小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

「二十四の瞳」⑦ それぞれの進路

 同じ年に生まれ、同じ土地に育ち、同じ学校に入学した同い年の子どもが、こんなにせまい輪の中でさえ、もうその境遇は格段の差があるのだ。(中略)
 将来への希望について書かせたとき、早苗は教師と書いていた。子どもらしく先生と書かずに、教師と書いたところに早苗の精いっぱいさがあり、甘っちょろいあこがれなどではないものを感じさせた。六年生ともなれば、みんなはもうエンゼルのように小さな羽を背中につけて、力いっぱいに羽ばたいているのだ。
 変わっているのは、マスノの志望であった。学芸会に「荒城の月」を独唱して全校をうならせたマスノは、ひまさえあれば歌をうたい、ますますうまくなっていた。歌にむかうとき彼女の頭脳は特別のはたらきをみせ、楽譜をみてひとりで歌った。田舎の子どもとしては、それはじつに珍らしいことだった。彼女の夢のゆきつくところは音楽学校であり、そのために彼女は女学校へゆくといった
 女学校組はマスノのほかにミサ子がいた。あまりできのよくないミサ子は、受験のための居残り勉強にいんうつな顔をしていた。彼女の頭は算数の原理を理解する力も、うのみにする記憶力にもかけていた。しかもそれをじぶんでよく知っていて、無試験の裁縫学校にゆきたがった。だが彼女の母はそれを承知せず、毎日、彼女にいんうつな顔をさせた。なんとかして県立高女に入れたい彼女の母は、熱心に学校へきていた。その熱意で娘の脳みその構造が変わりでもするように。それでもミサ子は平気だった。
「わたしな、数字みただけで頭が痛いとうなるんで。県立の試験やこい、だれがうけりゃ。その日になったら、わたし、病気になってやる」
 彼女は算数のために落第することを見こしているのだ。そこへゆくと、コトエはまるで反対である。家でだれにみてもらうというでもないのに、数の感覚はマスノの楽譜と同じだった。いつもコトエは満点であった。その他の学課も早苗についでよくできた。彼女ならば女学校も難く入れるであろうに、コトエは六年きりでやめるという。あきらめているのか、うらやましそうでもないコトエに、たずねたことがある。
「どうしても六年でやめるの?」
 彼女はこっくりをした。
「学校、すきでしょ」
 またうなずく。
「そんなら、高等科へ一年でもきたら?」
 だまってうつむいている。
「先生が、家の人にたのんであげようか?」
 するとコトエははじめて口をひらき、
「でも、もう、きまっとるん。約束したん」
 さびしそうな微笑を浮かべていう。
「どんな約束? だれとしたの?」
「お母さんと。六年でやめるから、修学旅行もやってくれたん」
「あら、こまったわね。先生がたのみにいっても、その約束、やぶれん」
 コトエはうなずき、
「やぶれん」とつぶやいた。そして、前歯をみせて泣き笑いのような顔をし、
「こんどは敏江が本校にくるんです。わたしが高等科へきたら、晩ごはんたくもんがないから、こんどはわたしが飯たき番になるんです」
「まあ、そんなら今ごろは四年生の敏江さんがごはんたき?」
「はい」
「お母さん、やっぱり漁にいくの、まい日?」
「はい、大かた毎日」
(中略) 

「そのかわり、えいこともあるん。さらい年敏江が六年を卒業したら、こんどはわたしをお針屋へやってくれるん。そして十八になったら大阪へ奉公にいって、月給みんな、じぶんの着物買うん。うちのお母さんもそうしたん」
「そしてお嫁にゆくの?」
 コトエは一種のはにかみをみせて、ふふっと笑った。
(中略) 
 岬の女子組では、あとに富士子が一人いるが、彼女の方向だけはきまっていなかった。いよいよ、こんどこそ家屋敷が人手に渡るという噂も、卒業のさしせまった富士子の動きをきめられなくしているのだろうと思うと、コトエと同様、あなたまかせの運命が彼女を待ちうけていそうであわれだった。やせて血のけのない、白く粉このふいたような顔をした富士子は、いつも袖口に手をひっこめて、ふるえているように見えた。陰にこもったような冷たい一重まぶたの目と、無口さだけが、かろうじて彼女の体面を保ってでもいるようだ。
 そこへゆくと、男の子はいかにもはつらつとしている。
「ぼくは、中学だ」
 竹一が肩かたをはるようにしていうと、正もまけずに、
「ぼくは高等科で、卒業したら兵隊にいくまで漁師だ。兵隊にいったら、下士官になって、曹長ぐらいになるから、おぼえとけ
「あら、下士官……」
 不自然にことばを切ったが、先生の気持の動きにはだれも気がつかなかった。月夜の蟹とやみ夜の蟹をわざわざもってきたような正が下士官志望は思いがけなかったのだが、彼にとっては大いにわけがあった。徴兵の三年を朝鮮の兵営ですごし、除隊にならずにそのまま満州事変に出征した彼の長兄が、最近伍長になって帰ったことが正をそそのかしたのだ。
下士官を志望したらな、曹長までは平ちゃらでなられるいうもん。下士官は月給もらえるんど」
 そこに出世の道を正は見つけたらしい。すると竹一も、まけずに声をはげまして、
「ぼくは幹部候補生になるもん。タンコに負けるかい。すぐに少尉じゃど」
 吉次や磯吉がうらやましげな顔をしていた。竹一や正のように、さしてその日の暮しにはこまらぬ家庭の息子とはちがう吉次や磯吉が、戦争について、家でどんなことばをかわしているか知るよしもないが、だまっていても、やがては彼らも同じように兵隊にとられてゆくのだ。その春(昭和八年)日本が国際連盟を脱退だったいして、世界の仲間はずれになったということにどんな意味があるか、近くの町の学校の先生が牢獄につながれたことと、それがどんなつながりをもっているのか、それらのいっさいのことを知る自由をうばわれ、そのうばわれている事実さえ知らずに、田舎の隅ずみまでゆきわたった好戦的な空気に包まれて、少年たちは英雄の夢を見ていた。
「どうしてそんな、軍人になりたいの?」
 正にきくと、彼はそっちょくに答えた。
「ぼく、あととりじゃないもん。それに漁師よりよっぽど下士官のほうがえいもん」
「ふーん。竹一さんは?」
「ぼくはあととりじゃけんど、ぼくじゃって軍人のほうが米屋よりえいもん」
「そうお、そうかな。ま、よく考えなさいね」
 うかつにもののいえない窮屈さを感じ、あとはだまって男の子の顔を見つめていた。正が、なにか感じたらしく、
「先生、軍人すかんの?」ときいた。
「うん、漁師や米屋のほうがすき」
「へえーん。どうして?」
「死ぬの、おしいもん」
「よわむしじゃなあ」
「そう、よわむし」

