小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

中勘助『銀の匙』その2 日清戦争下の小学校ーちゃんちゃん坊主と大和魂ー

と 主人公が重い麻疹(はしか)に罹って学校を休んでいる間に、大好きな中沢先生ー病気のために予備役になっていた元海軍士官ーは、日清戦争の勃発により招集されており、新任の丑田先生が受け持ちになっていましたが、彼はこの先生と全く気が合わないのでした。

 

 それはそうと戦争が始まつて以来仲間の話は朝から晩まで大和魂とちやんちやん坊主でもちきつてゐる。それに先生までがいつしよになつてまるで犬でもけしかけるやうになんぞといへば大和魂とちやんちやん坊主をくりかへす。私はそれを心から苦苦(にがにが)しく不愉快なことに思つた。先生は予譲(よじやう)や比干(ひかん)の話はおくびにも出さないでのべつ幕なしに元寇と朝鮮征伐の話ばかりする。さうして唱歌といへば殺風景な戦争ものばかり歌はせて面白くもない体操みたいな踊りをやらせる。それをまたみんなはむきになつて眼のまへに不倶戴天のちやんちやん坊主が押寄せてきたかのやうに肩をいからし肘を張つて雪駄の皮の破れるほどやけに足踏みをしながらむんむと舞ひあがる埃のなかで節も調子もおかまひなしに怒鳴りたてる。私はこんな手合ひと歯(よはひ)するのを恥とするやうな気もちでわざと彼らよりは一段高く調子をはづして歌つた。また唯さへ狭い運動場は加藤清正北条時宗で鼻をつく始末で、弱虫はみんなちやんちやん坊主にされて首を斬られてゐる。町をあるけば絵草紙屋の店といふ店には千代紙やあね様づくしなどは影をかくして到るところ鉄砲玉のはじけた汚らしい絵ばかりかかつてゐる。耳目にふれるところのものなにもかも私を腹立たしくする。ある時また大勢がひとつところにかたまつてききかじりの噂を種に凄(すさま)じい戦争談に花を咲かせたときに私は彼らと反対の意見を述べて 結局日本は支那に負けるだらう といつた。この思ひがけない大胆な予言に彼らは暫くは目を見合はすばかりであつたが、やがてその笑止ながら殊勝な敵愾心(てきがいしん)はもはや組長の権威をも無視するまでにたかぶつてひとりの奴は仰山に
「あらあら、わりいな、わりいな」
といつた。他のひとりは拳固でちよいと鼻のさきをこすつてみせた。もうひとりは先生のまねをして
「おあいにくさま、日本人には大和魂があります」
といふ。私はより以上の反感と確信をもつて彼らの攻撃をひとりでひきうけながら
「きつと負ける、きつと負ける」
といひきつた。そしてわいわい騒ぎたてるまんなかに坐りあらゆる智慧をしぼつて相手の根拠のない議論を打ち破つた。仲間の多くは新聞の拾ひ読みもしてゐない。万国地図ものぞいてはゐない。史記十八史略の話もきいてはゐない。それがためにたうとう私ひとりにいひまくられて不承不承に口をつぐんだ。が、鬱憤はなかなかそれなりにはをさまらず、彼らは次の時間に早速先生にいつけて
「先生、□□さんは日本が負けるつていひます」
といつた。先生はれいのしたり顔で
「日本人には大和魂がある」
といつていつものとほり支那人のことをなんのかのと口ぎたなく罵つた。それを私は自分がいはれたやうに腹にすゑかねて
「先生、日本人に大和魂があれば支那人には支那魂があるでせう。日本に加藤清正北条時宗がゐれば支那にだつて関羽張飛がゐるぢやありませんか。それに先生はいつかも謙信が信玄に塩を贈つた話をして敵を憐むのが武士道だなんて教へておきながらなんだつてそんなに支那人の悪口ばかしいふんです」
  そんなことをいつて平生のむしやくしやをひと思ひにぶちまけてやつたら先生はむづかしい顔をしてたがややあつて
「□□さんは大和魂がない」
といつた。私はこめかみにぴりぴりと癇癪筋のたつのをおぼえたがその大和魂をとりだしてみせることもできないのでそのまま顔を赤くして黙つてしまつた。
  忠勇無双の日本兵支那兵と私の小慧(ざか)しい予言をさんざんに打ち破つたけれど先生に対する私の不信用と同輩に対する軽蔑をどうすることもできなかつた。
                            (後篇 二 傍線は筆者)

