小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

小林信彦『東京少年』その5  昭和20年 英語の授業

 昭和20年(1945)3月、無試験で合格した東京の「一流と称される」中学校(東京高師付属中)が空襲で焼けたために、主人公は再疎開先の新潟県にある高田中学校(現・県立高田高等学校)に転校することになりました。同校は、高田藩の藩校・脩道館を淵源とする県下屈指の伝統校です。

新潟県立高田高等学校(Wikipedia

 

  転校の手続きが遅れ、既に学校は始まっていました。


 教室に入ると、英語の時間だった。
 敵の本土上陸が迫っている時に、その敵の言葉を勉強したなんて、創り話だろうと、後年、よく言われたが、冗談ではない。文部省検定済みの教科書使用である。
 国民学校のころ、(ABCD包囲陣)という言葉が新聞に大きく出ていたから、A、B、C、Dは知っていた。もう一つ、Xも知っていたように思う。
  しかし、文章になっている教科書の英語は、まるで、理解できない。理解どころか、呆然とした
  入学通知がくる前に、アルファベットと発音記号の授業はすでに終わっていたのである。その事実は、帰りに、曽我に説明された。
「そうか、知らなかったのか」
 その夜、父は無表情でノートに鉛筆でアルファベットと読み方を書いた。
 こんなもの、すぐには覚えきれない、とぼくは思った。見たことがないものがならんでおり、しかも、大文字と小文字の二種類があるのだ。 
 仕方なく、ぼくは形からくる連想の日本語で覚えようとした。〈L〉は、〈直角〉、〈t〉は〈ご尤も〉といった具合に。そんな覚え方は、そもそも無理なのだが、それでも、なんとか授業についていけるようになったのは、不思議というほかない。
 教科書の英文は、たとえば、次のようなものだった。
 There is a tank on the hill.
    That is a Japanese tank.
 また、こういうのもあった。
   Is that a bird or an animal.
  あとで冷静に考えれば、〈あれは日本の戦車です〉という呟き(会話?)は、ラバウルガダルカナル島での敵兵のものとしか思えないのだが、その時は、そんなことは考えもしなかった。
〈あれは鳥ですか、動物ですか?〉という問いも、よく考えれば、ずいぶんと変なのだが、その時は発音の方に苦労してていた。鳥〈バード〉の発音には英語教師の方言が入っていて、〈ブーチュ〉ときこえた。

 クラスには、東京からの縁故疎開者が何人かいた。
 直接の疎開者と、ぼくのように集団疎開を経てきた者が混じっていたが、クラスの雰囲気は明るかった。当時はそんな言葉はなかったが、この中学は土地の〈エリート校〉だったのである。生徒たちは、疎開者を苛(いじ)めるというような、ありがちなことを避けるようにしていた。
(13  山鳩の声)

 

  大都市に住む中学生(旧制)が縁故疎開し、その地の中学校へ転校するということが、戦争末期には、ごく普通に行われていたようです。
  『東京都教育史 通史編四』(東京都立教育研究所、1997年)には、そのあたりの事情について、以下のような記述があります。

  

 文部省は、(昭和18年11月22日)省令第79号「大東亜戦争中ニ於テ分散疎開ニ依ル中等学校生徒ノ転学ノ取扱ニ関スル件」により、所定の転学手続きをとる疎開生徒の受け入れに際しては、中学校規程・高等女学校規程などの規定する生徒数・学級数を超えて生徒を収容し得ることを認め、また告示「中等学校生徒転学ニ関スル手続ニ関スル件」により、疎開転校の場合、現在校の校長から本人申出の転住先都道府県長官あてに願書・証明書・調書等を提出、地方長官は本人の志望・居住地・学業成績・家庭事情などを総合判定して転学校を決定し関係書類を送付、送付を受けた学校長は当該生徒の転入を認めるとの手続き方法を定めた。」

(第二章学童疎開/二縁故疎開と集団疎開/学童・生徒縁故疎開の方策)

