小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

山本有三『路傍の石』② 「中学へ進むには・・・・」

ねえ、おっかさん・・・・」と、口を切った。
「なに。ー」
「ねえ、・・・・やっておくれよ。-いいだろう。」
中学のことは今に始まったことではない。こう言えば、おっかさんには、すぐにわかると思っていた。しかし、おっかさんは、
「どこへ行くんです。」と、そっけなく聞き返した。
「中学校さ。」
「まあ、おまえ、そんなところへ・・・・」
  おれんは、うわ目で吾一をちらっと見ただけで、袋を張る手は少しも休めなかった。
「だって、秋ちゃんも、道ちゃんも行くんだぜ。」
「そりゃ、ああいうおうちのむすこさんなら、行くでしょうさ。-」
「だから、おれもやっとくれよ。」
「・・・・・・・・」
「そうはいきませんよ。お医者さんや、大きな呉服屋のむすこさんとは、いっしょになりませんよ。」
「だって、秋ちゃん、学校、できないんだぜ。」
「・・・・・・・・」
「あんなできないのいが行くんなら・・・・」
吾一ちゃん、中学はね、できる人ばかりが行くんじゃないんですよ。」
「そ、そんなこと言ったって、できないやつなんか、受かりゃしないよ。きょう、先生が言ったよ。はいる前に入学試験があるんだって・・・・」
(中略)
「よう、おっかさんてば。やっておくれよ。」(「その夜の言葉」二)

 


 幸いなことには、訴訟さえすめば、父が学資を出してくれるというので、彼は裁判が早く終わることを望んでいた。そして、前の通り、一生懸命受験勉強をやっていた。
 ところが、入学試験、入学試験と、志願者たちが騒いだほどのこともなく、土地柄のせいもあるのだろう、いよいよとなったら、応募者の数が意外に少なくて、中学へ願書を出した者は、無試験でみんな入学を許されることになった。それを聞くと、秋太郎などは飛び上がって喜んだが、吾一は張り合いが抜けてしまった。それだけならなんでもないが、願書の受付が締め切りになるというのに、入学金がないので彼は願書を出すことができなかった。(「移り変わり」二)

 

 

f:id:sf63fs:20190823164030p:plain

吾一(池田秀一)と母・おれん(淡島千景
  東映映画『路傍の石』(1964年)より
  https://ameblo.jp/musasino-0514/entry-12341770702.htm

 

■ 「高等小学校現象」とは

 

 明治20年代後半から尋常小学校の就学率が増加し、30年代に入ると高等小学校へ進む子供たちの数も増え続けました。
   明治28年から38年の10年間は、毎年一万人ずつの増加が見られたということです。
 一方、その間に高等小学校卒業者で中学校を初めとする中等学校に進学しない者も急激に増加し、卒業者のおよそ70~80%は上級学校に進みませんでした。

 竹内洋『立身出世と日本人』では、そのあたりの事情を、「高等小学校現象」という言葉を使って説明しています。

 

 彼らは学校によって欲望を喚起されながら、鎌を腰にして農作業にいそしむか、町(村)役場の書記や給仕、巡査、小学校の代用教員となり日々憂悶する。父母もこれを持て余し、当人も自分の憂悶を持て余す。勉強立身の空転が始まる。こういう空転を「高等小学校現象」と呼ぶことができる。小学校時代の友人が進学していくのを見て羨望に耐えず自暴自棄になってゆく。家は貧しく母を養わなければならない。中等学校に進学したいが、資金も時間もない。示唆と教示をあたえてほしい式の投書が少年雑誌にふえるのがこのころである。

 

f:id:sf63fs:20190823170252j:plain

(高等小学校の同級生たち。秋太郎=吾一が丁稚奉公する呉服屋伊勢屋の息子で中学へ進む。京造役は当時15歳の風間杜夫少年!,http://garadanikki.hatenablog.com/entry/20180624/1529794800

 

⬛️   中学へ進むには  ―三つの「力」―

 

