小説にみる明治・大正・昭和(戦前)の教育あれこれ

小説に描かれた明治・大正・昭和戦前の教育をあれこれ気ままに論じていきます。漱石『坊っちゃん』は「『坊っちゃん』に見る明治の中学校あれこれ」(https://sf63fs.hatenablog.com/)へ。

「二十四の瞳」④ 唱歌の授業 ー女先生と男先生ー

■ 浜辺で唄った歌は・・・ 

    二学期初日、前夜の嵐で岬の村はかなりの被害を受けていました。大石先生は子どもたちと道路に転がっている石を取り除く作業をしていたのですが、一人の子どもの面白おかしい話に思わず笑ってしまいます。それを目撃したよろず屋のおかみさんは、すごい剣幕で走り寄り「人が災難に遭ったのが、そんなにおかしいんですか」と大石先生を叱り付けました。

 浜にでて歌でもうたわぬことには、先生も生徒も気持のやりばがなかった。浜におりると先生はすぐ、両手をタクトにして、歌いだした。
 はるははよからかわべのあしに
「あわて床屋とこや」である。みんながとりまいて、ついて歌う。
 かにが みせだし とこやでござる
 チョッキン チョッキン チョッキンナ
 歌っているうちに、みんなの気持は、いつのまにか晴れてきていた。
 うさぎゃおこるし かにゃはじょかくし
 しかたなくなく あなへとにげる

 おしまいまで歌っているうちに、失敗した蟹(かに)のあわてぶりが、じぶんたちの仲間ができたようなおもしろさで思いだされ、いつかまた、心から笑っている先生だった。「このみち」だの「ちんちん千鳥」だの、一学期中におぼえた歌をみんな歌い、「お山の大将」でひとやすみになると、生徒たちはてんでに走りまわり、おとなしく先生をとりまいているのは一年生の五、六人だけだった。(二 魔法の橋)

 

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    この後、その浜で大石先生は子どもたちが作った落とし穴に落ちて、足を挫いてしまいます。

 作中に出てくる曲は下のように、いずれも詩が、大正7年(1918)に文学者の鈴木三重吉が創刊した児童雑誌「赤い鳥」に掲載されたものです。

 時代を超えて今も歌い継がれている名曲ばかりで、日本歌曲が好きな筆者には、「このみち」(この道)などは、芸術歌曲としてよく知られていますが、1年生にはちょっと難しいのではと思われます。

「あわて床屋」作詞・北原白秋、作曲・山田耕筰 大正12年(1923)

「この道」同上、昭和2年(1927)

「ちんちん千鳥」作詞・北原白秋(大正10年・1921)作曲・近衛秀麿、成田為三

笠智衆演じる男先生と子供たちが歌うシーンがあります。なかなかの見所です。ただし、私には近衛、成田どちらの曲とも違うように聞こえました(笑)

「お山の大将」 作詞・ 西條八十、作曲・ 本居長世(大正10年・1921)

 

 十日すぎても、半月たっても女先生は姿を見せなかった。職員室の外の壁にもたせてある自転車にほこりがたまり、子どもたちはそれをとりまいて、しょんぼりしていた。もう小石先生はこないのではないかと考えるものもあった。

 

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二十四の瞳映画村ホームページより

■ 男先生の「ヒフミ唱法」

 小さな村の小学校では、唱歌しょうかは一週一度だった。その一時間を、男先生はもてあましたのだ。女先生が休みだしてから、はじめのうちは、ならった歌を合唱させたり、じょうずらしい子どもに独唱どくしょうさせたりした。そうしてひと月ほどはすんだが、いつまでもごまかすわけにもゆかず、そこで男先生はとうとうオルガンのけいこをはじめ、そのためにあせを流した。先生は声をあげて歌うのである。

 ヒヒヒフミミミ イイイムイ――

 ドドドレミミミ ソソソラソ――と発音するところを、年よりの男先生はヒヒヒフミミミ――という。それは昔、男先生が小学校のときにならったものであった。

ミミミミフフフ ヒヒフミヒ――

 

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 中高校生の頃から50余年後の今も、吹奏楽や合唱に親しんできた筆者ですが、曲を階名で歌うときに、「ドレミ唱法」ではなく、「ヒフミ唱法」というのがあったことを、初めて知りました。

 これは、明治の初期に西洋音楽を学び、米国留学から、帰国後は音楽教育を始めとして、近代公教育の確立に大きな功績のあった伊沢修二嘉永4~大正6年・1851~1917)が作成した「唱歌法凡例」の中で示し、明治30年代の末まで学校教育で使われた和風の階名唱法です。 明治40年代以降は、尋常小学校なども「ドレミ唱法」に置き換わったということですが、おそらく明治前半期の生まれの男先生が受けた「唱歌」の授業においては、この「ヒフミ唱法」が普通に行われていたのでしょう。

 

 

■ 男先生の唱歌の授業では・・・

 (金曜日の夜になると、男先生は奥さんに励まされながらオルガンの練習をするのですが、割と上手くいったあるとき、ご機嫌になった男先生はこんなことを言い出しました)

「そうだよ。ひとつ、しゃんとした歌を教えるのも必要だからな。大石先生ときたら、あほらしくもない歌ばっかり教えとるからな。『ちんちんちどり』、だの、『ちょっきんちょっきんちょっきんな』、だの、まるで盆おどりの歌みたよな柔(やお)い歌ばっかりでないか

