小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

藤森成吉「ある体操教師の死」その3 教練・体罰

 

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 先生は、まるで生真面目(きまじめ)と厳格と熱心そのもののようだった。赴任の当時は殊に甚だしかった。時間は一時間必ずキッチリ、どうかもすればベルが鳴っても、まだ教練をつづけた。制服を厳重に生徒に守らせた。どうしてもやむを得ない事情もなく和服なぞを着て出席する者はもちろん、ゲートルのボタン一つはずれていても、すぐに鉛筆を舐めて操行点へ印をつけた。乱暴な生徒達のなかには、制服を着て足だけ下駄を穿(は)いて学校へ来る者が幾人もあった。それは学校の禁制の一つだったが、そう云う者を見ると、先生は時間中わざと靴の者だけ休ませて、下駄の者を跣足(はだし)にさせて、学校の門前へ連れて行って、そこから町の方へ向かって二町ばかりも一面ぶっかきの小石を敷きつめた道路のの上を、号令で駆け足させた。一遍どころか、二度でも三度でも駆けさせた。自分は一列のあとへくッついて、どんなにみんな痛がろうと、決して列の外へ駆けさせなかった。
 流石(さすが)に傍(わき)で眺めている生徒達もそれには同情した。そしてクラス挙(こぞ)ってストライキを起こして、次の先生の時間に運動場へ来なかったりした。
 一口に云えば、その古い精神によって自分が教え込まれたと同じように、先生はあくまでも生徒を厳格に、規律的に、軍隊式に叩き上げるつもりだった。が、厳格にすればするほど、生徒達は先生の云うことをきかなくなった。先生はその口をとんがらせ、大きな声を更に大きくしてどなりつけた。が、生徒達はびくともしなかった。
 先生は、とうとう生徒達の一番頑固な巌(いわ)に似た奴を選(よ)って、いく度も直接の手段に訴えた。ー頬を掌(てのひら)ではたきつけたのだーと、生徒達はますます手強(てづよ)くなって、ほとんど全校連合で先生に抵抗し出した。目の前で綽名(あだな)を云って罵(ののし)り返すのはもとより、先生が少しでも向うの方を向いていると、ーたとえば、生徒の横隊から離れて行こうとしてそびらを向けでもすると、忽ち生徒達は足もとから石を拾い取って、先生の背中へ投げつけた。うまくぶッつかると、みんなワアッとはやし立てた。(中略)そしてその事が学校の外(ほか)の職員や校長の耳へ入った時、先生は反(かえ)って生徒に対する態度を非難され出した。

  註 ゲートル・・・脚絆(きゃはんとも)とは、脛の部分に巻く布・革でできた被服。  町・・・約110メートル    そびら・・・背中

 

■ 教練の授業では・・・


 それまで「兵式体操」という名で呼ばれていた体操の一分野が、大正2年(1913)の「学校体操教授要目」の制定により、「教練」と変更になりました。
   「教練」は、兵式体操で教授されていた『体操教範』と『歩兵操典』のうち、集団秩序訓練を目的とした『歩兵操典』を教授する領域として設定されたものです。

※歩兵操典・・・ 旧陸軍の歩兵についてその訓練の基準と戦闘の指針を示したもの。初めフランスに範をとり1873年制定。1891年ドイツ式に改訂,1909年日本独自のものに改正され,精神主義を強調,以後の各操典の原型となった。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディア

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陸軍省徴募課 編『学校教練必携. 術科之部 前篇』(帝国在郷軍人会本部, 1933)より
「各個教練・不動の姿勢」

 日露戦争後、陸軍は中等学校における「体操科」を「兵式体操」に一本化するよう文部省に要求していました。
 その後、両者が折衝の上で「体操」「教練」「遊戯」の三教材(中学校・師範学校男生徒にはさらに「撃剣」及「柔術」を加えた四教材)として再編成されたという経緯がありました。

 ちなみに、今でも小・中・高等学校の体育の時間や運動会などで、行進したり、集団行動といって号令によって様々な動作を行うことがありますが、これは終戦まで中等学校以上で行われていた学校教練の「名残」であるという見方があります。

 また、今でも用いられている「気を付け」、「右ヘ習え」、「回れ右」、「前へ進め」などの号令呼称は、幕末の洋式調練(訓練)で最初に採用されたものが、陸軍での使用を経て学校に持ち込まれたものだということです。佐藤秀夫『教育の文化史2 学校の文化』阿吽社、2005年)

 なお、木尾先生のモデル・山本喜市先生は、当時の教え子の証言によれば、この「教練」ではなく「普通体操」のほうを担当しており、たしかに厳格で熱心な指導ぶりは作中に描かれている通りではあったものの、ストライキ(授業ボイコット)という形で生徒からの反発を受けたのは、軍隊上がり別の体操教師だったということです。(山本喜市先生顕彰碑保存会『山本喜市と諏訪の体育』2004年)

 

■ ストライキ体罰

  「クラス挙(こぞ)ってストライキを起こして、次の先生の時間に運動場へ来なかったりした」
 

 明治期の中学校では、この程度のストライキはそう珍しいことではありませんでした。教師の指導方針に生徒たちが猛反発して授業をボイコットしたり、それが全校的なストライキに発展したりといったようなケースが数多く報告されています。中には、学校当局に当該教師の罷免を要求するような事例まであったようです。
 木尾先生のモデル・山本喜市氏が諏訪中学に着任した明治37年(1904)に、半年間にわたって日本の教育を視察したイギリス人の教育行政官W・H・シャープは、「生徒のストライキは昔から今に至るまで、日本の中学校の一つの特徴になっている。」(W. H. シャープ著、上田学訳『ある英国人の見た明治後期の日本の教育』行路社、1993年と述べているほどです。
 