(七 羽ばたき)

 

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綴方の時間に「将来の希望」を書く子どもたち

■ 尋常科を終えた後は・・・

 岬の子どもたち(岬組とも)が、6年生になった昭和8年(1933)当時の学校制度は概ね下の図のようになっていました。(「大正8年(1919)学校系統図」文部省『学制百年史』より、時期により細部の異同はあります)

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 戦前は、いわゆる「複線分岐型」の学校制度でした。小学校尋常科6年卒業の時点で、その後の進路は大きく別れるという形になっていました。

 作中で、それぞれの子どもたちが持っていた進路希望と8年後に再会したときの現況、さらにその後の人生について、簡単にまとめてみました。(順不同)

 

       6年生当時の志望・進学先(就職先)・8年後・その後
1  山石早苗   教師・高等科から女子師範学校・母校の教員
2  香川マスノ  歌手・高等科・家業の料理屋
3  西口ミサ子  裁縫学校・ミドリ学園・東京の花嫁学校・結婚
4  片桐コトエ    ?・大阪で女中奉公(肺病で死去)
5  竹下竹一   家業の米屋より軍人・中学校・東京の大学・ 出征(戦死)
6  森岡正    漁師から下士官・高等科・神戸の造船所・ 出征(戦死)
7  徳田吉次             ?・ 高等科・岬の村で山伐りや漁師
8  岡田磯吉       ?・大阪の質屋へ奉公・失明して除隊
9 木下富士子    ?・兵庫に引越し後、親に売られて商売女になったと噂あり・消息不明
10  加部小ツル   ?・高等科から大阪の産婆学校・産婆
11  相沢仁太   ?・父親と石鹸製造・海軍(戦死)
12  川本松江 (5年生途中で中退) 高松のうどん屋・子どもが岬の学校に入学

 

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放課後に進路の相談

 戦前の小学校では、尋常科6年の義務教育を終えると、そのまま社会に出るか、2年間の高等小学校(高等科)に進むというのが、最も多い進路選択でした。

 「文部省年報」掲載された児童数から算出すると、昭和8年(1933)当時の高等小学校への進学率は61.6%となります。

 家庭の経済状況などにより、それもかなわないとなると、いわゆる丁稚(女子では女中)奉公という形で都会の商店などに住み込みで働く者が多く見られました。

 一方、男子の場合は「中学校→高等学校(高等専門学校)→大学」という「正系ルート」をたどり、社会の各層におけるエリートをめざす者もいました。

 しかし、この中学校への進学率は、明治30年代の1~2%という時代から、大正期の量的な拡張を経て、昭和の初期にはかなりの向上してはいましたが、昭和8年時点の小学校尋常科卒業者(高等科を経ての進学者も一部に見られた)では、全国で10.3%(「文部省年報」より算出)という数値に留まっていました。(香川県では11.1%「香川県統計書」より算出)

 農漁村からの進学者といえば、地主や比較的裕福な商家の子弟が中心で、進学の可否を決めるのは、本人の学力もさることながら、主には家庭の経済状況であったと言えるでしょう。男子5人のうち、唯一の中学校進学者である竹下竹一も、親が米屋を営んでいました。

 女子の場合、「正系ルート」高等女学校への進学ということになります。

 本作品では、7人の女子のうち、結果的に高女へ進めた者は一人もいませんでした。

 教師志望の山石早苗は、高等科から女子師範学校へ進みました。これは、行き止まりの、いわゆる「傍系ルート」ということになります。

    彼女の家庭状況は不明ですが、師範学校の場合は、一定年限の奉職義務と引き換えに、官費の支給があったために、高女進学に比べて経済的負担は軽かったものと思われます。

 

 引用文の冒頭に、「同じ年に生まれ、同じ土地に育ち、同じ学校に入学した同い年の子どもが、こんなにせまい輪の中でさえ、もうその境遇は格段の差があるのだ」とあります。

 岬の分教場の、あの無邪気な12人の子どもたちも、昭和恐慌から戦争へと向かう時代の荒波の中で、自分たちの力ではどうしようもない酷薄な運命に翻弄されたのでした。

 

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戦後、子弟再会の場面(マスノの料理屋の2階、海の見える座敷で大石先生の歓迎会)

 ※20年余り学級担任をしました。成績優秀なのに進学が出来ないという生徒は、ありがたいことにほとんどいなかったように思います。経済状況から夜間部を目指したり、奨学生となったりと、様々な方法がありました。

 戦前は優れた才能を持ちながら、置かれた境遇から、それを生かし切れずに終わった人達が、我々が想像できないぐらいに多かったのではないでしょうか。