小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

黒島伝治『電報』その3 中学校は「高嶺の花」?!

明治45年(1912)東京府立二中(現・都立立川高校)の寄宿生
(「ジャパンアーカイブズ」より))

 本作品の時代背景より少し前の明治三十年代は、中学校の急増期でした。
都市のサラリーマンなどの、いわゆる中産階級を中心に子弟を中学校に進学させようとする機運が高まった時期でもありました。
 しかし、本作品のように、農村部においては高等小学校実業補習学校などへ進む者が大半で、学力優秀で強い向学心をもつ者たちにとっても、中学校はまだまだ「高嶺の花」とでもいうべき存在でした。

明治44年(1911)在籍比率 『学制150年史・資料編』より

 そんな時代に、「中学校に進みたかった」少年を描いた小説がありました。山本有三の名作路傍の石』です

 

東映映画『路傍の石』(昭和39年・1964)より、吾一(池田秀一)と母れん(淡島千景

 明治30年代の前半頃のこと。吾一の住む町に中学校が新設されることになった。成績優秀な吾一は進学を夢見ていたが、没落士族の父・庄吾はろくに働きもせず、山林の所有権をめぐる裁判や自由民権運動に入れあげ、母・おれんが封筒貼りや仕立物の内職でようやく生計を立てている状態で、そんな経済的な事情から中学進学は難しかった。

 

「ねえ、おっかさん・・・・」
 と、口を切った。
「なに。ー」
「ねえ。・・・・やっておくれよ。ーいいだろう。」
 中学のことは、今に始まったことではない。こう言えば、おっかさんには、すぐにわかると思っていた。しかし、おっかさんは、
「どこへ行くんです。」
 と、そっけなく聞き返した。
「中学校へさ。」
「まあ、おまえ、そんなところへ・・・・」
(中略)
「そうはいきませんよ。お医者さんや、大きな呉服屋のむすこさんとは、いっしょになりませんよ。」
「だって、秋ちゃん、学校、できないんだぜ。」
「・・・・・・・・・・・」
  あんなできないのいが行くんなら・・・・」
吾一ちゃん、中学はね、できる人ばかりが行くんじゃないんですよ。
「そ、そんなこと言ったって、できないやつなんか、受かりゃしないよ。きょう、先生が言ったよ。はいる前に入学試験があるんだって・・・・」  

 (「その夜のことば2」)  ※下線は筆者

※参考 

山本有三

『路傍の石』② 「中学へ進むには・・・・」 - 小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

 

■ 中学校を終えるには「三つの力」が必要!

 明治・大正の時代、中学校5カ年の課程を無事に終えるには、「学力」・「資力」・「体力」の「三つの力」が必要だと言われていました。
 とりわけ進学の可否に関しては、吾一の母親の言葉に端的に示されているように、「資力」すなわち家庭の経済的状況が、「学力」以上に重要な要件となっていました 。

 

   明治末から大正初め頃の県立中学校の授業料の例を挙げると、下のように一円五十銭から二円前後といったところが多かったようです。

 ・三重県 一円五十銭    (明治44年・1911、『三重県立第四中学校一覧』) 
 ・秋田県 一円八十銭  (明治45年・1912、『秋田県立本荘中学校一覧』)
 ・香川県 二円     (大正4年・1915、「香川県中学学則」)

 当時は各府県とも学校数が限られており、交通機関も未発達であったために、寄宿舎に入らざるを得ない生徒の比率が高く、その場合には授業料を含めて月に十円以上が必要だったようです。

 

兵庫県立小野高等学校八十周年記念史誌』より

 明治末から大正初め頃の尋常小学校本科正教員男子の平均月俸は23~24円程度でした。(陣内靖彦『日本の教員社会ー歴史社会学の視野』)

 下級官吏や中規模以下の農家などでは、子弟を中学校に学ばせる余裕はなかったのです。

 

  明治38年(1905)に、和歌山県の潮岬村にあった高等小学校四年から、県立新宮中学校(現在の県立新宮高等学校)の二年級に編入した西(旧姓・山口)弘二氏は、父親から次のように言われたと述べています。

  父に話すと「中学校など以ての外、あれは金持ちの学校で、一年に百円も要るのだ。夢にも左様な考えを持つな。師範なら金も要らず、直ぐ職に就けるから、やってよい。中学はとてもとても、少しばかりの田畑や山でも売らねばならぬ。出来ない相談だ。祖先には済まぬ」とて、相手にしてくれなかった。
  (『日本の教育課題10 近代日本人の形成と中等教育』)

 授業料に寄宿舎代、その他を加えると、「一年に百円」というのは決して誇張された金額ではありませんでした。
 
 こうして、学力は優秀でありながら、経済的な理由から官費の師範学校や比較的学費が低廉で修業年限の短い実業学校などへ進んだ若者が多く見られたのが当時の実態であったようです。

 

【参考・引用文献】

『日本文学全集27 山本有三集』集英社、1972年

八十周年記念史誌編集委員会兵庫県立小野高等学校八十周年記念史誌』1983年
陣内靖彦『日本の教員社会ー歴史社会学の視野』東洋館出版社、1988年
米田俊彦編『日本の教育課題10 近代日本人の形成と中等教育東京法令出版、1997年
烏田直哉「府県立中学校における財源構成と授業料の府県間比較ー1890年代から1930年代を対象に」中国四国教育学会『教育学ジャーナル創刊号』2004年