小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

井上靖『しろばんば』その4「受験準備教育の過熱」

  新しい校長が来て十日程して、洪作は稲原校長に呼ばれた。校長室へ行くと、今夜から毎晩受験準備のため、渓合の温泉旅館の一つに下宿している犬飼という教師のもとに勉強に行くようにとのことだった。犬飼というのは稲原校長より二、三か月前に、この学校に赴任してきた若い教師であった。高等科の受け持ちだったので、洪作は犬飼とはまだ言葉を交わしたことがなかった。どことなく都会風なものを身につけている長身の、色の白い青年で、洪作が今まで知っている教師とは違った感じを持っていた。
(中略)
 最初の日に、犬飼から何題かの問題を出され、洪作はそれに対する解答を書いた。算術の問題も、読み方の問題もあった。出来るのも出来ないのもあった。犬飼はその場で洪作の書いた答案を調べ、調べ終わると、「やはり大分遅れているな」といった。
 「君はこの学校の六年生では一番できるということになっているが、町の学校へ行くと、到底上位にははいれない。まごまごすると中程以下に落ちるだろう。中学はどこを受ける?」
 「まだ決まってませんが、多分浜松だろうと思います」
洪作が答えると、
 「いまのところ、浜松は県下の中等学校では一番難しい。四人か五人に一人の率だ。このままでは到底入れない。さかとんぼりしてもはいれないだろう」

(こうして、洪作は犬飼と、睡眠時間を6時間に減らして受験勉強に励むという約束をして、夕食後毎晩彼のところへ通った)

    犬飼自身も勉強していた。一生田舎の小学校の教師で終わる気持ちはないというようなことを、犬飼は口から出したことがあった。中等学校の教師の検定試験でも受けるらしく、洪作が机に対って算術の問題を解いている時など、犬飼もまた自分の勉強をしていた。同じように鉛筆を握って、藁半紙(わらばんし)に数字を並べていることもあった。
(後篇五章)

 

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数学研究会 編『中等学校入学準備実験算術』(此村欽英堂、1913)
明治の終わり頃から、受験準備書と銘打った書籍が多数出版されるようになりました。

■ 受験準備教育の過熱

 明治末期からの中学校を初めとする中等学校への入学志願者の増加は、大正中期から後期にかけても、さらにその勢いを増していきました。
 『学制百年史』はそのあたりを次のように述べています。

 大正後半期以降中学校・高等女学校進学希望者が顕著に増加し、中学校・高等女学校数も増加したが、その収容数は必ずしも需要にじゅうぶん対応しうるものではなかった。一方、この時期、中等学校間の学校格差が発生し、特に都会において入学試験による競争を必要以上に激化させた。このため小学校における中等学校入試のための準備教育の弊害が指摘され、中等学校入学試験が社会問題となって論議されることとなった。
 (第一編近代教育制度の創始と拡充/第三章教育制度の拡充(大正六年~昭和十一年)/第三節中等教育/三中学校・高等女学校の改革/中学校・高等女学校入学者選抜方法の改善)※下線は筆者

 

 小学校における、いわゆる受験準備教育も必然的に激化し、「小学校では『予習』と称し図画や唱歌や体操などの時間を読方や算術等の受験科目に変更したり、放課後遅くまでの準備教育が流行した」(『浜松市史 三』第四章市制の施行と進む近代化/第五節教育機関の拡充と社会教育の進展/第七項社会教育/浜松と教育上の諸問題)というような状況が各地でごく普通に見られるようになっていきました。

 

 大正七年(1918)一月三日付の大阪毎日新聞 は、「教育界の急要問題」(中等学校の不足を如何にすべきか=速に可憐なる少年少女の苦悩を救え)という見出しでこの問題を取り上げています。

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 彼等いたいけな少年少女が此難関を突破すべく払う所の努力は実に偉大なもので彼等は小学校に於て規定の課程以外に少くとも二時間多きは四五時間の予習を行うのみならず家に在りては幾多の参考書を繙きて深更まで勉学し或いは夜学に通い甚だしきは教師の家に寄宿して常住坐臥其の示教を仰ぐなど全く他人の想像も出来ない程である、其結果彼等は甚だしく身体の発達を阻碍するのみならず健康をも害して羸弱なる身体の所有者となる事は珍らしくない、斯くの如きは単り其子弟父兄の為めに悲しむべきのみならず折角向上せんとしつつある彼等の志望を虐け延いては国運の消長にも関係する大問題である
(※抜粋、「神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫」 教育(9-068))

