小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

『しろばんば』その5 「大正期の運動会」

 十一月の中旬の日曜に小学校の運動会が行われることになった。運動会の話が出始めると、子供たちは運動会熱に取り憑かれた。学校が終わっても、遅くまで校庭に残り、そこで遊んだ。別に運動会の準備があるわけでも、出場する種目の練習があるわけでもなかったが、運動会の行われる校庭から離れることは、何となく不安に思われた。
(中略)
 学校はすっかり面目を改めていた。洪作たちはよそへお客さんにでも行ったような気持で、”秋季大運動会”という字のはまった杉のアーチをくぐった。日本中にこんな立派な学校はないだろうと思った。アーチをくぐると、掃き清められた校庭には上級生が作った万国旗が縦横に張りめぐらされ、その一隅には賞品を授与する校長の席や、村長の席などが作られてあった。
(中略)
 九時に朝礼が行われた。石守校長が壇上に立っている時、青年が打ち上げた花火が空で炸裂した。生徒たちはみんな気をつけの姿勢をしていたが、首だけを曲げて空を見上げた。秋晴れの空の一角に花火の煙が黒い線を引いて散りつつあった。
 その花火の音で、村人たちはあわてふためいて学校へ集まって来た。校長の話が終わると、運動場の一隅からオルガンの音が流れ、それに足を合わせて、生徒たちは所定の位置へと移動した。オルガンは紫の袴を穿いたさき子が、上半身で拍子をとりながら弾いていた。そんなさき子の姿が洪作には美しく立派に見えた。(中略)
 運動会は午前中が一部、午後が二部となっていて、午前中の一部では洪作は体操と、帽子とりに出た。帽子とりでは真っ先に帽子を奪(と)られてしまったが、村人がまだ余り集まっていない頃だったので、洪作は自分の弱いところを多勢の人に見られないでよかったと思った。上の家の人たちも来ていなかったし、おぬい婆さんもまだ姿を見せていなかった。
 一部が終わる頃から父兄席や観覧席は人で埋まった。隣村の月ヶ瀬の小学校からも、何十人かの生徒が先生に引率されて参観にやって来た。遠い部落の父兄たちも、それぞれよそ行きの着物を着せた幼児たちの手を引いてアーチをくぐって詰めかけて来た。
 (中略)
 二部が始まると、青年たちの楽隊が太鼓を鳴らし出した。急に会場は浮き浮きし、軍艦マーチの曲に乗って、競技は賑やかに開始された。生徒たちが走ったり、父兄や青年たちが走ったりした。時には母親たちばかりが綱引きをやったりした。洪作は何種かの競技へ出たが、いつも等外だった。洪作は一回だけでいいから、自分が石守校長のところへ賞品を貰いに行くところを、おぬい婆さんや祖母たちに見せたいと思った。

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1962年の日活映画『しろばんば』より

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(同上)

■ 「運動会の風景」が変わった大正時代
 修学旅行と並び、わが国独特の学校行事といわれる運動会は、一八七十年代から八十年代にかけて、札幌農学校(現在の北海道大学)や東京大学などの高等教育機関において始まりましたが、その後小学校や中等学校にも普及していきました。
    明治三十三年(一九○○)の改正小学校令において「体操場」(運動場)の設置が義務付けられると、それまで何校かの小学校が連合運動会という形で、神社の境内や野原、河原、海浜などで行っていたものが、各校の校庭で開催されるようになります。

    作中の記述だけでは、湯ヶ島尋常高等小学校における運動会プログラムの詳細は不明ですが、同時期(大正六年(1917)十一月三日)に同じ静岡県内の加島村立加島尋常高等小学校(現・静岡県富士市立富士第一小学校)で行われた「秋季陸上運動会」の種目を見てみましょう。

午前6時半、三発の烟花(花火)
  8時開会 「君が代」、開会の辞、運動
 午前中31種目、午後29種目 講評、校歌、閉会の辞、万歳三唱 
    午後4時15分閉会
 1.兵式・軍事教練的種目・・・教練体操、教練
 2.遊戯競争的種目・・・綱引き、障害物、帽子とり、玉拾い、木馬競争、旗取り、絵画競争、団体旗送り、だるま送り、縄跳び競争、バスケットボール、デットボール、スプーンレース、騎馬襲撃、手旗信号、ムカデ競争、抽籤競争、料理競争、戴嚢競争、一人一脚
 3.唱歌遊戯・リズムダンス運動的種目・・・牛若丸、日の丸、婦人従軍、天ノ川、バーンダンス、鯉、浦島太郎
平田宗史「わが国の運動会の歴史」(吉見俊哉編著『運動会と日本近代』青弓社、1999年)より

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大正初期 桜川小学校の運動会
(現・東京都港区立御成門小学校の前身校の一つ、
港区教育委員会「デジタル港区教育史」より)

 種目名だけでは、その内容が分からないものが多くありますが、一方で「2.遊戯競争的種目」の中には、綱引き、障害物(競争)など、百年余り後の今でも行われている種目も散見されます。
 上記論文では明治期と比較して、一般的な傾向として次の二点が指摘されています。
(1)全体的に体操的種目から唱歌遊戯、リズムダンス、運動的種目までと種目内容が多彩になったこと。
(2)徒競走、走り幅跳び走り高跳びなどの競争的種目よりも、遊戯競争的種目の方が多く実施されるようになったこと。
  また、こうした要因の一つとして児童中心主義を唱えた大正新教育の影響で、「運動会の風景」が変化したことについて、下記のように述べられています。

 

 大正時代になると一校で単独運動会を実施するところが増えてくる。それに伴って運動会の風景が変わってくる。運動場の中央に高いポールが立てられ、そのてっぺんに「日の丸」を掲げ、それに万国旗を結びつけた長いロープを四方八方へひっぱり、その中央に置いたオルガンを教師が弾き、そのまわりを児童・生徒が取り囲み演技する風景が多く見られるようになる。オルガンの普及が運動会へ影響を及ぼしたのである。そして、運動会の開会式では「君が代」が斉唱され、閉会式では万歳三唱されるようになる。※下線は筆者

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運動場でオルガンを弾く女教員(子供の服装から、昭和に入ってからの写真と思われますが・・・。北海道野付郡別海町立別海中央小学校百周年記念事業ホームページより)