小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

【番外】 有明夏夫『なにわの源蔵事件帳① 大浪花別嬪番付』より「尻無川の黄金騒動」 その1 木刀をさげた学校監事

   40年余り前の20代後半の頃、NHKで今は亡き桂枝雀師匠が主人公に扮した『なにわの源蔵事件帳』というドラマを放映していたのをひょんなことから思い出し、図書館で原作を借りてきて読んでいます。

 今回取り上げたのは「尻無川の黄金騒動」。時代は西南の役明治10年)直後、大阪の町なかにおけるし尿の汲み取りをめぐる屎尿取締会所とモグリの百姓との紛争から、不正を働く百姓たちを追及する過程で、「海坊主の親方」こと赤岩源蔵が凶悪な強盗の逮捕につながるお手柄をあげるという話になっています。

  屎尿汲み取り代金を払わない(後の時代とはちがい、当時は肥料にするためにくみ取った農民側が支払っていた)との苦情を会所へ申し立てた小学校へ向かった源蔵・・・。

 

 

「こら、そこで何をしておる!」
とうしろで呼ぶ声がした。振り返れば痩せた禿げ頭の小男が、肩いからせて源蔵をにらんでいる。最初は小使いかと思ったが、目を落とすと、腰に短い木刀を帯びてござる。すると、この御仁が学校監事かいな。(中略)
 通されたのは監事部屋だった。が、二人が席に着いた直後に、受業時間の区切りを告げるらしい太鼓が鳴った。(中略)
 源蔵は正面の壁を見上げた。そこには二枚の額がかかっている。まず右は

 

 第一大区第一、二番小学校
        五等訓導 竹内冶一
 兼第一大区第一、二番小学校
 監事申付候事
   明治十年三月廿六日
   大阪府

   続いて左は

  竹内冶一
 東第十五区小学
 読物教師申付
 勤中帯刀差許候事
  壬申十一月   *明治5年(1872)
 大阪府権知事
  渡 辺  昇

 

■ 「五等訓導兼学校監事」とは

  「訓導」という職名は、明治初期の学制の頃から、戦後間もなく「教諭」に替わるまで、初等・中等学校において長らく正教員の呼称でした。

 この作品の頃は次のように五段階に分けられていました。

 

 学制当初は、名称・等級・給料は各府県ごとにまちまちであったので、明治6年8月に小学校教員の等級をあらためて一等から五等までとし、その給料の基準を、訓導は「五等月給三十円以下十円マテヲ与フ」と定めた。そして、「師範学校卒業生派出規則」を次のように布達し、初任給のときから訓導に任じられるようにした。
 
  教員ノ等級及月給ヲ定ムルハ地方官ノ適宜タルヘシト雖(イエド)モ下等小学科卒業生ハ最初五等訓導上等小学科卒業生ハ最初三等訓導ニ補シ順次昇等セシムルヲ法トス(第7条)
       「港区教育史 第2巻 通史編2」 明治期の教育 上 訓導・授業生とその待遇

  この竹内という教師は訓導の中でも最下等の五等ではありますが、元は伊丹(兵庫県)にあった儒学者・橋本香坡が長らく教頭を勤めた明倫堂という郷校(郷学)で教えていたという設定で、プライドの高い老士族として描かれています。

 ところで「訓導兼監事」とはどういうことでしょうか。
 小学校におけるそうした発令は未見ですが、師範学校や専門学校等においては、明治初期にそういう職名が散見されます。
 その頃は「校長」という職名が定着しておらず、下の論文のように「首座教員」と呼ばれており、この竹内氏もその態度にふさわしく(?)この小学校の「管理者=校長」であるようです。

  一校あたりの教員の数がおよそ二人程度であった明治初期においては「校長」という概念は存在しなかった。教員を統率する「首座(主座)教員」がのちに自然発生したが,学校の維持・管理は学校世話役や学校取締,監事などいわゆる「学校役員」紛が担当していたため,首座は現在でいう「校長」の機能・役割を担う必要がなかった。
 明治10年頃になって,就学人口の増加による学校規模の拡大や教授方式の変化による教場管理の必要性から,学校内部管理が非常に複雑化したため,これを(首座)教員が担当する慣行が各地で成立し,かような教員に対し地域によっては「校長」の呼称を与えるようになった。
     
元兼正浩「明治期における小学校長の法的地位の変遷に関する一考察」『教育経営教育行政学研究紀要』第1号,九州大学,1994

    それにしても、「校長」が木刀を腰にさげて校内をウロウロというのはいかにも不思議な光景ではありますが、明治9年(1876)に廃刀令が出てから間もないその当時にあっては、刀がさせなくなった寂しさを紛らせる人も中にはいたのでしょうか。