小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

コラム2 「身体検査」(学校健康診断)の歴史

■  なくなった「座高」測定
    平成26年(2014)4月に学校保健安全法施行規則の一部が改正され、学校健康診断の検査項目から「座高」昭和12年・1937より実施)と寄生虫卵の有無」(昭和33年・1958より実施)が削除されました。
 文部科学省では座高測定について、「個人及び集団の発育、並びに体型の変化を評価できる」「生命の維持のために重要な部分(脳や各種臓器)の発育を評価できる」「子どもの発育値について統計処理をすることによって、集団の発育の様子が分かる」という三つの意義を挙げていましたが、学校現場からは「実施の意味や必要性がない」とか「測定結果を活用することがない」などとの意見が圧倒的だったということです。
 そもそも、昭和12年(1937)、「身体検査」(当時の呼称)の項目に、「座高」が加えられたのはどういう理由からだったのでしょうか。

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健康相談と視力検査
『日本学校保健会百周年記念誌』(2020年)より

 「座高」は、大正8年(1919)に「身長即ち骨悋の発育に相応し筋肉脂肪組織並に内臓諸器官等がよく発育しているか否かを簡易に知る方法」として紹介されたものでした。
 頭部、胸部、腹部という上半身が発達している、つまり胴長の体型のほうが健康的で丈夫であるとの考え方が根本にあったようです。
 昭和12年と言えば日中戦争勃発の年ですが、それ以前から徴兵検査において、「体格」は年々よくなるものの、「体質的」には低下が見られ、「丙種」(現役に適しないが国民兵役に適する者)合格の割合が増加していたことも背景にありました。
 軍部としては、ひょろ長く、ひ弱い兵隊が多くなっては困るわけで、胴長短足の安定感のある丈夫な若者の育成を望んだというわけです。

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昭和15年大津市公会堂での徴兵検査風景
「しがけんバーチャル平和祈念館」 https://www.pref.shiga.lg.jp/site/heiwa/tenji/syuz-heitai01.html

■  身体検査 ー明治から大正・昭和初期にかけてー
   

 学校健康診断の始まりは、明治21年(1888)年に実施された「活力検査」とされています。測定項目は、身長・体重・胸周囲(充盈・空虚・常時)・臂囲(上・下、左・右(力こぶを作った上腕の周りと二の腕の太さ)・指極(両手を横に広げて中指の先から先までの長さ)・肺量・力量・握力(左・右)等でした。
 明治30年(1897)に「活力検査」「学生生徒身体検査」に全面的に改められ、体力検査的な項目は削除され、以下のように発育に関係のある項目が残されます。
   

身長・体重・胸囲・脊柱・体格・視力・眼疾・聴力・耳疾・歯牙・疾病(腺病・栄養不良・貧血・脚気・肺結核・頭痛・衄血(じくけつ・鼻血)・神経衰弱・その他の慢性疾患)

※神経衰弱はどうやって調べたのでしょうか?

 「学生生徒身体検査規程」(明治33年3月、文部省令第4号)では、身体検査は学校医(もしくは医師)が行うこととなった点という画期的なものでした。
 この規程は明治45年(1912)1月に改正されましたが、測定数値がそれまでのメートル法から尺貫法に改められています。保護者への通知という点での配慮といわれています。
   この「学生生徒身体検査規程」は大正9年(1920)に廃止され、「学生生徒児童身体検査規程」と改まりました。同規程では、「甲乙丙」の評価方法と「栄養」項目の新設、視力の検査方法、検査対象の疾病異常の拡大、「要監察」の記入、検査結果の事後措置の明確化など、身体検査は大きな進展を見せたと言われています。

 「身体検査は学校医が行う」と規定はされていましたが、当初は設置率約20%に過ぎませんでした。規定改正の大正9年(1920)の時点で、全国の小学校のうち学校医を設置していたのは約70%と、まだまだ十分に機能していたとは言いがたい実態があったようです。

 ここで、昭和の初期に岡山県北部(現在の津山市)で小学生時代を送った竹内途夫氏の尋常小学校ものがたりー昭和初期子供たちの生活誌』福武書店、1991年)から身体検査の思い出が述べられている箇所を紹介してみましょう。

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○ 形ばかりの身体検査
 春の遠足の前に、全校児童の身体検査があった。校医はたった一人で、歯科を含めた身体の全部を診るのだからたいへんだった。(中略)
 検査の項目は、発育・栄養・脊柱・視力・色神・眼疾・聴力・歯牙・その他の疾病・観察の要否、十一項目であったが、視力・色神・聴力は測定の記憶がない。これらの検査の結果、眼疾のトラホームや、耳疾の慢性中耳炎で年中臭い耳だれを出している子が多いことがわかった。それに今は見られない、いわゆる瘡(かさ)かきの子もクラスに二人や三人は必ず見られた。
 栄養は甲乙丙に判定されたが、甲の子は少なく、毎日卵の黄身の粉を口の周りにつけてくる子ぐらいで、当時はデブといわれたが、今の標準型ぐらいの肉付きであった。子供の大部分は乙か丙で、丙というと栄養不良である。こういう子がクラスで五、六人はいた。
 学校はこうした検査の結果を通知簿に記録はしても、それ以上の措置はとらなかった。結果を早速家庭に連絡し、早めに治療するようにと指導する今の学校とは違い、連絡しても医者にかかるようなことはできない事情をよく心得ていたからである。(中略)それから年中顔色の冴えない子が時々見られたが、そういう子はきまってたくさんの回虫を腹に飼っていた。

