小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

「二十四の瞳」⑤ 赤い教師への弾圧

 それは、はげしい四年間であったが、彼らのなかのだれがそれについて考えていたろうか。あまりに幼い彼らである。しかもこの幼い者の考えおよばぬところに、歴史はつくられていたのだ。四年まえ、岬の村の分教場へ入学したその少しまえの三月十五日、その翌年彼らが二年生に進学したばかりの四月十六日、人間の解放を叫さけび、日本の改革を考える新らしい思想に政府の圧迫が加えられ、同じ日本のたくさんの人びとが牢獄に封じこめられた。そんなことを、岬の子どもらはだれも知らない。ただ彼らの頭にこびりついているのは、不況ということだけであった。それが世界につながるものとはしらず、ただだれのせいでもなく世の中が不景気になり、けんやくしなければならぬ、ということだけがはっきりわかっていた。その不景気の中で東北や北海道の飢饉を知り、ひとり一銭ずつの寄付金を学校へもっていった。そうした中で満州事変、上海事変はつづいておこり、幾人かの兵隊が岬からもおくり出された。 (5 花の絵)

  下線部は、昭和3年(1928)の 「三・一五事件」と、翌昭和4年(1929)4月16日に起こった日本共産党大量検挙事件のことを述べたものです。「三・一五事件」では約1600名が検挙、治安維持法違反で起訴された者は483名、「四・一六事件」では、約300名が検挙、295名が起訴されています。
 「夫の繁治や黒島伝治佐多稲子などのプロレタリア詩人、作家の影響をうけ」(「二十四の瞳映画村」ホームページ、「壺井栄のおいたち」)た作者らしい視点で、時代背景が説明されている箇所となっています。

 

■ 警察にひっぱられる赤い教員

  そして、もうすぐ六年生に進級するという三月はじめであった。春は目の前にきていながら珍しく雪の降る中を、ひとバスおくれた大石先生は、学校前の停留所から傘もささずに走って、職員室にとびこんだとたん、異様な室内の空気に思わず立ちどまり、だれに話しかけようかというふうに十五人の先生たちを見まわした。みんな心配そうな、こわばった顔をしていた。

 

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「どうしたの?」
 同僚の田村先生にきくと、しっ というような顔で田村先生は奥おくまった校長室に、あごをふった。そして小さな声で、
「片岡先生が、警察にひっぱられた」
「えっ!」
 田村先生はまた、しずかに、というふうにこまかく顔をふりながら、
「いま、警察がきてるの」
 また校長室を目顔でおしえ、つい今のさっきまで片岡先生の机をしらべていたのだとささやいた。全然、だれにもまだことの真相は分かっていないらしく、火鉢によりあって、だまっていたが、始業のベルでようやく生きかえったように、廊下へ出た。田村先生と肩をならべると、
「どうしたの」
 まっさきに大石先生はきいた。
「あかだっていうの」
「あか? どうして?」
「どうしてか、しらん」
「だって、片岡先生があか? どうして?」
「しらんわよ。わたしにきいたって」
 ちょうど教室の前へきていた。笑って別れはしたが、二人とも心にしこりは残っていた。まだなんにも知らないらしい生徒は、雪に勢いづいたのか、いつもより元気に見えた。ここに立つと、すべての雑念を捨てねばならないのだが、教壇にたって五年間、大石先生にとってこの時間ほど、永く感じたことはなかった。一時間たって職員室にもどると、みんな、ほっとした顔をしていた。
「警察、かえったよ」
 笑いながらいったのは、若い独身の師範出の男先生である。彼はつづけて、
「正直にやると馬鹿みるっちゅうことだ」
「なんのこと、それ。もっと先生らしく……」
 突っつかれて大石先生はいうのをやめた。突っついたのは田村先生だった。

 

