小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

大庭みな子 『津田梅子』② ―女子英学塾開校―

■ 女子中等教育の開花と進展

 梅子が目指した女子の高等教育が普及するためには、前段階として女子中等教育の普及が必要でした。
 まず、高等女学校を初めとする女子の中等教育について、『学制百年史』によって大まかに見ていきたいと思います。

 

 文部省や府県においていまだ女子中等教育を充実させることができなかった時期に、女子中等教育に先鞭をつけたのはキリスト教主義の女学校であった。一般に発足当初の女学校は規模が小さく、個人の住宅などを校舎に充てたものが多く、私塾的な形態をとっていた。東京では桜井女学校、立教女学校、英和女学校などがキリスト教主義の女学校として創立された。全国の都市についてみると横浜のフェリス和英女学院、ミッションホーム、ブリテン女学校、長崎の梅香崎女学校、活水女学校、大阪の照暗女学校、梅花女学校、京都の同志社女学校などが明治三年から十三年ごろまでに創設された。これらの女学校の多くは英米婦人による英語教育を通じ、キリスト教に基盤をおく欧米の新しい人間観や社会観を若い女性に培った点で歴史的意義は大きかった。

(「明治初期の女子教育」ー私立の女学校ー)

f:id:sf63fs:20190426152531j:plain

  (教壇に立っているのは、横浜共立学園(当時:偕成伝道女学校)2代目校長スーザン・プラネット(横浜開港資料館所蔵)

https://www.christiantoday.co.jp/articles/15316/20150213/yokohama-kaikou-shiryokan-girls-be-ambitious.htm

 一方で、公立の女子中等教育機関については次のような展開が見られました。

 明治三十年代の初頭には、諸学校制度の改革を行なったが、その際に、高等女学校に関してもこれを独立の学校令によって規定し、中学校令から分離させることとした。三十二年二月八日には、従来の高等女学校規程を改めて、新たに「高等女学校」令を公布した。(中略)
    高等女学校令制定について樺山文相は、三十二年七月の地方視学官会議において、女子高等普通教育に関して次のように説明した。高等女学校は「賢母良妻タラシムルノ素養ヲ為スニ在リ、故二優美高尚ノ気風、温良貞淑ノ資性ヲ涵養スルト倶ニ中人以上ノ生活ニ必須ナル学術技芸ヲ知得セシメンコトヲ要ス。」ここでは、女子の高等普通教育が中流以上の社会の女子の教育であり、その特質がいわゆるのちの「良妻賢母主義」の教育にあることを明らかにしていた。

(二高等女学校令の制定)

 女子に難しい学問は要らないという伝統的な「良妻賢母主義」の教育観が基底にあったことがわかります。
 そういう考え方から、女学校も地方にあっては、明治末から大正・昭和にかけて実科高等女学校とか裁縫女学校という形態が多く見られました。
 例えば、明治末頃、実科高女の裁縫科の時間数は高等女学校の約4倍で、カリキュラム中の40~50%を占めていたということです。(稲垣恭子『女学校と女学生』中公新書
 これらの学校では、男子の中学校で重要視されていた英・数・国・漢・理などの授業は比較的少なく、その代わりに裁縫・家事が置かれていました。

f:id:sf63fs:20190426152927j:plain

 秋田県能代港町立能代実科高等女学校 裁縫室 (1916:大正5)http://historyjapan.org/educational_policy_2

 

■ 女子英学塾開校

 高等女学校の数が増えてくるにつれ、女子の高等教育機関の必要性が叫ばれてきます。
 しかし、明治三十年の時点において、女子高等師範学校(後の東京女高師、現在のお茶の水女子大学)一校があるのみでした。
 この学校は、言うまでもなく高等女学校の教員養成のための学校であり、梅子の望むような学校ではありませんでした。
  

f:id:sf63fs:20190426153701j:plain

(女子師範学校―女高師の前身―明治23年:1890、本科卒業生https://rnavi.ndl.go.jp/kaleido/entry/jousetsu148.php

 女性に高等な教育は有害無益であると考えられていたそんな時代環境でしたが、梅子の志に賛同する有志の協力を得て、「女子英学塾」の設立願い東京府に提出されたのは明治33年(1900)7月のことでした。
 設立願に添えられた規則には梅子の教育方針が盛り込まれていました。

 

第一条 本塾は婦人の英学を専修せんとする者、並に英語教員を志望する者に対し、必要な学科を教授するを目的とす。但し教員志望者には文部省検定に応ずべき学力を習得せしむ。
第二条 本塾の組織は家庭的の薫陶を旨とし、塾長及び教師は生徒と同居して日夕の温育感化に力め、又広く内外の事情に通じ、品性高尚に体質健全なる婦人を養成せんことを期す。但し生徒の都合により特に通学を許可することあるべし。 

 なお、この年は女子美術学校(現在の女子美術大学)、吉岡弥生東京女子医学校(現在御東京女子医科大学)が設立された年でもありました。
 さらに翌年には成瀬仁蔵日本女子大学(現在の日本女子大学)の設立を見ています。
 
   こうして誕生した梅子の女子英学塾は、麹町区(現・千代田区)一番町十五番地にあった建坪83坪の借家で、教室として六畳二間が充てられました。開校時の塾生は十人でした。
 
      f:id:sf63fs:20190426154142j:plain


山崎孝子『津田梅子』(吉川弘文館 人物叢書)より

 

#   現役時代、20年余りの間、学級担任をしていました。その間8回、卒業生を送り出しています。人数にすると、三百数十人でしょうか。その中に一人だけですが、津田塾に進んだ人がいました。

   私が母校に勤務していた30年近く前のことで、私たちの地域から東京の私大へという女子は少なかった頃でした。

  そのIさんは勿論成績優秀(特に英語が)で、早くから津田塾と志望を固めていたようでした。

  綾小路某ではありませんが、「あれから三十年!」

   書きながら、ふと平成の初めの頃のことを思い出してしまいました。