小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

中勘助『銀の匙』その3 修身と操行点

 

 私のなにより嫌いな学課は修身だつた。高等科からは掛け図をやめて教科書をつかうことになってたがどういう訳か表紙は汚いし、挿画はまずいし、紙質も活字も粗悪な手にとるさえ気もちがわるいやくざな本で、載せてある話といえばどれもこれも孝行息子が殿様から褒美をもらったの、正直者が金持ちになったのという筋の、しかも味もそっけもないものばかりであった。おまけに先生ときたらただもう最も下等な意味での功利的な説明を加えるよりほか能がなかったので折角の修身は啻(ただ)に私をすこしも善良にしなかったのみならずかえってまったく反対の結果をさえひき起した。このわずかに十一か十二の子供のたかの知れた見聞、自分ひとりの経験に照してみてもそんなことはとてもそのまま納得ができない。私は 修身書は人を瞞著(まんちゃく)するものだ と思った。それゆえ行儀が悪いと操行点をひかれるという恐しいその時間に頬杖をついたり、わき見をしたり、欠伸(あくび)をしたり、鼻唄をうたったり、出来るだけ行儀を悪くして抑え難い反感をもらした
 私は学校へあがってから「孝行」という言葉をきかされたことは百万遍にもなったろう。さりながら彼らの孝道は畢竟(ひっきょう)かくのごとくに生を享(う)け、かくのごとくに生をつづけてることをもって無上の幸福とする感謝のうえにおかれている。そんなものが私のように既にはやく生苦の味をおぼえはじめた子供にとってなんの権威があろうか。私はどうかしてよく訳がききたいと思いある時みんなが悪性の腫物(はれもの)のように触れることを憚(はばか)って頭から鵜呑(うの)みにしてる孝行についてこんな質問をした。
「先生、人はなぜ孝行しなければならないんです」
 先生は眼を丸くしたが
「おなかのへった時ごはんがたべられるのも、あんばいの悪い時お薬ののめるのも、みんなお父様やお母様のおかげです」という。
私「でも僕はそんなに生きてたいとは思いません」
 先生はいよいよまずい顔をして
「山よりも高く海よりも深いからです」
「でも僕はそんなこと知らない時のほうがよっぽど孝行でした」
 先生はかっとして
「孝行のわかる人手をあげて」
といった。ひょっとこめらはわれこそといわないばかりにぱっと一斉に手をあげてこの理不尽な卑怯なしかたに対して張り裂けるほどの憤懣(ふんまん)をいだきながら、さすがに自分ひとりを愧(は)じ顔を赤くして手をあげずにいる私をじろじろとしりめにかける。私はくやしかったけれどそれなりひと言もいい得ずに黙ってしまった。それから先生は常にこの有効な手段を用いてひとの質問の口を鎖(とざ)したが、こちらはまたその屈辱を免れるために修身のある日にはいつも学校を休んだ。(後篇 十)  

 *瞞著(まんちやく)する・・・ごまかすこと、だますこと。     ※下線は筆者

 

■ 教育勅語と修身科
 

 明治20年前後、学校制度が次第に整えられてくると、それまでの知育偏重の教育が批判されるとともに、国民教育の根本精神についての議論が各方面で活発になされるようになりました。
   徳育のあるべき姿として、旧来の儒教道徳を重視するもの、西洋の近代的な市民倫理を取り入れようとするものなど、様々な意見が並立し、修身教育の混乱を招く事態が生じていました。

 そんな中、明治23年(1890)10月30日、明治天皇は総理大臣・山県有朋と文部大臣・芳川顕正を宮中に召して「教育に関する勅語教育勅語)を下賜されました。

   これによって、国民道徳および国民教育の根本理念が明示されることとなったわけです。

教育勅語」謄本 明治神宮ホームページより
https://www.meijijingu.or.jp/about/3-4.php

元田永孚(もとだ ながざね)儒学者、宮内官僚、「教育勅語」の起草で知られる。
文政元年〜 明治24年・1818〜 1891年 国立国会図書館「近代日本人の肖像」より

 明治24年(1891)11月の「小学校教則大綱」は、各教科目の教授内容の基準を詳細に示したものでした。

 全教科の首位に置かれた「修身」においては、まず「修身ハ教育二関スル勅語ノ旨趣二基キ児童ノ良心ヲ啓培シテ其徳性ヲ涵養シ人道実践ノ方法ヲ授クルヲ以テ要旨トス」と、「教育勅語の趣旨に基づき行われるものであることを示し、次に授けるべき徳目として、孝悌(てい)、友愛、仁慈、信実、礼敬、義勇、恭倹等をあげていますが、中でも尊王愛国ノ志気」の涵養が強調されました。