 新聞記事にありがちな、やや誇張を含んだ表現ではありますが、都市部の名門中学校を目指す小学生にとっては、始業前や放課後の「課外教授」(補習授業)私塾通い、さらには家庭教師などは、既にごく当たり前のこととなっていました。
 中でも、東京府「名門小学校」として、誠之小学校(本郷)、泰明小学校(京橋)、錦華小学校(神田)などは、当時から府立一中(現・都立日比谷高等学校)を初めとして府立中学への優秀な進学実績を有する学校として、広く知られた存在でした。(中村真紀子『著名人輩出の地域差と中等教育機会 「日本近現代人物履歴事典」を読む』関西学院大学出版会、2018年)

 

 では、ここで大正六年(1917)に京都府立第一中学校(現・府立洛北高等学校)に入学したフランス文学者の桑原武夫氏(明治37~昭和63年・1904~1988)の場合を見ておきましょう。

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京都市ホームページより

 氏はよく知られているように、我が国における東洋史学樹立者の一人である京都英国大学教授・桑原隲藏(じつぞう)博士の長男で、京都市立第一錦林尋常高等小学校(男子校)で小学校生活を送りました。 

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『京都小学五十年志』(京都市、1918)より

 『思い出すこと忘れえぬ人』講談社文芸文庫、1990)によれば、氏の五年、六年時の担任は当時教頭を務めた小島兵吉先生でしたが、この小島先生が明治末から自宅に開いていた私塾で数学を学びました。もともと算数が得意であったが、小島塾に通い出してから数学の力がさらに伸びたと述べています。

 私は前に書いたように小島塾へ通って、数学はほぼ安心だったが、父はそれでも不安を持ち、十二月から、やや泥縄的だが、国語の勉強に別の塾に通わせることにした。その先生というのが、当の一中の国語担当の中島義一教諭であったから、これはいささか疑惑をまねくおそれもありえたわけだが、まだのんきな時勢である。 

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京都府立第一中学校(明治41年国立国会図書館「写真の中の明治・大正」)

 算数(数学)は担任の教師が自宅で開いている塾で、また、国語は受験しようとする中学の国語教師について受験勉強をするという、「いささか疑惑をまねくおそれ」があるどころか、教師の立場としては、今なら地方公務員法などに違反する行為に当たると思われます。
 果たして、これは特異な事例なのでしょうか。それとも、その頃は特に珍しくもなかったのでしょうか。

 桑原氏のようにご本人が回想文の中で言及している文章は、これ以外では未見ですが、この当時受験準備教育の是正を求めた各府県知事の訓令に、どうやらそのようなことが現に問題視されていたのでは思わせる文言がありました。

 以下は、大正十二年(1923)十二月二十八日付けの静岡県知事訓令です。
 

近来、本県中等学校入学志願者ノ激増ニ伴イ学校ノ増設及学級増加ヲ行ヒツツアルモ、多数ノ志願者ニ対シ其ノ目的ヲ達セシムルコト能ハズ。随テ入学競争激甚トナリ受験準備ノ為特別ノ教育モ行ハレ、為ニ児童心身ノ健全ナル発達ヲ害シ国民教育ノ目的ヲ達成スル上ニ支障少ナカラズ。依テ爾今小学校ニ於テハ受験準備ノ為特別ノ学級ヲ編成シ時間割ヲ変更シ又ハ別ニ時間ヲ設ケテ特別ノ教育ヲナスコト、並ニ小学校長及教員ハ私宅ニ於テ受験準備ノ為教授ヲナスコトヲ禁止ス。(後略)
桑原三二『中等教育史研究第二集 旧制中学校の入学試験』(1986)※下線は筆者

 ここまで書いてきて思い出したのは、四十数年前の初任時代のこと。五十代半ばの英語のO先生は、自宅で塾をやっているということを、酒の席で先輩教員が噂していていましたね(笑)

 

 こうした加熱した受験準備教育に対して、当局は知事訓令や内務部長訓令などを発して、是正を図ろうとしましたが、なかなか事態は改善されませんでした。
 一方、大正九年(1920)から十五年(1926)の七年間には全国で一七三校の中学校が新設されたり、文部省でも入試制度の改正に向けた様々な取り組みを行ったりしたものの、その後昭和期に入っても容易に解決には至りませんでした。

 中学校の入学難は、それほどに根深い問題でありました。