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兵式体操・基本体操
「別館 兵隊さん写真館」
  http://www.pon.waiwai-net.ne.jp/~m2589igo/cgi-bin/heitaisan.html

「一口に云えば、その古い精神によって自分が教え込まれたと同じように、先生はあくまでも生徒を厳格に、規律的に、軍隊式に叩き上げるつもりだった」
   

 本ブログ「その2」でも触れましたが、当時の体操科教員には陸軍の下士官上がりが多く、生徒から体罰と受け取られても仕方のないような軍隊式の指導がごく普通に行われていたものと思われます。

 体育史の研究者も次のように、軍隊式の指導の問題点を指摘しています。

 この軍人タイプの教師は、(中略)下士官が学校の体育教師として採用され、軍隊における教育を学校教育の中に持ち込むことになった。これらの体操教師は、一般に学問に造詣がなく、一般教養に欠けており、厳格ではあるが規則づくめで形式主義に流れているとして生徒の尊敬を欠き、種々の批判を受ける結果になった。

小村渡岐麿・古谷嘉邦・井上一男「体育教師像についての一考察」から「Ⅲ体育の内容と体育教師のタイプ、A,兵式体操,教練と軍人タイプの体育教師」『東海大学紀要. 体育学部 (3)』1974年

 どうでしょうか。まさに本作品のペッカーこと木尾先生のことを指しているのではないかと思われます。

 ただ、山本喜市氏の場合は、当時長野県内にあった中学校4校では初の軍人上がりでない、体操学校出身の教師であったということで、どうも上述のように作中では他の体操教師と混同されている節があります。(『山本喜市と諏訪の体育』2004年)

 作者の藤森成吉は在学5年間を通して首席を貫いたと言われるほどの秀才でしたが、運動の方はあまり得意でなかったようで、体操の授業や体操教師に対する不満などがこういうステレオタイプ的な表現につながったと見ることはできないでしょうか。

 

  早逝したマイナー・ポエトと言われる牧野信一(明治29~昭和11円・1896~1936)は「文学的自叙伝」の中で、明治42年(1909)から大正3年(1914)まで在学した神奈川県立第二中学校(現・県立小田原高等学校)時代、元陸軍下士官の兵式体操の教員からひどい仕打ちを受けたことを詳細に述べています。すこし長くなりますが引用してみます。

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牧野信一生誕百周年記念ホームページ」より

 そして、学期末になると、体操の点が戊といふ最下等であつた。開校以来の出来事だ左うであつた。作文の丁は点頭(うなず)けるのだが、さすがに体操の落第点といふのは、努力の仕様もなく、途方に暮れるうちに、私は益々それが馬鹿々々しくなつて、号令をかけるのさへ嫌ひになつた。体操の教師は二人ゐたがTさんといふ錐のやうな眼の休職曹長が非常に私を憎んだ。どういふ意味か知らないがT先生はジヤツコラといふ綽名で、箱のやうな感じで、歩調の試験だなどといふと、私ばかりを大勢の前に引き出して、やれ踵が二秒早く降り過ぎたの、脛がもう何ミリ前へ伸びぬからとかと飽くまでも難癖をつけて、他の者の十倍も長く歩かせるのだが、そんなにされれば益々気持が上つてしまつて、思はずフラフラすると先生は堪らぬ罵声を挙げて鞭を鳴らした。そして、これを見よと叫んで、自分の歩調の模範を示すのであるが、私には決してその差別が見わけ難かつた。私は、これほど人に憎まれた経験を未だに比ぶべきものを知らない。――私は終ひにこれは何うも自然に任せるより他はないと観念して、徒手体操の時になつても、決して力が入らぬやうな動作になつてしまつた。前腕ヲ平ラニ動カセ、オイツ! とか、首ヲ前後左右ニ曲ゲ――など割れるやうな号令の許に、あはや顎のかけがねが脱れんばかりな仁王のやうな大きな口をあけて、オイチ、二ツ、などと絶叫しながら、腕を力一杯に折つたり曲げたり、首などは石ころのやうに乱暴にあつちへ向けたりこつちへ曲げ倒したりして、その勢ひの最も獰猛なやつが甲上だなどといふT先生の訓練法に、私は自づと逆はずには居られなくなつた。先生は私の体操振りを目して、クラゲのやうだとか酔払の態だとかと憤つて、腕が抜ける程引つ張つたり、首根つこを掴んで振り回したりしたが、責められれば責められる程否応なく私の動作は手応へもなく亡霊と化した。今にして思へば、私のあれらの体操振りは寧ろ現代的なる方法を髣髴する概があつたと思はれるのだ。今では何処の学校や海兵団の体操を見たつて、あんな馬鹿臭いのはありはしない。あんな体操なぞは凡そ肉体に不自然なる激動を与へるのみで終ひには精神作用までをも最も偏頗なる小局に乾干びさせてしまふ位のものである。(中略)不幸なる私は、あの中学の体操に依つて犯罪妄想の如き心悸亢進の胚種を植ゑつけられた。 
 (「青空文庫」より、底本『牧野信一全集第六巻』筑摩書房、2003年)

牧野信一という作家は2013年(平成25年)の大学入試センター試験の国語の現代文(小説)で『地球儀』の全文が出題されて、少しは知られるようになりましたが、藤森成吉ほどではないにしても、文学史にも名前が出てこないので、若い人たちにはなじみがないことでしょう(笑)