小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

【番外】 有明夏夫『なにわの源蔵事件帳① 大浪花別嬪番付』より「尻無川の黄金騒動」      その2  屎尿汲み取り代金が学校経費に!?

 

NHKアーカイブズより

 

源蔵親分と竹内監事との話が続きます。

「そら、まあ、(屎尿汲み取り)代金のこともおろそかにはでけまへんわなあ。学校でも色々と物入りだっしゃろしー」と持ち掛けてみると、「そういうことだ」
 意外にも監事は素直に頷いた。「西南の役が始まって以来物価は鰻のぼり、一方生徒の数は増えるばかり、実際頭が痛いわ」
「この学校にはなんぼほど生徒がいてまんねん?」
「男子生徒百五十一名、女子生徒百五十二名、それに夜学生徒が男子二十一名、女子が七名おる」
「へえそないにいてまんのか」
(中略)
「学校の費用はいくらあっても足らんのだー夜学となるとランプを欠かすわけにはゆかんが、どう始末しても月に四升の油が要る。この油代がいかほどにつくと思う」(後略)

 監事は学校予算の乏しさから、少しでも高くと屎尿汲み取りをモグリ百姓たちに頼んだ訳を話しました。
 今のように事務職員がいない小学校では、経理部門まで監事と呼ばれる教師が担当していたのでしょう。

肥とり舟(屎尿下水研究会ホームページより)

 毎回、一見落着の後は、源蔵親分のお手柄が「上方新聞」という地元紙(瓦版のようなものだったでしょうが)に掲載されるというのが、この事件帳の特徴です。
 このたびは、次のような記事が載りましたが、関係部分を抜粋してみると・・・

 

 このままでは大阪が大変なことになってしまう、なんとかうまい手は見つからぬものかーこう考えた親方サンは(中略)実にすばらしい着想を思いつきました。すなわち、各家庭の屎尿売却代金をば、小学校の経費に回すという妙計です。
 現在、大阪府下における小学校の経費は、国庫よりの補助も多少はあるものの、その大部分を篤志家の寄付、受業料、学区内集金等に頼っております。このうち、地元の負担である学区内集金について述べれば、 ところによっては戸別割、間口割、宅地の坪数割、竈の数割、その他といった具合にまことにヤヤコシイ有様です。もし、この支出をスッキリと屎尿売却代金一本に絞ることが出来れば、これほど簡便かつ有益な名案はありますまい。知恵者で名の高かったかの太閤サンも、さぞかし地下でビックリしていることと存じます。
(以下略)

 

明治6年に建てられた旧新田小学校校舎(大阪府豊中市WIKIPEDIA

 

    学校経費に関しては  『学制百年史』「三 教育財政」に以下のように述べられており、作中の記述はまず正確と見てよいようです。ただ、「国庫よりの補助」は無きに等しいものでした。

学制下における教育財政
 学制における教育財政の基本的な考え方は、教育は個人の「身ヲ立ルノ財本」であり、各人の立身治産に役だつものであるから、学校の運営に要する経費は官に依頼すべきものではなく、教育を受ける人民みずからがこれを負担すべきであるという原則に立つものであった。この考え方に基づいて学制は、学校経費はまず授業料の形で生徒の父兄がこれを負担すべきであるが、同時に、学校経費のことごとくを授業料でまかなうことは不可能であるから、その不足を寄附金・学区内集金その他の方法によって学区が負担すべきものとし、生徒の「受業料」を中心にした民費による負担を原則としたのであった。

教育費のうち小学扶助金および授業料収入を除く残りはすべて学区が調達した。学区の調達する経費は、学区内集金、寄附金その他の諸入金などの方法によっていたが、その多くの部分は学区内集金により、その他は寄附金によっていた。学区内集金は、学齢児童の有無にかかわりなく戸数に割り当てたり、各戸の収入・反別等に応じて学区内住民に割り当てて徴収された。
しかし、当時の国民の負担能力にとっては過度の負担でもあり、就学拒否・学校破壊などの騒擾を結果し、地租改正や徴兵令などに対する不満とからみあって、政治不安をも招来するに至ったのである。 ※   太字は筆者

 

 

「学制」表紙


   「受業料」は、「学制」では月に50銭または25銭と規定されていましたが、当時の庶民には家計を圧迫する相当な高額で、これを徴収しない府県も多かったとされています。
 地域からの拠出、つまり集金、寄付、積金(利息)などは本作品の当時では全国平均で69.2%と学校経費の7割近くを占めていました。
 裕福な商人などが学校建築費の大半を拠出した事例も中にはありますが、そうしたのはむしろ例外であり、農村では田畑を学校所有としてそこから上がる収入を充てたりしていたところもあったようです。(中村文夫 樋口修資「学制期を中心とした教育財政の制度史」『明星大学研究紀要ー教育学部 第3号』 2013年)
  本作品のような大都市の下町では、集金、寄付などに依拠せざるを得なかったのでしょうが、西南の役による諸物価の高騰は庶民の生活を圧迫しており、学校維持に必要な経費を徴収するのはなかなか難しかったのではないでしょうか。
 そうした状況から生まれた屎尿売却代金」を経費の一部に充当というこの名案(?)が果たして実現したのかどうかは不明です(関係する書物、論文にもこのことに言及したものは未見です)が、学制期の学校経費をめぐる実態の一側面を描き出していることに間違いはないことでしょう。
   なお、学校経費を設置する町や村が負担するようになるのは、「学制」の次に公布された「教育令」明治12年・1879)においてからでした。

 

 

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