小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

2022-01-01から1年間の記事一覧

コラム9 「気をつけ! 礼!」はどこから?

「学校」という空間には、明治初年以降百数十年の間に、我が国独特の歴史的な慣行や文化が根付いており、近年では「学校文化史」とか「教育文化史」の研究対象にもなっています。 空間内部にいるときには、余りにも当たり前すぎて気にもとめなかった習慣や用…

コラム8 「明治の遠足」 

「遠足」という言葉は、既に江戸時代末期の滑稽本、随筆にその用例があり、町場の寺子屋や私塾の中には、郊外へ花見や紅葉狩りなどの行楽に出かけていたという例があるそうです。ただし、その頃は「とおあし」と読んでいたようです。 ■ 初めは「遠足運動会」…

徳富健次郎『小説 思い出の記』その3 教科書が買えずに退学?

最初は学校も上下各々十級に分れていたのが、後には六級になり、最後には上中下級に分かれ、同じ試験を何度もして、同じような卒業証書を何枚ももらったことを覚えている。単語篇地理初歩から読み初めて、読本も年に二三度は変わるのである貧乏人は到底本が…

徳富健次郎『小説 思出の記』その2 「誤謬(うそ)ばかり教うる先生」と地方の小学校の実態

最初は学校も上下各々十級に分れていたのが、後には六級になり、最後には上中下級に分かれ、同じ試験を何度もして、同じような卒業証書を何枚ももらったことを覚えている。単語篇地理初歩から読み初めて、読本も年に二三度は変わるのである貧乏人は到底本が…

徳富健次郎『小説 思出の記』その1 「寺子屋に毛のはえたくらい」の小学校

名作でたどる明治の教育あれこれ: 文豪の描いた学校・教師・児童生徒 作者:藤原重彦 パブフル Amazon 【作品】 零落した旧家の一人息子菊池慎太郎の波瀾に富む人生を描いた長篇小説。主人公の思想と情熱、彼を取り巻く人々の人情、明治二〇年代の世相の描写…

コラム7 明治時代 小学生の通学服は・・・ 

■ 明治前半期 ー筒袖以前の通学服ー 思想家・社会主義運動家の山川均(明治13~昭和33年・1880~1958、岡山県倉敷村〈現・倉敷市〉生まれ)は明治20年(1887)に地元の尋常小学校に入りましたが、その頃の小学生の姿を次のように述べています。※引用文中の太…

中勘助『銀の匙』その3 修身と操行点

名作でたどる明治の教育あれこれ: 文豪の描いた学校・教師・児童生徒 作者:藤原重彦 Amazon 私のなにより嫌いな学課は修身だつた。高等科からは掛け図をやめて教科書をつかうことになってたがどういう訳か表紙は汚いし、挿画はまずいし、紙質も活字も粗悪な…

中勘助『銀の匙』その2 日清戦争下の小学校ーちゃんちゃん坊主と大和魂ー

主人公が重い麻疹(はしか)に罹って学校を休んでいる間に、大好きな中沢先生ー病気のために予備役になっていた元海軍士官ーは、日清戦争の勃発により招集されており、新任の丑田先生が受け持ちになっていましたが、彼はこの先生と全く気が合わないのでした。…

中勘助『銀の匙』その1   試験と席次

【作品】長編小説。前編は大正二年(一九一三)四月から大正六年(一九一七)二月まで「東京朝日新聞」に連載。脱俗孤高の詩人として知られる中勘助の幼少年時代を浮き彫りにした作で、夏目漱石はこれを「子供の世界の描写として未曾有のものである」と激賞…

コラム6 小学校で落第 その2

陶山直良 編『画引小学読本』( 積玉圃、1876年)より それでは、進級試験では実際にどんな問題が出題されていたのでしょうか。ここでは、明治10年(1877)愛媛県伊予師範学校編「小学試験参考」の中から、下等第八級の問題を見ていきましょう。ただし、「参…

