三浦綾子『銃口』その4 師範学校の生活
昭和10年(1935)4月、竜太は北海道旭川師範学校(現・北海道教育大学旭川校)二部に入学します。
師範学校在学中の二年間は全寮制だったから、同じ市内にありながら竜太も家を離れて寮生活をしていた。師範学校の生活は五年間の中学校のそれとは、全くちがった雰囲気であった。全寮制であることも、上級生下級生のけじめがきびしいことも、学校というより軍隊に似ていた。朝は鐘の音で一斉に飛び起きる。そしてあわただしく洗面、乾布摩擦、体操、掃除、朝食と、朝はとりわけ目まぐるしかった。つづいて登校。寮の門限は午後四時半、夕食は五時、夕食後は黙学の時間があって、消灯は九時半と決められていた。もろん僅(わず)かながら自由時間はあっても、芳子に会う時間などある筈(はず)はなかった。
師範学校には一部と二部があった。小学校の高等科を出て、五年間師範学校に学ぶ生徒を一部の生徒と言い、五年間中学校で学んだ後、二年間師範に学ぶ者を二部の生徒と言った。
寮は一部屋に四、五人、上級生下級生が組み合わされていた。この上級生の走り使いに下級生は追い回され、入浴の時も下級生は上級生の背中を流さねばならなかった。その封建的なあり方に抵抗して、三年生のある生徒は学校をやめようと決意した。が、彼はやめなかった。師範生は学費も被服費も貸与されていて、退学する者は、全額学費も被服費も返還しなければならなかったからだ。
師範生のほとんどは秀才であったが、家の貧しい者が大方だった。何百円もの学資の返還など負担できる父兄は皆無といってよかった。竜太はその点異色の生徒でもあった。学校をやめようと思ったその生徒が、
「一旦入学したら、やめる自由もこの学校にはないんだよ」
と嘆いていたのを、竜太も聞いていた。しかしその生徒がやめたかった本当の理由は、配属将校がきびしい軍事教練の中で、常に言っていた言葉にあった。配属将校は、
「君らは畏(おそ)れ多くも天皇陛下の訓導になる身であるぞ」
と、絶えず口うるさく言っていたのだ。とにかく竜太は、芳子とは文通さえ許されぬ生活の中にあった。
そしてこの三月、竜太は二年間の学びを終えた。終えるや否(いな)や、卒業生たちは勤務地に赴任する前に、旭川師団に入隊した*。四月一日から八月三十一日までの入隊期間であった。その総仕上げの第一期検閲が終わって、初めて教壇に立つことが許されたのだ。(「炭塵」)*師範学校卒業者の短期現役制度
兵役法(昭和2年法律第47号 第二章 服役
第十条 年齢二十五年迄ニ師範学校ヲ卒業シタル者(小学校ノ教職ニ就クノ資格ヲ失ヒタル者ヲ除ク)ノ現役ハ第五条ノ規定ニ拘ラズ五月トス但シ師範学校ノ教練ヲ修了セザル者ニ在リテハ七月トス
昭和14年(1939)3月、同法の改正で廃止
作者の三浦綾子さんは、モデルとなった人物から聞き取りをされ、またご自身が昭和14年(1939)に高等女学校を卒業後、21年(1946)まで教職に就いておられた経験があることなどから、師範学校の実態についてはよくご存じであったことと思います。
引用部分は、師範学校制度の概略から寮生活の実態まで分かりやすくまとめられていますが、非礼を承知の上で言うならば、ややステレオタイプ化された描き方のように思われるところもあるように思われます。
(大正8年学校系統図)
まず、寮生活についてですが、教育史の書籍では「寄宿舎の兵営化」「 寄宿舎の軍隊式編成」(上級生と下級生の関係)などといった言葉で語られることがよくあるようです。
明治時代の師範学校寄宿舎については、『学制百二十年史』には次のような記述があり、たしかにそのようなことがうかがえます。
初代文相森有礼は、公教育形成の要(かなめ)は教員の資質にあるとして、師範学校の整備に力を注いだ。明治十九年師範学校令を公布し、その第一条に「生徒ヲシテ順良信愛威重ノ気質ヲ備ヘシムルコトニ注目スヘキモノトス」という異例のただし書を付した。この「順良信愛威重」は後の師範教育令により「徳性」と表現され、我が国教員に必要な資質と見なされた。師範学校令では、師範学校を尋常・高等の二段階に分かち、前者は小学校教員の養成に当たり各府県に府県立一校を設立するとし、後者は尋常師範学校の教員養成に当たり全国に一校官立で東京に設立するとした。両者とも上記の三気質育成のために全員寄宿舎制の下軍隊式教育や訓練を導入した。