 その頃の修身教科書の特徴を『学制百年史』は次のように述べています。

 小学校の修身教科書は教育勅語の趣旨に基づいて特に厳格な基準によって検定が行なわれることとなった。

    そこでその後の修身教科書はきわめて忠実に教育勅語に基づいて内容が編集されている。

    当時の小学校修身教科書を見ると、毎学年(または毎巻)勅語に示された徳目を繰り返す編集形式がとられている。これは後に徳目主義と呼ばれているもので、教育勅語発布直後の修身教科書の特色である。

    三十年代になると、ヘルバルト派の教育思想の影響により、歴史上の模範的人物を中心として編集した人物主義の修身教科書が多くあらわれたが、その際にも人物に教育勅語に示された徳目を配置して編集しており、教育勅語の趣旨は一貫している。

    このほか勅語の全文を各巻の巻頭にかかげているものも多く、高等小学校では一巻または一部を勅語の解説にあてているものも多い。   ※太字は筆者

 

渡辺政吉編纂『実験日本修身書 巻三』(金港堂書籍、1893年)より第二課「孝行」
広島大学図書館「教科書コレクション画像データベース」
https://dc.lib.hiroshima-u.ac.jp/text/detail/134920141210180841

⬛️   操行点とは

 引用文中の下線部に「行儀が悪いと操行点をひかれる」とあります。

 「操行」とは、「常日頃の行い。行状。品行。みもち。」(『日本国語大辞典』)のことで、現代風にいうと「行動の記録」になるのでしょうが、それにも「甲乙丙」と評価がなされていたのです。

 これは明治33年(1900)の小学校令施行規則において、学籍簿(現在の指導要録)への記入が義務づけられたことによるものでした。

 もちろん、成績通知簿にもその評価欄が設けられていました。下は昭和を代表する文芸評論家・小林秀雄(明治35~昭和58年・1902~1983)が、現・港区の白金尋常小学校在籍時のものです。「全甲」の素晴らしい成績です。

「見る・知る・伝える~港区教育アーカイブ」より
子どもたちの学びの歴史 / 賞状・通信簿
https://trc-adeac.trc.co.jp/Html/Usr/1310305200/spread/sub/01_kodomo/subpage1_5.html

 「修身」の評価も難しいと思うのですが、「操行」となると客観的な評価はさらに難しかったのではないでしょうか。

 教育評価の研究者は、その問題点を以下のように指摘しています。

 人物評価は,当時の教師の一般的な力量からすれば,観察,印象的 判断によりきわめて概略的に点数や評語を与えるという,主観性の強いものであった。松本尋常小学校の「日々人物検定表」では, 品行,勤勉,才幹とそれ ぞれ定点100 点が与えられ, 減点法で日々採点され, 各項目の合計点を平均するという機械的方法がとられている。そこには評価におけるフィード・バック 機能を期待することはむずかしく, いきおい児童を相対的に比較して格づけし及落及び褒賞の資料として利用されたものと考えられる。そして児童の行動は,教室の内外を問わず観察(監視)され,収集された資料は指導改善のために利用されるというより児童を管理し校則に適応させる機能を果たしていたとみてよい。

(天野正輝「明治期における徳育重視策の 下での評価の特徴」 ※下線は筆者)

 主人公の「操行」の評価はどうだったのでしょうか。

 これだけ教師に反抗的で生意気なことを言っているのですから、当然のことながら「甲」「乙」ではなかったことでしょう。

 

 これが、中学校ともなると「操行点」も進級や卒業の要件となっており、生徒たちの日常の言動を厳しく規制するものとなっていました。

 下の記事をご参照ください。

sf63fs.hatenablog.com

 

【参考・引用文献】
文部省『学制百年史』帝国地方行政学会, 1972年
天野正輝「明治期における徳育重視策の 下での評価の特徴」『龍谷大学論集471』2008年

「デジタル港区教育史」https://adeac.jp/minato-city-kyouiku/top/
広島大学図書館「教科書コレクション画像データベース」
    https://dc.lib.hiroshima-u.ac.jp/text/detail/134920141210180841