小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

コラム8 「明治の遠足」 

 「遠足」という言葉は、既に江戸時代末期の滑稽本、随筆にその用例があり、町場の寺子屋や私塾の中には、郊外へ花見や紅葉狩りなどの行楽に出かけていたという例があるそうです。ただし、その頃は「とおあし」と読んでいたようです。 
 

■ 初めは「遠足運動会」から・・・ 

  明治 10 年代末から 20 年代にかけて、小学校における「遠足」は、その頃普及しつつあった「運動会」と一体化された形で行われていました。

 初期の頃の小学校には、運動会を催せるだけの校庭(運動場)がないのが普通でした。そこで、生徒たちは神社の境内、海岸、河原、野原などまで隊列を組んで行進し、体操や遊戯などを行っており、それを「遠足運動会」と称していたのです。
 この「遠足運動会」の多くは、近隣の小学校が合同で開催しており、「連合運動会」とも呼ばれていました。

神社の境内で行われた運動会
(明治45年、現在の山形県新庄市、「新庄デジタルアーカイブ」より)

 

 明治33年(1900)の「小学校令」(第3次)において、教科「体操」が小学校の必須科目になると、「体操場」(運動場)の設置が義務づけられ、「遠足運動会」は次第に「遠足」「運動会」とに分離されていきます。

 ただ、その後も学校行事名としては「遠足運動」という名称が残ったところもあったようです。
 

 それ以前は、下に挙げた例のように、体力錬成的な色彩が強く、しばしば「行軍」と呼ばれたりもしました。行楽的な要素はなく、ひたすら隊列を組んで歩き続けていた様子が想像されます。これは、当時の中学校においてよく行われていた修学旅行を兼ねた「行軍」(中には武装行軍もあったようです)の影響を受けたものではなかったかと思われます。

 

   明治二二年一〇月、太田尋常小学校と第三高等小学校太田分教室の生徒が合同で、修学かたがた運動のため、旅行(遠足)を行った。その様子は次のようであった。
 
 朝七時に学校を出発し、ラッパ手を先導に桑窪に出て、給部を経て太田尋常小学校中柏崎分教室に至り、さらに那須郡田野倉尋常小学校八ケ代分教室に正午に到着した。八ケ代は、高等小学校の学区は那須郡であるが、通学に不便なため、児童は皆太田に寄留し、太田分教室に入学していた。そのため歓迎を受け、昼食として赤飯を出してもらった上に、生徒は墨一つずつもらっている。そして午後二時に帰途につき、午後五時過ぎに帰校した

(『高根沢町史 通史編Ⅱ』第二章 第七節 学校教育の整備  三 小学校令の制定と学校行事の普及)

 

 その後、明治30年代後半あたりからは、「自然の観察や観賞」、「歴史的、文化的な遺産や施設の見学」など校外学習的な要素も取り入れられていきます。

「遠足唱歌」作詞:巌谷小波、作曲:山崎謙太郎(明治42年・1909)

■ 小説に描かれた「遠足」

 岡山県笠岡市出身の作家・木山捷平(1904~1968)に、『尋三の春』という自伝的な作品があります。「尋三」とは「尋常小学校の三年生」のことです。
 作者がモデルとおぼしき主人公の少年・須藤市太は、明治45年(1912)年に尋常3年生になりましたが、その年の春、「笠岡」から「二里ばかり」離れた村の小学校から、笠岡にある「城山」(現在の古城山公園で、木山さんの詩碑が建てられています)に向かいました。

 引率の先生は、ここで内陸部に暮らす生徒たちに、海(瀬戸内海、今は干拓地が広がり風景は一変しています)を見せます。
   何人かの子供たちは海が見えたときに「万歳!万歳!」と声を上げ、市太も咽喉がつぶれるまで「万歳!万歳!」と絶叫するというシーンが印象的です。

木山捷平(吉備路文学館ホームページより)


 

 私は遠足の朝、親父から五銭白銅一つしか貰えなかった。それは如何にも残念でたまらなかったので、
「三造さん等あ、十五銭も貰う言うとった」と友達を引き合いに出して見たが、親父は取り合ってくれなかった。
「ぬかすな、三造さんの所あ、分限者(ぶげんしゃ)じゃないか。その割ならお前にゃ一銭か五厘しかやれんのじゃど」
(中略)
 私達は一張羅の着物の上に握り飯の弁当を背負い、紙緒(かみお)の藁草履をはいて、朝早く大倉先生に連れられて学校を出発した。たんぽぽの咲いた県道を白い埃(ほこり)にまみれながら笠岡に着いたのは昼前頃であった。先生は所々で私達を道の端に佇立(ちょりつ)させて、「あれが商業学校」「あれが郡役所」「これは裁判所といって悪いことした者を裁判する所」
(中略)
「この海はな、瀬戸内海と言うて日本で一番小さい海なんじゃ。まあ一口に言や、海の子どもじゃ。太平洋というのや、印度洋というのは、この何千何万倍あるか分からん程じゃ」
 私達はもう一度びっくりして、先生に思い思いの奇問を発した。
「そんなら先生。その印度洋と富士山とはどっちが大けえですか?」
「ロシヤとはどっちが大けえですか?」  (後略)※ふりがなは筆者

 

    海岸線から2里(約8キロ)程の農村に住む小学生たちのほとんどが、海を見たことがなかったという話になっています。(フィクションかも知れませんが)
    まさに、遠足が校外学習として、地理や社会一般の学習という重要な役割を果たしていたことがうかがえる記述ではないでしょうか。
 
    なお、市太は妹への土産に3銭の「蜜柑水」(ミカンジュース)を買って帰り、贅沢をしたと父親からこっぴどく叱られます。
    娯楽の少なかった当時の農村の少年にとっては、生涯忘れられない体験をした、そんな遠足の一日が、作者独特のユーモアを交えて描かれている佳品と言ってよいでしょう。

 

※60年近く前の小学生時代の遠足というと、昼食に巻き寿司、おやつには普段は買って貰えないようなちょっと高級なチョコレートやジュースのことなどが、真っ先に思い出されてきます。

また、素晴らしい景色が忘れられず、友達同士誘い合って自転車に乗って再訪した、そんな思い出が、懐かしい幼なじみの顔とともに甦ってきました。

 

【参考・引用文献】    ※国立国会図書館デジタルコレクション
佐藤秀夫『学校ことはじめ事典』小学館、1987年
仲新監修『学校の歴史 第2巻 小学校の歴史』第一法規出版、1979年
唐沢富太郎『図説 明治百年の児童史 上』講談社、1968年
兵庫県教育委員会兵庫県教育史』1963年
木山捷平耳学問・尋三の春』旺文社文庫、1977年
巌谷小波作詞、山崎謙太郎作曲「遠足唱歌」武田芳進堂, 1909年

港区教育委員会「デジタル港区教育史」

群馬県高根沢町図書館「高根沢町デジタルミュージアム」『高根沢町史』