「それでも、子どもはよろこんどりますわ」
「ふん。しかし女の子ならそれもよかろうが、男の子にはふさわしからぬ歌だな。ここらでひとつ、わしが、大和魂をふるいおこすような歌を教えるのも必要だろ。生徒は女ばっかりでないんだからな」

  そして、いよいよ土曜日の三時間目「唱歌」の時間がやってきました。

 ところが、今日は少しちがう。教室にはいると男先生はもう、オルガンの前にちゃんと腰かけてまっていた。女先生とは少し調子がちがうが、ブブーと、おじぎのあいずも鳴った。みんなの顔に、おや? といういろが見えた。二枚の黒板には、いつも女先生がしていたように、右側には楽譜が、左側には今日ならう歌が立てがきに書かれていた。

 

千引の岩

千引の岩は重からず
国家につくす義は重し
事あるその日、敵あるその日
ふりくる矢だまのただ中を
おかしてすすみて国のため
つくせや男児の本分を、赤心を

 

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黒板の右下には「第一学年用 尋常小学修身掛図」が見えています。

掛図は明治の頃の教材と思っていましたが、昭和初期にも使われたいたんですね。

 

 男先生はオルガンの前から教壇にきて、いつもの授業のときのように、ひっちく竹の棒の先で、一語一語を指ししめしながら、この歌の意味を説明しはじめた。まるで修身の時間のようだった。いくらくりかえして、この歌の深い意味をとき聞かしても、のみこめる子どもは幾人もいなかった。一年生がまっさきに、二年生がつづいて、がやがや がやがや。三年生と四年生の中にも、こそこそ こそこそ ささやき声がおこった。と、とつぜん、ぴしっ! とひっちく竹が鳴った。教壇の上の机をはげしくたたいたのである。とたんに、ざわめきはやみ、鳩のような目がいっせいに男先生の顔をみつめた。
(中略)
「ヒヒヒフミミミ イイイムイ はいッ」
 生徒たちはきゅうに笑いだしてしまった。ドレミハを、男先生は昔流に歌ったのである。しかし、いくら笑われても、今さらドレミハにして歌う自信が男先生にはなかった。そこでとうとう、ヒフミヨイムナヒ(ドレミの音階)からはじめて、男先生流に教えた。そうなるとなったで、生徒たちはすっかりよろこんだ
 ――ミミミミフフフ ヒヒミヒー フーフフフヒミイ イイイイムイミ……
 これでは、まるで気ちがいが笑ったり怒ったりしているようだ。たちまちおぼえてしまって、その日から大はやりになってしまった。だれひとり、その勇壮活発な歌詞をうたって男先生の意図に添おうとするものはなく、イイイイ ムイミーと歌うのだった。 ( 三 米五ン合豆一升)

※「ひっちく竹」・・・篠竹のこと。教鞭として使われている。

  後半は涙をさそうシーンが多いこの映画(松竹作品、昭和29年・1954、木下恵介監督・脚本)ですが、この場面には子どもたちと同じく観ているほうも思わず笑ってしまいます。

 「東京物語」「男はつらいよシリーズ」等々の作品で名バイプレーヤーとして映画史にその名を残した笠智衆さんの新たな一面を見せてもらいました。

 さて、男先生が気合いを入れて教えようとする、この「千引の岩」明治30年・1897、作詞:大和田建子、作曲:小山作之助)について調べようと、いつもの「国立国会図書館デジタルコレクション」で検索すると、以下のテキストに掲載されていました。

1「唱歌集」富山正治編 (富山正治, 明治35年・1902)

2「小学軍歌集」 (秀英堂,大正元年・1912)
3「新選学校唱歌集」 日本唱歌会 編 (国華堂, 明治44年・1911)
4「新編軍歌集」 剣光外史 編 (湯浅粂策, 大正元年・1912)
5「大正少年唱歌」 少年音楽研究会 編 (大志満屋書店,大正5年 1916)

  主に小学校上級学年用の曲として作られたもので、国家に対しての「忠義」をストレートにうたった歌詞は、さすがに一年生や二年生には難しすぎたことと思われます。

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メロディーは同じですが、男女別々の歌につくられていました。上記1「唱歌集」より。

譜面は五線譜ではなく、「数字譜」で示されています!


 以上、今回は女先生が浜辺で子供たちと歌う場面(映画では、どこかの少年少女合唱団とおぼしき訓練された声でしたが)と、男先生が時代遅れのヒフミ唱法を生徒達に笑われながら教える場面を取り上げてみました。
 作者に、そうした意図があったものかどうかは分かりませんが、研究者はこの二つの場面について次のような興味深い指摘をしています。

 主人公の女教師は子どもたちに『赤い鳥』から生まれた童謡を指導し、老いた男先生が古色蒼然とした唱歌を指導するといった対比が、主人公の教育姿勢を象徴的に示している

 

荒川 志津代「映画『二十四の瞳』に描かれた子ども像−戦後における子どもイメージの原点についての検討−」(名古屋女子大学 紀要55、2009年)

 ※今回の記事を書くに当たって、amazonPrimevideoで映画をレンタル(¥400、48時間以内に視聴)しました。

 上にも書きましたが、笠智衆さん(1904~1993)の男先生、その奥さんに浦辺粂子さん(1902~1989)と、我々世代(筆者は花の(?)昭和30年組です)には特に懐かしいお二人ですが、男先生が夜の教室でオルガンの練習をしながら交わす会話が、コミカルに聞こえるあたりも印象深いものでした。