小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

島崎藤村『破戒』その2 老教員の本音・「教師像」の変化

 『・・・・我輩なぞは二十年も――左様(さやう)さ、小学教員の資格が出来てから足掛十五年に成るがね、其間唯同じやうなことを繰返して来た。と言つたら、また君等に笑はれるかも知れないが、終(しま)ひには教場へ出て、何を生徒に教へて居るのか、自分乍ら感覚が無くなつて了つた。はゝゝゝゝ。いや、全くの話が、長く教員を勤めたものは、皆な斯ういふ経験があるだらうと思ふよ。実際、我輩なぞは教育をして居るとは思はなかつたね。羽織袴(はおりはかま)で、唯月給を貰ふ為に、働いて居るとしか思はなかつた。だつて君、左様(さう)ぢやないか、尋常科の教員なぞと言ふものは、学問のある労働者も同じことぢやないか。毎日、毎日――騒しい教場の整理、大勢の生徒の監督、僅少(わづか)の月給で、長い時間を働いて、克(よ)くまあ今日迄自分でも身体が続いたと思ふ位だ。あるひは君等の目から見たら、今茲(こゝ)で我輩が退職するのは智慧(ちゑ)の無い話だと思ふだらう。そりやあ我輩だつて、もう六ヶ月踏堪(ふみこた)へさへすれば、仮令(たと)へ僅少(わづか)でも恩給の下(さが)る位は承知して居るさ。承知して居ながら、其が我輩には出来ないから情ない。是から以後(さき)我輩に働けと言ふのは、死ねといふも同じだ。家内はまた家内で心配して、教員を休(や)めて了(しま)つたら、奈何(どう)して活計(くらし)が立つ、銀行へ出て帳面でもつけて呉れろと言ふんだけれど、どうして君、其様(そんな)真似が我輩に出来るものか。二十年来慣れたことすら出来ないものを、是から新規に何が出来よう。根気も、精分も、我輩の身体の内にあるものは悉皆(すつかり)もう尽きて了つた。あゝ、生きて、働いて、仆(たふ)れるまで鞭撻(むち)うたれるのは、馬車馬の末路だ――丁度我輩は其馬車馬さ。はゝゝゝゝ。』(第四章 四) ※下線は筆者

丑松(間宮祥太朗)と風間敬之進(高橋和也
東映ビデオ配給 映画「破戒」(2022年7月)より
https://twitter.com/hakai_movie/status/1527536542474190848

    風間敬之進(かざま けいのしん)は五十に手が届こうかというベテランの同僚教師で、丑松とは親子ほどの年の開きがあります。
 学校では、師範学校出の丑松が首席訓導で高等科4年(現在の中学2年生)を担任しているのに対して、敬之進は尋常科の担任でした。
 先妻・後妻と合わせて六人の子持ち(未就学児も含み)ですが、まもなく健康面を理由に退職する予定です。
 元は士族(飯山藩士)の出で、詳しい経歴は語られていませんが、おそらく丑松のように師範学校という正規のルートをたどったのではなくて、検定によって正教員の地位を得ているものと思われます。
 引用した部分は、町はずれの居酒屋・笹屋へ敬之進が丑松を誘ったときの、彼の述懐です。丑松は「老朽な小学教員」の本音(愚痴)を聞かされています。

 

■ 教員の恩給

 「恩給」とは、また懐かしい言葉の響きです。子どもの頃、明治生まれの祖父母世代の大人たちが「学校の先生は恩給がついてええな・・・」などと言っていたのを思い出します。

 

恩給(おんきゅう)・・・恩給法(大正12年法律第48号)に規定される、官吏であったものが退職または死亡した後本人またはその遺族に安定した生活を確保するために支給される金銭をいう。なお、地方公務員については各地方公共団体が定める条例(恩給条例など)により支給され、退隠料と称されることもある。(出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』)

 支給には要件がありました。教員の場合は、原則として在職15年以上で、失格原因なくして退職した者に支給されるというものです。
 風間敬之進の場合は在職期間が14年と半年で、6か月足らないのです。丑松は勤務校を訪れていた郡視学に何とかならないかと訴えましたが、規則を盾に一蹴されました。
 (居酒屋での様子からは、あと半年の勤務が無理とは思えないのですが・・・) 
   恩給の年額は、退職当時の俸給年額の3分の1から2分の1程度でした。
  そもそも、小学校教員の俸給自体が低かった(明治末ごろの尋常小学校本科正教員の平均月俸は20円余り)ので、子だくさんの敬之進の退職後の生活は厳しいものとなることは目に見えています。

 

  それでは、この「恩給」と現在の「年金」はどう違うのでしょうか。
 そういう疑問を持つ人は、筆者も含めて多いようで、総務省のホームページには、「恩給Q&A」というコーナーがあり、次のような回答があります。
 
 