 そのころ一般に、「中学校に入り、無事に卒業するためには、『学力』『資力』『体力』(健康)の三つがそろっていないとだめだ」と考えられていました。ここでは、「体力」を除く二つの「力」について見ていくことにします。
  
 まず、「学力」についてですが、制度上は高等小学校二年の課程を終えて進学できるようにはなっていました。しかし、実際は高等三年、四年を終えた者の比率が高かったのでした。
 山本有三の地元、栃木町(現在の栃木市)には、明治29年(1896)に栃木県尋常中学校の栃木分校が開設されていました。

    山本勇造少年が入りたかった同校は、明治32年(1899)独立して栃木県第二中学校(後に栃木中学校、現在の栃木高等学校)となります。

 

f:id:sf63fs:20190824173850j:plain

(栃木高等学校の記念館。創設時の校舎)

 「明治33年栃木県学事年報」(国立国会図書館デジタルコレクション)によると、その年の入学者88名のうち高等二年修了者はわずか4名(5%)でした。最も多いのが高等四年修了の62名(70%)、続いて高等三年修了の22名(25%)といった状況でした。
  これは、中学校側の要求する学力と、高等小学校で培われたそれとの間に、かなりの隔たりがあったことを示すものだと言えます。
  ちなみに、同書には明治33年の入学者は88名で、志願者は299名(3.4倍)という記載があります。
 また、同年の他校の志願倍率をみても、第一中学校(3.1倍)、第三中学校(2.4倍)となっています。
 作中の「応募者の数が意外に少なくて、中学へ願書を出した者は、無試験でみんな入学を許されることになった」というのはフィクションではないでしょうか。

 

 もう一つの要件である「資力」、すなわち家庭の経済力ですが、吾一の母親の言葉に端的に示されているように、進学の可否に関しては「学力」以上に極めて重要な要件でした。
 明治三十年代半ば頃の公立中学校の授業料を各県の「学事年報」で調べてみますと、授業料の月額は、次のように一円から一円五十銭といったところでした。
  

  兵庫県  一円(兵庫県立中学校学則、明治三十四年五月)
  静岡県  一円二十銭(静岡県立中学校学則、明治三十四年三月)
  長野県    一円四十銭(長野県立中学校学則、明治三十四年三月)
  三重県    一円五十銭(三重県立中学校学則、明治三十八年七月)

  当時は各府県とも学校数が限られており、交通機関が未発達であったために、寄宿舎に入らざるを得ない生徒の比率が高く、保護者にとっては、授業料にその費用を加えると、相当な負担になっていたものと思われます。     

    寄宿生が一ヶ月に要する費用は、次の表のように、小学校正教員平均俸給月額の六割程度にも達するほどでした。

  

f:id:sf63fs:20190824174547p:plain

 

  明治38年(1905)に、和歌山県の潮岬村にあった高等小学校四年から、県立新宮中学校(現在の県立新宮高等学校)の二年級に編入した西(旧姓・山口)弘二氏は、父親から次のように言われたと述べています。
 

    父に話すと「中学校など以ての外、あれは金持ちの学校で、一年に百円も要るのだ。夢にも左様な考えを持つな。師範なら金も要らず、直ぐ職に就けるから、やってよい。中学はとてもとても、少しばかりの田畑や山でも売らねばならぬ。出来ない相談だ。祖先には済まぬ」とて、相手にしてくれなかった。  (『日本の教育課題10 近代日本人の形成と中等教育』)

 

f:id:sf63fs:20190824180048j:plain

詩人で小説家の佐藤春夫(明治25~昭和39年・1892~1964)はその頃新宮中学校に在籍していました。

    吾一の母親にしても、西氏の父君にしても、その言葉から、当時の庶民が中学校というものをどのように見ていたかがよく分かりますね。

 

# 吾一役の池田秀一さん(1949年生まれ)は、我々世代が子供の頃の名子役でした。

現在は声優として『 機動戦士ガンダム』のシャア・アズナブル役をはじめ、『名探偵コナン』の赤井秀一役など、人気作品のキャラクターを多く演じていらっしゃいます。