小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

新田次郎『聖職の碑』聖職の碑その5 山岳気象遭難・その後の白樺派流教育

  そして彼は、彼の意見に反発しようとする二、三の声を両手で押さえながら云った。
「私は校長として、八月二十六日の駒ヶ岳登山は予定通り実行することを諸君に告げる。参加者は高等科二年生の有志とするほか、今年は青年会にも参加を呼びかけたいと思っている。この登山には、私のほか少なくとも三名の教員が同行すべきだと思う。希望者は申し出て貰いたい」

映画パンフレットより

箕輪町郷土博物館作成の資料より

 「訓育的」「智的」(知的)「情的」「身体的」と、満遍なく目的が掲げられていますが、やはり「意志の鍛錬」「身体を鍛錬陶冶」とあるあたりに、赤羽校長の強い思いが込められているように思います。
   
   詳細な事故の顛末については、地元箕輪町郷土博物館作成の資料及び本ブログその1 学校登山と大量遭難事故(https://sf63fs.hatenadiary.jp/entry/2023/03/23/172059)が詳しいので、そちらそちらをご参照ください。
冊子平成24年度特別展 中箕輪尋常高等小学校の駒ヶ岳遭難」
 https://www.town.minowa.lg.jp/html/komagatake/index.html#target/page_no=1

村葬の様子と遭難記念碑(上記冊子より)

遭難記念碑
大正二年八月二十六日中箕輪尋常高等小学校長赤羽長重君為修学旅行引率児
童登山翌二十七日遭暴風雨終死至
共殪者* 
堀 蜂  唐沢武男 唐沢圭吾  古屋時松 小平芳造  有賀基広 有賀邦美  有賀直治 北川秀吉  平井 実
大正弐年十月一日 上伊那郡教育会

*共殪者(きょうえいしゃ)・・・・共にたおれて死んだ人

 

■ 山岳大量遭難をもたらした台風

 当時、本事件については様々な観点からの批判がありましたが、百年余の今日、気象の専門家からは次のような見方が示されています。

台風10号が関東から東北に上陸へ 東北に直接上陸した103年前の台風と駒ケ岳遭難(聖職の碑) 饒村曜気象予報士

大正2年8月下旬の台風
今から103年前の大正2年(1913年)8月 27日朝9 時、台風が関東の南海上に達し、その後急速に加速して三陸地方に上陸、北海道南部を通って日本海北部に達しています。
要するに日本の南に2つの台風があって、このうちの一つが関東に接近して「聖職の碑」遭難事故をもたらしています。中央気象台は台風の存在自体は把握していましたが、当時の観測体制や予報技術では台風の進路予報は無理な状況でした
図2の左上にある天気図は、26日14時の段階を示しています。すでに関東甲信は雨が降っている所が多く、紀伊半島先端にある潮岬では非常に強い風が吹いていることが確認できます。等圧線の間隔も狭くなっていす。この天気図からは、胸突八丁を登って樹林帯から稜線に出た途端に、生徒たちは強風に見舞われたと思われます。
  



2016/8/29(月) 5:44  https://news.yahoo.co.jp/byline/nyomurayo/20160829-00061605

※下線は筆者

 入念な準備がなされていた駒ヶ岳登山でしたが、当時の天気予報では台風の襲来を予測できず、強風による低体温症が多くの命を奪いました。

東京をはじめ東日本のあちこちで暴風雨による被害が大きかったことが報じられている
(読売新聞 大正2年8月29日の記事・ヨミダスパーソナル)

 なお、この遭難事故については、明治以来の「鍛錬登山」の延長上で起きたものとみる立場はあるようですが、文部省や長野県当局の対応、また地元紙「長野新聞」の論調なども比較的寛大なものでした。

 長野県の学務課長などは、新聞の取材に対して、学校登山を肯定する考えを述べるとともに、事故は天災であり、亡くなった赤羽校長の責任を追及するものではないとの考えを示したとのことです。

 

■ 気分教育 ーその後の中箕輪尋常高等小学校  ー

 

 清水茂樹、征矢隆得、清水政治等の訓導が転校して、新しい先生や主席訓導が来ても、村と学校との間に生じた不信感はなかなか取り除けなかった。この村と学校の不信感をさらに煽(あお)ったものは、教師たちの入れ替えと同時に急速に増えた白樺派教師たちであった。
(中略)
 若い教師で「白樺」を口にしない者は一人もいなかった。
 白樺派亜流の教師は気分屋と呼ばれ、彼等の教育は気分教育*と云われた。
 主流にしろ、亜流にしろ、こどもを可愛がることは同じだった。ただ亜流の気分屋たちは、こどもの個性を生かし、こどもの自由を尊重するがためにこどもたちを放任した。子供たちが、
「先生、外へ出ねえか」
と云えば写生だと称して外へ連れ出し、一緒に遊んだ。
「先生、本を読んでくれ」
と云えば小公子やロビンソン・クルーソーを読んだ。イワンの馬鹿やレ・ミゼラブルを読んで聞かせることもあった。教科目をスケジュール通りに追おうとはせず、或る程度はこどもたちの云うなりにまかせた。教室では、図画と綴り方に重点が置かれ、算術や理科はよそ者扱いにされた。一日中、俳句ばかり作らせていて、ろくな授業をしない教師もいた。キリスト教の話を、毎日毎日、涙を流しながら続ける教師もいた。
(第3章 その後の山)