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綴り方文集「草の実」を火鉢にくべる教頭

 教頭が出てきての説明では、片岡先生のは、ただ参考人というだけのことで、いま校長がもらいさげにいったから、すぐ帰ってくるだろうといった。問題の中心は片岡先生ではなく、近くの町の小学校の稲川という教師が、受けもちの生徒に反戦思想を吹きこんだという、それだった。稲川先生が片岡先生とは師範学校の同級生だというので、一おうしらべられたのだが、なんの関係もないことがわかったというのである。つまり、証拠になるものが出てこなかったのだ。そのさがしている証拠品というのは、稲川先生が受けもっている六年生の文集『草の実』だというのである。それが、片岡先生の自宅にも、学校の机にもなかったのだ。
「あら、『草の実』なら見たことあるわ、わたし。でも、どうしてあれが、あかの証拠」
 大石先生はふしぎに思ってきいたのだったが、教頭は笑って、
「だから、正直者が馬鹿みるんですよ。そんなこと警察に聞かれたら、大石先生だってあかにせられるよ」
「あら、へんなの。だってわたし、『草の実』の中の綴方を、感心して、うちの組に読んで聞かしたりしたわ。『麦刈り』だの、『醤油屋やの煙突』なんていうの、うまかった」
あぶない、あぶない。あんたそれ(『草の実』)稲川くんにもらったの」
「ちがう。学校あておくってきたのを見たのよ」
 教頭はきゅうにあわてた声で、
「それ、今どこにある?」
「わたしの教室に」
「とってきてください」
 謄写版の『草の実』は、すぐ火鉢にくべられた。(上の写真)まるで、ペスト菌でもまぶれついているかのように、あわてて焼かれた。茶色っぽい煙が天井にのぼり、細くあけたガラス戸のあいだから逃げていった。
あ、焼かずに警察へ渡せばよかったかな。しかし、そしたら大石先生がひっぱられるな。ま、とにかく、われわれは忠君愛国でいこう
 教頭のことばが聞こえなかったように、大石先生はだまって煙のゆくえを見ていた。 (六 月夜の蟹)

 

  昭和4年(1929)から昭和9年(1934)あたりにかけて、「赤い教員」とか「教員赤化事件」などという見出しで、新聞紙上でセンセーショナルに報じられた事件がありました。

 

教員赤化事件
教員が共産主義運動に直接間接に関係したとして検挙された事件。1928年(昭和3)の三・一五事件以後、共産主義運動に対する弾圧は過酷化し、30年結成の新興教育研究所(32年、新興教育同盟準備会となる)と日本教育労働者組合(31年、日本労働組合全国協議会日本一般使用人組合の教育労働部となる)などに関係した教員を「赤化教員」として弾圧することが相次いだ。とくに、32年7~12月の東京府市二十数校約60名の教員検挙事件、翌年2~4月の長野県65校138名の教員検挙事件が著名である。これらの組織以外をも含め、29~33年の弾圧は99件、検挙者716名(起訴73名)、休退職者486名で、1道3府36県にわたった。(コトバンク

 

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国民新聞 1932.12.22 (昭和7)

 引用した場面は、大石先生の受け持つ児童たちが六年生に進級する直前の3月の初めという設定になっています。

 「香川県近代教育史年表」には、昭和8年3月3日のところに、「高松8.3.3事件が発生、県警察部特高課が高松高商生ら70名を共産思想取り締まりに関連して検挙。(香川県政史年表)」とありますので、作中の一件はこの事件をもとに描かれたのではないでしょうか。

 「警察に引っぱられた片岡先生」師範学校時代の同級生で、「受け持ちの生徒に反戦思想を吹き込んだ」稲川という教員ですが、伊ケ崎暁生『文学でつづる教育史』(民衆社、1974)によると、実在の人物をモデルにしているということです。

 モデルとなった久留島義忠(明治44~平成8年・1911~1996、後に共産党兵庫県議会議員を務めた)が取り組んだ教育活動と「事件」については、以下の論文に記載がありました。

 昭和4年(1929)10月には雑誌『綴方生活』(東京文圏社)が発行され、そのスローガンは「教育における生活重視」であり、「教育生活の新建設」であったが、香川県内にも同書の購読者や講習会・研修会で発表する綾歌郡坂本小学校の三谷寿夫や坂出西部小学校の守屋敏郎らの教師もいて、新興農村建設に生活綴方教育を結びつけた学校として小豆郡福田小学校の名もあった。
 また、昭和恐慌を契機に階級意識にめざめた教師が、児童の生活擁護とともに、自主性や創造力を育てようという新興教育運動も起こった。昭和5年(1930)8月に新興教育研究所が設立され、同年9月には機関紙『新興教育』が創刊され、各地に新興教育読書会が組織されるなど購読者が増えていった。香川県内でも同7年10月に、久留島義忠や石丸満行らによって新興教育研究所香川県支部準備会が結成されている。香川県師範学校卒業生の久留島義忠や滝口春男などは、師範学校在学中は『詩と創作』を発行し、卒業後は赴任校(久留島は草壁小学校ー苗羽小学校から約1キロと近い滝口は吉津小学校)で詩の創作や作文指導などを通じて新興教育を行った。しかし、文部省は昭和3年に学生課を特設して思想善導に力を入れ、同4年には全国社会教育主事会議を開いて教化総動員実施案を決議させ、これに基づいて香川県でも教化動員実施計画要綱を作成して、国体明徴・国民精神作興などの教化運動を推し進めた結果、同8年3月3日に、高松署を中心に全県下の警察官を総動員して、新興教育同盟香川支部関係者を中心に久留島・滝口も含む28人が、治安維持法違反の容疑で一斉検挙される高松8.33事件(赤化教員検挙事件)が起こり、これを境に新興教育運動は急速に弱められるとともに、自由主義的な生活綴方教育運動も次第に抑圧されていったのである。

