小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

谷崎潤一郎「小さな王国」その2  大正期・小学校教師受難の時代

【作者】谷崎潤一郎

大正2年(1913) 27歳の頃



(明治19~昭和40年・1886~1965)東京・日本橋生れ。東大国文科中退。在学中より創作を始め、同人雑誌「新思潮」(第二次)を創刊。同誌に発表した「刺青」などの作品が高く評価され作家に。当初は西欧的なスタイルを好んだが、関東大震災を機に関西へ移り住んだこともあって、次第に純日本的なものへの指向を強め、伝統的な日本語による美しい文体を確立するに至る。1949(昭和24)年、文化勲章受章。主な作品に『痴人の愛』『春琴抄』『卍』『細雪』『陰翳礼讃』など。
(新潮社著者プロフィール https://www.shinchosha.co.jp/writer/2066/


【作品】
大正七年(1918)八月、「中外」に発表
 とりたてて目立つような生徒でもないが、転校生の沼倉はいつの間にか同級生の人望を得てクラスの覇権を握る。「老練」な教師の貝島は彼を操ることでクラスを善導しようとするが、独自の貨幣を発行するなど「沼倉共和国」は貝島の想像をはるかに超えて強大化してゆく。子だくさんの上に病人までかかえ、赤ん坊のミルクさえ買えない状態にある貝島は、やがて現実と沼倉が生み出した幻想国家との見境がつかなくなってしまう。
(中公文庫「潤一郎ラビリンスⅤ少年の王国」解説より) 
※ラビリンス・・・迷宮

大正8年6月 天佑社刊の「ちひさな王国」冒頭部分

■ 文学博士を夢見た主人公・貝島昌吉だったが・・・

 貝島昌吉がG県のM市の小学校へ転任したのは、今から二年ばかり前、ちょうど彼が三十六歳の時である。彼は純粋の江戸っ子で、生まれは浅草の聖天町であるが、旧幕時代の漢学者であった父の遺伝を受けたものか、幼い頃から学問が好きであった為めに、とうとう一生を過ってしまった。――と、今ではそう思ってあきらめて居る。実際、なんぼ彼が世渡りの拙い男でも、学問で身を立てようなどとしなかったら、――何処かの商店へ丁稚奉公に行ってせっせと働きでもして居たら、――今頃は一とかどの商人になって居られたかも知れない。少なくとも自分の一家を支えて、安楽に暮らして行くだけの事は出来たに違いない。もともと、中学校へ上げて貰うことが出来ないような貧しい家庭に育ちながら、学者になろうとしたのが大きな間違いであった。高等小学校を卒業した時に、父親が奉公の口を捜して小僧になれと云ったのを、彼は飽くまで反対してお茶の水尋常師範学校へ這入った。そうして、二十歳の時に卒業すると、直ぐに浅草区のC小学校の先生になった。その時の月給はたしか十八圓であった。当時の彼の考では、勿論いつまでも小学校の教師で甘んずる積リはなく、一方に自活の道を講じつつ、一方では大いに独学で勉強しようと云う気であった。彼が大好きな歴史学、――日本支那東洋史を研究して、行く末は文学博士になってやろうと云うくらいな抱負を持って居た。ところが貝島が二十四の歳に父が亡くなって、その後間もなく妻を娶ってから、だんだん以前の抱負や意気込みが消磨してしまった。彼は第一に女房が可愛くてたまらなかった。その時まで学問に夢中になって、女の事なぞ振り向きもしなかった彼は、新所帯の嬉しさがしみじみと感ぜられて来るに従い、多くの平凡人と同じように知らず識らず小成に安んずるようになった。そのうちには子どもが生まれる、月給も少しは殖えて来る、と云うような訳で、彼はいつしか立身出世の志を全く失ったのである。
 総領の娘が生まれたのは、彼がC小学校から下谷区のH小学校へ転じた折で、その時の月給は二十圓であった。それから日本橋区のS小学校。赤坂区のT小学校と市内の各所へ転勤して教鞭を執って居た十五年の間に、彼の地位も追々に高まって、月俸四十五圓の訓導と云うところまで漕ぎ着けた。が、彼の一家の生活費の方が遙かに急激な速力を以て増加する為めに、年々彼の貧窮の度合は甚だしくなる一方であった。総領の娘が生まれた翌々年に今度は長男の子が生まれる。次から次へと都合六人の男や女の子が生れてから十七年目に、一家を挙げてG県へ引き移る時分には、恰も七人目の赤ん坊が細君の腹の中にあった。
  ※本文は『潤一郎ラビリンスⅤ少年の王国』(中公文庫、1998年)より。以下同じ。下線は筆者。
  