コラム6 小学校で落第 その1

島津製作所二代目・島津源蔵の卒業証書(明治11年3月)島津製作所ホームページより「~二代目源蔵の卒業証書にみる当時の小学校事情~」 https://www.shimadzu.co.jp/visionary/memorial-hall/blog/20150630.html ■ 半年ごとに卒業証書 上の写真は、島津製作…

島崎藤村『破戒』その3  「天長節」

本ブログでは「田山花袋『田舎教師』③」でも、「天長節」を取り上げています(https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2019/05/07/114653)が、今回は少し違った話題を取り上げます。 さすがに大祭日だ。町々の軒は高く国旗を掲げ渡して、いづれの家も静粛に斯…

島崎藤村『破戒』その2 老教員の本音・「教師像」の変化

『・・・・我輩なぞは二十年も――左様(さやう)さ、小学教員の資格が出来てから足掛十五年に成るがね、其間唯同じやうなことを繰返して来た。と言つたら、また君等に笑はれるかも知れないが、終(しま)ひには教場へ出て、何を生徒に教へて居るのか、自分乍ら感…

島崎藤村『破戒』その1 「名誉の金牌」とは  

毎月二十八日は月給の渡る日とあつて、学校では人々の顔付も殊に引立つて見えた。課業の終を告げる大鈴が鳴り渡ると、男女の教員はいづれも早々に書物を片付けて、受持々々の教室を出た。悪戯盛(いたづらざかり)の少年の群は、一時に溢れて、其騒しさ。弁…

コラム5 明治・大正時代の「夏休み」その2 

大正13年(1924)静岡県教育会編集の「ナツヤスミノトモ 尋常科一学年用」(https://arukunodaisuki.hamazo.tv/e7556148.html) ■ 夏休み・子どもたちの暮らしぶり 明治34年(1901)7月刊行の雑誌「児童研究」(日本児童学会)には、 「研究實例 夏季休業中…

コラム5 明治・大正時代の「夏休み」その1

田山花袋『田舎教師』初版本 口絵 ■ 「夏休み」はいつ頃に始まったのか? 先日の7月21日(木)に全国のほとんどの小中高等学校が「夏休み」に入りました。2022年度の場合、公立学校では8月31日(水)までの42日間というが最多であるということです。 (https…

石川啄木「雲は天才である」その3 「教授細目」と「教案」

※有佐一郎『学級文庫シリーズ ; 4・5年生 石川啄木 : 薄幸の歌人』(日本書房、1957年)の挿絵 ある日のこと、主人公の代用教員・新田耕助は自作の「校歌」を子供たちに勝手に歌わせた一件で、校長と首座訓導の古山から注意を受けました。 古山が先づ口を切…

石川啄木『雲は天才である』その2 「校歌」

詳しく説明すれば、実に詰らぬ話であるが、問題は斯うである。二三日以前、自分は不図した転機(はずみ)から思付いて、このS――村小学校の生徒をして日常朗唱せしむべき、云はゞ校歌といつた様な性質の一歌詞を作り、そして作曲した。作曲して見たのが此時…

石川啄木『雲は天才である』その1 「日本一の代用教員」

六月三十日、S――村尋常高等小学校の職員室では、今しも壁の掛時計が平常(いつも)の如く極めて活気のない懶(ものう)げな悲鳴をあげて、――恐らく此時計までが学校教師の単調なる生活に感化されたのであらう、――午後の第三時を報じた。大方今は既(はや)…

谷崎潤一郎「小さな王国」その6 小学校教員の待遇をめぐって

七人目の子を生んでから、急に体が弱くなって時々枕に就いて居た貝島の妻が、いよいよ肺結核と云う診断を受けたのは、ちょうどその年の夏であった。M市へ引き移ってから生活が楽になったと思ったのは、最初の一二年の間で、末の赤児は始終煩(わずら)ってばか…

