小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

石川啄木『雲は天才である』その2 「校歌」

  詳しく説明すれば、実に詰らぬ話であるが、問題は斯うである。二三日以前、自分は不図した転機(はずみ)から思付いて、このS――村小学校の生徒をして日常朗唱せしむべき、云はゞ校歌といつた様な性質の一歌詞を作り、そして作曲した。作曲して見たのが此時、自分が呱々(ここ)の声をあげて以来二十一年、実際初めてゞあるに関らず、恥かし乍ら自白すると、出来上つたのを声の透る我が妻に歌はせて聞いた時の感じでは、少々巧い、と思はれた。今でもさう思つて居るが……。妻からも賞められた。
(中略)
『其歌は校長さんの御認可を得たのですか。』
『イヤ、決して、断じて、認可を下した覚えはありませぬ。』と校長は自分の代りに答へて呉れる。
 自分はケロリとして煙管を啣(くは)へ乍ら、幽かな微笑を女教師の方に向いて洩した。古山もまた煙草を吸ひ初める。
 校長は、と見ると、何時の間にか赤くなつて、鼻の上から水蒸気が立つて居る。『どうも、余りと云へば自由が過ぎる。新田さんは、それあ新教育も享(う)けてお出でだらうが、どうもその、少々身勝手が過ぎるといふもんで……。』
『さうですか。』
『さうですかツて、それを解らぬ筈はない。一体その、エート、確か本年四月の四日の日だつたと思ふが、私(わし)が郡視学さんの平野先生へ御機嫌伺ひに出た時でした。さう、確かに其時です。新田さんの事は郡視学さんからお話があつたもんだで、遂私も新田さんを此学校に入れた次第で、郡視学さんの手前もあり、今迄は随分私の方で遠慮もし、寛裕(おほめ)にも見て置いた訳であるが、然し、さう身勝手が過ぎると、私も一校の司配を預かる校長として、』と句を切つて、一寸反り返る。此機を逸(はづ)さず自分は云つた。
『どうぞ御遠慮なく。』
『不埓(ふらち)だ。校長を屁とも思つて居らぬ。』
(中略)
『只今伺つて居りました処では、』と白ツぱくれて古山が口を出した、『どうもこれは校長さんの方に理がある様に、私には思はれますので。然し新田さんも別段お悪い処もない、唯その校歌を自分勝手に作つて、自分勝手に生徒に教へたといふ、つまり、順序を踏まなかつた点が、大(おほ)いに、イヤ、多少間違つて居るのでは有るまいかと、私には思はれます。』
『此学校に校歌といふものがあるのですか。』
『今迄さういふものは有りませんで御座んした。』
『今では?』
 今度は校長が答へた。『現にさう云ふ貴君(あなた)が作つたではないか。』
『問題は其処ですて。物には順序……』
 皆まで云はさず自分は手をあげて古山を制した。『問題も何も無いぢやないですか。既に私の作つたアレを、貴君方が校歌だと云つてるぢやありませぬか。私はこのS――村尋常高等小学校の校歌を作つた覚えはありませぬ。私はたゞ、この学校の生徒が日夕吟誦しても差支のない様な、校歌といつたやうな性質のものを試みに作つた丈です。それを貴君方が校歌といふて居られる。詰(つま)り、校歌としてお認め下さるのですな。そこで生徒が皆それを、其校歌を歌ふ。問題も何も有つた話ぢやありますまい。この位天下泰平な事はないでせう。』

不意に、若々しい、勇ましい合唱の声が聞えた。二階の方からである。
春まだ浅く月若き
生命いのちの森の夜の香に
あくがれ出でて我が魂(たま)
夢むともなく夢むれば……     ※下線は筆者

 

昭和29年(1954)新東宝映画

■ 「校歌」にも認可が必要!? 

 主人公・新田耕助代用教員として勤めているこの尋常高等小学校の教員のうち、田島校長と首座訓導の古山は、普段から新田の勤務ぶりや言動を批判的な目でながめています。

 今回の「校歌」の件についても、校長らが問題にしているのは、新田がしかるべき手続きを経ないで、自分が作った歌を勝手に生徒たちに歌わせたことでした。
 

 『此学校に校歌といふものがあるのですか。』と訪ねる新田に対して、『今迄さういふものは有りませんで御座んした。』と古山が答えています。
  時代は明治39年(1906)頃のこと。学制公布から30数年が経過していますが、実は「校歌」のない学校がほとんどでした。
 今では、「校歌のない学校」など、とうてい考えられませんが、そもそも学制公布から令和の現在に至るまで、学校に校歌の制定を義務付けたり、それを奨励したりする法令は、一度も公布されておらず、校歌の制定はすべてそれぞれの学校独自の判断によるものでした。
 では、作品の当時、それぞれの学校が自主的に校歌を制定し、児童生徒に歌わせてよかったのかというと、そこには文部当局による規制がありました。
 それは、文部省訓令第七号(明治 27年 12 月 28 日公布、昭和 6年 9 月 10 日廃止)によるもので、紀元節天長節などの「祝日大祭日儀式」の際に歌う唱歌だけではなく、「校歌」を含む唱歌全般が規制の対象となっており、すべての唱歌に文部大臣の認可が必要とされていたのです。

