小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

三浦綾子「銃口」その3 中等学校進学と補習授業

 去年の十月頃から、中等学校に行く生徒たちに補習が始まった。それは、六年生のどのクラスも同じだった。男子も女子も、真剣に勉強した。放課後の二時間ほどの時間だった。坂部先生はその補習授業を始める時、クラスの一同にこう言った。
「中等学校に行く友だちのために、明日から補習授業を始めるが、もし高等科に進む者たちや、六年生で学校を卒(お)える者たちの中に、補習授業を受けたい者がいたら、残って勉強してもいいぞ。先生はこのクラス全員の者に力をつけてやりたいと思っている。だから遠慮せずに残ってもいいぞ」
 高等科へ進む五、六人が残ることになった。しかし他の者は、
「勉強しても、上の学校に行けないしなあ」
 と言ったり、受験志望者への気兼ねから、中に入らない者がたくさんいた。
 旭川の冬は短い。あの日は確か十二月の十日前後だった。太陽は四時前に沈んでしまうので、三時を少し過ぎると教室はもう薄暗く、みんなは家から持ってきたロウソクを銘々の机の上に出す。ロウソクを点すと、みんなの影が天井や壁に映って、何か無気味だった。だがそんな不自由な中で共に勉強すると、昼とちがった親しみが湧(わ)いた。一つの連帯感が生まれるからだ。(「お別れ会」)

 

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昭和3年旭川市立大成尋常高等小学校(『旭川』民衆社出版部、1928)
作者・三浦綾子の母校で作中では「大栄尋常高等小学校」となっている。

 竜太が六年生になったのは昭和4年(1929)のことでした。
 昭和4年と言えば、この年の10月にアメリカを震源地として、世界中に波及した大恐慌の影響がわが国にも及び、翌昭和5年から6年にかけて日本経済は危機的な状況に陥って、後に「昭和恐慌」と呼ばれました。
 そんな中、中等学校(中学校、高等女学校など)の入試制度について、昭和の初めから文部省は改革を進めていました。

■ 昭和不況の中で入試制度改革
 

中等学校入学者選抜制度の改革動向
 大正後半期以降中等教育への進学希望者が増大の一途をたどる一方で中等学校の増設や規模拡大がこれに即応し得なかったことと、学校数の増加に伴う学校格差の発生とによって、入学試験競争が激しくなってきた。小学校児童の過度な受験勉強や小学校での補習授業の公然化などが社会問題化し、文部省は昭和初期からその是正方策に取り組むこととなった。
 昭和二年十一月中学校令施行規則を一部改正して中学校における「試験」自体を廃止して「考査」とし、その一環として従前の入学試験を、小学校最終二学年分の学業成績などについての小学校長の報告書、口頭試問による人物考査、及び身体検査の三つから成る「入学考査」に改めた。この小学校長からの報告書は「内申書」と通称された。
 しかし入学試験の全廃を意味するこの改革は、必ずしも円滑に実施されなかった。四年十一月文部次官通牒により人物考査の際「必要アル場合ニ於テハ筆記試問ノ方法ヲ加フルヲ得ルコト」となり、事実上筆記試験による入学者選抜が復活した。  

※下線は筆者
文部科学省「学制百二十年史」 第二節 中等教育/臨時教育会議等と中等教育の改革
https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318242.htm

 

 学科試験の廃止(口頭試問は可)、内申書及び人物考査の重視などの思い切った施策は、中等学校進学希望者に対する受験準備教育が過熱化し、小学校教育の現場に種々の弊害を生じさせているとの認識から実施されたものでした。
 昭和4年1月に出された普通学務局長名の通牒では、「始業前や放課後の補習(復習)」をやめること、「実力試験」「模擬試験」等を児童が受験しないように求めています。
   こうした通牒が出されるに至った背景について、『兵庫県教育史』(兵庫県教育委員会、1962)はこう述べています。

 この通牒によってみるに、当局の禁止令にも関わらす、小学校では補習とか復習の名において、早朝あるいは放課後遅くまで準備教育が行われていたことがわかる。また実力試練会とか模擬試験の会を催して、手数料を稼ぐテスト屋も出現してくるのである。受験準備書の出版社が巨万の富を築き、小学校教員がアルバイトとしての家庭教師に精を出すのもこのころからで、内申書にからんで、父兄から担任教師への贈り物が問題となってくるのも昭和期に入ってからである。(第6章 昭和不況期の教育)

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昭和初期中学校の入学風景 
兵庫県立第二神戸中学校(現・県立兵庫高等学校)『兵庫県教育史』より


 そんな中、良太は地元の北海道庁旭川中学校(現・旭川東高等学校)に一番で入学しました。(「お別れ会」)同校は明治36年(1903)に札幌、函館、小樽についで道内4番目の中学校(当初の校名は庁立上川中学校)として設立された伝統校です。

