藤森成吉「ある体操教師の死」その5 「体操」から「スポーツ」へ②
それにつづいて、夏その冷たい湖水で中学生達の水泳が始まるようになった。と、それまで水では金槌(かなづち)だった彼が、自分の半分も年下の少年達の中に交じって、又一生懸命水泳法の練習を始めた。そして間もなく若い者を追い越して、立派な一個の水泳教師になった。それからは、毎年その直径一里ばかりの湖水の横断競泳を中学で行うことに定めて、その時は先登(せんとう)でみんなを励ました。
その後、マラソン競走にも先生はひどく精神を込めた。それはもう四十幾つの彼の晩年だったが、一種のおどろくべき努力と決心で、相変わらず中学生と一緒に走った。やっぱり湖水のまわりを一周するのだったが、そのかなり長い距離を始終生徒の先きへ立った。(中略)
そう云うスケーティングや水泳やランニングは兵式体操とちがって、少年に特有な興味を多量に含んでいた為め、先生がそれに集中することは、生徒達にも気受けがよかった。生徒達の中にも、その先生の熱心に惹かされてしんから耽(ふけ)るものが何十人となくあった。先生の不評判は、それに依ってかなり恢復(かいふく)された。が、そういう遊戯へと同じ程度に注がれる学課への忠実がやっぱりいつまでも生徒達の心を反発させた。
「ほかの学課をあれだけ真面目にやって貰やア、よっぽど力も付くがなア。」
「まるで時勢を知っていなくて話にならねぇ。」
生徒は先生の誠実を知りながら、反って嫌悪したのだった。
水泳はあまり得意でなかった山本喜市氏でしたが、古式泳法である水府流師範を学校に招き、自らも正式に習った後、明治45年(1912)に「遊泳氷滑部」を創設して、毎夏諏訪湖において水泳講習を行っていました。
水泳講習会の集大成として計画した「諏訪湖横断遠泳」でしたが、当初は保護者や地元の漁師から危険であると反対の声が上がったということです。
ご本人はじめ関係者の努力によって安全な水路が確保されると、大正6年(1917)には夏休み中の水泳講習をしめくくる全校行事となり、昭和36年(1961)まで続けられました。
スケートに続き、水泳においても氏の並々ならぬ熱意が発揮されたのでした。
当時の『学友会誌第十七号』に載せられた「水泳練習の概要」(大正7年3月・『山本喜市と諏訪の体育』所収)では、以下のように水泳の効用を説くところから始まり、続いて段階を追って綿密な指導計画が記されています。約7,500字にも及ぶ長い文章です。
水泳は身体練習の運動として実に理想的の運動なる事は既に世の認むる処にして又水上危難の際に処するの技術として或いは精神上の訓練として或いは海国男子の本分として大いに錬磨すべき事論を俟(ま)たず。されば多数の者をして此の技に趣味を有せしむるは我が国人の体格を向上し海国民の本領を発揮し帝国の将来に関する所大なりと信ず。(後略)※新字新仮名遣いに改めています
若い頃から進取の気性に富んでいた山本氏は、いち早くマラソンにも取り組んでいました。(作中には「その後」とありますが、学校行事となったのはマラソンが先でした)
諏訪湖畔に建てられた顕彰碑には、次のように記されています
なかでも、諏訪湖一周マラソンの創設は特筆され、先生は体育の基本は走ることにあるとの考えから、大正4年12月「諏訪湖五里五丁*駆歩」を諏訪中学生とともに走られた。
「遅速の如き問ふ所にあらず」と完走の大切を説き、以来この精神は綿々と引き継がれて、同校等をはじめ各種団体による諏訪湖マラソンは近年ますます盛んになっている。
※一里・・・・約4km、1丁・・・・約109m
生徒の全員が何らかの運動に「趣味を持ち」「本気になって楽しむ」ことが大切だと常々唱えていた山本氏は、普段の授業にも長距離走を取り入れて熱心に指導していましたが、その集大成として「諏訪湖一周五里五丁の駈歩(マラソン)」の実施を提案しました。
『清陵八十年史』(長野県立諏訪清陵高等学校同窓会、1981年)は、「学友会幹部も『余りに突飛なるに驚かされた』といっているほどの『大々的壮挙』であった」と記していますが、当時在校生であった長男の藤吉氏の次のような文章からも、当初は校内に反対論が強くあったことがうかがえます。
父は酒好きで毎日晩酌をやった。大正4年12月3日の夜(第一回駈歩前夜)は特別であった。(中略)亡母と僕を呼びつけて「湖水一周がむちゃな体育か。生徒の予行駈け足もやっている。走路状況を偵察し、距離もこの歩時計で計算した。救護所のことは職員、生徒配置が決定している。まだ、危険だなどと、なぜ反対するのか」(中略)父は哀れにも酒の力を借りて、積もり積もったうっぷんを晴らしたのであろう。
