小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

本庄陸男「白い壁」その1 震災復興小学校とは

【作品】

短編小説。「改造」昭和九年五月号。昭和十年六月、ナウカ社刊の同名の単行本に収録。場所は東京深川の細民街の小学校。杉本は四年生の特殊児童四〇名の担任教師。母親にコルク削りを強要されて学校に来ない富次、母なし子の武夫、二度原級留置きの忠一、眼鏡なんぞ不要だという父を持つ義男など、問題児の家庭はすべて貧窮で親が教育を度外視している。校長は子供たちの不幸を不健全だというだけだが、杉本はしだいに子供たちにせつない愛情を覚える。自分の無力を知ればこそいとおしくてならない。生彩を放つ描写に徹し、不幸の禍根が奈辺にあるかを閃(ひらめ)かせている好短編。保田与重郎をして「批評家としての運命を共にする覚悟を以て賞嘆し得る」作品と言わしめた。(講談社『日本近代文学大事典 机上版』)

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『白い壁』三一書房、1948年

【作者】
本庄陸男(ほんじょう むつお)(明治38~昭和14年・1905~1939)
小説家。北海道当別町生まれ。佐賀県出身の士族の父は明治28年(1895)北海道に渡って開拓農民となった。

睦男は高等小学校卒業後に代用教員を経て16歳で樺太に渡り1年間王子製紙で職工として働いた。上京して青山師範学校(現・東京学芸大学に入学、回覧雑誌などで文学活動を始める。卒業後は小学校教師として勤務するかたわら、同人雑誌に小説を発表。全日本無産者芸術連盟(ナップ)の作家同盟員として童話や教育評論に健筆を振るった。
昭和5年(1930)、教員組合(小学校教員連盟)事件に連座して免職。以後はプロレタリア文学活動に専念した。

深川の明治小学校での教職経験に基づいた『白い壁』(昭和9年・1934)で注目を浴びたほか、亡妻ものや農民の生活を描いたものなどがある。昭和13年(1938)『槐(えんじゅ)』創刊に参加し、歴史長編小説『石狩川』(昭和14~15年・1939~40)を連載、好評を得たが肺結核のため早逝した。単行本に『白い壁』(1935)、『女の子男の子』(1940)、『石狩は懐く』(1939)、『本庄陸男遺稿集』(1964)、『橋梁(きょうりょう)』(1968)など。

 

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本庄陸男

 とうとう癇癪(かんしゃく)をおこしてしまった母親は、削(けず)りかけのコルクをいきなり畳に投げつけて「野郎ぉ……」と喚(わめ)くのであった。
「いめいめしいこの餓鬼
(がき)やあ、何たら学校学校だ。この雨が見えねえか! 今日は休め!」
「あたいは学校い行くんだ」
 富次は狭い台所ににげこんでそう口答えをした。しばらく彼はそこでごとごといわせていたが、やがて破れ障子の間からするりと出てきて蒼
(あお)ぐろい顔をにやりとさせた――「なあおっ母かあ、お弁当があんのに休まれっかい、あたいは雨なんておっかなくねえや」
「ええっ! この地震っ子――」と母親は憎悪
(ぞうお)をこめて呶鳴(どな)ってみたが、すぐにそれをあきらめて今度は嫌味をならべだした。親が子に向って――と思いながらも彼女は、言わずにいられないのである。
「んじゃあ富次、お前は学校の子になっちゃって二度と帰ってくんな」母親はおろおろしはじめた伜
(せがれ)の汚い顔をじっと睨(にら)め「なあ富次、お前の小ぎたねえその面を見た日から、こんな苦労がおっかぶさってきたんだから……よお、帰らなくなりゃあ何ぼせいせいするもんだか!」
 そう言われると子供は今までの勇気がたちまち挫
(くじ)け、そこにきょとんとつっ立ってしまった。
 雨が夜明けからどしゃ降りであることは知っていたが、その時刻が来ると同時に、子供は嫌な仕事をさっさと投げだした。朝っぱらからむり強いされるコルク削りの内職手伝いは、いい加減に子供の心をくさくささせた。そして富次は学校に行きたいと一図に考えるのであった。べつに勉強がしたいなどという殊勝
(しゅしょう)な心ではなかった、ただこの陰気くさい長屋よりも、曠々(ひろびろ)とした学校が百層倍も居心地よかったのだ。(一)

 

■ 作品の背景

 作者・本庄陸男大正14年(1925)、青山師範学校を優秀な成績で卒業し、当時東京一の受験名門校として知られた本郷区(現・文京区)の誠之小学校に勤めますが、後に自ら希望して深川区明治小学校(現在の江東区立明治小学校)へ転勤しました。本作品は、同校での勤務経験をもとに書かれたと言われています。
 ここは前任校とは対照的に、校区内に貧しい人々が多く住んでいるような学校でした。作品冒頭での母と子の言い争いの様子からうかがえるように、「その日暮らし」に近い状況の家庭から通ってくる児童が多くいました。
 そんな教育困難校で、主人公の杉本は、尋常4年生の低脳児学級」(当時の呼称)を担任させられることになりました。

※旧深川区における不就学の多さについては、本ブログ2021年4月6日の記事(山本有三「波」② 尋常夜学校、 https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2021/04/06/204326)で取り上げています。ご参照ください。

 