※下線は筆者http:// https://www.mext.go.jp/b_menu/hakusho/html/others/detail/1318234.htm
ただ、その後は寄宿舎のあり方に改良が加えられたり、通学生が一部認められるなど制度上の変化も生じていました。
そもそも、昭和10年頃では「師範学校=全寮制」という法的な根拠はありませんでした。昭和18年(1943)に官立に移行する(専門学校程度に格上げ)までは、道府県立であったために、設置主体により学則に違いがありました。
文部省普通学務局『師範学校ニ関スル調査』(昭和11年4月現在)によれば、寄宿制と通学生の比率は次のようになっています。
昭和10年度(全国平均)
本科一部 寄宿制 75.65% 通学生 24.35%
本科二部 同上 79.39% 同上 20.61%
通学生の比率の高いのは、東京、大阪、愛知などの大都市圏をもつところで、北海道の場合は旭川、札幌、函館の三校とも全寮制をとっており、その点は作中の記述どおりでした。
次に、「師範生は学費も被服費も貸与されていて~」とありますが、これについても北海道三校は全員が給費生でしたが、全国的に見ると、そういう学校は少数派でありました。
昭和10年(全国)
給費生 私費生
本科一部 67% 33%
本科二部 35% 65%
ちなみに、北海道三校では月額7円が支給されていました。
また、昭和11年の『愛媛県師範学校要覧』によると、生徒には以下の物品が「貸与」されていたとの記述があります。
寝具、机、腰掛、炊具、点灯具、教科用具の一部
最後は、「師範生のほとんどは秀才であったが、家の貧しい者が大方だった」という箇所です。
どこで見たのか思い出せませんが、「師範学校は田園貧家の秀才を集めたところ」というような言葉がありました。明治以来、一般にそのような認識が広まっていたのでしょうが、管見では師範生の「家が貧しい」という根拠となるデータは乏しく、果たして実態を反映しているかどうかは疑問に思われます。
「師範生のほとんどは秀才」についても、たしかに、竜太の場合は中学校でも師範学校においても大変優秀な成績で過ごしたわけですが、「ほとんど」と言いきってよいものでしょうか。
もともと師範学校は、学校教育体系上では「中学校→高等学校→大学」という男子にとっては正系のコースではなく、いわば「袋小路的な傍流の中等教育機関」と位置づけられていました。
中学校から師範二部へ進むことは、「高等学校>高等専門学校・高等師範学校>師範学校二部」という進学ステータスの下では、坂部先生に憧れて教職への熱い思いをもっていた良太のような若者は別として、一般的には、(好況期には特に)必ずしも望ましい進路とは見なされていなかったようです。
下は昭和22年(1947)から8年間、高等教育機関への入学試験で使われていた「進学適性検査」の結果(旧制最後の昭和23年度における合格者の標準偏差)を一覧表にしたものです。終戦直後とあって、戦前とは多少の違いがあるかも知れませんが、やはりすべての師範学校が偏差値40~50と、最も低い層に位置づけられています。
やはり、上に述べたような世間的な「進路ステータス」と一致する結果になっていることがわかります。
以上、引用部分を読んだときに抱いた率直な疑問点を挙げてみました。
資料が断片的なために、説得力に欠けるところがあるかも知れませんが・・・。
【参考・引用文献】
今泉朝雄「師範学校寄宿舎の歴史的変遷 森文政期〜大正期を中心に」『教育學雑誌34』 2000年
仲新監修『学校の歴史第5巻 教員養成の歴史』第一法規、1979年
文部省普通学務局『師範学校ニ関スル調査』(昭和11年4月現在)1937年
續有恒『適性』中公新書、1964年