島崎藤村『破戒』その3 「天長節」
本ブログでは「田山花袋『田舎教師』③」でも、「天長節」を取り上げています(https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2019/05/07/114653)が、今回は少し違った話題を取り上げます。
さすがに大祭日だ。町々の軒は高く国旗を掲げ渡して、いづれの家も静粛に斯の記念の一日(ひとひ)を送ると見える。少年の群は喜ばしさうな声を揚げ乍ら、霜に濡れた道路を学校の方へと急ぐのであつた。悪戯盛(いたづらざかり)の男の生徒、今日は何時にない大人びた様子をして、羽織袴でかしこまつた顔付のをかしさ。女生徒は新しい海老茶袴(えびちやばかま)、紫袴であつた。 (第五章 一)
国のみかどの誕生の日を祝ふために、男女の生徒は足拍子揃へて、二階の式場へ通ふ階段を上つた。銀之助は高等二年を、文平は高等一年を、丑松は高等四年を、いづれも受持々々の組の生徒を引連れて居た。退職の敬之進は最早(もう)客分ながら、何となく名残が惜まるゝといふ風で、旧(もと)の生徒の後に随いて同じやうに階段を上るのであつた。
(中略)
殊に風采の人目を引いたのは、高柳利三郎といふ新進政事家、すでに檜舞台(ひのきぶたい)をも踏んで来た男で、今年もまた代議士の候補者に立つといふ。銀之助、文平を始め、男女の教員は一同風琴の側に集つた。
『気をつけ。』
と呼ぶ丑松の凛(りん)とした声が起つた。式は始つたのである。
主座教員としての丑松は反つて校長よりも男女の少年に慕はれて居た。丑松が『最敬礼』の一声は言ふに言はれぬ震動を幼いものゝ胸に伝へるのであつた。軈(やが)て、『君が代』の歌の中に、校長は御影(みえい)を奉開して、それから勅語を朗読した。万歳、万歳と人々の唱へる声は雷(らい)のやうに響き渡る。其日校長の演説は忠孝を題に取つたもので、例の金牌(きんぱい)は胸の上に懸つて、一層(ひとしほ)其風采を教育者らしくして見せた。『天長節』の歌が済む、来賓を代表した高柳の挨拶もあつたが、是はまた場慣れて居る丈だけに手に入つたもの。雄弁を喜ぶのは信州人の特色で、斯ういふ一場の挨拶ですらも、人々の心を酔はせたのである。 (第五章 二)
※ 風琴・・・・オルガン
■ 主座教員・丑松
主人公の瀬川丑松は師範学校を出て幾年も経っていないのですが、「主座教員」(普通は「首座教員」と表記)の地位にあります。
明治33(1900)年8月20日に改正された「第三次小学校令」以前は、「校長」に相当する者を「首座教員」とか「主席訓導」と呼んでいました。
本作品の時代背景は明治30年代の後半と思われますので、「第三次小学校令」の下で校長は必置となっていました。
ですから、この重要な儀式において、若い丑松は現在の教頭のような役割を果たしていることになります。
同僚教員の多くが、検定試験や講習を受けて教職にある者や代用教員であったために、若い丑松が首座にいたものと思われます。
この当時、師範学校の卒業生といえば、教員界のエリート的な存在だったのです。
■ 「祝日大祭日儀式」と唱歌の斉唱
「天長節」とは、現在の天皇誕生日のことです。
明治年間は、明治天皇の誕生日である11月3日(後に「明治節」、現在の文化の日)がその日となります。
この「天長節」に「四方拝」(1月1日),「紀元節」(2月11日)を加えた「三大節」の当日には、児童生徒も登校して盛大に儀式が挙行されました。
教育勅語発布の翌明治24年(1891)6月には「小学校祝日大祭日儀式規程」(文部省令第4号)が公布され、三大節、神嘗祭(かんなめさい、10月17日)および新嘗祭(にいなめさい、11月23日)における儀式の内容が示されました。
次はその訓令をもとに、明治25年(1892)に長野県が定めた「小学校祝日大祭日儀式次第」(抜粋)です。
(作中の「来賓の挨拶」は下の次第にはありませんから、作者の創作かと思われます。)
第一条 紀元節 天長節 元始祭 神嘗祭及新嘗祭ノ儀式ハ左ノ次第ニ拠ルヘシ 但未タ 御影ヲ拝戴セサル学校ニ於テハ第四款第十款第十一款ヲ省ク
一 生徒ノ父母親戚及町村内ノ参観人着席
二 生徒一同着席
三 町村長学校職員其他参列員着席