「日本大勝利平壌攻撃ノ圖」(「日清戦争錦絵美術館」より、https://nissinsensonishikie.jimdo.com/#gsc.tab=0

 

■ 軍国主義的風潮の高揚

 開戦後まもなく、文部省は「北海道及び府県に対する小学校の体育及び衛生に関する訓令」(明治27年8月29日、文部省訓令第六号)を発しました。
 内容を分かりやすく箇条書きにすると以下のようになります。

 一 普通体操、兵式体操ともに手足、全身の筋肉を活発に動かすような体操を行うこと。
 二 高等小学校男子は兵式体操の授業においては、軍歌を歌うなどして気勢を上げるようにすること。
 三 小学校生徒には活発な動きが出来るように、洋服和服を問わず筒袖を着用させること。
 四 放課後も外で活発な遊戯を行うように指導し、「大声、急走、嬉戯」を良くないこととし、「沈静」を良いこととして「品行点」に加えるようなことは好ましくないこと。
 五 筆記や暗誦などに力を入れることは、「過度に脳力」を浪費するので、特に必要がなければやめること。
 六 生徒が困難を覚える作文は初年級の者には課さず、簡単な作文であってもそれを試験問題とはしないこと。
 七 試験の点数によって席順を上下したり褒美を与えることには、生徒の神経を過度に刺激する弊害があり、生徒の身体的成長に害を及ぼすのでやめること。
 八 小学校生徒の喫煙は禁ずること。
 九 都会の生徒が登下校の際に人力車を用いることは軟弱を招くので、なるべく徒歩で登下校するよう指導すること。               ※太字は筆者

 

 この訓令は、小学生徒の間にも「尚武の気風」を醸成させるとともに、「将来の兵士としての小学校生徒の身体への関心を高め」(『福井県史』通史編5/第二章日清・日露戦争と県民/第三節明治後期の教育・社会)ようとするものでした。

高等小学校生徒による兵式体操 「ジャパンアーカイブズ」より

 また、文部省は「修身」の時間に、「教科書を使用しないで授業してもよい」旨の訓令も発しています。その結果、学校現場ではこの戦争を題材にした講話などが盛んに行われるようになりました。
 神奈川県のある小学校では、「日清韓事件ニ付修身時間ノ一部ヲ以テ之ニ関スル歴史談ニ充テ尊王愛国ノ士気ヲ養成センコトヲ図ル」(『明治期の社会と文化』神奈川県立公文書館)として、修身の時間に時局を反映した授業を実施しています。
 その影響でしょうか、児童全員が陸海軍に対する資金献納を申し出るという「美談」まで生まれたということです。

 

 『兵庫県教育史』では、日清戦争と小学生」と題して、戦時色に染まった当時の学校生活や出来事として以下の内容を取り上げていますが、同様のことは全国各地で行われていました。

1 出征兵士の見送り(行き過ぎが軍の注意を受けるほどであった)
2 戦勝祈願のための神社参拝
3 戦勝祝賀会(特に旅順港占領のときには盛大であった)
4 軍資金献納運動(生徒、教員ともに)
5 戦勝祝賀大運動会の開催(軍国調の競技種目に参観者は大喜びであった)
6 各地域の中心的な小学校への戦利品の交付と展示
7 兵式体操の強化
8 軍事指導普及のための軍人講話、兵営の見学、軍艦の参観など

 

■ 「ちゃんちゃん坊主」の氾濫
  

 「ちゃんちゃん坊主」という中国人に対する侮蔑的な呼称の語源については諸説あるようですが、「江戸時代に江戸の町を中国人の格好をして鉦をチャンチャンと鳴らしながら売り歩いていた商人がいた」ことに由来するというのが有力なようです。
    研究者によれば、日本人が中国人を蔑視の対象とし、侮蔑的な言葉を使うようになったのはアヘン戦争で中国が列強に敗退した頃からですが、日清戦争が始まるまでは民衆の中にまでは浸透していなかったということです。(小松裕「近代日本のレイシズムー民衆の中国(人)観を例にー」)
  

