「二十四の瞳」② 「女学校の師範科を出た正教員のぱりぱり」は自転車に乗って現れた!
道みちささやきながら歩いてゆく彼らは、いきなりどぎもをぬかれたのである。場所もわるかった。見通しのきかぬ曲がり角の近くで、この道にめずらしい自転車が見えたのだ。自転車はすうっと鳥のように近づいてきたかと思うと、洋服をきた女が、みんなのほうへにこっと笑いかけて、
「おはよう!」
と、風のように行きすぎた。どうしたってそれは女(おなご)先生にちがいなかった。歩いてくるとばっかり思っていた女先生は自転車をとばしてきたのだ。自転車にのった女先生ははじめてである。洋服をきた女先生もはじめて見る。はじめての日に、おはよう! とあいさつをした先生もはじめてだ。みんな、しばらくはぽかんとしてそのうしろ姿を見おくっていた。全然これは生徒の敗けである。どうもこれは、いつもの新任先生とはだいぶようすがちがう。少々のいたずらでは、泣きそうもないと思った。
「ごついな」
「おなごのくせに、自転車にのったりして」
「なまいきじゃな、ちっと」
男の子たちがこんなふうに批評している一方では、女の子はまた女の子らしく、少しちがった見方で、話がはずみだしている。
「ほら、モダンガールいうの、あれかもしれんな」
「でも、モダンガールいうのは、男のように髪かみをここのとこで、さんぱつしとることじゃろ」
そういって耳のうしろで二本の指を鋏(はさみ)にしてみせてから、
「あの先生は、ちゃんと髪ゆうとったもん」
「それでも、洋服きとるもん」
「ひょっとしたら、自転車屋の子かもしれんな。あんなきれいな自転車にのるのは。ぴかぴか光っとったもん」
「うちらも自転車にのれたらええな。この道をすうっと走りる、気色(きしょく)がええじゃろ」
(中略)「映画ありき クラシック映画に魅せられて」より、1954年木下恵介監督作品(女先生:高峰秀子)
――こまったな。女学校の師範科を出た正教員のぱりぱりは、芋女出え出えの半人前の先生とは、だいぶようすがちがうぞ。からだこそ小さいが、頭もよいらしい。話があうかな。昨日、洋服をきてきたので、だいぶハイカラさんだとは思っていたが、自転車にのってくるとは思わなんだ。困ったな。なんで今年にかぎって、こんな上等を岬へよこしたんだろう。校長も、どうかしとる。――
と、こんなことを思って気をおもくしていたのだ。この男先生は、百姓の息子が、十年がかりで検定試験をうけ、やっと四、五年前に一人前の先生になったという、努力型の人間だった。いつも下駄ばきで、一枚かんばんの洋服は肩のところがやけて、ようかん色にかわっていた。子どももなく年とった奥さんと二人で、貯金だけをたのしみに、倹約にくらしているような人だから、人のいやがるこのふべんな岬の村へきたのも、つきあいがなくてよいと、じぶんからの希望であったという変かわり種だった。靴をはくのは職員会議などで本校へ出むいてゆくときだけ、自転車などは、まださわったこともなかったのだ。しかし、村ではけっこう気にいられて、魚や野菜に不自由はしなかった。村の人と同じように、垢をつけて、村の人と同じものを食べて、村のことばをつかっているこの男先生に、新任の女先生の洋服と自転車はひどく気づまりな思いをさせてしまった。
■ 「女学校の師範科を出た正教員のぱりぱり」は自転車に乗って現れた
これまで、岬の分教場に着任したのは、その多くが「芋女出え出え(出たばっかり)の半人前の先生」だったとあります。この「芋女」というのは大正9年(1920)に、島における唯一の高等女学校として設立された草壁町外4ヶ村組合立小豆島高等女学校(現在の香川県立小豆島高等学校)のことだと思われます。
大正末期から昭和初期にかけての農村の疲弊から、小学校を管理運営する町当局は財政が苦しく、少しでも教員の給与を低く抑えようと、高等女学校を出たばかりの代用教員を雇っていたのではないでしょうか。
それに対して、今度の大石先生は「女学校の師範科を出た正教員のぱりぱり」だということで、検定上がりの男先生(木下恵介監督作品では笠智衆が演じた)は気を重くしています。
さて、この「(高等)女学校の師範科」というのがどうも気になって色々と調べてみました。高等女学校には、「専攻科」や「補習科」を設けたところはあったようですが、「師範科」は聞いたことがありません。(新潮文庫の解説は「女子師範学校出」としています)
そこで、手がかりを「大石先生のモデル」になった人物に求めてみました。
地元の研究者は、大石久子先生のモデルは3名いたとしています。(四国学院大学文学部教授 須浪敏子氏)
1 田浦分校で教職経験のある作者・壺井栄の妹である岩井シンさん
2 高松出身で、壺井栄が勤めていた坂手の郵便局に近い坂手尋常高等小学校に勤めていた森 静江さん
3 田浦分校で昭和5年から昭和9年まで勤務していた中村千栄子さん
(様々な条件から2の森さんが本命視?されているとか・・・)
※「ぱりぱり」生きがよく、張りのあるさま。また、そのような人。「ぱりぱりな(の)新人」「ぱりぱりの江戸っ子」(小学館デジタル大辞泉)
上記3人のうち、森さんと中村さんは私立明善高等女学校(高松市にあった。現在の英明高等学校の前身)のご卒業です。