(立木正純「体育振興の先駆者・山本喜市先生」『山本喜市と諏訪の体育』所収)
第1回参加者の卒業生の方が、次のような興味深いエピソードを残されています。
当時、運動靴のようなものは入手困難で、はだしでは、と足袋の底にぞうきんように布を縫い付けた者、わらじの者、それも二足も三足も腰にぶら下げる者、その日のうちに帰れなかったらと心配してむすびを背負う者、一日中走れば内臓が下がってしまうと、さらしを腹にぐるぐると巻き付ける者もいた。(前掲書より)
明治45年(1912)の第5回ストックホルム大会に、日本人として初めてマラソンに出場した金栗四三氏は、東京高等師範学校卒業後、教職の傍ら全国の師範学校をめぐって講演活動を続けていましたが、山本氏は大正6年(1917)に長野県師範学校を訪れた金栗氏を諏訪中学校に私費で招き、講演会と講習会を実施しています。
ここにも、マラソンに取り組む山本氏の並々ならぬ情熱と実行力を見ることができます。
なお、この行事は大正12、13年(1923、1924)及び大戦末期の昭和19、20年(1944,1945)、そして流行性感冒が蔓延した昭和32年(1937)を除き、現在の諏訪清陵高等学校(現在のコースは19.4km)にも脈々と引き継がれており、令和元年(2019)には第106回を数えました。
山本氏の三女タカさんは、後年亡父をしのぶ短歌をいくつか残されていますが、この諏訪湖一周マラソンを詠んだ次のような歌があります。
■ 「体操」から「スポーツ」へ ー「学校体操教授要目」の制定ー
作中に「生徒達から云へば、が、単調な体操なぞを本気になってやる気はなかった」とあるように、生徒らが徒手体操・機械体操中心の「普通体操」にあまり興味を示さず、一方の「兵式体操」もすっかり形骸化していたのが、明治末年頃の中学校における「体操科」の実態でした。
他方、明治末から大正初期にかけては、以下のように国の内外において様々なスポーツが盛んになり始めた時期でありました。
明治44年(1911) 大日本体育協会(現・日本体育協会)の創立
45年(1912) 第5回オリンピック(ストックホルム)に初参加
大正2年(1913) 日本陸上競技選手権大会開始第1回東洋オリンピック(マニラ、第2回以降は極東選手権大会に 名称変更)
4年(1915)大阪朝日新聞主催全国中等学校優勝野球大会(現・全国高等学校野球選手権大会)開始
6年(1917) 第3回極東選手権大会(東京)
高等教育機関を中心に課外のスポーツとして、それまでの野球や陸上競技に加えて、庭球、フットボール(蹴球、サッカー)などに人気が出て、それらの競技が中等学校においても広く行われるようになっていったのもこの時期でした。
そういう時代の流れの中で、我が国において学校体育に関する初めての教授要目(現在の学習指導要領に相当)としてまとめられたのが「学校体操教授要目」(大正2年・1913、文部省訓令第一号)でした。
この要目では、体操科の教材は「体操、教練及び遊戯」(中学校及び師範学校の男生徒には「撃剣及び柔術」を加えてもよい)で構成されていました。
上記の三要素のうち、「体操」では、海外の体育思想や方法も取り入れられ、スウエーデン体操が中心に据えられています。
それまでの「兵式体操」は「教練」と名称が変更になりましたが、その内容は「歩兵操典の定むる所に準拠す」と実質的に変わりはありませんでした。
また、中学校の「遊戯」の中に示された教材は、以下の通りでした。
第1学年
徒競走、片脚競争、単脚競争、二人三脚、戴嚢競争、旗取り、旗送り、俵運び、障害物競走、棒押、棒引き、綱引き
「デットボール」(ドッジボール)「センターボール」(?)
第2学年
「メデシンボール」medicine ball、多人数が並んで、大形のボールを頭上や股の間を通して送る遊戯「フットボール」(サッカー)「バスケットボール」
※( )内は現在の名称
大正15年(1926)の改訂では「遊戯」から「遊戯及競技」と改まり、その内容は現在の陸上競技と球技を合わせたものになり、球技の種類も増えました。
この『学校体操教授要目』制定の中心人物で東京高等師範学校教授を勤めた永井道明は、我が国における体操教育の確立と発展に大きく寄与すると共に、体育教師の地位向上に貢献したことから、「日本の体操の父」と称されました。
「ペッカー」こと木尾先生が、スケートに、水泳に、マラソンにと次々に意欲的な取り組みを見せたのは、我が国の体操(体育)教育に上記のような新たな動きが起きていた時期でありました。
やはり、時代は「軍人タイプの体操教師」とは異なる、いわゆる「スポーツマン・タイプの体操教師」の出現を求めていたと言ってもよいのではないでしょうか。