小林信彦『東京少年』その6 勤労動員・初めての田植え
総力戦のさなかなので、田植えにも、中学生の総力を結集する、と教師が宣言した。ぼくたちは割り当てられた高田市周辺の農家に二人ずつ泊まりこんだ。
曽我といっしょだといいと思っていたが、選ばれた相手は色が黒く、たくましい別の少年だった。
数日とはいえ、他人と起居をともにするのは堪えがたい。学校で顔を合わせている分には知らずにすむ、お互いのいやな面や欠点を、否応なしに見る羽目になる。いずれにしろ、ろくなことはない。
ぼくは〈軽い肺炎〉にでもなれたら、と思った。泊まりこみを避ける方法は、それくらいしかない。まあ、頭痛でもいいのだが。
病気を装わなかったのは、総力戦に協力しない、と指弾されるのを恐れたからだった。埼玉の山の中で叩き込まれたふるまい方が本能的に働いた。
赤茶けていたるところが擦り切れた畳の上で、ぼくは、見知らぬ中年の農民夫婦、同級生と生活することになった。(中略)
ぼくが醜態を演じたのは,翌日の田植えの時だった。苗を左手に持って、後ずさりしながら植えてゆくのだが、水田の泥をまさぐる脚に奇妙な感覚がある。かゆいのでも、いたいのでもないが、どうもおかしい。
泥から引き抜いてみると、黒いものがもぐさのように幾つも臑(すね)に付着している。驚いて畦(あぜ)に上り、とり去ろうとしたが、足を振ったぐらいでは落ちなかった。
ようやく蛭(ひる)らしいことに気づいた。(中略)
「われ、なにしてんだ。そんな田植えがあるか!」
向こうで、同級生が苗を手にしたまま、ぼくを睨んでいた。
「だって・・・・蛭が血を吸うから・・・・」
「ボケ!蛭のいない田んぼがあるかや」
相手が〈おまん(きみ)ではなく、〈われ(てめえ)〉呼ばわりしたのも、ぼくを傷つけた。が、そういう呼び方をした相手の気持ちもわからぬではない。
涙がこみ上げてきた。ぼくは戦争という網に捕らえられた小さな鳥に過ぎない。どうしようもない。この泥の中から逃れることができないのだ。ただ情けなくて、ぼくは涙を流した。
(14 その前夜)
■ 学徒動員体制の強化
「学徒勤労動員」(学徒動員)とは、働き盛りの男性が出征したために生じた農村や工場の労働力不足を補うため、強制的に進められた学生や生徒(学徒)の動員のことです。
太平洋戦争開戦以前から終戦までの間、学徒動員体制が強化されていく過程を、文部省(当時)の『学制百年史』の「戦時教育体制の進行」をもとにまとめてみました。
・昭和13年(1938)6月
「集団的勤労作業運動実施ニ関スル件」
作業実施期間は、夏季休暇の始期終期その他適当な時期において、中等学校低学年は三日、その他は五日を標準とし、農事・家事の作業・清掃・修理・防空施設や軍用品に関する簡易な作業・土木に関する簡易な作業が対象。
・昭和14年(1939)3月
中等学校以上に対し、集団勤労作業を「漸次恒久化」し、学校の休業時だけでなく随時これを行ない、正課に準じて取り扱うことを指示。勤労作業の対象は、主として木炭増産、飼料資源の開発、食糧増産等。
・昭和16年(1941)3月
「青少年学徒食糧飼料等増産運動実施要項」において、文部省はこの運動を「国策ニ協カセシムル実践的教育」であるとし、「一年ヲ通ジ三十日以内ノ日数ハ授業ヲ廃シ」て作業に当てることができ、その日数・時数は授業したものと認めた。・昭和16年(1941)8月
全国の諸学校において学校報国隊が結成される。
・昭和18年(1943)10月
「教育ニ関スル戦時非常措置方策」によって、修業年限の短縮と学校の整理統合、戦時勤労動員の強化等の措置が決定された。勤労動員を「教育実践ノ一環」として、「在学期間中一年ニ付概ネ三分ノ一相当期間」実施することとなった。
・昭和19年(1944)1月
「緊急学徒勤労動員方策要綱」を決定。学徒動員を「勤労即教育ノ本旨ニ徹シ」て強化し、動員の性格が従来の「教育実践ノ一環トシテ」の勤労動員から「勤労即教育」となった。
・昭和19年(1944)3月
「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」を閣議決定、動員の基準を明らかにした。1)学徒の通年動員、2)学校の程度・種類による学徒の計画的適正配置、3)教職員の率先指導と教職員による勤労管理などが強調された
・昭和19年(1944)7月
