名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

伊藤整『若い詩人の肖像』④ 「学閥」・「吉田惟孝」

 

 新井豊太郎は私に言った。
ここは広島閥でねえ。いい所はメイケイ会(東京高等師範学校の会)が先に地の利を占めてしまっているものだから、広島は君、九州とか四国とか北海道、朝鮮なんかに根を張っているんだよ
 それは私にとって重要な職業教育であった。官立の高等商業学校はそういう地盤の問題とは直接関係がないらしいが、私は広島高師から京都大学に入った小林象三教授の世話で、同じ広島高師出身の林田課長に紹介された。その林田課長が校長としてここに招聘する人物もまた広島高等師範の出身である。なるほど、閥というものは存在するわけだ。現に今自分もその閥の外縁の一部に外様としてつながっているらしい、と私は思った。
吉田惟孝というのは、東京の成城学園の小原国芳なんかの仲間で、ダルトン・プランの理論家としては、なかなか偉い人物らしいね」と新井豊太郎は私に言った。ダルトン・プランが何であるか私は知らなかった
 吉田惟孝という校長は、五十四五歳に見え、顎のよく張った丸顔で、頭の禿げあがったところに片側の髪を撫でつけ、くぼんだ眼で、部下の教員や生徒の顔をじっと見る癖があった。(中略)しかし最初逢って、そのくぼんだ眼でじっと顔を見られた時から、私は、生まれてからこれまで逢った人物のうちで、この男が一番偉いのかもしれないという、妙なことを考えた。学問とか地位とかいうものと別な、人間としての確かさというか、人間を見定める力の確かさというべきものが、彼のその大工の棟梁じみた風貌に漂っていた。 (中略)
 広島高師の閥で固められた土地という条件をも、彼は積極的に利用したものと思う。林田教育課長彼の後輩である。教頭として使い得るかもしれない梅沢新一郎も彼の教え子であり、かつ後輩である。あとは土地の出身者である英語教師二人と体操教師一人がいるだけで、今後集め得る教員は自分の思うままになる。(中略)
 もし日本の中等教育が公立や官立の形を取らず、私立寄宿学校の形式で行われ、その資金を手に入れることが出来れば、吉田惟孝は私立学校を経営したに違いなかった。五十歳をいくつか過ぎた彼は、この学校を、そのダルトン・プランの系統の理想教育を実現し得る場所として選んだのであった。(四 職業の中で)

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明治35年:1902創設の広島高等師範学校、現在の広島大学教育・文・理学部の前身)

 

■ 学閥
   

 学閥(がくばつ)とは、特定の職域や組織において、ある学校の出身者同士が形成する校友組織や派閥互助組織。その領域において大きな勢力を発揮することも多く、有力な学閥に属している者は組織の中で優遇されることも多い。出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

   中等学校の増設とそれに伴う教員の需要増から、二番目の高等師範学校として、広島高等師範学校が創立されたのは明治35年(1902)のことでした。
  
 明治39年(1906)に第1回の卒業生を出した後十五年を経過した大正十年頃から、同校出身の中学校長が出現し始めました。

 大正十四年には、早くも全中学校長の10パーセントを広島高等師範学校卒業生が占め、以後四年間に5パーセントの割合で校長シェアを広げていった。その結果昭和十二年には、全国の中学校長の25パーセントを広島高等師範学校の卒業生が占めた。地域別にみると関東地方の中学校長シェアがやや低く、九州・沖縄地方で高いのを除き、地域的な偏りは小さい。(『尚志会創立八十周年記念誌』)  

 

 

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 ちなみに、本作品の時代背景となっている大正十四年時点では、中学教員全体のシェアで北海道・東北地域では約7%と少ないのですが、同じ年の中学校長シェアを見ると約十五%で、地域別では最も高い数値を示しています。

 

 中等学校教員の世界では、古くから東京高等師範学校明治19年:1886創設、同窓会は「茗渓会」)東京帝国大学明治19年:1886創設、卒業生の派閥を「赤門派」と呼んだ)が二大派閥でした。
 そこへ新設の広島高等師範の卒業生(同窓会は「尚志会」)が勢力を伸ばしてきたというのが、大正時代の後期でした。
    「いい所はメイケイ会(東京高等師範学校の会)が先に地の利を占めてしまって」いて「広島は君、九州とか四国とか北海道、朝鮮なんかに根を張っている」というのは、必ずしも先入観にもとづくものではなく、上の引用の数値などから概ね当たっていると思われます。
 先発の東京高師、東京帝大の卒業生が好んでは赴任したがらない地域へ、後発の広島高師の卒業生が進出した(あるいはそうせざるをえなかった)のでしょう。

 