谷崎潤一郎「小さな王国」その5 「怖い先生」から「面白いお友達」へ

修身の時間に私語をする沼倉を叱り、立たせようとした貝島に、全級の生徒が「先生、僕も一緒に立たせて下さい」と言い出しました。 貝島は予想外の事態に「癇癪と狼狽の余り、もう少しで前後の分別もなく」怒号するところを、ベテランらしく自制して、沼倉を…

谷崎潤一郎「小さな王国」その4  ヘルバルト式の管理教育

「新編修身教典 尋常小学校巻1第1課」明治33年・1900、普及舎(近代書誌・画像データベース新編」より) 或る日の朝、修身の時間に、貝島が二宮尊徳の講話を聞かせたことがあった。いつも教壇に立つ時の彼は、極く打ち解けた、慈愛に富んだ態度を示して、…

谷崎潤一郎「小さな王国」その3 修身の時間に二宮尊徳の話

彼が教職に就いたD小学校は、M市の北の町はずれにあって、運動場の後ろの方には例の桑畑が波打って居た。彼は日々、教室の窓から晴れやかな田園の景色を望み、遠く、紫色に霞んで居るA山の山の襞に見惚れながら、伸び伸びしとした心持ちで生徒達を教えて…

谷崎潤一郎「小さな王国」その2  大正期・小学校教師受難の時代

【作者】谷崎潤一郎 大正2年(1913) 27歳の頃 (明治19~昭和40年・1886~1965)東京・日本橋生れ。東大国文科中退。在学中より創作を始め、同人雑誌「新思潮」(第二次)を創刊。同誌に発表した「刺青」などの作品が高く評価され作家に。当初は西欧的なス…

谷崎潤一郎『小さな王国』その1 谷崎の小中学校時代

本題に入る前に、作者の経歴を見ていると、その学校歴にずいぶん興味深いところがありますので、まずはそちらの方から見ていくことにします。 ※略年譜は『新潮日本文学アルバム 谷崎潤一郎』及び「古谷野敦公式ホームページ・谷崎潤一郎詳細年譜」(http://a…

『白い壁』その6(おわりに) 本庄陸男34年の軌跡

本作品の作中時間は、昭和9年(1934)頃と思われますが、既に作者の本庄陸男は教員の地位を免職になっており、プロレタリア文学の作家として活動していました。 教員組合運動からプロレタリア文学へと向かう過程を中心に、改めて略年譜をもとに彼の34年の人…

コラム4 学校掃除 その2

■ 世界の学校掃除 昭和50年(1975)といえば、47年も前のことになりますが、広島大学教育学部の沖原豊教授(当時、後に第7代学長)の比較教育学研究室が共同研究「各国の学校掃除に関する比較研究」(https://www.jstage.jst.go.jp/article/jces1975/1977/3/…

コラム4 学校掃除 その1

■ コロナ禍で学校の掃除にも変化が・・・・ 長引くコロナ禍のなか、学校現場の教育活動に大きな変化が生じているとの報道に接することがよくあります。そんな中に、日々児童生徒たちが行っている掃除(清掃)にも、その影響が及んでいるというネットニュースがあ…

本庄陸男『白い壁』その5 健全な精神は健全な肉体に宿る??

昇汞水(しょうこうすい)に手を浸しそれを叮嚀(ていねい)に拭いた学校医は、椅子にふんぞりかえるとその顎で子供を呼んだ。素っ裸の子供は見るからに身体を硬直させて医師の前に立った。彼はまず頭を一瞥して「白癬(はくせん)」と言った。それから胸を…

本庄陸男「白い壁」その4 「劣等児」・「低能児」と知能検査

それほど本当のことを何の怖気もなくぱっぱっと言ってしまう子供たちから、受持教師の杉本は低能児という烙印(らくいん)を抹殺したいとあせるのであった。もしこの小学校の特殊施設として誇っている智能測定が、まことに科学的であるというならば、子供の…