「学徒勤労ノ徹底強化ニ関スル件」を通牒し、1)一週六時間の教育訓練時間の停止 2)国民学校高等科児童の継続動員 3)それでも供給不足の場合は中等学校低学年生徒の動員 4)深夜業を中等学校三年以上の男子のみならず女子学徒にも課する 5)出動後二か月たたない学徒にも深夜業を課することなどを指令した。
「ああ紅の血は燃ゆる」 (副題「学徒動員の歌」)
作詞: 野村俊夫、作曲: 明本京静
歌唱:酒井弘、安西愛子
昭和19年(1944)9月日蓄レコード
一
花もつぼみの 若桜
五尺の生命(いのち) ひっさげて
国の大事に 殉ずるは
我ら学徒の 面目ぞ
ああ紅の 血は燃ゆる
二
後(あと)に続けと 兄の声
今こそ筆を 投げうちて
勝利揺るがぬ 生産に
勇み立ちたる 兵(つわもの)ぞ
ああ紅の 血は燃ゆる
三
君は鍬(くわ)とれ 我は鎚(つち)
戦う道に 二つなし
国の使命を 遂(と)ぐること
我ら学徒の 本分ぞ
ああ紅の血は燃ゆる
四
何を荒(すさ)ぶか 小夜嵐(さよあらし)
神州男児 ここに在り
決意ひとたび 火となりて
守る国土は 鉄壁ぞ
ああ紅の 血は燃ゆる・昭和20年(1945)3月
「決戦教育措置要綱」を閣議決定し、「国民学校初等科ヲ除キ、学校ニ於ケル授業ハ昭和二十年四月一日ヨリ昭和二十一年三月三十一日ニ至ル間、原則トシテ之ヲ停止スル」こととした。五月二十二日「戦時教育令」が公布された。
このように、学徒勤労動員の体制が強化される中で、集団作業を効率的に行えるように組織されたのが「学校報国隊」でした。
当初は、学校を修練のための道場にするため,学校長を会長もしくは団長とする教職員・学生生徒一体の組織をつくれというものでしたが、次々に発せられた文部省の訓令、次官通牒により変質をさせられていきました。
すなわち、「学徒の修練組織と言いながら学校教練、食糧増産作業等へ適時出動できる国家的組織の形成と指揮命令系統の確立をねらったもの」という結果になったわけです。
(神辺 靖光 「学徒勤労動員の行政措置 : 中等学校を中心に」『明星大学教育学研究紀要,(11)』、1996)
昭和19年(1944)3月の「決戦非常措置要綱ニ基ク学徒動員実施要綱」では、学校種別、学年別に動員先が定められました。※大学・専門学校などは省略
イ,国民学校高等科(現在の中学1・2年生に相当))
土地の状況,心身の発達を考慮して適当な作業。
ロ,中等学校
1・2学年は国民学校高等科に準じる。
①工業学校……軍関係その他の重要工場。
②商業学校から転換した工業学校㈹……特定工場または学校工場。
③農業学校……食糧増産,国防建設事業。
④中学校・商業学校・高等女学校……食糧増産,国防建設事業,工場事業場(輸送を含む)。
女子はできるだけ学校工場。大都市の中学校・商業学校の生徒は疎開及び防空施設事業。
中学に入ったばかりの主人公たちは、農村地帯ということで田植えに駆り出されたわけですが、都市部にあっては、低学年の生徒でも工場へ派遣された例は多くあったようです。
それぞれの職場において終戦の詔勅を聞いた動員学徒の数は三四○万人をこえたといわれています。また、学徒動員中の空襲や事故などによる死亡者は一万九六六人、傷病者は九、七八九人の多きを数えています。(文部省『学制百年史』より)
※(参考)東京・中野区内中等学校の動員先一覧(中野区公式ホームページ)
【参考・引用文献】
『高根沢町史 通史編Ⅱ』「第四章 昭和恐慌と戦争の時代 四節 戦時下の村政と村民生活」2009年(高根沢町図書館/高根沢町デジタルミュージアム、https://adeac.jp/takanezawa-lib/catalog/mp000020-000010)
文部省『学制百年史』(1972年)第四章・戦時下の教育 第一節・三 戦時教育体制の進行 https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1317693.htm
神辺靖光「学徒勤労動員の行政措置 :中等学校を中心に」『明星大学教育学研究紀要,(11)』1996年
山本哲生「戦時下の学校報国団設置に関する考察」『教育學雑誌 17』 (土屋忠雄先生追悼号)1983年
広島平和記念資料館ホームページ http://www.pcf.city.hiroshima.jp/virtual/VirtualMuseum_j/exhibit/exh0407/exh04073.html