 作中時間を、作品発表の大正7年(1918)とすると、この時点で38歳の貝島昌吉明治13年(1880)の生まれということになります。

明治25年(1892)学校系統図

 高等小学校の4年を終えての進学と仮定した場合、明治28年(1895)前後に東京府下にあった府立の中学校は、東京府尋常中学校(後の府立一中、現在の都立日比谷高等学校)以下3校、私立の中学校が12校という状況でした。中学校進学には本人の学力もさることながら、家庭の経済力のほうが重要な時代でした。
 その代替となったのが、師範学校明治30年以前は尋常師範学校)でした。こちらは、「師範学校令」(明治19年・1886)第9条の規程により、学資は学校から支給するものとされていました。

 初めから小学校教師を志望していたわけではない貝島が、勉強を続けたいためにやむなく入ったのが師範学校でした。

明治30年代の師範学校生(『兵庫県御影師範学校創立六十周年記念誌』1936年

 ※父親が丁稚奉公を勧めたというあたりに、作者自身との類似を感じさせますが、貝島の方は谷崎のような「神童」というほどの才子とは描かれていません。

 以下は細かいことですが、貝島も谷崎の小学校時代の恩師・稲葉清吉先生(『幼少時代』に登場)もどちらも「お茶の水尋常師範学校」の出身となっています。
 「お茶の水」という地名は、古くから文京区湯島から千代田区神田に至る、千代田区神田駿河台を中心とした一帯をそのように呼び習わしていたようです。(Wikipedia
 一方、当時の東京府尋常師範学校明治31年東京府師範学校と改称、東京学芸大学の前身)があったのは「小石川区竹早町」(現在の文京区小石川)で、「お茶の水」一体とは少し離れているように思われるのですが・・・・。

 

■ 貝島の俸給額と小学校教員の置かれた状況

 上のような仮定から、貝島が20歳で小学校の教師(当時は正教員を訓導と呼んだ)になった年を明治33年(1900)としてみます。
 初任給は「たしか十八圓」とありますが、『値段の明治大正昭和風俗史・上』(朝日文庫)によると、同年の小学校教員の初任給は「十~十三円」となっています。
 また、陣内靖彦『日本の教員社会』では、貝島のような師範学校本科卒業生の場合、男子では明治30年代において、「十三円~十六円」という記述があります。
 学校を運営する市町村の財政状況によって、給与水準に違いがあるという時代でしたが、「十八圓」が本当だとすると、さすがに東京だけあって、恵まれた部類の初任給と言っていいでしょう。

 その後、「十五年の間に、彼の地位も追々に高まって、月俸四十五圓の訓導」にまで「漕ぎ着けた」というわけですが、この「月俸四十五圓」というのは、大正時代の初め頃にあっては、下記のグラフが示すように、全国平均の2倍近い極めて高い俸給額に属すると言えます。
 多くの小学校では首席訓導(現在の教頭)ないしは次席訓導の俸給に相当したものと思われます。

 ただ、その頃は大正時代前半の物価の高騰、インフレが各地で発生した米騒動(大正7年・1918)に象徴されるように、庶民の生活を苦しめている時代でありました。

 

 海原徹『大正教員史の研究』は、そのあたりの状況をこう述べています。

 大正元年と七年の物価指数比較で二倍、大正二年と九年の物価比でいえば実に三・二倍になるという物価騰貴にもかかわらず、サラリーマンの賃金はいっこうに上がらなかった。村島帰之の証言では、世界大戦の勃発した大正三年当時の都市サラリーマンの平均月給は三〇円三一銭であったが、四年後の七年になってもこの額は三〇円六八銭とほとんど変わっていない。その間、物価は二倍になっているから実質賃金は半額、(中略)教員大衆の場合、この三〇円という収入はむしろ高嶺の花であり、大部分の人々はそれ以下の低賃金で生活せざるを得ず、文字通り貧窮のどん底で呻吟した。

  貝島の場合、学歴・経歴から見て、どちらかと言うと恵まれたほうの待遇であったと思われますが、「彼の一家の生活費の方が遙かに急激な速力を以て増加する為めに、年々彼の貧窮の度合は甚だしくなる一方であった」というのも、そうした経済的に大変厳しい時代背景があってのことでした。