「香川県近代教育史年表」には明善高女の設立について、次のように記されています。
大正6年(1917)
3・15 私立明善高等女学校、高松市天神前に創立(4月13日開校式・校長山川波次)(本科・専攻科・師範科を設置)。
(高松市史年表)(https://www.library.pref.kagawa.lg.jp/know/local/local_3006-2)
また、「全国高等女学校実科高等女学校ニ関スル諸調査」(大正13年・文部省普通学務局)では、「師範科」という名称はありませんが、同校の「補習科」卒業生52名のうち、21名が卒業後に教職に就いたと記載されていますので、大石先生が「女学校の師範科を出た正教員」(但し、尋常小学校本科正教員と思われます)という設定は、あながち作者の思い違いとは言えないようです。
※「師範科」は学校独自の名称らしく、文部省などの統計には出てきません。
田中智子「第十四講 高等女学校の発展と『職業婦人』の進出」(筒井清忠編『大正史講義・文化篇』ちくま新書、2021年)には、「高等女学校は、その時々の社会のニーズを吸収しうる人材養成機関とみなされた。(中略)高等女学校の補習科(修業年限二年以内)は、各地の師範学校では供給しきれず不足状態にあった小学校教員の養成を行うこともあった」とあり、この場合もその一例と見ることができるではないでしょうか。
■ 自転車と洋装ー女教員の洋装化ー
大正から昭和にかけて、自転車が普及していく過程を分かりやすく解説しているサイトがありました。
大正時代には20代以降の女性が自転車に乗る機会はほとんどなく、急を要する産婆さんや荷物運搬のために商店のおかみさんらが乗るくらいであった。
昭和初期は不況にも関わらず、自転車の販売は順調に伸び、販売合戦も熱を帯びていた。製造会社代理店による小売店向けの景品付キャンペーンが盛んに行われ、販売台数に応じて抽選本数が小売店に与えられた。景品は「自転車」「桐たんす」「指輪」「かばん」「時計」など実用品が多かった。(中略)
自転車の保有台数が大正9年(1920年)は200万台であったのが、5年後には2倍の410万台にまで増加した。
昭和の時代に入ると、女性の乗輪に対して違和感が消えつつあるときであったので、女性を新たな市場開発の場とした。
「自転車文化センター」ホームページ、「自転車から見た戦前の日本」http://cycle-info.bpaj.or.jp/?tid=100129
颯爽と自転車乗って現れた新任の女先生を見た女児たちは「うちらも自転車にのれたらええな」と言いますが、村のおかみさんたちは「ほんに世もかわったのう。おなご先生が自転車にのる。おてんばといわれせんかいな」と少しばかり驚くやら呆れるやら。
何気ない描写ではありますが、時代はちょうど大正から昭和へという時代の転換期にあったことが読み取れる箇所となっています。
ところで、子供たちにとっては「洋服をきた女先生もはじめて見る」とあるのですが、いったいそれまでの女性の先生たちの服装はどうなっていたのでしょうか。
佐藤秀夫編『日本の教育課題2 服装・頭髪と学校』(東京法令出版、1996年)には、「教員や児童への服装規制」の中で、大まかにその変遷が述べられています。
小学校における体操・遠足など活発な活動の重視などを契機にして、1900年代以降(明治30年代後半以降)男性教員の洋装化が進行し始めた。女性教員の場合も、同じく1900年代から体操指導の必要上「女袴」の着用が指示され、1920代後半(昭和初年以降)ごろからはスーツ型洋服が基準として示されるようになった。
昭和初期、女子教員の洋装化が教育界でも議論されていた頃、東京のデパートで「職業婦人洋装陳列会」なる展示会が催されていました。
東京市女教員修養会では小学校女教員の服装は洋服に限ると、これが実現の第一階梯としてその標準型を中心とし、併せて各種の職業婦人服をも蒐(あつ)め、九月十二日より九日間、上野松坂屋で陳列会を催し、一般に婦人服選定の一助とした。
スリーピースのスポーツドレス、ハーフコートとスカートは紺ウールポプリン地、白富士絹ブラウス(二十七円) 「アサヒグラフ昭和4年9月18日」
(「ナカコズクラフトズウェブロ」昭和前半期のあれこれ、http://nakaco.sblo.jp/article/35410430.html)
昭和4年(1929)当時、女性の尋常小学校本科正教員の平均月俸は50.5円(男性は71.8円、「日本帝国統計年鑑第55回」による)でした。月収の半分強という高価な洋服ではなかなか浸透しなかったのも無理はありません。
農村部においては洋装化の進行はさらに遅かったものと見られます。卒業写真などを見ていくと、男子教員は洋服、女子教員は和服に袴といった姿が長らく見られ、女子教員の洋服姿が見られるのは昭和10年代(1935年以降)に入ってからのことです。
上の写真はいずれも筆者の母校である兵庫県・社町立社小学校(現在は加東市立、郡内・市内で最大規模の学校でした)の「創立百年誌」(昭和48年、1973)からです。