小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

徳富健次郎『小説 思出の記』その2 「誤謬(うそ)ばかり教うる先生」と地方の小学校の実態

 最初は学校も上下各々十級に分れていたのが、後には六級になり、最後には上中下級に分かれ、同じ試験を何度もして、同じような卒業証書を何枚ももらったことを覚えている。単語篇地理初歩から読み初めて、読本も年に二三度は変わるのである貧乏人は到底本が買えぬというて退学したことがある。僕は算術と習字が大きらいで、歴史と作文と地理といたずらが大好きだった。算術の勝負や清書の点取ではややもすると敗北するが、それでも級の第一を占めていた。今から思うと教員先生(実に好人物で、近眼で、煙草好きで、僕を非常にかわいがって、そうして誤謬(うそ)ばかり教うる先生だった。その金科玉条は寛の一字で、名は増見先生といったようだ)少し手かげんをしたかも知れぬ、もっとも少しはできたかも知れぬ、東京から全国巡回してきた今の視学官昔は何といったかその先生(僕らがどんなにエライ人と思ったろう! 増見先生どんなに震えたろう! )からほめられたことも覚えている。とにかく第一には素封家(かねもち)の子、第二にはまず才童と言うので、学校ではいばったものであった。 (上 五)

 

「単語図を教える」
 国立教育政策研究所・教育図書館・貴重資料デジタルコレクション https://www.nier.go.jp/library/rarebooks/teaching/K110-1.54/
実際の教場ではなく、あくまでも理想的なイメージを描いたものです。

■  「誤謬(うそ)ばかり教うる先生」!?


  「学制」では、教員の資格について「小学教員ハ男女ヲ論セス年齢二十歳以上ニシテ師範学校卒業免状或ハ中学免状ヲ得シモノニ非サレハ其任ニ当ルヿヲ許サス」(第四十章)との規定がありました。
 しかし、我が国初の師範学校が同年(明治5年:1872)に設置されたわけですから、この規定は将来に向けての「努力目標」というぐらいのものでした。
   現実には、寺子屋の師匠、僧侶、神官、そして禄を失った士族といった人たちが、「学制」初期の小学校教員でした。
  
 これは、明治6年(1873)当時の筑摩県(現在の長野県中信地方南信地方岐阜県飛騨地方と中津川市の一部)の例ですが、小学校教員(正式な呼称は「訓導」)の族籍及び職業は下の表の通りでした。(名倉英三郎「明治六年小学校教員の構成 : 近代日本教育制度の発達」)

 維新後、新たに生計の途を探さなくてはならなかった士族の多くが教員の世界に進出したのは、教職が藩校での学修歴を生かすことができ、社会的体面も維持できるという点で、格好の職業であったからです。
 一方、平民の教員のほとんどは農民で、地方の旧家、名望家、名主などの立場にあり、寺子屋私塾での学修経験を積んだ人たちでした。  
  しかしながら、そのほとんどが「学制」の要求する新しい教科目の内容と教授法に対応できるような人ではなかったことだけは確かだと思われます。

 

 島崎藤村『夜明け前』には、平田派の国学を修め、学区取締を勤める主人公の青山半蔵(作者の父がモデル)が明治7年(1874)、東京へ向かう旅の途次、松本において「学制」が示す「新時代の教育」の方向性を知って、違和感と戸惑いを覚えるところが描かれています。

 その教育法によると、小学は上下二等にわかたれる。高等を上とし、尋常を下とする。上下共に在学四か年である。(中略)
 教師の心得べきことは何よりもまず世界の知識を児童に与えることで、啓蒙(けいもう)ということに重きを置き、その教則まで従来の寺小屋にはないものであった。単語図を教えよ。石盤を用いてまず片仮名の字形を教え、それより習字本を授けよ。地図を示せ。地球儀を示せ。日本史略および万国地誌略を問答せよの類(たぐい)だ。試みに半蔵は新刊の小学読本を開いて見ると、世界人種のことから始めてある。そこに書かれてあることの多くはまだ不消化な新知識であった。なお、和算と洋算とを学校に併(あわ)せ用いたいとの彼の意見にひきかえ、筑摩県の当局者は洋算一点張りの鼻息の荒さだ。いろいろ彼はおもしろくなく思い、長居は無用と知って、そこそこに松本を去ることにした。
(第二部・第十章の三)     ※下線は筆者

  
 作中の「増見先生」の素姓や学修歴は分かりませんが、彼もまた「新時代の教育」が要求する教師像にはほど遠い人物であったようです。

 

 以下は、旧兵庫県(現在の神戸市及び阪神間の地域)の事例ですが、初めのうちは学区取締や学校世話係の推薦を受けた者が、学力試験を受けて各学校の教員に任命されるという方式をとっていました。

 しかし、彼らの中に教科や教授法の知識がある者はほとんど皆無という有様でした。

 そこで、二名の教員を約一ヶ月間東京の師範学校(後に東京高等師範学校、現在の筑波大学の前身)に派遣し、教授法を学ばせた後に、管内の教員に伝習させたということです。(山田正雄『教育史夜話〈兵庫県〉』)

 こうした実態があったことから、各府県では教員伝習所師範講習所などの名称で設けた機関において、短期の「教員養成」または「現職教員の講習」を行っていました。

 

「単語図」の授業風景 明治14年(1881)岩手県気仙沼郡浦浜小学校
中村紀久二『教科書の社会史』より
冒頭の絵と違い、当時の教師・生徒の服装がうかがえる貴重な写真

 