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昭和4年(1929)の「身体検査表」
「市民が綴る福生の歴史」より https://www.lib.fussa.tokyo.jp/digital/digital_data/connoisseur-history/pdf/08/11/0006.pdf

 なお、「身体検査」という用語は、徴兵検査におけるような身体発育の序列化、正常・不正常の区分けを想起させるということなどから、戦後は「学校健康診断」の名称に変更されました。

 

■ 漱石も罹ったトラホーム

 

 夏目漱石(金之助)は東京大学予備門(後の旧制第一高等学校)に在学していた明治19年(1886)江東義塾という私塾で約一年間教師をしたことがありました。

  

 丁度予科の三年、十九歳頃のことであったが、私の家は素(もと)より豊かな方ではなかったので、一つには家から学資を仰がずに遣(や)って見ようという考えから、月五円の月給で中村是公氏と共に私塾の教師をしながら予科の方へ通っていたことがある。
 これが私の教師となった始めで、其の私塾は江東義塾と云って本所に在(あ)った。
(中略) 
 時間も、江東義塾の方は午後二時間丈だけであったから、予備門から帰って来て教えることになっていた。だから、夜などは無論落ち附いて、自由に自分の勉強をすることも出来たので、何の苦痛も感ぜず、約一年許ばかりもこうしてやっていたが、此の土地は非常に湿気が多い為め、遂(つ)い急性のトラホームを患(わずら)った。それが為め、今も私の眼は丈夫ではない。親はそのトラホームを非常に心配して、「兎(と)に角、そんな所なら無理に勤めている必要もなかろう」というので、塾の方は退(ひ)き、予備門へは家から通うことにしたが、間もなくその江東義塾は解散になって了(し)まったのである。(「私の経過した学生時代」)

 今では見聞きすることのないトラホーム(別名トラコーマとも)という眼の病気ですが、これはクラミジアという微生物による結膜炎の一つで、明治30年代以降長い間にわたって青年層,学齢児童などの間で猛威を振るった伝染病でした。
 小学校児童の身体検査(学校健康診断)や徴兵検査などにおいて診断され、明治の末年頃には、下のように極めて高い罹患率を示していました。

 

明治43年(1910) 

 徴兵検査 検査人員43万5000人に対しトラホーム患者は9万6885人(22.3%)

 明治45年(1912)

 児童生徒のトラホームの罹患率
 全国平均15 .05% (最多・青森県33.08%、最小・滋賀県3.97%)

 大正8年(1919)、国は「トラホーム予防法」(昭和58年廃止)を成立させて、国家的に撲滅すべき伝染病と指定しました。トラホームが工場、軍隊、学校などで蔓延し「国家的な不利益」をもたらすことを防ぐために、結核予防法とともに公布したものです。
 取り組みの一環として、トラホーム罹患率の高い学校には、治療の助手として学校看護婦が配置されるようになっていきました。この職は、後に養護訓導(昭和16年国民学校発足時)と名前が変わり、戦後には養護教諭となって、現在に至っています。

  

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昭和30年代前半に下北地方のある学校で撮影された眼科検診の様子
戦後もしばらくは、青森県でのトラホーム患者の多さは有名だったとか。
「写真で見るあおもりあのとき」 https://kyodokan.exblog.jp/19735398/


 【参考・引用文献】
佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館、1987年
日本学校保健会編『日本学校保健会百年史』2020年
 日本学校保健会編『日本学校保健会百周年記念誌』2020年
文部科学省ホームページ「我が国における学校保健の変遷と仕組み」 
https://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chousa/kokusai/002/shiryou/020801ei.htm
「新札幌市史デジタルアーカイブ」より『新札幌市史 第3巻 通史3』第七編近代都市札幌の形成/第七章 社会生活の変貌/第四節都市化と市井の不安/三伝染病と保健衛生
https://trc-adeac.trc.co.jp/WJ11C0/WJJS02U/0110005100
「座測定の意義」慶応義塾保健管理センター      http://www.hcc.keio.ac.jp/ja/health/2015/11/abolishment-of-sitting-height-measurement-in-school.html
 木下秀明「身体検査項目『座高』採用理由に関する考察」  『日本体育学会大会号48』1997年
 清水勝嘉「昭和初期 の公衆衛生について―トラホームと失明、癩および寄生虫病」『民族衛生 42(2)』1976年