 教育委員会制度のなかった戦前においては、校長の権限が今とはくらべものにはならないほど大きいものでした。
 そのあたりを研究者は次のように述べています。  
  

 第二には,戦前の教員の給与,人事は校長の自由裁量により決定されていたため 、数少ない「優良」な教員とされる帝大,高師の卒業生を各学校が確保しようとした結果,学歴による格差が形成されたと考えられる。
 例えば,ある広島高師卒業生は次のように述べている。
 

 各学校の教員は,その学校の校長が自分の力量で採用したものです。給与を決めるのも,ボーナスの額をきめるのも,すべて校長の裁量でした。ボーナスなど,勤務成績の善し悪しで随分差別があったとのことです。(記念誌『岡山 尚志』 編集委員会1989 ,16頁)
   (山田浩之「戦前における中等教員社会の階層性― 学歴による給与の格差を中心として ―」、教育社会学研究第50集、一九九二年)

 

 小樽市立中学校で、その後、校長の吉田惟孝が広島高師の後輩を次々と呼び寄せ、尚志閥をつくったかどうかは不明ですが、それをしようと思えばできる手腕の持ち主であったことは確かなようです。

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明治39年3月卒業の広島高等師範学校第1回生、赤枠内が当時27歳の吉田、立派な髭を蓄えています。『広島高等師範学校創立八十周年記念誌・追懐』より)

 

■ 吉田惟孝の生涯

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 「となみ野ストーリー」* 第63回.学生の自主性を大切に考えた男

・師弟の親愛を育む教育を目指す
 鹿児島や熊本、北海道などで、学生の自主性を重んじるドルトン教育の実践・普及に尽くしたのが吉田惟孝(よしだただたか)です。明治12年に東礪波郡南般若村東石丸(現在の砺波市東石丸)で生まれた吉田は、自宅の蔵で窓からわずかに射す光で勉強し、同28年に富山県師範学校(現在の富山大学教育学部)へ入学します。
 明治32年に同校を卒業した吉田は、東礪波郡立井波、出町各高等小学校の訓導、明治34年には21歳で太田尋常小学校の校長に就任します。「教師と生徒は軍の上官と兵卒の関係と似ている。これで師弟間の親愛が十分に成り立つだろうか」と、彼はそれまでの旧態依然とした教育気風に疑問を抱きます。
 ここから一念発起した吉田は、同35年に廣島高等師範学校(現在の広島大学教育学部)に入学します。卒業後は新潟の高田師範学校、大阪の池田師範学校の訓導を経て、同43年に鹿児島県女子師範学校の主事となりました。そして大正6年、同校の校長に就任、当時の良妻賢母主義に根ざす教育に強く抵抗をみせました。
・「世界一」の自学授業を目指す! 
 大正中期に提唱された「ドルトン・プラン」とは、教師が講義して教え込む一斉授業ではなく、生徒自らがプログラムを作り、設定した学習内容を参考書などで調べて研究し、理解するものです。大正9年、熊本第一高等女学校の校長に就任した彼は、早速女子教育の改革に着手します。こうした教育革新の波はたちまち全国に広まり、各地から見学者が押し寄せました。併せて彼は保護者に対して自身の思いを説き続けますが、なかなか受け入れられませんでした。
 大正14年4月、失意のまま熊本を後にした吉田は、小樽や福井でもドルトン教育の実践に取り組みます。そして昭和16年3月末日付で退職、42年の教員生活に終止符を打ちました。退職後は故郷へ戻った彼は、南般若村議、東石丸区長などをつとめ、同19年2月に66年の生涯を閉じました。  
    http://www.e-tonamino.com/column/story/story_detail.jsp?userid=000000&id=5533

  

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 吉田には、「ダルトン・プラン」についての何冊かの著書がありますが、大正後期から昭和初めころの我が国の教育風土には、なかなか受け入れてもらえなかったようです。

 

*「となみ野ストーリー」

 『TSTチャンネルガイド』内で、平成13年6月号から同19年3月号まで連載。
 となみ野で生まれ育った偉人・57名の生涯を、一話完結の読みものとして掲載しました。地域に根を張って活躍された方、日本・世界を舞台に活躍されたみなさまの生涯を通して、故郷・となみ野に誇りを持ってもらうことを願い、その方々の知られざるエピソードや功績・実績などをまとめました。http://www.tst.ne.jp/chiiki-koken/tonaminostory.html 

 

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(小原国芳、明治20~昭和52年:1887~1977、広島高等師範・京都帝国大学卒、大正期、成城小学校での実践をもとに「全人教育」を提唱。玉川学園の創設者)

 

  広島高等師範では創設から大正10年まで各道府県の地方長官(県知事)の推薦による「薦挙生」の制度(推薦制度)を設けていたため、まさに全国各地から学生が集まっていました。

  四十数年前に私の入学した教育学科(31名)では、もちろん西日本出身者が8割以上を占めていましたが、中には小樽潮陵出身のK君や富山出身のKさんなどがいたことを思い出します。