コラム1 「学校給食」 ー明治・大正・昭和(戦前)ー
■ お寺の慈善事業として始まった学校給食
我が国における学校給食の起源とされているのは、明治22年(1889)、山形県鶴岡町(現・鶴岡市)の大督寺の境内に「貧民師弟を教育するの目的」で建てられた私立忠愛小学校で、弁当を持ってこられない子どもに無償で昼食を用意したことでした。この時の給食メニューは、塩むすびに魚の干物・漬物だったそうです。
こうした個別の試みは、明治年間に広島、秋田、岩手、静岡、岡山の各県でも行われています。
大正時代に入ると、大正8年(1919)6月に私立栄養研究所佐伯矩所長の援助を受け、貧困家庭の児童を対象としていた東京市直営の小学校において、パンによる学校給食が開始されました。戦後広く普及するパン給食最初の事例でした。
大正12年(1923)9月1日に発生した関東大震災の後は、義捐金などをもとに東京市が学校給食事業に取り組みました。同年12月から大正14年(1925)6月まで、児童数約4千人に毎日昼食を無料で供給し、延べ人員は150万人に達したとされています。
■ 昭和恐慌で国の関与始まる
昭和2年(1927)の金融恐慌に始まり、昭和6年(1931)に極めて深刻な恐慌状態に陥った日本経済ですが、東北地方においては、さらに昭和9年(1934)の冷害による大凶作が追い打ちをかけるようにして、悲惨な状況をもたらしました。
娘の身売り、欠食児童、行き倒れ、自殺等々が連日のように報じられる中、東北本線の沿線では、汽車の窓から捨てられた弁当の食べ残しをむさぼり食べる子どもが多く見られたことが、新聞記事になったといいます。
そうした中で、学校へ弁当を持参できない、いわゆる欠食児童が増加しました。昭和6年(1931)秋田県の調査では次のような実態が明らかになっています。
・県下の小学児童数 約17万4千人
・弁当を持ってこられる者 約11万7500人(約68%)
・正午に自宅へ帰って食べる者や正午までで帰る者 2万6千人(約15%)
・欠食児童 2万8790人(約17%)
翌昭和7年(1932)の7月、文部省は「農漁村の欠食児童20万名を突破」と発表、同年9月7日には、以前から学校給食の必要性を訴えていた「栄養学の父」とも呼ばれた佐伯矩(さいき ただす)の提案を受け入れて、「学校給食実施ノ趣旨徹底方並ニ学校給食臨時施設方法」(文部省訓令第18号)を訓令します。
この訓令により、国庫から67万円(現在の16億円以上とか)が支出されました。国が学校給食に関与したのは、この時が初めてでした。
給食の対象者は、「就学免除及び猶予中の児童で給食によって就学が可能な者、食事不十分で欠席がちの者、学校に弁当を持参できない者」とし、食費は1食4銭としています。
しかし、国の補助で手当てできた児童は、昭和7年で約38万人。昭和11年(1936)年には62万人に増えましたが、全国の児童数からすればわずか数%に過ぎませんでした
なお、文部省では、この学校給食が給食は貧困救済のために行っていると児童に感じ取られないよう周到な注意を払うよう各府県に通達しています。
その後は、日中戦争・太平洋戦争に伴う物資不足や食糧事情悪化の為に給食事業の中断が相次ぎます。
昭和19年(1944)、食糧不足になっていた六大都市(東京都、京都市、大阪市、横浜市、名古屋市、神戸市)の児童約200万人に、政府が米、みそなどを特別配給したのを最後に学校給食は途絶えてしまいました。
脱脂粉乳とコッペパンに象徴される学校給食が国家的なプロジェクトとして開始されるのは、敗戦直後の占領期以降のことになります。
【参考・引用文献】
文部省『学制百年史』ぎょうせい、1972年
藤原辰史『給食の歴史』岩波新書、2018年
岩本努他『ビジュアル版 学校の歴史1 学校生活編』汐文社、2012年
小菅桂子『近代日本食文化史年表』雄山閣出版社、1997年
土屋久美・佐藤理「学校給食のはじまりに関する歴史的考察」『福島大学総合教育研究センター紀要第13号』2012年
洲脇一郎「経済恐慌と災害の中の学校給食」『神戸親和女子大学児童教育学研究40巻』2021年