  筆者の母校の前身・兵庫県立小野中学校(現・小野高等学校)の場合、生徒定員各学年200名(全校で1000名)に対して、転入生は昭和19年度においては約50名でしたが、翌20年4月には、「三月のアメリカ軍による連続大都市爆撃の影響もあってか、一挙に全校で百十名の多くを受け入れ」たということです。(『八十周年記念史誌』、1983年)
 その百十名のうちの一人で、筆者にとってはその昔同僚であった書道のY氏(故人)は、昭和20年3月、大阪の四條畷中学から三年生の時に転入した体験を以下のように綴っておられます。
  

 当時は軍か県の命令でほとんど強制的に定員に関係なく私たち転校生を受け入れたのであろう。今みると学籍簿保証人の欄が転校生はすべて空白である。いかに慌ただしい受け入れであるかがわかる。

 国鉄の切符すら自由に買えない時代であって、事前の転入試験など出来もしなかったであろう。私も母に連れられて三月に一度面接を受けたのみで、新学期には掲示板の前で多くの転校生とともに担任の先生に迎えられて教室へ入った。

 Y氏の学年は、昭和18年の一年時には218名でしたが、二年時は242名になり、最も多い時期には280名を数えたとあります。
 空襲の恐れのない郡部の中学校では、似たような状況が生じていたのではないでしょうか。

 

■ 戦争末期 旧制中学の英語教育

 昭和12年(1937)の日中戦争勃発から、昭和16年(1941)太平洋戦争へと突き進む中で、英語は「敵性語」敵国語)とみなされ、身の回りのあらゆる物の名が、横文字から日本語に言い換えられたということが、面白おかしく語られることがあります。

敵性語の言い換えの一例

 また、 「太平洋戦争中の中学校などでは英語教育が禁止されていた」というような話を耳にすることがありますが、実際はどうだったのでしょうか。
   主人公が高田中学校に転校した昭和20年(1945)4月の時点では、前年の「学徒動員令」昭和19年8月)及び「決戦教育措置要綱」(20年3月)に拠り、三年生以上は軍需工場などへの動員で不在。かろうじて、1、2年生が校内にとどまり、制約の多い中で学校生活を送っていたようです。

 昭和18年(1943)の 「中等学校令 」(勅令第36号)及び「中学校規程」により、第3学年以上では外国語(英語)は実業科との選択教科となりました。週あたりの時間数も4時間と減じられています。当時の英語教育の実態を知る人達は、「英語教育の暗黒時代」と評しているほどです。(清水貞助「我が国の中学校における英語の指導時数の変遷の研究」立正女子大学短期大学部、『英米学研究 巻8』 1971) 

昭和18年(1943)の各教科時間数

昭和6年(1931)の各教科時間数
(上記、清水論文より、上の表も同じ)

  さて、主人公が使っていた英語の教科書は、中等学校教科書株式会社発行の「英語1 中学校用」(昭和19年発行)です。当社は出版社の戦時統合により発足した国策会社で、中等学校の各種教科書を一元的に発行していました。(戦後は中教出版として長らく続きましたが、2004年に倒産)

 時局を反映して、題材としては「大東亜共栄圏、軍事、戦時的自覚、神社参拝、天皇崇拝を内容とする軍国主義的な課が二割ほど盛り込まれていた」(磯辺ゆかり・江利川春雄「『墨ぬり』英語教科書の実証的研究」『和歌山大学教育学研究科紀要』、2005年)ということです。

第8課より

第9課より 「big tank」とありますが、砲身の長さ見ると「軽戦車」でしょうか。

 まさに、英語受難の時期でした。英語教師は失業におびえ、生徒の中には通学の列車内でうっかりと英語の教科書を広げたばかりに、「非国民!」と殴られたといった者もあるといった類いの話が今に語り伝えられています。

 戦争が終わると、そうした国家主義や戦意を鼓舞する内容を含む箇所は、GHQの指示によって、生徒自らの墨み塗りによって抹消されました。

上記磯辺・江利川論文より

 

【参考・引用文献】
斎藤兆史『日本人と英語 もう一つの英語百年史』研究社、2007年
磯辺ゆかり・江利川春雄「『墨ぬり』英語教科書の実証的研究」『和歌山大学教育学研究科紀要. 人文科学 56』2006年
清水貞助「我が国の中学校における英語の指導時数の変遷の研究」立正女子大学短期大学部英米学研究 巻8』1971年
兵庫県立小野高等学校80年記念史誌』1983年
東京都立教育研究所『東京都教育史 通史編四』1997年