*気分教育・・・・「勉強好きな子どもを養成するには、子どもの気持ちが自然に勉強に向いていくうように仕向けなければいけない。本気になって勉強に取り組める心を培ってゆくべきで、外部から規制してかかる教育は間違いであるとする教育論」(今井信雄『新訂 白樺の周辺』)

 

 大正12年(1923)に高橋慎一郎校長が着任して、前年に村長となった中坪鞆治の強力なバックアップの下、学校の再建を図るまでの間、学校は荒廃し、後に「気分教育の墓場」と評されるほどのなってしまいました。
 そうした中で、高橋は駒ヶ岳修学旅行登山の再開を提唱し、遭難事故以来十三年目にして自ら生徒を引率して登山。遭難記念碑に花束を捧げます。

 

 本作品は、次のように締めくくられています。

 実践主義教育者赤羽長重の修学旅行登山の思想は、信濃教育の中心地上伊那郡において、執拗に追求され、六十年後の今日においてその成果を見たのである。

 遭難記念碑は風雪に耐えて、いささかも動ずることなく、夏になると必ず登ってくる中学生たちが捧げる花束に飾られている。
(第3章 その後の山)

西駒ヶ岳に登る地元の中学生(伊那市立春富中学校ホームページより、2021年7月)

 

 さて、「信州白樺派教育運動」とも称された若い教師たちの教育活動は、最盛期には同志70~80名、シンパは約300人とも言われる時期もありましたが、「戸倉事件*」「倭(やまと)事件**」などを契機として衰退へと向かいました。

 当初から保護者・地域住民から伝統的な価値観を否定する運動として警戒されていましたが、それらの事件によって教員の処分が相次いだことが決定的な要因になったと言えるでしょう。

*戸倉(とぐら)事件・・・・大正8年(1919)2月に長野県埴科郡戸倉村の戸倉小学校(現在の千曲市立戸倉小学校)で発生した自由教育(白樺派教育)への弾圧事件。赤羽王郎ら2名を退職、1名を休職処分。村民は納得せず、全員の追放を求める村会決議が出されるが、最終的に中谷勲を転任させ、他の5名を譴責処分とすることで事態は収拾した。

「戸倉事件」を報じた長野新聞(大正8年2月20日
「戸倉の三人を屠れる知事の処置は妥当なり」という見出し
(「信州地域資料アーカイブ    教育関係 <映像>「信州の教育文化遺産 大正~戦前」
 前編(大正)信州白樺派と戸倉事件」より)

**倭(やまと)事件・・・・大正9年(1920)3月、長野県南安曇郡倭尋常高等小学校において、信州白樺教育運動の教員の中でも若手の坂井陸海(24歳)、郷原四五六(22歳)、赤羽ヨシコ(一雄の妹、21歳)神沢速水(19歳)が(自主)退職を、中谷勲(戸倉事件で転任していた)が(強制)休職を命じられた一件。

 

 最後に、この運動の主導者であった赤羽王郎の思想に、衰退の要因が内在することを指摘した論文を引用してみたいと思います。

 保護者や地域の信頼を得られない、独善的な教育運動の末路の一典型ではなかったでしょうか。

 (赤羽王郎の思想形成に)決定的な意味を持ったものは、武者小路実篤の思想であり、柳宗悦の人格的感化である。赤羽の思想は一方では強い自己の肯定、他方では武者小路の唱える人類的人道主義、とくに偉大な魂やその作品が示す人類的価値意識との緊張関係によって自己を形成し、「自己を生かし切る」ことであった。このような赤羽の思想は当時の若い教師たちの感動に支持され、信州白樺派と呼ばれる教師群の一連の教育実践を引き出したのである。(中略)
  しかし赤羽のこのような運動は芸術的、ユートピア的性格に偏り、また一種の規範主義、選良意識をも含み、子どもの中にはなまのかたちでこれらによって親や農民を批判する傾向が表れた。父母や農民はそれが彼らと教師たちとの信頼関係を裏切るものと考え、また伝習や習俗を無視するものと見て、白樺派教師に対する不信を示すものが増えた。赤羽には農民の社会史や精神史に対して関心や敬意をもつ余裕や努力は見出せなかった。県当局はこのような状況を利用して、「戸倉事件」として知られるように赤羽を中心とした戸倉小学校の教師たちの運動を弾圧によって実質的に葬り去った。
   ※下線は筆者

宇野美恵子「大正自由主義教育における人格主体の形成」ー自己超越の契機との関連においてー)『国際基督教大学学報. I-A, 教育研究  31号』1989-02-1

 

【参考・引用文献】   ※国立国会図書館デジタルコレクション
平成24年度特別展 中箕輪尋常高等小学校の駒ヶ岳遭難」冊子
※橋詰文彦「近代学校教育における登山の隆盛とその意義」信濃史学会 編『信濃 [第3次]』53(4)、信濃史学会、2001年

今井信雄『新訂『白樺』の周辺』信濃教育会出版部、1986年

宇野美恵子「大正自由主義教育における人格主体の形成 ー自己超越の契機との関連においてー」『国際基督教大学学報. I-A, 教育研究  31号』1989年