名作に見る明治・大正の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

大庭みな子『津田梅子』③ ー女子英学塾の評判ー

 ブリンマー時代の梅子の人望と、その後の世界各地での風評がその根底にあると想像するが、次々と信じられない額の寄付がアメリカの友人たちから寄せられ、半年後にはフィラデルフィア委員会からの送金で、元園町一丁目四十一番地の醍醐忠順侯爵の旧邸を買い受けた。
 生徒数は一九○一年三月には三十余人、一九○七年には百四十人になった。ろくな広告もないままに口伝えで女子英学塾の名は全国に聞こえ、目醒めた若い女性がたちが将来を夢見て梅子の門を叩いたのだ。彼女たちはハイカラとは凡そ正反対な地味な梅子と英学塾の雰囲気に唖然としたという。
 一九○四年には専門学校の認可を受け、翌一九○五年に教員無試験授免の許可を得た。これで卒業生は日本で最初に女子の英語教員としての職場を得る特典を得た。専門学校なってから梅子は初めて月25円の手当を塾から得た。(第九章 創る)

 

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麹町区五番町の英国大使館隣接の地に移転した校舎、関東大震災による火災で焼失。 https://www.tsuda.ac.jp/aboutus/history/index.html

 

■ 無試験検定とは
   「一九○五年に教員無試験授免の許可を得た」とありますが、この「無試験検定」というのは、「特定の資格がある者に対して、試験をしないで検定を受けた扱いをすること」と辞書にあります。
 当時の中等学校教員(中学校・高等女学校・師範学校)の養成と資格取得について簡単に整理してしておきたいと思います。
(1)目的学校による養成・・・高等師範学校、女子高等師範学校、臨時教員養成所
(2)検定による資格取得
  ①無試験検定(出願者の提出した学校卒業証明書・学力証明書等を通じて判定する間接検定方式)
   ○指定学校方式・・・官立高等教育機関帝国大学、高等学校等)卒業生について検定する。
   ○許可学校方式・・・公私立高等教育機関の卒業生について検定する。
    哲学館(東洋大学)、國學院國學院大学)、東京専門学校(早稲田大学)等
   ②試験検定(出願者の学力・身体・品行を試験によって判定する直接検定方式)  

文部省師範学校中学校高等女学校教員検定試験(文検)

 女子英学塾は上記(2)の①「許可学校」の一つに加えられたということになります。

 

■ 女子英学塾の評判
 明治20年代の後半あたりから、「上京遊学ブーム」が高まり、それに合わせるように学校情報を載せたガイドブック的な「遊学案内」が多数出版されるようになりました。
 

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    明治39年(1906)に出版された『実地精査 女子遊学便覧』(中村千代松編 女子文壇社)には女子英学塾についてのユニークな解説が載っています。
  

 文部省認可の専門学校で入学程度は高等女学校卒業以上、本塾に学ぶものは余程頭脳の健全な学識の豊富な人でなければ到底他の塾生と歩調を一にして進むことが出来ないさうだ、教授法は現教授ミス、ハーツホアンが同塾から特に派遣されて伊太利で学び得た新式の方法を用ひて居る、現在生徒百七十名中三十名は寄宿で他は通学、既に高等女学校を卒業し多少知育も徳育も完全した人のみであるから、生徒の監督や家庭との連絡などに特に力を注ぐと云ふ様なことはない、又寄宿舎も舎生は皆な読書勉学に忙殺されて居るから、割烹実習とか家族的生活とかに時間を費やすことはせぬ、要するに此塾に這入つたものは徹頭徹尾読書の人とならねばならぬから、頭の鈍い人は無論不適当であるが、体質の悪い人も亦た不可ない兎に角幾多英語を教ふる私立学校の中で無試験で高等女学校師範学校の教員免許状を得る資格を有するは唯本塾をのみであるのに見ても如何に学課の秩序あり組織あり又高尚であるかが分かる、卒業生は前後三回都合二十一名であるが、其の傾向を見るに自ずから二つに分かれる、一つは学問に依って独立生活を送らうとするもので、大抵府下の官公立女学校に教鞭を執り、一つは他日交際社会に雄飛しやうとするもので上流社会の子女が多い。(新字体に改めました)

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■ 初期の卒業生

 明治三十年代後半から明治末あたりの女性の社会進出といえば、「女性に対して、産婆、女医、看護婦、電話交換手、速記者、婦人記者、事務員などといった新しい職種が開かれつつあったものの、女性の就業率は依然として非常に低く、明治期の女性の職業は女性教員と「女工」にほぼ限られていた」(ママトクロヴァ・ニルファル「女子英学塾における教育実践の成果に関する一考察」、早稲田教育評論 第 25 巻第1号)というような状況でした。
 こうした時代に同塾は明治36年(1903)に第1回の卒業生8人を送り出しています。そのうち英語教授にかかわった人は7名(3名が女学校教員)でした。
 

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 第10回(明治45年)までに、116名の卒業者を出していますが、女学校の教員を務めた人が61人でした。(上記論文) 
 その割合は、同じく高等女学校などの英語教員を輩出していた日本女子大学校や青山女学院と比べても格段に高い数字となっています。
 卒業生の証言に拠れば、梅子は塾長室の壁に掛けられた日本地図に、卒業生の就職先を示す「日の丸の旗」をピンでとめていたということです。梅子の卒業生に対する期待と愛情がうかがえるエピソードではないでしょうか。
 梅子の教育理念は、こうして着々と成果となって現れ、女子英学塾は開校後数年の間に、上の「遊学案内」に見られるような高い評価を得ていったのでした。

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(梅子は塾長室の地図に赤い印をつけて卒業生の就任地を確認していました。勤務先はおもに高等女学校でした。https://www.tsuda.ac.jp/aboutus/history/index.html )

 

現在の津田塾大学

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小平市のホームページにも紹介されています。
    https://www.city.kodaira.tokyo.jp/kurashi/001/001162.html

 

# 次回以降は「代用教員」をテーマに、正宗白鳥の作品を取り上げようと思います。