 

 大正8年(1919)前後の新聞には小学校教員の生活難を取り上げた記事が多く見られ、その頃の大きな社会問題の一つになっていたことがうかがえます。

 また、教員の生活難が師範学校入学志願者の激減という現象を引き起こすとともに、社会における教員の相対的な地位の低下をもたらしていることを指摘する記事も見られます。
 いずれにせよ、小学校教員にとっては物心共に厳しい受難の時期であったと言うことができるでしょう。

○「万朝報」 大正7年(1918.2.26-1918.3.16 )
物価の騰貴と俸給との研究 (一〜十) : 殊に教員の生活に就て
○「大阪毎日新聞」 大正7年(1918.11.23 )
何故に小学教員の死亡率高きか : 文部当局の研究改善を要す
○福岡日日新聞 大正8年(1919.4.24 )
全国各師範校長の決議で教員優遇案建議 : 師範生徒応募者の激減 : 今日の現状では生活の安定が保たれぬ : 俸給を平均五十円位にしたい
○東京朝日新聞 大正8年(1919.6.22 )
教員優遇案を文相に建議 : 時艱を救うべく全国各師範学校長の決議 : 此儘で推移すれば我国の小学教育は廃頽に帰せん
大阪朝日新聞  大正8年(1919.7.16)
喰うか喰えぬの境目 : 小学教員増棒問題に一身を賭していいという : 赤司普通学務局長

大阪朝日新聞 大正8年(1919.12.5)
神戸市の人価引上 : 先生々々と馬鹿にならぬ : 最高月収百六十七円也 : 然し物価との競争には到底も勝てる見込が無い
○報知新聞 大正9年(1920.3.24 )   
中小学校教員の世帯の実情調査 : 都会集中の傾向が生活難の程度を烈しくする
  ※いずれも「神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫」よりhttp://www.lib.kobe-u.ac.jp/sinbun/index.html

報知新聞 1919.7.1 (大正8)

児童教育上の危機
教師尊敬の念薄らぐ
生活に疲れた見窶らしき姿を見て
女教師涙を揮って語る
 生活難のどん底に蠢めき外米に代用食に凡ゆる苦楚を嘗めつつ漸く喘ぎ乍ら生活を続けている小学校教員等の其悲惨なる実際状態に就き本所某小学校の一教師は語る「私は目下四十五円の俸給と三割の臨時手当と二円五十銭の住宅料と計六十一円で一箇月を過して居るが家族は夫婦と老母と二人の女児と都合五人暮し怎うしても必要な家賃十円瓦斯電灯料四円米代四斗五升の二十五円炭醤油味噌代五円副食物代十円を差引くと残る処は僅かに七円しか無い其処から学校への往復の電車代湯銭散髪費等を取り除けば未だ足さなければならぬ斯る有様だから衣服を新調したり娯楽費を得る抔の事は固より不可能で大切な子供等の教育費も出ない始末です(中略)
 斯ういう噂が子供等の耳にも入ると見えて昨今生徒等の教師に対する尊敬の念が些か欠けて来た傾向がありますが是こそ生活難以上の重大問題で小国民の思想発展上国家は莫大な損失を招く物と信じます而も老齢にして一朝職に離れた教員は僅に俸給三分の一の恩給を貰える計り六十歳の腰を曲げて忽ち路頭に迷わねばなりません私達は現在の苦境を救わるると同時に将来の保証をも与えられ度く存じます当局者も父兄等も此問題に対して冷淡なのは何故でしょう互に手を取合って共に泣く様な人情美の発露は既う求められないのでしょうか」と彼女は顔を背けて涙を拭いた
  神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 教育(19-148)

 明治の初め頃、「羽織袴で銭ないものは学校教員か家相観か」という戯れ歌で皮肉られたという小学校教員の貧しい経済生活でしたが、大正の半ば頃に至っても、改善されるどころか逆に彼らを未曾有の窮境に陥れるという有様でした。

 

【参考・引用文献】
谷崎潤一郎『潤一郎ラビリンスⅤ 少年の王国』中公文庫、1998年
海原徹『大正教員史の研究』ミネルヴァ書房、19977年
陣内靖彦『日本の教員社会 歴史社会学の視野』1988年
唐沢富太郎『教師の歴史』創文社、1955年
週刊朝日編『値段の明治大正昭和風俗史・上』朝日文庫、1987年