 恩給がもともと対象としていたのは、明治憲法下の国家における軍人、官吏等であり、国家に身体、生命を捧げて尽くした公務員です。
   恩給制度は、こうした公務員の傷病等の場合や死亡後の遺族に対し、国家として補償を行うという考え方に基づいてつくられた年金制度です。
   このような恩給の基本的性格については、相互扶助の考え方に基づき、保険数理の原則によって運営される社会保障としての公的年金とは異なっているものと考えています。 ※太字は筆者 http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/onkyu_toukatsu/onkyu_qa.htm#q22

    「国家として補償」に対して、社会保障としての公的年金とありますが、これだけの説明で理解するのは難しいように思います(笑)

(役所の文章なのに、文末が「~考えています。」というのはユニークです。)

 

■ 「学問のある労働者!?」 ー教師像の変遷ー

 教員としての誇りも勤務に対する意欲もなくしてしまったような敬之進の話は自嘲に満ちていて、「こんな先生には教えてもらいたくないな」と思わせるような内容です。

 

 本作品の時代背景は明治30年代の後半ですが、その当時小学校教員が世間の人々からどのように見られていたのかがよくわかるような記述が、作品の初めの方にあります。

 

  蓮華寺を出たのは五時であつた。学校の日課を終ると、直ぐ其足で出掛けたので、丑松はまだ勤務(つとめ)の儘の服装(みなり)で居る。白墨と塵埃(ほこり)とで汚れた着古しの洋服、書物やら手帳やらの風呂敷包を小脇に抱へて、それに下駄穿(げたばき)、腰弁当。多くの労働者が人中で感ずるやうな羞恥(はぢ)――そんな思を胸に浮べ乍ら、鷹匠(たかしやう)町の下宿の方へ帰つて行つた。町々の軒は秋雨あがりの後の夕日に輝いて、人々が濡れた道路に群つて居た。中には立ちとゞまつて丑松の通るところを眺めるもあり、何かひそひそ立話をして居るのもある。『彼処(あそこ)へ行くのは、ありやあ何だ――むゝ、教員か』と言つたやうな顔付をして、酷(はなはだ)しい軽蔑(けいべつ)の色を顕(あらは)して居るのもあつた。是が自分等の預つて居る生徒の父兄であるかと考へると、浅猿(あさま)しくもあり、腹立たしくもあり、遽(にはか)に不愉快になつてすたすた歩き初めた。(二)

※下線は筆者

 

 教員史の研究者によると、明治時代の小学校教員像の変遷は、4つのパターンに類型化して説明できるということです。(陣内靖彦『日本の教員社会』)

1 「師匠的」教員=明治初年代、先生と生徒との間にパーソナル(私的)な人間関係があり、教師が自らの職業を「天職」と考えているような特徴が見られる。幕末期の寺子屋師匠の名残が見られる。

2「士族的」教員=明治10年前後から20年代前半。教員の中核部分を、維新によって経済的基盤を失った士族階級が占めていた。教職を世俗から超越したものとしてとらえ、生徒を啓蒙する公的な社会の代表としての一面をもっていた。

3「師範型」教員=明治20年代後半から30年代の教員養成が制度化されると、教員の役割も画一的、形式主義的になっていく過程で生じた。教員は知識伝達と道徳教化の技術者という側面を持つとともに、国家からは「准官吏」に位置付けられた。

明治37年(1904) 群馬県安中尋常高等小学校 高等科卒業写真
「明治時代の安小」  http://www.annaka.ed.jp/annaka/top/150memorial%20rekisi/anshou%20no%20tannjou/meijijidai%20no%20annshou.htm

4 「小市民的」教員=明治末期から大正期前半。学校現場で組織化・官僚制化が進む中で、周辺的・傍系的教員の中には、教育という公務に献身しようという意欲を見失い、教職を「食うための手段」、「しがない教師稼業」としてとらえる向きが生じてきた。※下線は筆者

 上記のうち、4「小市民的教員」の説明は、まさに風間敬之進のことを言っているかのようです。

 

 唐沢富太郎『教師の歴史』は、そのあたりの事情を次のように述べています。

 明治三十年代になると、教師も次第に職業人としての性格を自覚するに至った。しかし、この職業化ー社会的地位の低さを物語る教師の低賃金(?)は必然的に従来の教師観を一変させ、三十七年から三十八年にかけて作られた藤村の『破戒』には次の如き(上掲の引用文)教師像が描かれるに至っているのである。

「Ⅳ 氏族階級より農民階級へ」「一 明治三十年代の教員」

 上の卒業写真を見ると、立派な髭を蓄えて威厳のありそうな男性教員の姿に目を引かれますが、生活実態だけではなく、世間の教師を見る目にもなかなか厳しいものがあったようです。

 

【参考・引用文献】
  総務省ホームページ   総務省トップ > 政策 > 国民生活と安心・安全 > 恩給 > 恩給Q&A
  https://www.soumu.go.jp/main_sosiki/onkyu_toukatsu/onkyu_qa.htm
  陣内靖彦『日本の教員社会 歴史社会学の視野』東洋館出版社、1988年
  唐沢富太郎『教師の歴史』創文社、1955年