溝 渕 利 博「香 川 県 郷 土 教 育 史 研 究 序 説(三)」( 高松大学研究紀要第73 号、 2019)

  これで、作中の一件は実際にあった検挙事件を元に書かれたものと考えて間違いないと思われます。

 その久留島氏が検挙された反戦思想」とはどういうものだったのでしょうか。

 昭和9年(1934)に文部省学生部が「秘密資料」として作成した『プロレタリア教育の教材』国立国会図書館デジタルコレクション)にその検挙理由が記されていました。

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 香川県小豆郡草壁尋常高等小学校訓導久留島義忠(新興教育同盟準備会香川県支部準備関係者、昭和8年3月31日懲戒免職、同6月30日起訴)は国史の時間には神代時代の伝説(例えば天孫降臨)は本当かどうかを受け持ち児童に質問し、「神代の神話の如き御伽話ようなものは、本当の歴史ではない。諸君が大きくなった時は判って来る」と言って建国の歴史を否定した。(同書第四篇第五節)

  同書では、修身科に始まり、体操、手工に至るまで、全国各地の小学校における「赤化教育」或いは「プロレタリア教育」(今風に言うと、偏向教育でしょうか)の事例を収集しています。

 念の入ったことに、事例に続いては「児童に対する影響」という章を設け、児童の意識調査の結果を紹介しています。

 そして、最後に「結語」として、概ね以下のような分析と考察をしています。

①彼等左傾教員は、国家の否定、現行社会制度・道徳の破壊のための闘争を専ら強調し、教育本来の目的を忘れている傾向がある。

②当面の闘争を説くが故に、多くは断片的で統一を欠き、まとまった理論体系をなしていない。

③その教育方法は既に我々(文部省)が既に唱えていたものの模倣に過ぎない。

④プロレタリア教育は様々な欠点を持つにもかかわらず、なかなか巧みに行われ、児童に対しては強い影響力を有している。

⑤彼等左傾教員は教壇上からだけではなく、最近はピオニール、子供会、復習会などの非合法的組織においてプロレタリア教育を行おうとしているので、今後はその対策を行う必要がある。

  では、その当時の小学生は「赤い教育」や「赤化教員」について、どんな受け取り方をしていたのでしょうか。一例を挙げてみましょう。

 そういえば、昭和五年から八年にかけて、私が尋常四年から六年の頃だが、よく赤化教員の検挙という記事が新聞に載って、大人たちの話題になっていたのを思い出す。(中略)広い世の中には先生でも悪い人間がいるものかなと、不思議に思ったりしたが、これがまさに弾圧の嵐だったわけだ。
 新聞に載る赤い教師の赤とはどういう意味か理解できず、先生に尋ねてみようと思ったが、先生には同僚に当たる先生のことを聞くのは悪いような気がしたのでやめ、祖父に尋ねたら「そりゃキョウサントーじゃ」と答えたが、おそらく当時の年寄りには、共産党のどこが悪いのか、はっきり説明できなかったのではないかと思う。(中略)
 その頃、津山一の資産家の女子大出の娘が捕まったとか、どこそこの誰それさんが引っ張られたとか、農林学校の誰それが退校処分になったとかが、不況に喘ぐ田舎の村の話題になった。(竹内途夫「尋常小学校ものがたりー昭和初期・子供たちの生活誌福武書店、1991年)

※著者は大正9年(1920)岡山県北部の勝田郡勝北町(現在は津山市)の生まれ、昭和2年(1927)に小学校入学。「二十四の瞳」の子供たちよりも一つ年上です。