四 学校長若クハ首席教員 陛下ノ御影ヲ奉開ス 此間一同起立
五 一同最敬礼 学校長若クハ首席教員一同ニ代リ左ノ祝辞ヲ陳フ謹テ天皇陛下ノ万歳ヲ祝シ奉ル
謹テ皇后陛下ノ万歳ヲ祝シ奉ル
六 唱歌(君が代)一同起立合唱ス
七 学校長若クハ教員 勅語ヲ奉読ス 此間一同起立
八 学校長若クハ教員小学校祝日大祭 日儀式規程第一条第三款ニヨリ演説ス
九 唱歌(第四条ニ拠ル)一同起立合唱ス
十 一同最敬礼
十一 学校長若クハ首席教員 陛下ノ 御影ヲ奉閉ス 此間一同起立
十二 一同退席
「小学校祝日大祭日儀式規程」の制定により、明治20年代の後半以降、「三大節」を初めとする主要な学校儀式において、「御真影への拝礼」・「教育勅語奉読」・「君が代と式歌斉唱」が必ず実施されるようになります。
中でも、唱歌の斉唱は、もちろん欧米の儀式を模したものですが、 国家主義的な教育を推進した初代の文部大臣・森有礼が、その教育的効果に着目して導入を命じたと言われています。
留学経験のある森は欧米の教会儀式などをイメージしてこの内命を考案したのであ ろうと思われる。つまり学校儀式での唱歌斉唱は、教会の賛美歌を真似たものと見ることが出来る。即ち教会の賛美歌は荘厳な雰囲気を生み出し、意識を空虚にさせ神へと帰一する意識を植え付けようとするものであるが、森は神を天皇に置換え、新生国家である 日本が天皇を中心とした全国民の意識の統一によってまとめられることを期待したもの であろうと考えられるのである。
(入江直樹「儀式用唱歌の法制化過程」、 下線は筆者)
渡辺裕『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』(中公新書、2010年)では、「天長節」を初めとする「祝日大祭日唱歌」が「子供たちに、自らが万世一系の天皇を中心に成り立つ日本国という共同体の一員たる『国民』であるという自覚を植え付け、体で覚えさせるためのものだった」と述べて、儀式唱歌が皇国史観的な意味合いをもつものばかりであったと指摘されています。
■ 最敬礼とは
長野県の上記「次第」においては、第五条に「最敬礼の方法」が示されています。
第五条
最敬礼ノ式ハ帽ヲ脱シ体ノ上部ヲ傾ケ頭ヲ垂レ手ヲ膝ニ当テヽ敬意ヲ表スルモノトス 但女子洋服着用ノ節ハ脱帽ノ限リニ在ラス
長野県のこの条文は、「小学校祝日大祭日儀式規程」の交付とともに文部省が発した各府県への通牒(最敬礼式の通牒)の文言そのままで、他県でも同様の例が確認できます。
■ 学校儀式の教育的効果!?
明治末から昭和戦前にかけて、学校儀式、礼法等に関する著作の多い相島亀三郎は、上掲の『学校儀式要鑑』の中で、儀式の教育的効果について次のように述べており、そこには我が国独特の「儀式教育観」を見ることが出来ます。
學校の訓話は、幼年生にはよく分らずとも、儀式の教育的價値は、發揮し得られないものではないと思ふのである。即ち、儀式の價値は、概ね、外形に現れた荘嚴なる形式に依て發揮し得らるゝものであるから、幼年生は、縱令、訓話の大部分が分らぬとしても、其の式場の荘嚴、會衆の謹愼靜粛、學校長の謹嚴なる態度等に依て、外形より感情を刺戟せらるゝことが多大であるからである。 是に依て考へて見ると、訓話は、儀式擧行については、第二位にあるもので、第一位にあるものは、 儀式そのものゝやり方、即ち、外形に現はるゝ部分であると思ふ。 ※下線は筆者
いかがでしょうか。「古くさくて非教育的な主張だ」と一概には否定しきれないところはないでしょうか。
事の善し悪しはともかくも、自身の経験から言うと、こうした「伝統」は今に生き延びているようにも思われます。
【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション
入江直樹「儀式用唱歌の法制化過程一 1894年 『訓令第7号』が学校内唱歌に残したもの一」『教育學雑誌 28』日本大学, 1994年
仲嶺政光「小学校祝日大祭日儀式規程とその式次第」『富山大学地域連携推進機構生涯学習部門年報』2016年
渡辺裕『歌う国民 唱歌、校歌、うたごえ』中公新書、2010年
※「教育報知 第287号」東京教育社、1891年10月
※相島亀三郎『学校儀式要鑑』前川文榮閣、1910年