  ■ 明治7年、大分県の田舎の小学校では・・・
 次に挙げるのは、明治7年(1874)9月に大分県大分郡判田村(現・大分市)の小学校に入学した野尻専太郎という人の回想です。やや長くなりますが、草創期における地方の小学校の実態が、教師、生徒、教科指導、さらには懲罰の様子までもが記述された貴重なものです。
※漢字は新字体に改めています。

 当時の父兄一向教育の頭脳なく、独立の学校を設けず、為に旧庄屋の家を借りて学校に充てたり。元より機械器具の設けなく、生徒は皆文庫を用ひて文字を習ひたりしが、家主より家屋返却を迫られ、二カ年に三度の移転をなしたれば、村内に篤志の者ありて、明治九年八月間口四間の古家屋を寄附したり。元来学校建設の家にあらざるを以て、教室狭隘にして不便云ふべからず。
 就学の有様は、一カ年の内春秋の農閑の時学ばせ、夏冬の農繁期には欠席勝ちなり。其の当時の生徒は年齢一定せずして、私の様な小さい者ばかりでなく、幼は6,七歳より二十歳にもなる者ありて、生徒は殆ど男子ばかり女子は僅か一人二人に過ぎず。
 間には男子にしてちょん髷の者もあり、生徒総数三十人内外にして、服装と言へば上に羽織を着る者は一人もなく、皆半天若しくは袖無等にして、帯の上に前垂れを掛けたり。教員の服装は羽織袴にて洋服を着る者なし、又確たる級別を設けず、宛然維新以前の寺子屋教授に異ならず
 学制に従へば、下等小学第八級より上等小学第一級まで十六級を、八カ年で卒業する様になり居るを以て、独りも上等小学を卒業したるものなく、大概三年より五年位にて退学せり。
 教科目は十数教科ある中に、読書算の三科にして、主に習字を用ひ、読方は片仮名平仮名より実語教・童子教・商売往来・庭訓往来・小学読本巻の一、「凡そ地峡上の人類は五つに分かれたり」といふ六ケ敷漢字に移り、今より考ふれば、児童の心理とか学習系統とかは全く考へのつかぬ程の事なり。
 此の時代の小学校は、前記の如く年齢及び学力が著しく相違し、又教師も教授法など研究する者なく、僅かに洋算加減乗除が出来得る位の者で、学級的に一斉教授行われず、(中略)言はば個人的教授なり。又少し学力優等なる生徒は、教師に代わって読方を授け、黒板へ摘書などして代教したり。(中略)
 此の時代の生徒は殆ど欠席勝ちにして、遊び半分に学校に行くといふ風にて、授業中席を離るる者あり。
 懲罰には幾種類もあるが其の中最も重きは黒板の前に生徒を引き出し、例へば大算盤の上に終日端座せしめ、或は自分の机を頭上に挙げしめ、水を盛りたる茶碗を其の上に起きて、水溢るれば鞭撻し、終日直立不動の姿勢を取らしめたり。(中略)
 教師は師範学校四季(ママ)卒業、六ヶ月一ヶ年講習の者、又は漢字の素養ありて洋算の初歩を知り得る者を以て教師に採用せり。

(藤原喜代蔵『明治大正昭和教育思想学説人物史 第1巻 明治前期』)

 

 いかがでしょうか。明治時代の小学校を回想した文章は、これまで数多く見てきましたが、文部省の「巡視功程」を除けば、「学制」公布直後の地方の実態を、一個人がこれほど詳細に記述したものは初めてです。

 野尻氏の生涯については不明ですが、上掲の文章の内容から察するに、母校に助教として勤められた後も教職の道を歩まれたのではと想像されます。

 この文章中で最も印象に残ったのは、終わりの方にある「懲罰」(体罰についての記述でした。
  「自分の机を頭上に挙げしめ、水を盛りたる茶碗を其の上に置きて~」とありますが、この懲罰の方法は江戸時代の寺子屋によく見られた 伝統的(?)なもので、「捧満」といったそうです。(江森一郎「江戸時代の体罰観・研究序説」)
   

「捧満と破門」
「江戸の寺子屋と教育」5 寺子屋の「秩序」(1)罰
https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/15778470/

 もう一つの「大算盤の上に終日端座せしめ~」というのも初めて知りましたが、「教育資料庫」(「体罰」・対生徒暴力事件関連年表(~1979年)

http://kyouiku.starfree.jp/d/taibatsu-0/)には、「1878年明治11年〉12月 東京・金杉村の根岸小学校(現・東京都台東区)で、訓導が生徒をそろばんの上に座らせた上重い石を載せたり熱湯の入った茶碗を持たせるなどした。」という例が掲載されていました。
 これも、寺子屋時代からのの悪しき伝統ではないでしょうか。

 こうして見てくると、当時の小学校が寺子屋に毛の生えたような」と言われたのもなるほどと納得させられます。

 

【参考・引用文献】     ※国立国会図書館デジタルコレクション
徳富健次郎『小説 思出の記 上』岩波文庫、1988年
名倉英三郎「明治六年小学校教員の構成 : 近代日本教育制度の発達」『東京女子大學附屬比較文化研究所紀要 第7巻』1959年
島崎藤村『夜明け前 第二部(下)』岩波文庫、1995年
中村紀久二『教科書の社会史』岩波新書、1992年
※藤原喜代蔵『明治大正昭和教育思想学説人物史 第1巻』日本経国社、1942年
海原徹『明治教員史の研究』ミネルヴァ書房、1973年
唐沢富太郎『教師の歴史』創文社、1980年

山田正雄『教育史夜話〈兵庫県〉』のじぎく文庫、1964年

森一郎「江戸時代の体罰観・研究序説」『日本の教育史学 27 巻』教育史学会、1984