 日清戦争開戦時に数え年13歳(高等小学校2年生)だったジャーナリストの生方敏郎(明治15~昭和44年・1882~1969、現在の群馬県沼田市生まれ)は名著『明治大正見聞史』(中公文庫、1978)において、同様のことを述べています。

 私たち子供は学校の先生から色々聞かされてからでも、まだこの戦の始まりはよく分からなかった。
 何故かと言えば、私たちはこの戦の始まるその日まで支那人を悪い国民とは思っていなかったし、まして支那に対する憎悪というものを少しも我々の心の中に抱いていなかったのだから。(中略)

 私等子供の頭に、日清戦争以前に映じた支那は、実はこの位立派な、ロマンチックな、そしてヒロイックなものであった。(中略)
 戦争の初めに持った不安の念が人々から脱れると共に、勝ちに乗じてますます勇む心と敵を軽蔑する心とが、誰の胸にも湧いてきた
 戦争が始まると間もなく、絵にも唄にも支那人に対する憎悪が反映してきた。私が学校で教えられた最初の日清戦争の唄は、
 討てや膺(こら)せや清国を、清は皇国(みくに)の仇なるぞ、討ちて正しき國とせよ。(中略)
 また、俗謡に踊りの振りまで付けて流行したのは、
 日清談判破壊せば、品川乗り出すあづま艦、つづいて八重山浪速艦、・・・・西郷死するも彼がため、大久保殺すも彼奴(きゃつ)がため、怨み重なるチャンチャン坊主
 というのだ。

 

麟児堂主人『ちやんちやん征伐子供の夜話 : 一名・日本男児の精神』
(三井新次郎、1894年)の表紙
開戦後、「ちゃんちゃん征伐」と題する書物が数多く出版されました。

 当初は、「眠れる獅子」と見られていた清国に対する不安や警戒心がありましたが、平壌の一戦に勝利の後は連戦連勝であっために、上で見たような侮蔑の念が人々の間に定着するようになっていきました。

 引用文中には、「また唯さへ狭い運動場は加藤清正北条時宗で鼻をつく始末で、弱虫はみんなちやんちやん坊主にされて首を斬られてゐる」とありますが、そうした風潮は小学生たちの戦争ごっこにも早速影響を与えていたようです。

日清戦争時の子どもたち 「ジャパンアーカイブズ」より

 加熱する軍国主義的教育の風潮に対して、自由主義的・合理主義的な教育思想の持ち主であった時の文部大臣・西園寺公望(さいおんじ きんもち、嘉永2年~昭和15年・1849~1940)は訓令を発して「戦争唱歌による安手の戦意昂揚や敵愾心の鼓吹を戒め」(海原徹『明治教員史の研究』)ましたが、一片の訓令ではいかんともしがたいほどに学校現場は軍国調一辺倒に陥っていたということです。

 

 小学校に入った頃はビリだった主人公も、この頃には勉強に目覚めたのでしょうか、組長(級長)を指名される(当時は選挙でなく、成績優秀者を教師が指名していた)ほどに成長していました。

 多くの級友とは違い、精神年齢も高かった主人公には、彼らや教師の言動は理不尽で馬鹿らしく、とうてい受け入れがたいものでありました。

 

【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション

※教育史編纂会編『明治以降教育制度発達史第3巻』竜吟社、1938年
小松裕「近代日本のレイシズム : 民衆の中国(人)観を例に」『熊本大学文学部論叢 78』2003年
 生方敏郎『明治大正見聞史』中公文庫、1978年
 ※麟児堂主人『ちやんちやん征伐子供の夜話 : 日本男児の精神』三井新次郎、1894年
兵庫県教育委員会兵庫県教育史』1963年
海原徹『明治教員史の研究』ミネルヴァ書房、1973年
福井県史』通史編5/第二章日清・日露戦争と県民/第三節明治後期の教育・社会
https://www.library-archives.pref.fukui.lg.jp/fukui/07/kenshi/T5/T5-2-01-03-01-04.htm
「デジタル神奈川県史 通史編 4」 近代・現代(1) 政治・行政1
 https://archives.pref.kanagawa.jp/www/contents/1555825099952/index.html