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北海道庁旭川中学校(『旭川』民衆社出版部、1928)

 中学校を受験しようとする六年生が補習授業を受けたり、家庭教師について勉強したりしたのは、この頃に始まったことではありませんでした。
 本ブログでも、2021年10月24日の記事(井上靖しろばんば』その4「受験準備教育の過熱」https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2021/10/24/144056)で、大正期の一例を取り上げています。

 哲学者の三木清(明治30~昭和20年・1897―1945)は、童謡「赤とんぼ」で知られる兵庫県たつの市近郊の農村の出身ですが、明治40年代の小学生時分のことを回想した文章の中で、補習授業に言及しています。

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三木清(新潮社著者プロフィール)

 雑誌というものを初めて見たのは六年生の時であったと思う。中学の受験準備のための補習の時間に一緒になった村の医者の子供が博文館の『日本少年』を持ってきたので、それを見せてもらったわけである。私はそんな雑誌の存在さえも知らないといった全くの田舎の子供であった。町へ使いに行くことは多かったが、本屋は注意に入らないで過ぎてきた。※下線は筆者

三木清「読書遍歴」「現代日本思想大系 33」筑摩書房


 全国的な状況は不明ですが、中等教育を志望する人達が増えるのに伴い、明治の終わり頃から農村部の小学校においてもそれに向けた対策を講じていたのではないでしょうか。

■ 中等学校進学率  ー昭和初期の状況ー

 良太たちのクラスが担任の坂部先生に引率されて神楽岡へ炊事遠足に行ったとき、「進学を希望する者は手を上げて」という先生の問いかけに、「クラスの三分の一程が手を上げた」という場面がありました。
 ここで言う「進学希望」とは、当時の複線分岐型の学校制度においては、男子の場合は中学校、実業学校(工業、農業など)で、女子の場合は高等女学校及び実科高等女学校に進みたい者ということになります。※高等小学校に入学試験はありませんでした。

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大正8年(1919)「学校系統図」 旺文社教育情報センター ホームページ
「大学入試の“温故知新”」https://eic.obunsha.co.jp/viewpoint/201104viewpoint/ 

 それでは、実際に中等学校に進学した生徒の比率はどれぐらいだったのでしょうか。

 以下は、『北海道庁統計書 』(北海道庁、1935年)の「第41回」(昭和4年)と「第42回」(昭和5年)をもとに、昭和4年尋常小学校卒業者数と昭和5年度の中学校・高等女学校などの入学者数、それに高等科1年の在籍者数から算出したものです。

・中学校(道内に公立19私立1校)  6.9%
・高等女学校(公立16私立8校)   11.5%
・実科高等女学校(公立11私立2校、家事・裁縫など実用的科目に重点を置いた)1%
※高等科(男女計) 59.4%

 全国の統計は、 権田保之助著『日本教育統計』(巌松堂書店, 1938)によれば、以下のようになっていますが、こちらは高等科1年及び2年修了者を含んだ数値となっています。

・中学校   7.6%
・高等女学校    10.3%
・実科高等女学校  1.9%

 

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昭和3年旭川市立北都高等女学校
昭和10年旭川市立高等女学校と改称、作者・三浦綾子の母校
旭川』民衆社出版部、1928年

 中学校への進学率より、高等女学校への進学率が高い理由としては以下のようなことが考えられす。

・男子の場合は、実業学校(農業、工業、商業など)へ進む者が一定の割合でおり、女子に比べて選択肢が多かったこと。
・大正5年(1916)から昭和20年(1945)の間に、中学校は学校数で 2倍以上、生徒数で 4倍以上に増加したのに対して、高等女学校は学校数で約 5倍、生徒数では 10倍以上という急激な増加となっており、門戸の広がり方が大きかったこと。
・男子の場合は昭和恐慌の影響から、中学校への進学を避けて他の進路を選択する者が多かったと推測されること。

 

※引用文中に「みんなは家から持ってきたロウソクを銘々の机の上に出す。ロウソクを点す~」とあります。昭和の初めに教室に電灯がなかったとは思えません。やはり、これはその年の初めに出された文部省の「補習授業禁止の通達」に配慮した措置だったのでしょうか。

【参考・引用文献】

文部科学省「学制百二十年史」 第二節 中等教育/臨時教育会議等と中等教育の改革
https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318242.htm

・『兵庫県教育史』兵庫県教育委員会、1962年

三木清「読書遍歴」青空文庫(底本:『現代日本思想大系 33三木清筑摩書房、1966年

・『北海道庁統計書 』(北海道庁、1935年)「第41回」(昭和4年)「第42回」(昭和5年

・権田保之助著『日本教育統計』巌松堂書店, 1938年

・『旭川』民衆社出版部、1928年