小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

新田次郎『聖職の碑』その3 新教育の思想と学校現場の実態

「われわれは教科書中心主義の文部省の教育方針を後生大事に守っているだけではいけないと思います。時世の流れに応じた教育がどんなものであるかは、まだはっきりしませんが、子供たちの個性を尊重する教育に力を入れねばならない時が来たことだけは確かなようです」

 

■ 教育界に新しい思想 ー明治末期から大正初期ー

 いわゆる大正デモクラシーを背景に、後に「大正自由教育」「大正新教育」)と呼ばれる教育改造運動が一時期な興隆を見せました。
 この運動は十九世紀末から二十世紀初頭にかけての国際的な新教育の影響を強く受けたものでした。
 その新教育の運動に理念的な影響を強く及ぼしたのは、スウェーデンの教育思想家エレン・ケイ(1849~1926)の著した『児童の世紀』(1900年)でした。
 本書では、「20世紀を子どもの世紀に」と、いわゆる「児童中心主義」が唱えられ、その理念に基づいた様々な新しい取り組みが、欧米の各国で試みられるようになります。

『二十世紀は児童の世界』エレン・ケイ原著、大村仁太郎解説、同文館大正2年(1913)

 我が国では、ヨーロッパ留学から帰朝した谷本富(たにもと とめり)が明治39年(1906)に著した『新教育講義』や、既に『統合主義教授法』(明治32年・1899)において児童の自発的な活動を重視する「活動主義」「統合主義」を唱えた樋口勘次郎らの教育思想が、教育現場に新しい風を吹き込み始めていた、そんな時期でした。
 こうした状況下で、一部の師範学校附属小学校や私立小学校を中心に、グループ学習や能力別学級編成などの新しい試みがなされるようになっていったのです。

ダルトン・プランの実践が行われた福井県三国尋常高等小学校の地理学習
(『『福井県史』通史編5 近現代一 』より)

■ 閉塞感の漂う教育界の状況

  若い頃に信州白樺教育運動に携わった一志茂樹氏(明治26~昭和60年・1893~1895、長野県の小学校教員、校長を勤める傍ら、信濃史学会を創立、地方史研究者としても知られた)は、明治末から大正初期の教育界の状況についてこう語っています。

 明治三十年代から大正の初期にかけましては、もっぱらヘルバルト流の教育思想が信州ばかりではなく、全国をおおったように思います。いわゆる*三段教育法というテクニックが教育界を風靡(ふうび)しておりました。人間形成とか魂を養うとかいうことではなしに、国民思想を錬磨し、教育の実を挙げるためにまずもって教育の技術を高めてゆくということが至上命令であったようであります。
 要するに、授業のうまさがまず問題になる。机間巡視の仕方がどうだとか、板書の仕方がどうだとかいうことがしょっちゅう問題になる。(中略)
 毎日教案を作って、校長の認印がなければ授業が出来ない。わたくしのつとめた学校では、さらに週案というものをつくって、一週間前に教え方についてどう具体的な準備をするとか、また、一週間分の教具を用意するとかについて研究会を開いたものです。(後略)

一志茂樹「多分に誤伝評価されつつある大正期信州白樺教育の実態」(今井信雄『新訂「白樺」の周辺 ー信州教育との交流についてー』) ※太字は筆者

*「三段教育法」・・・元々ヘルバルトが唱えた四段階の教授・学習指導の展開法を、同学派のチラー、ラインが教育現場の実状に合わせて、「予備・提示・比較・総括・応用」という五段階の展開法に改めたが、後に我が国ではそれを現場に合うように「予備」・「提示」・「整理」の三段階に簡略化したものが普及した。授業展開の形式主義、画一化が弊害として指摘されることが多かった。

 後に「信州白樺派と呼ばれた教育運動が、短い期間ではあったものの、県下に広がったのは、当時の行き詰まった教育界の状況から見ると、必然的な現象であったというとらえ方でした。 

 まずは形式を整え、教授技術や方法論を重視する風潮が現場を覆っていたことに対して、若手の教員たちは強い不満を抱いていたのでした。

 

   自然主義の作家として知られる島崎藤村は、長野県飯山町(現・飯山市)を舞台とする『破戒』明治39年・1906)の中で、当時の教育界について、次のような興味深い観察、描写をしています。

映画「破戒」(2022年公開)より

   校長は応接室に居た。斯(こ)の人は郡視学が変ると一緒にこの飯山へ転任して来たので、丑松や銀之助よりも後から入つた。学校の方から言ふと、二人は校長の小舅(こじゆうと)にあたる。其日は郡視学と二三の町会議員とが参校して、校長の案内で、各教場の授業を少許(すこし)づゝ観た。郡視学が校長に与へた注意といふは、職員の監督、日々(にちにち)の教案の整理、黒板机腰掛などの器具の修繕、又は学生の間に流行する『トラホオム』の衛生法等、主に児童教育の形式に関した件(こと)であつた。応接室へ帰つてから、一同雑談で持切つて、室内に籠る煙草(たばこ)の烟(けぶり)は丁度白い渦(うず)のやう。茶でも出すと見えて、小使は出たり入つたりして居た。
    斯(こ)の校長に言はせると、教育は則ち規則であるのだ。郡視学の命令は上官の命令であるのだ。(中略)
    是の主義で押通して来たのが遂に成功して ー まあすくなくとも校長の心地(こころもち)だけには成功して、功績表彰の文字を彫刻した名誉の金牌(きんぱい)を授与されたのである。   (第二章 一)

 

   表現にやや誇張があるかもしれませんが、ここでは郡視学と校長の関係が軍隊や官僚組織における「上官(上司)と部下」のそれのように描かれています。
 中央集権的であった教育行政組織の末端にあって、官僚的・形式主義的な監督をおこなっていた郡視学と唯々諾々(いいだくだく)としてそれに従う校長の姿を、一青年教師が批判的な眼で眺めているといった構図になっています。

 当時の教育界に管理主義、形式主義が横行していたということを印象づける描写と言ってよいでしょう。

 

【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション
片桐芳雄・木村元『教育から見る日本の社会と歴史』八千代出版、2008年
小針誠『教育と子どもの社会史』梓出版社、2007年
田中克佳「西洋教育思想の移入と実践・小史:明治日本における」『慶應義塾大学大学院社会学研究科紀要:社会学教育学心理学No15』1975年
今井信雄『新訂「白樺」の周辺』信濃教育会出版部、1986年
※一志茂樹 [述], 信濃史学会一志茂樹八十年回顧編集委員会 編『地方史に生きる : 聞き書一志茂樹の回想』平凡社1984
青空文庫」より島崎藤村『破戒』(底本:『現代日本文學大系13 島崎藤村集(一)』筑摩書房、1968年

福井県 編『福井県史 通史編 5 (近現代 1)』福井県、1994年