小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

藤森成吉『ある体操教師の死』その1 モデル山本喜市氏のこと

名作でたどる明治の教育あれこれ: 文豪の描いた学校・教師・児童生徒

【作者】藤森成吉(ふじもりせいきち)
小説家、劇作家。明治25年(1892)、長野県上諏訪町(現・諏訪市)の生まれ。明治43年(1910)長野県立諏訪中学校(現・県立諏訪清陵高等学校)を卒業して、第一高等学校独法科に無試験で進学。大正5年(1916)、東京帝国大学独文科を卒業後、第六高等学校講師として岡山へ赴任するが、半年で辞職して作家活動に入る。
大正8年(1919)、第一創作集『新しい地』を出版以後、次々と作品を発表。大正10年(1921)に社会主義同盟へ加入後は、作風が社会主義的傾向を示すようになり、戯曲『磔 (はりつけ) 茂左衛門』 (大正15年・1926)、『何が彼女をそうさせたか』 (昭和2年・1927) などで好評を博した。
昭和3年(1928)、「ナップ」(全日本無産者芸術連盟)初代委員長となり、プロレタリア作家として活動したが、昭和7年(1932)に検挙されて転向した。その後一時は『渡辺崋山』 (昭和10~11年・1935~1936) などの歴史小説を書いた時期もあったが、戦後は日本共産党に入党し、左翼文学の長老的存在として活躍した。昭和52年(1977)没。   

【『現代日本文学全集第47篇 吉田絃二郎・藤森成吉集』〈改造社・1929〉巻末の年譜及び『日本近代文学大事典 机上版』(講談社1984)より】

 

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藤森成吉(上記全集より)

【作品】
大正11年(1922)に発表された短編小説。明治末期から大正中期にかけての中学校(旧制)の体操教師を題材にした作品。
作者は「自作の憶ひ出と記録」(『現代日本文学全集第47篇 吉田絃二郎・藤森成吉集』改造社・1929〉において次のように記している。
 

大正十一年六月作。七月「解放」へ載せて好評を受けた物。これは、出身中学校の実際の教師をモデルにした。その教師から私自身も体操を教えられたが、然し彼の死んだのは、私が卒業してからずっとあとだ。死報さえ何年か経って知り、その談話者(若い卒業生)の談話から組み立てた。
※新字新仮名遣いに改めています。

 

ある山国(信州)の中学校で体操(体育)科を受け持つ木尾先生「まるで生真面目と厳格と熱心そのもののような」教師であったが、風采の上がらないことから、「ペッカア(啄木鳥)」というあだ名をつけられ、「どの生徒からも馬鹿にされ」ていた。

また、彼には「何の学問の背景」もなく、「給料は職員中で一番低かった」ことも、生徒たちから軽んじられる原因となっていた。
「体操なんず、一体何の役に立つだい、そんなものを、誰が真面目になってやらずい」という生徒たちからの軽侮や反発を受けながらも、当の木尾先生は(生徒たちは)今たといどんなでも、学校を出てからきっと自分に感謝するだろう」と信じて疑わなかった。
ところが、40歳を過ぎる頃から体力・気力ともに急速に衰えを見せ始め、授業中の示範でも失敗が目立つようになった木尾先生はいたたまれずに休職し、早死にをしてしまう。それを知った生徒たちは「あの人のことだで、今ン頃地獄へ行って体操をやってるか」と冗談を言い合うのだった。

 

 木尾先生は、或る山国の地方の中学教師だった。教師と云っても体操科のー一生をそれで終わったのである。
 然し生徒達は、誰も先生の本姓を呼ぶ者はなかった。みんなペッカア(啄木鳥)と云う符号で呼んだ。
 その奇妙な綽名(あだな)は、あきらかに容貌に拠っていたらしかった。先生は割合顔が小さく細長く頬がやせっこけていた。そのせいか、口の部分が丁度犬や狐のそれのように特口形(とっこうがた)をしていた、その特徴は、先生が口を開いてまさに物を云おうとするとき殊に著しかった。
(中略)
 先生はどの生徒からも馬鹿にされた。
 一つには、それは先生の頗(すこぶ)るあがらない風采から来ていた。あの突口のほか、先生はいつも質素なジャンギリ頭で、くりくり円い眼つきをして、薄い茶色のショボショボ髭を生やしていた。いつも日にあたっているので、全体に真黒にやけてはいたが、元来貧血症らしいその顔色は青黒かった。身体も鍛えられてはいたが、痩せて一向肉がなかった。そこへ服装なぞは少しも構わずに、始終まるで軍人でも着るようなごしごししたカアキイ色の詰め襟を着ていた。
 そう云う風采に加えて、先生には何の学問の背景もなかった、先生は高等師範出身ではなく、体操教習所を卒業してすぐに赴任したのだった。ー従って幾年勤めても、給料は職員中で一番低かった。
  (本文は『現代日本文学全集第47篇 吉田絃二郎・藤森成吉集』〈改造社昭和4年〉により、新字新仮名遣いに改めました)

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冒頭部分(三段組で総ルビつき)

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現代日本文学全集第47篇 吉田絃二郎・藤森成吉集』改造社、1929年

■ モデル・山本喜市氏のこと
 作者が述べているように、主人公の木尾先生にはモデルとなった体操教師がいました。
 明治37年(1904)8月に作者・藤森成吉の母校(明治38~43年在学)である長野県立諏訪中学校に赴任し、大正8年(1919)11月まで在職されていた山本喜市氏です。(同校の後身である長野県立諏訪清陵高等学校同窓会事務局にご教示いただきました)

