小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

小林信彦「東京少年」その4 中学受験の結果は・・・

 疎開先での集団生活は、主人公たちに色々と過酷な試練を与え続けました。

 

飢えからの赤蛙食い  親元との通信に教師の検閲 児童たちの中のスパイ疑惑
動物性タンパクの不足から栄養失調  脱走騒ぎ 下痢の蔓延  ジフテリアによる死者 等々

疎開先の食事の一例 (NHK for Schoolより)

 昭和20年(1945)に入ると、2月12日には「修了疎開学童の東京引揚計画」(2月21日から3月10日)が発表されましたが、B29による「帝都盲爆」はいっそう激しさを増し、主人公たちの校区の街々は焼かれ、級友たちの中にも家族を失った者が出るようになっていました。

3月10日の東京大空襲 により、東京の下町は一晩で焼け野原になってしまった。

 

 びっくり箱の仕掛けはまだ残っていた。
 翌日の夕食後、六年生の集合を命じた教師は、
「重大な発表をする・・・・・」
 玉砕を報じるアナウンサーのような緊張した声で言った。
昭和二十年度本校卒業生は、全員無事、各自の志望校に入学できた。先刻、校長先生から電報が入ったのだ。みんな、喜ぶように・・・・」
 軽い歓声が上がった。気の抜けたような声であった。
 どうなっているのだろう、とぼくは困惑した。要は、時局がら(無試験)ということらしかった。一流と称される中学に、ぼくは無試験で入れたのだ。 身体検査すらなしに。
 たしかに、それは、ありがたいことだった。落ちたとき、どうするかを、ぼくは親と相談するつもりでいたからだ。が、こうなると、入試のための一年間の受験勉強は、どういうことになるのだろう。しかも、ーこれは教師に呼ばれて告げられたのだが、ぼくが入れた中学校は、数日前の空襲で焼失してしまっていた。
 ぼくのほかにも、そういう立場の者がいた。つまり、ぼくたちは新入生の幽霊なのだ。
 
 三月十日の東京大空襲で、主人公の実家のある日本橋区は家屋がほぼ焼失し、待ちに待った疎開の引き揚げは無期延期となってしまいます。

  (中略)

 ぼくの国民学校では、成績がまずまずであれば三中(現・両国高校)に進むのがふつうであり、ぼくもそう思っていた。隅田川を渡らなければならないが、それを当然と考える世界に生きていた。
 山の手の中学に入れよう、と考えたのは父らしい。彼自身がその中学出身だったから、というのが理由だろう。父を教えた教師がまだ学校にいる、といった事情もあったらしい。
  (10 昭和二十年三月十日)

 

 引用文中の「山の手」の「一流と称される」父親の出身校(作者の父は病気で中退 Wikipedia)というのは、当時の小石川区大塚(現在の文京区大塚)にあった東京高等師範学校附属中学校(現・筑波大学付属中学校・高等学校)のことでした。
 同校は、府立一中(現・都立日比谷高等学校、昭和18年都政施行により都立第一中学校)と並ぶ進学名門校として古くから知られていました。  

  

東京高等師範学校附属中学校(『創立60年記念誌』東京文理科大学、1931年)

 創設以来の著名な出身者は、各界において枚挙に遑がないほどなので、リンクを張っておきます。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AD%91%E6%B3%A2%E5%A4%A7%E5%AD%A6%E9%99%84%E5%B1%9E%E4%B8%AD%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%83%BB%E9%AB%98%E7%AD%89%E5%AD%A6%E6%A0%A1%E3%81%AE%E4%BA%BA%E7%89%A9%E4%B8%80%E8%A6%A7
(1~58回は旧制中学出身、59回以降は新制高校出身)

 

■ 戦時下の中学入試は・・・

 前回のその3「『日常生活』の開始」で取り上げた本文には、以下のような記述がありました。
 

    ぼくたち六年生の学習は大広間に寝転がって、粗末な印刷の中学入試問題集をひもとくだけだった。(3飢餓への序曲)

  また、上の引用文中には「入試のための一年間の受験勉強」ともあります。
 

 戦時中の中等学校(中学校、高等女学校、実業学校など)入学試験(正式には入学考査)は、学力試験(筆記試験)がなくて、内申書、口頭試問、身体検査によって行われていたというように思っていたのですが、「問題集を使って受験勉強をしている」とあります。いったい、本当のところはどうだったのでしょうか。

 

 大正後半期以降、中等教育への進学希望者が増大の一途をたどる一方で、学校の増設や規模拡大が追いつかず、入学試験競争が激化していました。
   小学校児童の過度な受験勉強や小学校での補習授業の公然化などが社会問題となり、文部省はその是正に向けて取り組んでいました。概略は以下の通りです。(文部科学省「学制百二十年史」等による)

 

昭和2年(1927)11月
 中学校令施行規則を一部改正。従前の入学試験を、小学校最終二学年分の学業成績などについての小学校長の報告書(いわゆる内申書)、口頭試問による人物考査、及び身体検査の三つから成る「入学考査」(「徳性考査」)に改めた。「小国民体位の向上と錬成を図るために教科に基づく試問を禁止する」という趣旨であった。
 ・昭和4年(1929)11月
 文部次官通牒により、人物考査の際「必要アル場合ニ於テハ筆記試問ノ方法ヲ加フルヲ得ルコト」となり、事実上筆記試験による入学者選抜が復活
 ・昭和10年(1935)
 難問奇問の横行を防ぐために文部次官通牒により、地方長官(府県知事)が試験問題を事前に審査することを指示。
昭和14年(1939)9月
 次官通牒をもって筆記試験の全廃を再度指示し、報告書の客観化を目指す委員会の設置や人物考査法の基準などを示して十五年度から厳密に実施することとした。
 ・昭和18年(1943)12月
   人物考査について従来の「口問口答ヲ以テシ」から「口問口答ニヨルヲ本体トシ」に後退したので、多くの府県で再び「簡易な筆記試験」が復活した
 ・昭和19年11月
 学童疎開・学徒勤労動員などの強化の情勢に則した方式を通牒(データベース『えひめの記憶』)※内容の詳細は不明

