小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

新田次郎『聖職の碑』その4 「鍛錬主義教育」とは

 職員会議の席上、若手の唱える白樺派流の理想主義教育に対して、校長の赤羽長重は「実践に重きを置いた教育」の必要性を説き、それを今後の方針として表明しました。

 

 赤羽が鍛錬の一語を出したとき、有賀喜一が立ち上がった。
「その言葉*は既に信濃教育界からは消え去ったものではないでしょうか。明治十八年に森有礼が文部大臣になって、教育の国家統制をもくろんだとき、その方便として鍛錬主義を教育者に押しつけ、師範学校は兵営そのもののような有様になったと聞いています。そのときはそれでよかったかもしれませんが、その軍国主義的鍛錬を、いたいけな子供たちに強いるのは暴挙というものです」
*「登山にはいくらかの困難はつきものだ。それがなければ鍛錬の意味がない」
 

 この「暴挙」という言葉に赤羽校長は怒りを露わにしてこう言いました。

「辛いことから逃げ回ることだけを教えて何が教育だ。苦しみや困難はどこにいたって起こってくる。子供は生まれついては強くも正しくもない。それを鍛え、困難を乗り越えて生きていける人間に育てるのが教育だろ。思想も考え方も時代によって変わる。しかし、体験が人間を作るということは、変わらないのだ。言葉は古いが、私が鍛練主義を尊ぶのは、その意味だ」

森有礼(弘化4~明治22年・1847~1889、Wikipedia

 赤羽が推し進めようとする鍛錬主義的「実践教育」については、上記の発言からその方向性をうかがうことはできますが、内容と背景についてもう少し見ていきたいと思います。
 手がかりとなる言葉は有賀の発言中にあります。 森有礼が推進しようとした軍国主義的鍛錬」というのがそれです。
   この「鍛錬」 (または「訓練」)という方法概念を近代公教育上に適用したのは、下記のように森が最初であるということです。

  国体や国君を利用して新たな展開を試みた公教育において、なお注目されることは、軍隊式の集団的訓練法を学校教育に導入したことである 。
「訓練」(「鍛錬」ともいう)という方法概念を近代公教育上に適用したのはこれが最初 であって 、(中略)「訓練」の具体的方法として兵式体操、行軍旅行 、運動会といった 身体的訓練と制服制帽、軍隊的生活規律 、生徒品行査定法等の学校における集団生活規律訓練とがあり、国民教育を担当する教員の養成に当たった師範学校では 、「模範的臣民」の育成を期してこの種の「訓練」がとりわけ厳格に行なわれた。

(窪田祥宏「森文相の国民教育政策一その思想と制度を中心として一」
  

 もう一つは、赤羽がこの問題について、相談を持ちかけた長野師範の大先輩・片桐福太郎の以下のような助言の中に見ることができます。

「校長にとって一番大事なことは、自分の見識をはっきりさせることだ。白樺派の理想主義教育もいいだろう。従来の文部省の教科書中心の教育もいい、君たちが教わった浅岡一(長野師範学校長)が提唱した鍛錬主義的教育がいいと思うなら、それでもいい。(後略)

 

  では、赤羽長重たちが教わった浅岡一とはどのような教育者であったのでしょうか。

浅岡一(『長野県教育史第2巻(総説編2)』より)
嘉永4年生まれ。もと陸奥(むつ)二本松藩(福島県)藩士明治6年文部省にはいり、広島師範、東京女子師範の教諭などをへて19年長野師範校長。同年創設の信濃教育会の初代会長となった。のち華族女学校教授、会津中学校長。大正15年死去。76歳。号は東巌、朴堂。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

二本松市ホームページ「ふるさと人物誌」では、長野時代の浅岡の功績を次のように紹介しています。

信濃教育”誕生の恩人
 浅岡 一(あさおか はじめ) は師範教育の目的を「順良・信愛・威重」気質の養成とし、因襲を打破するとともに、合理主義を浸透させることに尽力しました。それは、全寮制の導入や子弟間に人格愛情を養う精神主義教育の確立など、教育の充実を図り、教育尊重の気風を植えつけることでした。
 さらに、校長よりも高い給料で人材を登用したり、教育環境の整備として校舎新築を進めました。そして、明治23年(1890年)附属小学校や幼稚園を積極的に開設し、翌年には女子部を設けて女子教員養成の道も開きました。
 また、当時としては画期的な修学旅行を実施したり、憲法発布の大典には教職員・生徒を引率し上京するなど、信濃教育界に浅岡時代を築き、浅岡学風を浸透させたのです。https://www.city.nihonmatsu.lg.jp/bunka_sports_syo/bunka_rekishi/jinbutsu/page001085.html

