獅子」と見られていた清国に対する不安や警戒心がありましたが、平壌の一戦に勝利の後は連戦連勝であっために、こうした侮蔑の念が人々の間に定着するようになってしまいました。
 わが国が大陸に進出した昭和初期には、「ちゃんちゃん坊主」はあまり聞かれなくなり、代わって「ちゃんころ」などという蔑称が兵隊の間から生まれ、一般にまで広まっていったということです。

 

■ 「大和魂」とは

 さて、一方の大和魂のほうですが、これは『源氏物語』以来の長い歴史をもつ言葉です。
 元来は、「外国と比して日本流であると考えられる精神・才覚などを指す用語・概念。儒教や仏教など入ってくる以前からの、日本人の本来的なものの考え方や見方を支えている精神である」(フリー百科事典・Wikipedia)ということです。
  それが、明治以降の国家主義的な体制の下では、「日本精神の独自性・優位性」という意味合いを持たされていきました。
 さらに、後には日本民族固有の勇敢で潔い精神」という風に、軍国主義体制に都合のよいように解釈され、広められたというのが実情ではないでしょうか。
 

 小学校に入った頃はビリだった主人公も、この頃には勉強に目覚めたのでしょうか、組長(級長)を指名される(当時は選挙でなく、成績優秀者を教師が指名していた)ほどに成長していました。
 他の級友とは違い、精神年齢も高かった主人公には、彼らや教師の言動が理不尽で馬鹿らしく、受け入れがたいものであったのですね。