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山本喜市先生顕彰碑保存会『山本喜市と諏訪の体育』(1994年)より


 

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明治41年中等教育諸学校職員録』より
教諭で体操を担当していたのは山本氏だけであったようです。

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長野県立諏訪中学校・年代不明
『清陵八十年史』(長野県立諏訪清陵高等学校同窓会、1981年)より

 

    山本氏の経歴と事績については、諏訪湖に建てられた顕彰碑に記されています。碑文を紹介してみましょう。

  先生は、明治13年栃木県足利郡富田村(現足利市)に生まれ、同37年日本体育会体操学校高等本科(現日本体育大学)を卒業後、大正8年秋病床に臥すまでの15年間、諏訪中学校(現諏訪清陵高等学校)体育教師として教鞭を執られた。先生は大正10年2月わずか40歳の若さでこの世を去るまで、生涯を諏訪の体育振興に捧げられた。その誠実真面目な人柄と熱心な研究心、加えて理想に燃える実行力は多くの人々に深い影響を与え、数々の業績を上げられた。
 なかでも諏訪湖一周マラソンの創設は特筆され、先生は体育の根本は走ることにあるとの考えから、大正4年12月「諏訪湖五里五丁駆歩」を諏訪中学生徒とともに走られた。
 「遅速の如き問うところにあらず」と完走の大切さを説き、以来この精神は綿々と引き継がれて、同校をはじめ各種団体による諏訪湖一周マラソンは近年ますます盛んになっている。
 先生はまた、湖辺の遊びにすぎなかったスケートや水泳も、体育としての視点からその普及を図り、我が国最初のスケート技術書『氷滑術初歩』を出版、また諏訪湖横断水泳大会を催すなど、諏訪の地の社会体育発展の礎を築かれたのである。
 ここに体育を愛する有志が相図り、先生の母校日本体育大学の協賛を得て、日展評議員立川義明氏の製作による「肖像」と「マラソン群像」の碑を建立し、末永く先生の功績を讃えるものである。   

平成3年8月吉日 山本喜市先生顕彰碑建立実行委員会 会長 諏訪市長 笠原俊一

 

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『山本喜市と諏訪の体育』より

■    山本喜市略年譜

(『山本喜市と諏訪の体育』所収の諏訪清陵高等学校所蔵の履歴書等より作成)

 

明治13年(1880)栃木県足利郡富田村大字寺岡八九番地に生まれる
山本家は例幣使街道(日光街道)沿いで代々旅籠を営んでいたが、父他界後に廃業した。
明治18年(1885)4月 駒場尋常高等小学校入学
  〃 26年(1893)3月 同校卒業
  〃 27年(1894)12月 茨城県結城郡結城町にあった私塾の敬義館に入学
  〃 29年(1896)12月 同塾を退学
  〃 36年(1903)4月 日本体育会体操学校高等本科(現日本体育大学)入学
  〃 37年(1904)7月 同校を卒業   
  8月教員免許状取得(師範学校中学校高等女学校体操科の無試験検定合格)
   8月 長野県立諏訪中学校教諭心得兼舎監心得 月俸30円(十級)   
    9月 同校教諭兼舎監 
  〃 40年(1907)8月 尋常小学校本科正教員諏訪講習所講師を嘱託される   
  〃 41年(1908)7月 尋常小学校准教員諏訪講習所講師を嘱託される   

  〃 42年(1909)2月 『氷滑術初歩』を刊行
  〃 43年(1910)8月 師範学校中学校高等女学校教員兵式教練科講習を修了
  〃 44年(1911)3月  月俸35円(九級)

 〃 45年(1912)  遊泳氷滑部を創設
 大正元年(1912)12月  月俸40円(八級)
  〃2年(1913)7月    諏訪湖横断水泳大会を実施

            静岡県において夏期講習会体操科講師を嘱託される
  〃4年(1915)5月  月俸45円(七級)
  〃      11月 内閣賞勲局より大礼記念章を授与される

 〃      12月 第1回「諏訪湖一周駈歩(マラソン)」開催 
  〃5年(1916) 6月 金栗四三を諏訪中学に招き講演会開催

         8月 文部省師範学校中学校高等女学校体操科講習会終了 

  〃7年(1918)2月  月俸50円(六級)
  〃8年(1919)3月  月俸55円(五級)
  〃      11月 願に依り本職を免ぜられる
  〃9年(1920)1月  退職料年額195円

    〃10年(1921)2月8日 郷里にて死去(四〇歳)

   作中に「(体操学校出身であるため)幾年勤めても、給料は職員中で一番低かった」とありますが、もちろんフィクションです。上のように定期的に昇級しているほかに、割愛しましたが「職務勉励ニ付」賞与も支給されています。
 ただ、七人の子どもがあり、自ら外国製のスケート用具を購入したり、出版への出費などを含めると、生活はなかなか大変だったと娘さんのお一人が回想されています。

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『山本喜市と諏訪の体育』より
東京高師体育科に進んだ長男の藤吉氏をはじめ3人が体育教師の道に進まれたということです。


※いくら小説とはいえ、よくもここまでひどい書かれ方をしたものだと、ご遺族の方がお読みになっていたとしたら、きっと憤慨されたことでしょう。

本作品に描かれた木尾先生と顕彰碑などからうかがえる山本喜市先生の実像とに、あまりにもギャップがあるように思われます。そのあたりも、私が本作品に興味をもって取り上げた理由です。
以前投稿した記事をもとに、不十分だったり、不正確だったりした箇所を改めて書き直していきます。