 

 また、浅岡が校長を勤めていた頃の長野尋常師範学校の様子について、明治24年卒業の矢島喜源次氏はこう記しています。 

 なお、下記に見られるような師範学校の急速な変貌ぶりは、長野に限ったことではなく、全国の師範学校において見られていたようで、幾つもの創立記念誌などに同様の回想文を見ることが出来ます。

 恰も入学の前年即明治十九年に、其の有名な森文部大臣によって師範教育の画期的改正が行われた時でありまして(中略)師範教育に於いては、生徒の順良親愛及威重の三気質を養成すべきであるとし、一切の施設をこの目的達成のため整備され、生徒は広く県内より募集し選抜して、全部之を寄宿舎に収容して、食費は勿論被服学用品一切を支給し、全く文字通りの給費制度でありました。そして生徒の教養は兵式体操を中心とし、寄宿舎に於いては、すべてが軍隊式で、日常起居の間に前述の三要素を錬成すべく考慮されたのでありまして、そして卒業の上はもっぱら教育の実務に当たらしむる為に、服務義務の年限が定められ、兵役のごときも六週間現役とし服務満了の上は直ちに第二国民兵役に編入されたのであります。

※漢字は新字体に改めています。 

 (『信州大学教育学部九十年史』第四章 長野県尋常師範学校時代)

明治20年代の長野県尋常師範学校(『信州大学教育学部九十年史』より)

 浅岡一森有礼との個人的な関係については不明ですが、師範学校令が公布された明治19年(1886)に長野県尋常師範学校長に任ぜられ、県の学務課長を兼任していることや、上記の業績などから、森の眼鏡にかなった人物であったと言えるでしょう。
 「『忠孝』説き、『義仁』を尊ぶ、”森(有礼)構想”の地方的オルガナイザーとして、浅岡校長の手腕は傑出して」(『信州からの証言 : 地方記者ノート』より「信州教育をめぐる100年」)いたという評価もあるほどです。

 

 浅岡は、「16歳で戊辰の役に二本松藩鉄砲組の一員として参戦し、転戦すること18回。本宮での戦いでは左腕を銃弾が貫通し、出血がひどく危うく命を落とすところ」でしたが、上京して文部省高官の書生を務めたことががきっかけで、教育の道に踏み出すことになりました。

会津若松市ホームページより「会津人物伝」”日本一の中学校長・浅岡一”)

 「武士道の典型にして人格高潔、信州教育界の厳父であり慈父であり創設者」(市川虎雄『信濃教育史概説』)と讃えられた浅岡の下で、教職をめざす赤羽たち師範生は学生時代を送り、深くその薫陶を受けていたものと思われます。

 

【参考・引用文献】       ※国立国会図書館デジタルコレクション
窪田祥宏「森文相の国民教育政策一その思想と制度を中心として一」 日本大学教育学会『教育学雑誌第16号』1982年
※市川虎雄『信濃教育史概説』信濃毎日新聞出版部、1933年
信州大学教育学部九十年史編集委員会 編『信州大学教育学部九十年史』信州大学教育学部創立九十周年記念会、1965年
※大島幸夫 文・写真『信州からの証言 : 地方記者ノート』令文社、1968年
※長野県教育史刊行会 編『長野県教育史第2巻 (総説編 2)』長野県教育史刊行会、1981年
会津若松市ホームページより「会津人物伝」”日本一の中学校長・浅岡一”)

https://www.city.aizuwakamatsu.fukushima.jp/j/rekishi/jinbutsu/index.htm  )

二本松市ホームページより「ふるさと人物誌」

https://www.city.nihonmatsu.lg.jp/bunka_sports_syo/bunka_rekishi/jinbutsu/page001085.html