『官報』第3452号、1894年(明治27年)12月28日

文部省訓令第七号
北海道庁 府県
小学校ニ於テ唱歌用ニ供スル歌詞及楽譜ハ本大臣ノ検定ヲ経タル小学校教科用図書中ニ在ルモノ又ハ文部省ノ撰定ニ係ルモノ及地方長官ニ於テ本大臣ノ認可ヲ受ケタルモノヽ外ハ採用セシムヘカラス但他ノ地方長官ニ於テ一旦本大臣ノ認可ヲ経タルモノハ此限ニ在ラス
明治二十七年十二月二十八日文部大臣 侯爵西園寺公望    ※新字体に改めています 

 

 文部省が学校における唱歌を規制したのは、端唄、清元、常磐津などの「卑猥な俗曲」が蔓延して学齢期の子どもたちに悪影響を及ぼしていることと、その対策として学校に導入した軍歌にも「愚劣な歌詞」を含むものが目立つようになってきたからでした。下は、その一例です。

「滑稽軍歌」(『ちゃんちゃん征伐流行歌』より)

『ちゃんちゃん征伐流行歌』の口絵

 小学校においても、明治の末頃から校歌を制定しようとする学校が目立つようになってきました。

 ところが、作詞はともかく作曲については、適当な人物を得られないことが多いことから、作詞・作曲を東京音楽学校(現・東京芸術大学音楽学部)に委託する学校が、1930年代に至るまで数多くありました。

 明治40年(1907)から昭和20年(1945)までの間、東京音楽学校への校歌委託件数は、小学校国民学校を含む)で154校、中等学校(中学校、高等女学校など)で246校、高等教育機関(高等学校、専門学校、大学など)で32校、その他24校の計456校にも上っています。

東京音楽学校明治23年に落成した校舎)

 ちなみに、報酬額の相場は、昭和の初期では小学校で30円以上、中等学校で50円以上でした。昭和6年(1931)の小学校教員の初任給は45円から50円程度でしたから、この報酬額は意外に良心的(?)と言ってもよいかと思われます。

 

■ 渋民小学校の校歌

 下記は、啄木の母校の後身である盛岡市立渋民小学校の校歌です。

作曲:清瀬保二

1. 春まだ浅く 月若き
生命の森 夜の香に
あくがれ出でて 我が魂の
夢むともなく 夢むれば
さ霧の彼方 そのかみの
希望は遠く たゆたいぬ

 

2. そびゆる山は 英傑の
跡を弔ふ 墓標
音なき河は 千歳に
香る名をこそ 流すらむ
此処は何処と 我問えば
汝が故郷と 月答ふ

 

3.雪をいただく 岩手山
名さえやさしき 姫神
山の間を 流れゆく
千古の水の 北上に
心を洗い 身を清め
学の道に 進めかし

 

 

現在の渋民小学校(盛岡市ホームページ)

校歌 歌碑(「たかしの啄木歌碑礼賛」ホームページより)

 校歌の歌詞には、主人公が作中で子供たちに歌わせようとした「校歌」(「校友歌」?)の1番から5番のうち、1番・3番・5番の歌詞が採用され、5番の最後に「学びの道に進めかし」と補作されています。

 

 詩は七五調の文語詩で格調高いものですが、小学生には相当に難解な表現と内容であると思われますが、いかがでしょうか。

 

 蒼丘書林編『回想 教壇上の文学者 異才の教育実践』(1980年)には、渋民尋常小学校で一年間、啄木に教わった方々の座談が掲載されていますが、本作品のようなことが実際に行われていたことが分かる証言があります。

 

立花・玉山(松) 唱歌の時間には、自分で作った歌をうたわせた。たとえば

  ~長く流るる北上の/濁らぬ水に洗いつつ/吾等の心とこのからだ/きれいに優しく磨きあげ/あまたの人にほめられて/えらい人になりましょう

玉山(松) それから、こんなのもあった。

  ~東は姫神山/西には岩手山/その真ん中流れる北上川/そのほとりに立つ/わが渋民尋常高等小学校

 といったような歌。そんなのを自分でこさえて歌わせたわけです。

 

【参考・引用文献】

渡辺裕『歌う国民』中公新書、2010年  
須田珠生『校歌の誕生』人文書院、2020年
須田珠生「近代日本の学校にみる校歌の成立史」京都大学、博士論文要約、2019年 

※骨皮道人『ちゃんちゃん征伐流行歌』弘文堂、1894年

蒼丘書林編『回想 教壇上の文学者 異才の教育実践』1980年