小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

『白い壁』その6(おわりに) 本庄陸男34年の軌跡

 本作品の作中時間は、昭和9年(1934)頃と思われますが、既に作者の本庄陸男は教員の地位を免職になっており、プロレタリア文学の作家として活動していました。
 教員組合運動からプロレタリア文学へと向かう過程を中心に、改めて略年譜をもとに彼の34年の人生をふりかえってみたいと思います。

☆本庄陸男略年表

・1905年(明治38)2月20日 北海道石狩郡当別村太美(現在の当別町)で、佐賀県出身の士族の開拓農民の子として生まれる
・1913年(大正2) 9歳の時、一家の破産で、北見渚滑に再移住する
・1919年(大正8) 15歳、紋別尋常高等小学校を卒業し、第三渚滑尋常小学校代用教員となる 月俸16円   紋別尋常高等小学校(現在の紋別市紋別小学校)3、4年のクラスを担任し、 木工場の一隅に自炊し、 鳥打帽子で絣の着物に小倉の袴をつけた十五歳の少年教師であった。
1920年(大正9) 16歳の時、樺太に渡り、王子製紙豊原工場に職工として勤務する

王子製紙豊原工場(大正6~昭和20年・1917~1945)

製薬室の計量係や賃金計算係をし、 日給は七十五銭、向学心を秘めての受験準備と読書と仕事の毎日であった。
1921年(大正10) 17歳の時、上京して東京府立青山師範学校(後に東京第一師範学校、現在の東京学芸大学の前身校の一つ)本科へ編入する

 在学中の本庄陸男の成績は優秀であり、 文学雑誌に投書したり、 また同人雑誌を出したりしていた。

東京府青山師範学校明治42年頃)



・1925年(大正14) 青山師範学校を卒業、本郷誠之小学校に勤務する

後に本人が語ったところでは、受験準備教育で知られた同校に勤務することになったのは、師範時代の成績が優秀であったことが認められたからだということである。

・1928年(昭和3) 全日本無産者芸術連盟(ナップ)に参加する

「ナップ」昭和6年(1931)2月号表紙

・1929年(昭和4)4月 自ら望んで下町にある深川の明治小学校に転任する

(このときの体験をもとに「白い壁」は執筆されました)
・1930年(昭和5)2月 教員組合(小学校教員連盟)事件で主謀者の一人として解職(免職)の処分を受ける。
 ・同年10月『資本主義下の小学校』を刊行したものの発禁となる

右上の「禁安」は、当時の内務省によって「安寧秩序紊乱」の書物とされたことを示している。

 まことに今日にあっては、教育は支配階級の重要なる観念生産の工場である。資本主義の本質としての利潤追求は、莫大なる教育費を投げ出す反面に、必ず、その代償を要求しているのだ。即ち、全国民をして、一つのイデオロギーに統一し、彼等の存在の合理性を信仰にまで強いてくるのである。しかも尚、この広範なる小学校の、所謂義務教育の遂行者に、厳格なる使用人を監督として派遣して居る。これらの監督は、官吏として屡々絶対の権利をふるい、もって、民衆欺瞞の教育の徹底を期している。
(中略)
 三十万に近い小学校教員が、その中で働いている。彼等は民衆に、ブルジョアジーの観念を注ぎ込む筒先となっているのだ。異常な卑屈は、専制の下に無意識となり、鼻先にぶら下がった恩給制度に涎を垂らして、日々、教壇の上から、罪のない子供に、嘘とお伽噺を教えている。その荒唐無稽な言葉の結論として、彼等は、こう強いる。国につくさなければなりません。親は大事にしなければなりません。戦争にはよろこんで出なければなりません。・・・・なければなりません。という教育を施しているのである。これが、学校教育の一瞥である。    

(同書P10-11、 新字・現代仮名遣いに改めています。下線は筆者)
 ※なかなかの過激な文章です。「白い壁」と同じ作者とは思えないような・・・。これでは発禁処分もやむを得ないかなと思わされます。

 

 当時、「赤化教員」が問題視され、当局の弾圧が加えられました。以下は、「国民新聞 」1932.12.22 (昭和7)付けの記事で、東京都での大量検挙を報じたものです。

恐しい赤化の魔手二十余校に及ぶ
赤い小学教員六十余名
都下各小学秋に組織網を持つ赤化教員の検挙について警視庁特高部労働課では引続き検挙取調べを行っているが東京府下だけで検挙された赤化教員は六十余名でその所属学校は
 本田第一、第二、第三各小学校、小松川第三小学校、吾嬬第三、第四小学校、芝区靹絵小学校、金杉小学校、尾久小学校、下谷竜泉寺小学校、由井小学校、稲城小学校、八王子尋常高小学校、立志小学校等二十余校
に上り検挙された六十余名のうち全協教労部の組織の下に部下の各小学校教員赤化に強力なる働きかけを行い、メンバーの獲得につとめていた、この中本部を形成するものが十余名でその他はその影響下にあって教壇を通し児童赤化を企てていたものであるか警視庁当局では東京府学務局と赤化教員の処分について打ち合せ協議を行った結果組織の主体となって活動していた全協教労部のメンバーを構成する分子は断然送局することになったが、その影響下にあった程度のものは不拘束のまま書類だけを送ることになった、尚全協教育労働部は全国に

神戸大学経済経営研究所 新聞記事文庫 思想問題(6-155))

・1931年(昭和6)7月 日本プロレタリア作家同盟第4回大会で中央委員となる
・1932年(昭和7) 非合法下の共産党に入党
・1934年(昭和9) 日本プロレタリア作家同盟解散後、雑誌「現実」の創刊に参加する
・1935年(昭和10) 雑誌「現実」に『白い壁』を発表して注目される
・1936年(昭和11) 雑誌「人民文庫」に参加、武田麟太郎の依頼で編集責任者となる
・1936年(昭和11) 『女の子男の子』で第2回人民文庫賞を受賞する
・1938年(昭和13) 同人雑誌「槐」(えんじゅ)を創刊し、代表作石狩川』*の連載を開始する

・1939年(昭和14)7月23日 東京で肺結核のため34歳で亡くなる

*昭和31年(1956)、「大地の侍」と映画化されています

石狩川文学碑(北海道石狩郡当別町ビトエ)

本庄陸男 「北海道ビューポイント」https://hokkaido-viewpoint.com/

【参考・引用文献】 国立国会図書館デジタルライブラリー
 松田貞夫「『北の開墾地』から『石狩川』まで--晩年の本庄陸男の姿勢をめぐって」『日本文学 25 (12)』1976年
*本庄陸男『資本主義下の小学校』自由社昭和5年10月
明治43年頃:石狩川右岸流域-流域の文学」【札幌開発建設部】治水100年 |札幌開発建設部 
 https://www.hkd.mlit.go.jp/sp/kasen_keikaku/e9fjd60000001sli.html