 

 上記の内容や『兵庫県教育史』(1963)、塚野克己『長崎の青春 旧制中学校高等女学校の生活誌』(長崎文献社、1998)等によると、全く筆記試験が行われなかったのは、昭和15年度から18年度の間でした。
 主人公たちの昭和20年度入試の詳細は不明ですが、「中学入試問題集をひもと」いて「受験勉強」をしていたとありますので、当然のことながら学科の試験が予定されていたものと思われます。

 

 三月十日の空襲で焼失した学校が多かったために、昭和20年度の中等学校入試に際して、東京都は各中等学校に以下のような内容の「臨時非常措置」を通達しました。

  

 1 応募者が募集人員が定員以下の場合は全員合格

 2 応募者が定員を超えた場合は報告書(内申書)のみ審査で合否を判定

 3 報告書を消失した中等学校では再提出を求めず抽選で合否を決定できる

(安達宏昭「通年勤労動員下の立教中学校(一)」『立教学院史研究(15)』2018

 主人公の場合が上のいずれに該当するのかは不明ですが、いずれにせよ、報告書(内申書)のみで合格が決まったことに間違いはありません。

 

 東京からの疎開体験を綴った文章の中には、3月20日に行われる東京都の中等学校の入学試験のために東京に戻っていた国民学校6年生の多くが、3月10日の東京大空襲に居合わせて亡くなったことを記しているものがあります。

 主人公たちの場合は、「疎開の引き揚げ」が「無期延期」となったために、被災を免れたわけで、不幸中の幸いと言えるでしょう。

 

■ 合格した中学は焼失・・・・

 こうした非常事態に対応すべく、政府は以下のような措置を講じました。

 二十年戦局はいよいよ苛烈となるに及んで、三月政府は「決戦教育措置要綱」を閣議決定し、「国民学校初等科ヲ除キ、学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル間、原則トシテ之ヲ停止スル」こととした。さらに五月二十二日「戦時教育令」が公布された。

(『学制百年史』より「戦時教育体制の進行」)

 

決戦教育措置要綱
昭和20年3月18日 閣議決定

第一 方針
現下緊迫セル事態ニ即応スル為学徒ヲシテ国民防衛ノ一翼タラシムルト共ニ真摯生産ノ中核タラシムル為左ノ措置ヲ講ズルモノトス
第二 措置
一 全学徒ヲ食糧増産、軍需生産、防空防衛、重要研究其ノ他直接決戦ニ緊要ナル業務ニ総動員ス
二 右目的達成ノ為国民学校初等科ヲ除キ学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル期間原則トシテ之ヲ停止ス
国民学校初等科ニシテ特定ノ地域ニ在ルモノニ対シテハ昭和二十年三月十六日閣議決定学童疎開強化要綱ノ趣旨ニ依リ措置ス
三 学徒ノ動員ハ教職員及学徒ヲ打ツテ一丸トスル学徒隊ノ組織ヲ以テ之ニ当リ其ノ編成ニ付テハ所要ノ措置ヲ講ズ但シ戦時重要研究ニ従事スル者ハ研究ニ専念セシム
四 動員中ノ学徒ニ対シテハ農村ニ在ルカ工場事業場等ニ就業スルカニ応ジ労作ト緊密ニ連繋シテ学徒ノ勉学修養ヲ適切ニ指導スルモノトス
五 進級ハ之ヲ認ムルモ進学ニ付テハ別ニ之ヲ定ム
六 戦争完遂ノ為特ニ緊要ナル専攻学科ヲ修メシムルヲ要スル学徒ニ対シテハ学校ニ於ケル授業モ亦之ヲ継続実施スルモノトス但シ此ノ場合ニ在リテハ能フ限リ短期間ニ之ヲ完了セシムル措置ヲ講ズ
七 本要綱実施ノ為速ニ戦時教育令(仮称)ヲ制定スルモノトス

 上記五では「進学ニ付テハ別ニ之ヲ定ム」とあり、おそらく筆記試験をなくして、内申書、口頭試問などで行うということだったのではないかと思われますが、詳細は不明です。

 

東京高等師範学校も門柱を残して焼け落ちていました(Wikipedia

 

 主人公が合格していた「山の手」の「一流と称される」中学校も、空襲で焼失していました。

 また、実家も空襲で焼けたために、主人公一家は新潟県の親戚を頼って、「縁故疎開」をすることになります。主人公にとっては、「再疎開でした。

 

【参考・引用文献】

学制百二十年史:文部科学省 (mext.go.jp)

文部科学省『学制百年史』
 https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317552.htm

安達宏昭「通年勤労動員下の立教中学校(一)」『立教学院史研究(15)』2018年

塚野克己『長崎の青春 旧制中学校高等女学校の生活誌』長崎文献社、1998年

兵庫県教育委員会兵庫県教育史』1963年