■ 城砦型に建てられた鉄筋コンクリートの小学校

  城砦型に建てられた鉄筋コンクリートの小学校は、雨の日はみごとに出水する下町の中で、いやに目立って聳(そび)えていた。この一帯は一昔前、震災でぺろり焼け頽(すた)れた。生き残った住民たちはあたふた舞い戻ったのであるが、彼らは前よりもいっそう危かしい家に住まねばならなかった。ただ小学校だけは――さすがに政府の仕事だけあって、じつに堂々とできあがった。たとえばそれは、こんな雨の日でも、子供たちの視力を傷めないためにその採光設備を誇ったりした。それで内部の壁という壁はまっ白く塗られていた。無数の子供らが今朝も喚(わめ)きあってこの建物に吸いこまれる。傘をふりまわしたり、ゴム引マントを敲(たた)きつけたり、――とにかく昇降口は彼らの叫喚に震(ふる)えるのであった。子供たちはそうすることがなぜか嬉しいのだ。しかし教員は反対にますます陰気な顔をしてこの騒ぎを看(み)ていた。朝っぱらから疲れきったように、ズボンのポケットに両手をつっ張ってぽかんとしていた。駈けこんできた子供はそれにぶっつかって、はっとする、そしてそこからきゅうにとりすまし白い壁の教室にのろのろはいって行くのであった。
 この建物の直接的な管理は、いかに義務教育を効果あらしめたか――という責任とともに、すべて月俸二百円なりのそこの校長の肩にかかっていた。師範学校を出ただけの彼が長い年月かかって捷(か)ちえたこの地位は、彼の白髪をうすくし、つねに後手を組まなければ腕が曲って見える危険さえ伴う、それほどの努力の結果であった。それを思うと彼は肩が凝(こ)り荷が重いのである。だが彼もまた最後の望みにこの帝都有数の校長として、せめては最高俸二百四十円なりに辿(たど)りつきたい、それには何をさて措(お)いても――と彼は頭をふりふり考えるのであった――まず第一に校舎を清浄に生命のある限り保たねばならぬ。市会議員はいうまでもなく、教育畑の視学でさえ最初に気づくのはこの校舎である、そしてあとで、しかも楯の両面のごとく教育上の新施設を器用に取り入れること――。校長は生徒を集める朝礼には決ってそれを訓諭した。
「皆さん、皆さんは先生の言いつけをまことによく守るよい生徒であり、またよい日本人でありますぞ。そこで日本の国をよくしようとする皆さんは、忘れずにこの学校をよくしようとします。この学校はたいへん綺麗(きれい)だと賞(ほ)められる――嬉(うれ)しいですね、それは皆さんが一生懸命に掃除をするからだ、掃除の好きなよい生徒がこんなにたくさんいるんですからには、いいですか? この学校が建った時よりもかえってますます綺麗になるわけでしょう? わかりますなあ……おお、わかった人は手をあげなさい」講堂にあふれている子供たちの手がいっせいに彼らの頭上に揺めきだした。校長は眼尻の皺(しわ)を深めてそっと周囲の壁を一瞥(いちべつ)する。子供たちの顔もそれにつれて素早(すばや)く一廻転する。その時老朽に近いこの校長は、たあいもなく満足の微笑を見せ、ひときわ声を高くして「よろしい――」と叫んだ。

 

 「雨の日はみごとに出水する下町の中」「いやに目立って聳(そび)えていた」この鉄筋コンクリート造りの小学校は「震災復興小学校」と呼ばれた学校の一つでした。

 

 「関東大震災」では多くの小学校も罹災したため、「東京市」は復興事業の中で、1924(大正13)年度から1930(昭和5)年度の7年間に、117校もの「震災復興小学校」を建設した。校舎は耐震・耐火性の強い鉄筋コンクリート造りで、デザインは時代の先端とされたドイツ表現主義の影響を受けたものが多かった。また、「復興小学校」のうち52校には「震災復興小公園」も併設され、防災の拠点としての役割も担った。深川区には15校の「復興小学校」が建設され、うち7校(元加賀、八名川、深川(公園名は森下)、臨海、東陽、扇橋、川南)に「復興小公園」が併設された。

 

「写真でひもとく街のなりたち 深川区の〈震災復興小学校〉と〈震災復興小公園〉」
https://smtrc.jp/town-archives/city/fukagawa/p07.html

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作品のモデルとなった深川区立明治・明治第二尋常小学校
(「東京市教育施設復興図集」昭和7年・1932)明治・・・男子校、第二・・・女子校

 小林正泰「関東大震災後の小学校建築ー『復興小学校』の全容と東京市建築局による学校設計」(『東京大学大学院教育学研究科紀要第46巻』2006年)では、「震災復興小学校」の概略と教育的な意義が次のように述べられています。

①鉄筋コンクリート造りがもたらす新鮮なフォルムと、電気・ガス・水洗便所などの近代的設備によって、「新時代」の到来を告げるシンボルの一つとして高く評価された。(特に泰明小学校、常盤小学校などがよく知られている)
②学校設計における教育実践的な観点が導入された結果、特別教室(理科・手工・唱歌・裁縫・図画)の設計において、欧米の新教育の影響が見られ、特に理科教室が重視されている。
屋内運動場(今の体育館)が単なる体操場としてではなく、「青年団、処女会、在郷軍人会」等に利用される地域の公民館的なスペースとして想定されている。
④建設費(帝都復興費小学校建設費)総額5272万4000円、一校当たり約45万円。
費用の四分の一は国庫補助、残り四分の三は市債で調達。※太字は筆者

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現存する震災復興小学校の一つである中央区立泰明小学校
(1999年に東京都選定歴史的建造物に、2009年には経済産業省の近代化産業遺産にも認定されています。錢高組ホームページより)

 下町の一角に威容を誇るこの小学校で、子どもたちはどんな学校生活を送っていたのでしょうか。

その2へ続く

※昨年投稿した記事をもとに、不十分な箇所を書き直していきたいと思っています。