小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

コラム12 「学芸会」その1 そのルーツと展開(明治時代)

 運動会に学芸会と言えば、昔から「学校行事の華」とも言うべき二大行事で、「創立○○周年記念誌」等に見られる卒業生の回想文には、遠足、修学旅行などと並んでよく取り上げられる行事です。
 今も「学芸会」の名称で実施されているところも残ってはいるようですが、多くの小中学校では「学習発表会」「文化祭」「○○フェスティバル」等々と名称を変えているのが実情だといってよいでしょう。
 昭和30年(1955)生まれの筆者は、音楽会は思い出せるのですが、学芸会については果たしてあったのかどうか思い出すことが出来ません。
 今回は、そんな学芸会のルーツと明治・大正・昭和戦前期の展開について見ていくことにしたいと思います。

 

■ ルーツは寺子屋時代の「席書」にあった!

 
 近世の寺子屋においては、寺子たちの普段の手習い(習字)の成果を発表、公開する機会として「席書」(せきがき、せきしょ)」という行事がありました。

錦絵 :『幼童席書会』一勇斎国芳(1797~1861、江戸時代後期の浮世絵師)
練習してきた文字を一生懸命に清書して、鴨居に張り出している。
目出度い言葉や古歌、教訓的な語句などが見える。

 

 「席書」の当日は、門戸・障子を明け放し、あえて通行人が中を覗(のぞ)けるようにした。おおむね午前8時頃に初めて午後2,3時頃にすませる場合が多かったが、なかには10時頃まで続くこともあった。裃(かみしも)を着た師匠が、同様に晴れ着姿の子どもを一人ひとり毛氈(もうせん)を敷いた席に呼び出し、あらかじめ練習してあった文字を書かせた。
  江戸における「席書」は、1年でもっとも華やかな行事であった。「席書」は、寺子屋の生徒集めの宣伝の場であり、複数の寺子屋が存在する江戸では、師匠の教養や技量を誇示する場となっていたのである

(ブログ「粋なカエサル」より「江戸の寺子屋と教育」

https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/15797550/

 

 この「席書」は、やがて明治期に入ると「温習会」とか「学芸練習会」等々と呼び方が変わり、内容も多様化はしますが、学習成果の発表という寺子屋の伝統は受け継がれていくことになります。

 

■ 初めは地味な学習発表会だった!?

 明治5年(1872)の「学制」公布後の初期の小学校においても、寺子屋時代の「席書」の伝統を引き継ぐような形で、生徒の試験答案、作文、習字、図画、裁縫品などを展示する催しがありました。
   明治10年代後半になると、体育用器械、音楽用具、地図、年表、理科学器機、博物学標本、鉱物標本等々を展示する「教育展覧会」が盛んになり、アトラクションに理化学実験や幻灯会などが行われるようになります。(佐々木正昭「学校の祝祭についての考察:学芸会の成立」)

明治19年(1886) ”父兄を招待し児童の学業成績物、理化学実験を披露し喝采を得る”
『神戸市湊川小学校沿革絵巻』より

唐沢富太郎 著『図説明治百年の児童史』(上)所収

 明治 30年代半ば頃からは学芸練習会、教科練習会、温習会など様々な名称の学習発表会が、保護者や教育関係者を集めて実施されるようになりました。

 福沢清文著『関西十県教育視察管見 前編』(明治42年)という書物には、福岡県筑紫郡(現:筑紫野市)御笠北高等小学校を訪問した際に、「学芸練習会」を参観したときの様子が記されています。

 

 暫時にして一人の生徒長が出て来て演壇上に立ち、本日の学芸練習会開会を宣告した。すると一学年の級長が代わって現れた。(中略)

 この会に於いては、生徒は交替に演壇に立って、各自の担任事項を物語るので、たとえば一生徒が旅行の模様を物語ろうとするのに、山河の形勢、交通機関の状態、産物の模様等を詳説しようとする場合には、彼は前者の講演中既にその背後に立って小黒板に向かい、巧みに旅程の地図を描き、色彩まで施して、自己の当番を待っている。かように正しい順序の下に、各生徒は、敏捷に、大胆に毫も躊躇せず、逡巡せず、着々と講演を進行させて行くから、十二学級が一時間に終了するのも無理はない。                   新字体、現代仮名遣いに改めています。

 

 これは四人を1グループとした、今で言うところの総合的な学習の発表の様子を記したものと見られます。
 この頃、こうした形態が一般的であったかどうかは不明ですが、あくまでも教科学習の成果を発表する催しで、下記の神戸小学校のように各科学習発表の間に唱歌が挿入されているとは言え、後の学芸会に比べると地味な行事だったと想像できます。

 

明治38年(1905)神戸小学校の「学芸練習会」プログラム
神戸市教育史編集委員会 編『神戸市教育史 第1集』より
プログラムの中に英語(会話)が組み込まれているところが特徴的。

 

【参考・引用文献】 ※国立国会図書館デジタルコレクション
 佐々木 正昭「学校の祝祭についての考察 :学芸会の成立」関西学院大学『人文論究 巻 57号1』2007年
佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館、1987年
唐沢富太郎『図説明治百年の児童史・上』講談社、1968年
※伊藤秀夫、佐々木渡、宮田丈夫編『明治図書講座学校行事 第1』明治図書出版、1959年
※日本学校劇連盟 編『学芸会の事典』国土社、1954年
※福沢清文『関西十県教育視察管見 前編』福沢清文、1908年
※神戸市教育史編集委員会編『神戸市教育史 第1集』神戸市教育史刊行委員会、1966年
ブログ「粋なカエサル」より「江戸の寺子屋と教育」
    https://julius-caesar1958.amebaownd.com/posts/15797550/